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第五節 ― 刀を抜かぬ守り

 ユラの鈴が、もう一度鳴った。


 りん。


 細く、震える音。


 それは正式な奉納舞の鈴ではなかった。

 白札の貼られた神楽師が、許された舞台の外で鳴らした、かすかな音だった。


 けれど、その音は名喰月見台に届いた。


 月紐が揺れる。


 空白の札へ向かっていたアリノリの筆が、わずかに止まる。


 黒皿の満月が、ひと呼吸ぶんだけ波打った。


「儀礼外の音です」


 仮面籍庁の下役が低く言った。


「止めなさい」


 数人の役人が、月見台の外縁へ動く。


 ユラは肩を震わせた。


 けれど、逃げなかった。


 白札の貼られた鈴祈舞面ユラノスズは、彼女の手元にない。

 正式な舞台へ立つ資格もない。

 それでも、彼女は鈴を握っている。


 イロハは、その姿を見た瞬間、足が前へ出た。


「ユラさんに触らないでください」


 しかし、すぐに別の下役がイロハの前へ立った。


「面師イロハ=ナギ殿。儀礼進行中です。指定位置へお戻りください」


「今、止めたらだめなんです」


「判断は典役卿が行います」


「これは判断じゃありません。始まった一歩です」


 下役の表情は変わらない。


 丁寧で、冷たい。


「白札対象者による未許可の儀礼音です。月喰い現象への影響が不明なため、制止します」


 また言葉が整えられる。


 未許可。

 対象者。

 影響不明。

 制止。


 それだけで、ユラの鈴が危険なものにされていく。


 イロハは歯を食いしばった。


 ここでも同じだ。


 誰かがやっと踏み出した一歩を、制度が危険として分類する。


 その時だった。


 石段の下から、低い声が響いた。


「ここから先へは通しません」


 役人たちの足が止まった。


 月見台の入口に、ひとりの若い武士が立っていた。


 ハルマサ=アカツキ。


 暁刃戦面アカツキノハは着けていない。

 面箱も、正式な番衆装束もない。

 腰には刀がある。

 だが、刀には封紐が巻かれていた。


 黒縁の白札。


 封役中であることを示す札が、鞘の側に結ばれている。


 ハルマサは、その札を隠していなかった。


 むしろ、見せたまま立っていた。


 下役のひとりが眉をひそめる。


「ハルマサ=アカツキ。貴殿は暁刃戦面アカツキノハ封役中のはずです」


「はい」


 ハルマサは静かに答えた。


「番衆任官も停止されている」


「はい」


「ならば、何の資格でここに立つ」


 その問いは、鋭かった。


 資格。


 役札。


 許可。


 この場では、それがすべてだった。


 誰が上座へ立てるか。

 誰が発言できるか。

 誰が守ることを許されるか。

 誰が舞えるか。

 誰が面を扱えるか。


 すべて札で決まる。


 ハルマサは、自分の封紐に一度だけ目を落とした。


 そして、顔を上げる。


「資格ではありません」


 月見台の空気が、わずかに揺れた。


「私の意思です」


 下役たちは、すぐに反応できなかった。


 その言葉は、彼らの台帳に載りにくいものだった。


 資格ではない守り。

 役札によらない立ち位置。

 面を着けず、刀も抜かず、それでも通さないという意思。


 アリノリが、面越しにハルマサを見る。


「ハルマサ=アカツキ」


 《コトサダメ》を通した声が響いた。


「貴殿の戦面は封役中です。武士としての公的行使は認められていません」


「承知しています」


「ならば退きなさい」


「退きません」


 ハルマサの声は震えていなかった。


 彼は刀を抜かない。


 柄に手もかけない。


 ただ、立っている。


 かつての夜、彼は刀を抜けなかった。

 剣術を忘れたわけではない。

 敵が見えなかったわけでもない。

 ただ、何のために刀を抜くのかがわからなくなっていた。


 その彼が今、刀を抜かずに立っている。


 イロハは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ハルマサは、刀で守るために来たのではない。


 抜かないことで守るために来たのだ。


「ここから先へは通しません」


 ハルマサはもう一度言った。


「ユラ殿の鈴を止めに行く者を、私は通しません」


「封役中の身で、仮面籍庁の儀礼進行を妨げるつもりか」


「妨げます」


 下役が息を呑む。


 ハルマサは続けた。


「ただし、刀は抜きません」


 彼は両手を下げたまま、そこに立っていた。


「斬るためではありません。害を通さないために、立っています」


 それは、あのときに彼が見つけた答えだった。


 敵を斬る役ではない。

 人々の前に立ち、ここから先へ害を通さない役。


 あの時は、鉄鉢の満月を断つために一度だけ刀を抜いた。


 だが今は違う。


 今ここで刀を抜けば、すべてがアリノリの言う「不安定」の証になる。

 封役中の武士が暴れたと記録される。

 サヨの周囲は危険だと、白札にさらに文字が増える。


 だから、抜かない。


 抜かずに、立つ。


 ハルマサはそれを選んだ。


 アヤメが、サヨの後ろで静かに彼を見た。


 以前なら、彼女は厳しく断じただろう。


 守るべき時に刀を抜けぬ者。

 護衛に値しない者。

 役として不安定な者。


 けれど今、アヤメは何も言わなかった。


 ただ、ほんのわずかに目を伏せた。


 それは、認めたというより、見届けた仕草だった。


 サヨの薄くなった輪郭が、かすかに揺れる。


 彼女も、ハルマサを見ていた。


「ハルマサ殿」


 サヨが呼んだ。


 ハルマサは、月見台の入口から深く頭を下げた。


「サヨ様。私は番衆ではありません。今は、封役中の身です」


「はい」


「ですから、あなたを公的にお守りする資格はありません」


「はい」


「それでも」


 ハルマサは、頭を上げた。


「あなたが自分で立とうとしている場所へ、他人が踏み込んでくるなら、私はその前に立ちます」


 サヨの瞳が、静かに揺れた。


「それは、役ですか」


 ハルマサは一瞬、黙った。


 そして答えた。


「まだ、役札にはなっていません」


 イロハは、その言葉を聞いて息を吸った。


 まだ役札にはなっていない。


 でも、ある。


 ユラの白札の外側の舞。

 サヨのまだ名のない一歩。

 灰面長屋の子どもたちの足音。

 そして、ハルマサの刀を抜かぬ守り。


 制度に登録されていなくても、人は動ける。


 役名がなくても、守る意思は消えない。


 アリノリの《コトサダメ》が、わずかに震えた。


 面の裏で、役名符が擦れるような音がした。


 定まった役ではない。

 既存の分類に入らない。

 だから読めない。


 けれど、読めないからといって、存在しないわけではない。


 ユラが、もう一度鈴を鳴らした。


 りん。


 今度は少しだけ、音が澄んだ。


 白札の外側の舞。


 その音を止めるために動こうとしていた役人たちは、ハルマサの前で足を止めたままだった。


 刀を抜かれたわけではない。

 脅されたわけでもない。


 ただ、通れない。


 そこに立つ者の意思が、道をふさいでいた。


 アリノリは、静かに言った。


「封役中の者が、未許可の意思によって儀礼を妨げる。これもまた、不安定役の拡大です」


 イロハは、アリノリを見た。


「違います」


「何が違うのですか」


「拡大じゃありません」


 イロハは、ハルマサとユラを見た。


 そして、薄くなりながらも中央に立ち続けるサヨを見る。


「戻ってきているんです」


 アリノリは黙った。


「月に喰われた役が、札の外側から戻ろうとしているんです」


 黒皿の満月が、また揺れた。


 空白の札へ向かっていた筆先に、墨が一滴落ちる。


 だが、その墨は札に触れる前に、宙でにじんだ。


 月紐が震える。


 サヨの影が、ほんの少しだけ濃くなった。


 イロハはそれを見た。


 まだ、完全ではない。


 けれど、消えてはいない。


 ハルマサの立つ姿。

 ユラの鈴。

 アヤメが一歩引いて空けた場所。


 それらが、サヨの輪郭を少しずつ引き戻している。


 サヨは、黒皿の満月を見つめたまま、静かに言った。


「わたしは、ひとりで立つのではないのですね」


 イロハは答えた。


「はい」


 サヨは少しだけ首を傾ける。


「けれど、誰かに代わってもらうのでもない」


「はい」


 その答えが、月見台の上に落ちた。


 空白の札が、ゆっくりと揺れる。


 まだ何も書かれていない。


 けれど、もう簡単には書けない。


 サヨの周りに、未登録の役が集まり始めていた。


 白札の外側の舞。

 封役中の守り。

 代わりに立たない護衛。

 勝手に彫らない面師。


 それらは、まだ王朝の言葉になっていない。


 だからこそ、今この場で、強かった。

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