第八節 ― 仮解き
イロハは、黒皿の満月から目を離した。
月は口ではない。
鏡。
ならば、今ここで喰っているのは月ではない。
月紐に下げられた札。
記録役の筆。
《コトサダメ》の判定。
周囲の視線。
そして、守るという名でサヨの上に重ねられていく言葉。
それらが、サヨの輪郭を薄くしている。
イロハは一歩、前へ出た。
下役がまた止めようとする。
「面師イロハ殿。儀礼中です」
「わかっています」
イロハは答えた。
声は震えていた。
けれど、足は止まらなかった。
「だから、ほどきます」
下役が眉をひそめる。
「何を」
「サヨ様ではないものを」
イロハは腰の道具袋を開いた。
取り出したのは、彫刻刀ではなかった。
冥祀社で《ヒドメ》の役解きに使った白布。
焼け残った木目のような細い跡が、まだ布の端に残っている。
直すための布ではない。
戻すための札でもない。
ほどくための布。
それを見て、月見台の端に立っていたエンジュ=クラモリが、静かに目を細めた。
彼は冥祀社から立会人として呼ばれていた。
名喰月見台の儀礼において、戻らぬ役、終わった役、封じられる役が出た時に備えるためだ。
ここまで、彼は沈黙していた。
弔う場ではない。
送る場でもない。
だから、口を出さなかった。
けれど今、イロハが白布を手にした瞬間、エンジュは低く言った。
「縛りなら、ほどけます」
その声は、月見台に静かに落ちた。
アリノリが《コトサダメ》越しにエンジュを見る。
「冥祀僧エンジュ=クラモリ。これは役解きの儀ではありません」
「はい」
エンジュはうなずいた。
「死者を送る場でもありません」
「ならば、口を挟むべきではない」
「ですが」
エンジュは、サヨの足元に伸びる白い光を見た。
「縛られているものが、生者であるなら、なおさら慎重にほどくべきです」
アリノリの面が、わずかに強張ったように見えた。
「封役は縛りではありません。保護です」
「保護と縛りは、時に同じ形をしています」
エンジュの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさはアリノリとは違う。
終わった役を見送ってきた者の静けさだった。
イロハは白布を両手に持ち、サヨへ近づいた。
サヨの輪郭は、まだ薄い。
影も弱い。
黒皿の満月から伸びる光が、足元に絡んでいる。
月紐の札が、かさりと鳴った。
――役名保留者。
その札から伸びた白い糸のようなものが、サヨの肩へ掛かっている。
イロハには、それが見えた。
実際の紐ではない。
だが、仮面構文の中では確かにサヨへ触れている。
イロハは、白布でその糸を受けた。
引きちぎらない。
切らない。
無理に剥がせば、サヨ自身の輪郭まで傷つける。
冥祀社で学んだ。
戻すことが救いとは限らない。
終わらせるには、壊すのではなく、ほどく必要がある。
イロハは小さく息を吸った。
「これは」
白布が、かすかに震える。
「あなたの役ではありません」
月紐の札が揺れた。
「これは、あなたを待たせるために貼られた札です」
白い糸が、少し緩む。
アリノリが声を上げた。
「面師イロハ。勝手な儀礼干渉は認められません」
「儀礼じゃありません」
イロハは振り向かない。
「診ています」
「何を」
「サヨ様に貼られたものが、本当にサヨ様の役なのかを」
イロハは、白布をゆっくり回す。
役名保留者の糸が、布に巻き取られるようにしてほどけていく。
完全に消えるのではない。
札はまだ月紐に下がっている。
だが、それがサヨの肩へ直接触れる感覚だけが、薄れていった。
サヨの影が、ほんの少し濃くなる。
ユラの鈴が、月見台の外で小さく鳴った。
りん。
その音に合わせて、ウズメの舞殿で感じた笑いの気配が、遠くで揺れたような気がした。
嘲笑ではない。
始まりを見つけた時の、あの笑い。
イロハは次の札を見た。
――未登録皇女。
その文字は、奇妙だった。
皇女という語は、サヨの血を示している。
だが、未登録という墨が、その言葉の上に重くかぶさっている。
血はある。
けれど儀礼がない。
存在する。
けれど台帳にない。
その矛盾が、サヨの胸元へ白い線となって絡んでいた。
イロハは手を止めた。
これをすべて外してよいのか。
サヨが皇女であることまで、外してしまわないか。
その迷いを見たのか、サヨが静かに言った。
「イロハ」
「はい」
「わたしは、皇女であることを捨てたいわけではありません」
「……はい」
「けれど、登録されていないから皇女ではない、と言われるのは違います」
イロハは頷いた。
「わかりました」
白布を、そっと胸元の線へ当てる。
「これは、あなたの血ではありません」
布が淡く光った。
「これは、あなたを台帳の外から測るための札です」
未登録皇女の線が、少しずつほどける。
皇女という言葉は消えない。
サヨの中にあるものだから。
だが、未登録という外側の墨だけが、布へ移るように薄くなった。
サヨは息をついた。
ほんの小さな息。
けれど、それは確かに彼女自身の息だった。
セイランが、震える筆で記録する。
――面師イロハ、外部役名札の仮解きを開始。対象者ではなく、サヨ=ミカゲ様本人への影響を観測。
文字が反転する。
ヒヨリが押さえる。
セイランは書き直す。
正式でなくても、残すために。
次の札が揺れた。
――面なき者。
それを見た瞬間、イロハの胸に痛みが走った。
灰面長屋の水桶。
ミツの映らなかった顔。
サヨのぼやけた輪郭。
幼い頃の自分。
面がないことは、事実かもしれない。
けれど、それを人のすべてにしてはいけない。
イロハは、白布を強く握った。
「これは」
声が少し震えた。
「あなたの顔ではありません」
サヨが、イロハを見る。
イロハは続けた。
「これは、面がないことだけで、あなたを見るための札です」
白い糸が、サヨの顔の輪郭へ触れていた。
イロハは慎重に布を差し入れる。
サヨの輪郭まで削らないように。
面なき者という札だけを、外側からほどくように。
「面は、顔を奪うためのものじゃありません」
イロハは言った。
「あなたの一歩が失われないようにするための器です。まだ追いついていないだけです。ないことを、あなたそのものにしないでください」
白い糸が、ふっと緩んだ。
サヨの頬の線が、ほんの少しだけはっきりする。
アヤメが、唇を噛んだ。
彼女は前には出ない。
けれど、その目はサヨから離れない。
見届けている。
代わりに立たずに。
守っている。
次の札。
――危険因子。
この札は、他の札よりも強かった。
黒皿の満月から伸びる白い光と深く結びつき、サヨの影へ食い込んでいる。
イロハが触れた瞬間、指先が冷えた。
危険。
それは否定しにくい言葉だ。
サヨの周囲で異常は起きている。
月見台に満月も出ている。
面がないことと月喰いが結びついている可能性もある。
だが、危険であることと、その人を危険そのものとして扱うことは違う。
冥祀社での《ヒドメ》を思い出す。
火事場に向かった面。
だが、最後の役は火を消すことではなかった。
帰る子を呼んだことだった。
表に見える役と、最後に果たされた役は違うことがある。
サヨも同じだ。
危険に近い場所にいる。
だが、危険そのものではない。
イロハは白布を当てた。
「これは、あなたの役ではありません」
危険因子の線が、硬く抵抗する。
ほどけない。
アリノリの声が響く。
「それは観測上の分類です。外せば被害認識が乱れます」
「乱れているのは、見方です」
イロハは答えた。
「危険があることは否定しません。でも、サヨ様を危険そのものにする札は、違います」
ハルマサが、入口で静かに言った。
「危険があるからこそ、守る者が立つのです」
封役中の武士の声。
刀を抜かない守り。
その言葉に、危険因子の糸が少し緩んだ。
ユラの鈴が鳴る。
りん。
セイランの筆が走る。
ヒヨリが紙を押さえる。
アヤメが、サヨの後ろで静かに息を整える。
いくつもの未登録の役が、サヨの周りに集まっていく。
危険因子の線が、ついに白布へ移った。
サヨの影が、また濃くなる。
最後の札が残る。
――封じるべき未在。
イロハは、その札を見上げた。
これが一番深い。
未在。
まだないもの。
まだ役名になっていないもの。
それを、封じるべき、と決めている札。
イロハは、無面原の白い木を思い出した。
面になる前の場所。
まだ何も与えられていない白。
自分の《ナギノオモテ》に混ざっていた救いと罪。
未在は、危うい。
それは本当だ。
誰かが勝手に彫れば、改変になる。
誰かが恐れて封じれば、始まりが失われる。
だから、未在は扱いが難しい。
けれど。
封じるべき、と決めるのは違う。
イロハは、白布を持つ手を下ろした。
そして、サヨに向き直る。
「サヨ様」
「はい」
「これは、私だけではほどけません」
サヨは、静かにイロハを見た。
「なぜですか」
「未在そのものは、あなたのものだからです」
イロハは、月紐の札を見上げる。
「封じるべき、という外側の言葉はほどけます。でも、未在を消してはいけない。まだない役を、なかったことにしてはいけない」
サヨは、ゆっくりと頷いた。
「では、どうすれば」
「選んでください」
イロハの声は、小さかった。
だが、はっきりしていた。
「今はまだ、役名を決めなくていい。面も完成していません。けれど、その未在を、封じられるものとしてではなく、あなたがこれから選ぶものとして持つかどうか」
サヨは、黒皿の満月を見る。
その奥で、白い半面が静かに映っている。
何も言わない。
救わない。
ただ、映す。
サヨは、自分の薄さを知っている。
面がないことも。
役名がないことも。
月に映ることの危うさも。
それでも、彼女はここまで来た。
「わたしは」
サヨが口を開いた。
月紐が揺れる。
空白の札が、まだ彼女を待っている。
「まだ、何者として立つのかを、すべては知りません」
アリノリが、黙って聞いている。
「けれど、知らないからといって、封じられることは望みません」
サヨは、一歩、黒皿の方へ進んだ。
白い光が足元で震える。
「わたしは、未在を持ったまま立ちます」
その言葉が落ちた瞬間、イロハは白布を掲げた。
「これは、あなたの役ではありません」
封じるべき未在の札から伸びる太い白糸へ、布を掛ける。
「これは、あなたが選ぶ前に、あなたを止めるために貼られた札です」
ユラの鈴が鳴る。
りん。
ウズメの気配が、月見台の床下からふっと笑ったように揺れた。
ハルマサが立つ。
アヤメが見届ける。
セイランが書く。
エンジュが低く告げる。
「焦らずに。縛りの結び目だけを」
イロハは頷いた。
白布を、ゆっくり回す。
切らない。
破らない。
奪わない。
ほどく。
封じるべき、という墨が、布へ移っていく。
未在という白だけは、サヨの足元に残った。
それはもう、薄くする光ではなかった。
まだ形を持たない、白い余白だった。
サヨの影が戻る。
完全ではない。
だが、もう消えかけてはいない。
月紐に下がった札たちは、まだそこにある。
仮面籍庁の記録から消えたわけではない。
アリノリの審査が終わったわけでもない。
けれど、それらはもうサヨの身体へ直接絡みついてはいなかった。
外側に貼られた名として、揺れているだけだ。
イロハは、白布を胸の前で握った。
そこには、いくつもの墨が移っていた。
役名保留者。
未登録。
面なき者。
危険因子。
封じるべき。
サヨを止めるために貼られた言葉たち。
イロハはそれを見て、静かに言った。
「サヨ様」
「はい」
「あなたは、まだ定まっていません」
「はい」
「でも、封じられるものでもありません」
サヨは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「では、わたしは」
言葉を探すように、彼女は胸に手を当てた。
「まだ、選べるのですね」
イロハは頷いた。
「はい」
黒皿の満月が、静かに波打った。
その中の白い半面は、何も言わない。
ただ、今起きたことを映していた。
月は口ではない。
鏡。
ならば今、そこに映っているのは。
封じられる皇女ではなく。
貼られた札をほどかれ、未在を自分の余白として抱え直したサヨの姿だった。




