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第九節 ― サヨの選択

 イロハは、白布を畳んだ。


 墨を吸った布は、もう真白ではない。


 役名保留者。

 未登録。

 面なき者。

 危険因子。

 封じるべき。


 それらの言葉は、布の繊維に薄く滲み、まだ消えてはいなかった。


 外れたからといって、なかったことにはならない。


 貼られた痛みは残る。

 人々がそう見た時間も残る。

 制度がそう記した事実も残る。


 けれど、それはもうサヨの肌に食い込んではいない。


 サヨは、空座の前に立っていた。


 影は戻っている。

 まだ薄い。

 けれど、そこにある。


 イロハは、道具袋の奥へ手を入れた。


 指先に触れたのは、小さな白い木片だった。


 無面原から持ち帰った木片。


 まだ面ではない。

 輪郭もない。

 目穴もない。

 口もない。

 役名もない。


 ただ、白い。


 白化面の白ではない。

 灰の白でもない。

 札の白でもない。


 まだ、何にでもなれる白。


 イロハは、その木片を両手で持った。


 月見台にいる者たちの視線が集まる。


 アリノリが低く言った。


「面材ですか」


「まだ面材とも呼べません」


 イロハは答えた。


「ただの木片です」


「無許可の面材を、審査場へ持ち込んだのですか」


「面ではありません」


 イロハは、サヨを見た。


「まだ」


 その一言に、《コトサダメ》の役名符がかすかに震えた。


 まだ。


 仮面籍庁にとって、扱いにくい言葉だった。


 未登録でもない。

 完成でもない。

 剥奪でもない。

 封役でもない。


 まだ。


 それは、決定前の余白だった。


 イロハは、サヨの前へ進む。


 アヤメは動かない。

 けれど、目だけはサヨの背を守っている。


 ハルマサは入口に立ったまま、下役たちの動きを見ている。

 刀は抜かない。


 ユラの鈴は、もう鳴っていなかった。

 だが、その余韻が月見台の石の下に残っている。


 セイランは筆を止めず、木片が取り出されたことを書き留めた。

 ヒヨリが紙の端を押さえている。


 エンジュは、ただ静かに見ていた。


 イロハは、サヨの前で膝をついた。


 白い木片を差し出す。


「サヨ様」


「はい」


「あなたは、何者として立ちたいですか」


 月見台が静まった。


 その問いは、役名を求めるものではなかった。


 仮面籍庁の台帳へ記すための問いではない。

 皇族面の型へ当てはめるためでもない。

 イロハが面を完成させるために、答えを急がせているわけでもない。


 それでも、問いだった。


 サヨ自身が、答えなければならない問い。


 アリノリが口を開きかける。


「その問いは――」


「典役卿」


 サヨが、静かに言った。


 アリノリの言葉が止まる。


 サヨは、彼を責めなかった。

 怒鳴りもしなかった。


 ただ、自分の声で続けた。


「これは、わたしへの問いです」


 アリノリは沈黙した。


 《コトサダメ》の面の奥で、何かが読み取れずにいるようだった。


 サヨは、イロハの手の中の白い木片を見る。


 そこにはまだ何も彫られていない。


 だからこそ、恐ろしい。


 誰かが彫れば、形になる。

 誰かが名づければ、役になる。

 誰かが急げば、また押しつけになる。


 サヨは、長く息を吸った。


 そして、ゆっくり吐く。


「まだ、名はありません」


 その言葉に、イロハは頷いた。


 急かさない。


 言い換えない。


 書き留めるように、ただ聞く。


 サヨは続けた。


「けれど、保留されるためではなく、選ぶために立ちます」


 黒皿の満月が、静かに波打った。


 白い半面が、その奥でサヨを映している。


「わたしは、誰かに決められるまで息を止めて待つ者ではありません」


 月紐の札が揺れる。


 役名保留者の札が、かさりと鳴った。


 だが、もうサヨへは絡みつかない。


「失われた役を覚え」


 サヨの声は、少しだけ遠くを見るように変わった。


 白影宮の香役カンナ。

 忘れられかけた小さな役。

 誰も覚えていない儀礼。


「終わった役を見送り」


 冥祀社の白い面。

 火留職面ヒドメ

 帰る子を呼んだ者の最後の役。


「まだ名のない者の一歩を見届けるために」


 灰面長屋の子どもたち。

 ユラの白札の外側の舞。

 ハルマサの刀を抜かぬ守り。

 セイランの仮記録。

 アヤメが代わりに立たず、場所を空けたこと。


 サヨは、まっすぐに黒皿の満月を見た。


「ここに立ちます」


 言い終えた瞬間、月見台の空気が変わった。


 大きな音はしない。


 奇跡のように光が降ったわけでもない。

 札が一斉に燃えたわけでもない。

 黒皿の満月が消えたわけでもない。


 けれど、確かに何かが変わった。


 イロハの手の中の白い木片が、かすかに温かくなる。


 木目が浮かんだ。


 細い線。


 顔の輪郭ではない。

 目でもない。

 口でもない。

 皇女面の定型紋でもない。


 それは、足跡に似ていた。


 以前、ウズメの舞殿でサヨが稽古板に踏み出した時、イロハが紙に引いた線。

 灰面長屋の子どもたちの不揃いな足音。

 封じられるためではなく、選ぶために立つという一歩。


 その線が、白い木片の中に浮かび上がっている。


 イロハは、息を呑んだ。


 これだ。


 役名ではない。


 完成された顔でもない。


 サヨの未在面に彫るべき最初のものは、表情ではなかった。


 方向だった。


 待つのではなく、選ぶために立つ方向。

 失われたものを勝手に戻さず、終わったものを無理に縛らず、まだ名のないものを見捨てない方向。


 イロハは、木片を胸の前に抱いた。


 勝手に彫ってはいけない。


 けれど、もう見えている。


 サヨ自身が踏んだ一歩から、線が生まれた。


 アリノリが、低く言う。


「それは、役名ではありません」


 サヨは彼を見た。


「はい」


「台帳へ登録できる名ではありません」


「はい」


「儀礼上の立場を保証するものでもありません」


「今は、まだ」


 その「まだ」に、イロハは胸が震えた。


 アリノリは沈黙する。


 《コトサダメ》は、サヨの答えを判定できない。


 救う皇女。

 見届ける皇女。

 未在の皇女。


 そうした名を与えれば、判定できたかもしれない。


 だが、サヨは役名を言わなかった。


 方向だけを示した。


 だから、《コトサダメ》には定めきれない。


 定めきれないものは、アリノリにとって危険だった。

 しかし今、それを即座に封じるには遅すぎた。


 なぜなら、その方向はもう、一人の少女の中だけにあるものではなくなっていたからだ。


 ユラが見届けた。

 ハルマサが守った。

 セイランが書いた。

 アヤメが立つ場所を空けた。

 エンジュが縛りのほどき方を示した。

 イロハが木片に受け取った。

 黒皿の白い半面が、映した。


 サヨの選択は、もう完全には消せない。


 セイランの筆が走る。


 ――サヨ=ミカゲ様、役名を名乗らず。方向を示す。


 文字が反転しかける。


 ヒヨリが押さえる。


 セイランは、もう一度書く。


 ――保留されるためではなく、選ぶために立つ、と発言。


 今度は、文字が残った。


 黒皿の満月が、わずかに欠けたように見えた。


 いや、違う。


 空の月に近づいたのだ。


 完全な満月だった皿の中の月が、ほんの一部だけ影を持ち始めた。


 半月の夜に、満月であり続けようとしていた黒皿が、現実の月を思い出したかのようだった。


 イロハはそれを見た。


 月は口ではない。


 ならば、映るものが変われば、月も変わる。


 サヨが保留される者としてではなく、選ぶ者として立った。


 だから、黒皿の満月も、その姿を映し返し始めている。


 アリノリは、その変化を見逃さなかった。


「黒皿、満月反応に揺らぎ」


 記録役が震える声で告げる。


「揺らぎではありません」


 セイランが、文机の端から言った。


 アリノリが見る。


 セイランは、反転しかけた記録紙を押さえながら続けた。


「観測対象が変化したため、反射が変わったのだと思われます」


「仮説です」


「はい」


 セイランは頷いた。


「仮記録として残します」


 イロハは、白い木片を見つめた。


 浮かび上がった線は、消えない。


 まだ彫っていない。

 けれど、彫るべき場所はわかった。


 サヨは、静かにイロハへ言った。


「それは、わたしの面になりますか」


 イロハはすぐには答えなかった。


 木片を見て、サヨを見た。


「まだ、面ではありません」


「はい」


「まだ、あなたの役名もありません」


「はい」


「でも」


 イロハは、白い木片を両手で差し上げるように持った。


「最初の線は、見えました」


 サヨは、微笑んだ。


 その笑みは小さかった。


 けれど、初めて空座の前で浮かんだ、サヨ自身の表情だった。


 黒皿の白い半面は、何も言わない。


 ただ、その笑みを映していた。

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