表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
105/108

第八節 ― 仮解き

 イロハは、黒皿の満月から目を離した。


 月は口ではない。


 鏡。


 ならば、今ここで喰っているのは月ではない。


 月紐に下げられた札。

 記録役の筆。

 《コトサダメ》の判定。

 周囲の視線。

 そして、守るという名でサヨの上に重ねられていく言葉。


 それらが、サヨの輪郭を薄くしている。


 イロハは一歩、前へ出た。


 下役がまた止めようとする。


「面師イロハ殿。儀礼中です」


「わかっています」


 イロハは答えた。


 声は震えていた。


 けれど、足は止まらなかった。


「だから、ほどきます」


 下役が眉をひそめる。


「何を」


「サヨ様ではないものを」


 イロハは腰の道具袋を開いた。


 取り出したのは、彫刻刀ではなかった。


 冥祀社で《ヒドメ》の役解きに使った白布。

 焼け残った木目のような細い跡が、まだ布の端に残っている。


 直すための布ではない。

 戻すための札でもない。


 ほどくための布。


 それを見て、月見台の端に立っていたエンジュ=クラモリが、静かに目を細めた。


 彼は冥祀社から立会人として呼ばれていた。

 名喰月見台の儀礼において、戻らぬ役、終わった役、封じられる役が出た時に備えるためだ。


 ここまで、彼は沈黙していた。


 弔う場ではない。

 送る場でもない。

 だから、口を出さなかった。


 けれど今、イロハが白布を手にした瞬間、エンジュは低く言った。


「縛りなら、ほどけます」


 その声は、月見台に静かに落ちた。


 アリノリが《コトサダメ》越しにエンジュを見る。


「冥祀僧エンジュ=クラモリ。これは役解きの儀ではありません」


「はい」


 エンジュはうなずいた。


「死者を送る場でもありません」


「ならば、口を挟むべきではない」


「ですが」


 エンジュは、サヨの足元に伸びる白い光を見た。


「縛られているものが、生者であるなら、なおさら慎重にほどくべきです」


 アリノリの面が、わずかに強張ったように見えた。


「封役は縛りではありません。保護です」


「保護と縛りは、時に同じ形をしています」


 エンジュの声は穏やかだった。


 だが、その穏やかさはアリノリとは違う。


 終わった役を見送ってきた者の静けさだった。


 イロハは白布を両手に持ち、サヨへ近づいた。


 サヨの輪郭は、まだ薄い。

 影も弱い。

 黒皿の満月から伸びる光が、足元に絡んでいる。


 月紐の札が、かさりと鳴った。


 ――役名保留者。


 その札から伸びた白い糸のようなものが、サヨの肩へ掛かっている。


 イロハには、それが見えた。


 実際の紐ではない。

 だが、仮面構文の中では確かにサヨへ触れている。


 イロハは、白布でその糸を受けた。


 引きちぎらない。


 切らない。


 無理に剥がせば、サヨ自身の輪郭まで傷つける。


 冥祀社で学んだ。


 戻すことが救いとは限らない。

 終わらせるには、壊すのではなく、ほどく必要がある。


 イロハは小さく息を吸った。


「これは」


 白布が、かすかに震える。


「あなたの役ではありません」


 月紐の札が揺れた。


「これは、あなたを待たせるために貼られた札です」


 白い糸が、少し緩む。


 アリノリが声を上げた。


「面師イロハ。勝手な儀礼干渉は認められません」


「儀礼じゃありません」


 イロハは振り向かない。


「診ています」


「何を」


「サヨ様に貼られたものが、本当にサヨ様の役なのかを」


 イロハは、白布をゆっくり回す。


 役名保留者の糸が、布に巻き取られるようにしてほどけていく。


 完全に消えるのではない。


 札はまだ月紐に下がっている。


 だが、それがサヨの肩へ直接触れる感覚だけが、薄れていった。


 サヨの影が、ほんの少し濃くなる。


 ユラの鈴が、月見台の外で小さく鳴った。


 りん。


 その音に合わせて、ウズメの舞殿で感じた笑いの気配が、遠くで揺れたような気がした。


 嘲笑ではない。


 始まりを見つけた時の、あの笑い。


 イロハは次の札を見た。


 ――未登録皇女。


 その文字は、奇妙だった。


 皇女という語は、サヨの血を示している。

 だが、未登録という墨が、その言葉の上に重くかぶさっている。


 血はある。

 けれど儀礼がない。

 存在する。

 けれど台帳にない。


 その矛盾が、サヨの胸元へ白い線となって絡んでいた。


 イロハは手を止めた。


 これをすべて外してよいのか。


 サヨが皇女であることまで、外してしまわないか。


 その迷いを見たのか、サヨが静かに言った。


「イロハ」


「はい」


「わたしは、皇女であることを捨てたいわけではありません」


「……はい」


「けれど、登録されていないから皇女ではない、と言われるのは違います」


 イロハは頷いた。


「わかりました」


 白布を、そっと胸元の線へ当てる。


「これは、あなたの血ではありません」


 布が淡く光った。


「これは、あなたを台帳の外から測るための札です」


 未登録皇女の線が、少しずつほどける。


 皇女という言葉は消えない。

 サヨの中にあるものだから。


 だが、未登録という外側の墨だけが、布へ移るように薄くなった。


 サヨは息をついた。


 ほんの小さな息。


 けれど、それは確かに彼女自身の息だった。


 セイランが、震える筆で記録する。


 ――面師イロハ、外部役名札の仮解きを開始。対象者ではなく、サヨ=ミカゲ様本人への影響を観測。


 文字が反転する。


 ヒヨリが押さえる。


 セイランは書き直す。


 正式でなくても、残すために。


 次の札が揺れた。


 ――面なき者。


 それを見た瞬間、イロハの胸に痛みが走った。


 灰面長屋の水桶。

 ミツの映らなかった顔。

 サヨのぼやけた輪郭。

 幼い頃の自分。


 面がないことは、事実かもしれない。


 けれど、それを人のすべてにしてはいけない。


 イロハは、白布を強く握った。


「これは」


 声が少し震えた。


「あなたの顔ではありません」


 サヨが、イロハを見る。


 イロハは続けた。


「これは、面がないことだけで、あなたを見るための札です」


 白い糸が、サヨの顔の輪郭へ触れていた。


 イロハは慎重に布を差し入れる。


 サヨの輪郭まで削らないように。


 面なき者という札だけを、外側からほどくように。


「面は、顔を奪うためのものじゃありません」


 イロハは言った。


「あなたの一歩が失われないようにするための器です。まだ追いついていないだけです。ないことを、あなたそのものにしないでください」


 白い糸が、ふっと緩んだ。


 サヨの頬の線が、ほんの少しだけはっきりする。


 アヤメが、唇を噛んだ。


 彼女は前には出ない。


 けれど、その目はサヨから離れない。


 見届けている。


 代わりに立たずに。


 守っている。


 次の札。


 ――危険因子。


 この札は、他の札よりも強かった。


 黒皿の満月から伸びる白い光と深く結びつき、サヨの影へ食い込んでいる。


 イロハが触れた瞬間、指先が冷えた。


 危険。


 それは否定しにくい言葉だ。


 サヨの周囲で異常は起きている。

 月見台に満月も出ている。

 面がないことと月喰いが結びついている可能性もある。


 だが、危険であることと、その人を危険そのものとして扱うことは違う。


 冥祀社での《ヒドメ》を思い出す。


 火事場に向かった面。

 だが、最後の役は火を消すことではなかった。

 帰る子を呼んだことだった。


 表に見える役と、最後に果たされた役は違うことがある。


 サヨも同じだ。


 危険に近い場所にいる。

 だが、危険そのものではない。


 イロハは白布を当てた。


「これは、あなたの役ではありません」


 危険因子の線が、硬く抵抗する。


 ほどけない。


 アリノリの声が響く。


「それは観測上の分類です。外せば被害認識が乱れます」


「乱れているのは、見方です」


 イロハは答えた。


「危険があることは否定しません。でも、サヨ様を危険そのものにする札は、違います」


 ハルマサが、入口で静かに言った。


「危険があるからこそ、守る者が立つのです」


 封役中の武士の声。


 刀を抜かない守り。


 その言葉に、危険因子の糸が少し緩んだ。


 ユラの鈴が鳴る。


 りん。


 セイランの筆が走る。


 ヒヨリが紙を押さえる。


 アヤメが、サヨの後ろで静かに息を整える。


 いくつもの未登録の役が、サヨの周りに集まっていく。


 危険因子の線が、ついに白布へ移った。


 サヨの影が、また濃くなる。


 最後の札が残る。


 ――封じるべき未在。


 イロハは、その札を見上げた。


 これが一番深い。


 未在。


 まだないもの。


 まだ役名になっていないもの。


 それを、封じるべき、と決めている札。


 イロハは、無面原の白い木を思い出した。


 面になる前の場所。

 まだ何も与えられていない白。

 自分の《ナギノオモテ》に混ざっていた救いと罪。


 未在は、危うい。


 それは本当だ。


 誰かが勝手に彫れば、改変になる。

 誰かが恐れて封じれば、始まりが失われる。


 だから、未在は扱いが難しい。


 けれど。


 封じるべき、と決めるのは違う。


 イロハは、白布を持つ手を下ろした。


 そして、サヨに向き直る。


「サヨ様」


「はい」


「これは、私だけではほどけません」


 サヨは、静かにイロハを見た。


「なぜですか」


「未在そのものは、あなたのものだからです」


 イロハは、月紐の札を見上げる。


「封じるべき、という外側の言葉はほどけます。でも、未在を消してはいけない。まだない役を、なかったことにしてはいけない」


 サヨは、ゆっくりと頷いた。


「では、どうすれば」


「選んでください」


 イロハの声は、小さかった。


 だが、はっきりしていた。


「今はまだ、役名を決めなくていい。面も完成していません。けれど、その未在を、封じられるものとしてではなく、あなたがこれから選ぶものとして持つかどうか」


 サヨは、黒皿の満月を見る。


 その奥で、白い半面が静かに映っている。


 何も言わない。


 救わない。


 ただ、映す。


 サヨは、自分の薄さを知っている。

 面がないことも。

 役名がないことも。

 月に映ることの危うさも。


 それでも、彼女はここまで来た。


「わたしは」


 サヨが口を開いた。


 月紐が揺れる。


 空白の札が、まだ彼女を待っている。


「まだ、何者として立つのかを、すべては知りません」


 アリノリが、黙って聞いている。


「けれど、知らないからといって、封じられることは望みません」


 サヨは、一歩、黒皿の方へ進んだ。


 白い光が足元で震える。


「わたしは、未在を持ったまま立ちます」


 その言葉が落ちた瞬間、イロハは白布を掲げた。


「これは、あなたの役ではありません」


 封じるべき未在の札から伸びる太い白糸へ、布を掛ける。


「これは、あなたが選ぶ前に、あなたを止めるために貼られた札です」


 ユラの鈴が鳴る。


 りん。


 ウズメの気配が、月見台の床下からふっと笑ったように揺れた。


 ハルマサが立つ。


 アヤメが見届ける。


 セイランが書く。


 エンジュが低く告げる。


「焦らずに。縛りの結び目だけを」


 イロハは頷いた。


 白布を、ゆっくり回す。


 切らない。

 破らない。

 奪わない。


 ほどく。


 封じるべき、という墨が、布へ移っていく。


 未在という白だけは、サヨの足元に残った。


 それはもう、薄くする光ではなかった。


 まだ形を持たない、白い余白だった。


 サヨの影が戻る。


 完全ではない。


 だが、もう消えかけてはいない。


 月紐に下がった札たちは、まだそこにある。

 仮面籍庁の記録から消えたわけではない。

 アリノリの審査が終わったわけでもない。


 けれど、それらはもうサヨの身体へ直接絡みついてはいなかった。


 外側に貼られた名として、揺れているだけだ。


 イロハは、白布を胸の前で握った。


 そこには、いくつもの墨が移っていた。


 役名保留者。

 未登録。

 面なき者。

 危険因子。

 封じるべき。


 サヨを止めるために貼られた言葉たち。


 イロハはそれを見て、静かに言った。


「サヨ様」


「はい」


「あなたは、まだ定まっていません」


「はい」


「でも、封じられるものでもありません」


 サヨは、ほんの少しだけ微笑んだ。


「では、わたしは」


 言葉を探すように、彼女は胸に手を当てた。


「まだ、選べるのですね」


 イロハは頷いた。


「はい」


 黒皿の満月が、静かに波打った。


 その中の白い半面は、何も言わない。


 ただ、今起きたことを映していた。


 月は口ではない。


 鏡。


 ならば今、そこに映っているのは。


 封じられる皇女ではなく。


 貼られた札をほどかれ、未在を自分の余白として抱え直したサヨの姿だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ