第四節 ― 封役の儀
アリノリ=シジョウの顔に、《コトサダメ》が深く重なった。
それは、面を着けたというより、面の側が人の顔を内側へ沈めたように見えた。
額の朱印が、黒皿の満月を受けて鈍く光る。
右頬の金の矩形線が、月紐の揺れに合わせて細く震える。
左目の下の黒い細線は、まるで判を引く前の墨筋のように静まり返っていた。
アリノリはもう、アリノリだけではなかった。
典役卿。
王朝の声。
仮面籍庁の手。
定まらぬ役を、定めるか、保留するか、封じるかを告げる者。
イロハは、喉が詰まるのを感じた。
前に臨時審査所で見た《コトサダメ》よりも、今のそれは重い。
あの時は、面と人の間にまだ隙間があった。
アリノリが考え、アリノリが判断していた。
けれど今は違う。
名喰月見台という場そのものが、《コトサダメ》に力を与えている。
月紐。
黒皿。
空座。
古い面棚。
白い札。
それらすべてが、アリノリの声を儀礼に変えていく。
アリノリが、黒皿の前に立った。
そして告げる。
「サヨ=ミカゲ」
その声は、先ほどまでと違っていた。
低く、柔らかいままなのに、人の温度だけが抜け落ちている。
裁く声ではない。
怒る声でもない。
記録に刻む声だった。
「皇族血統、確認済み」
記録役が、後ろで筆を走らせる。
「白影宮居住、確認済み」
月紐が揺れる。
「皇族面台帳上、役名未登録」
その瞬間、空座の前の石床に白い線が浮かんだ。
細い。
けれど、切れ目のない線だった。
まるで、サヨの立つ場所と、それ以外の場所を分ける境界のように。
アヤメの手が、刀の柄へ伸びる。
イロハは息を呑んだ。
だが、サヨは動かない。
黒皿の満月を見つめたまま、ただ立っている。
アリノリの声が続く。
「白影宮外儀礼参加、停止」
月紐に掛けられた札の一枚が、白く光った。
白影宮外儀礼停止。
墨で書かれたはずの文字が、月光を吸って浮き上がる。
その光が、細い糸のようになって、サヨの足元へ伸びた。
「未在役名、保護封役」
黒皿の満月が、大きく脈を打った。
白い光が石床を這う。
水のように。
紐のように。
誰かの指のように。
それはサヨの足首へ触れ、影へ触れ、裾の縁へ触れた。
サヨの影が、薄くなる。
イロハは、灰面長屋の濁った水桶を思い出した。
ミツの顔が映らなかった水面。
サヨの顔も、輪郭だけになった水面。
あの時は、水が顔を映せなかった。
今は、月見台そのものがサヨの輪郭を薄くしている。
白い光が伸びるたび、サヨの影は石床から剥がされていくように滲んだ。
「サヨ様!」
アヤメが、ついに前へ出た。
その動きは速かった。
護衛としての身体が、考えるより先に動いたのだ。
サヨの前へ立つ。
光を遮る。
封役の儀を斬る。
そうしようとした。
けれど、その足が一歩目を踏み出した瞬間、サヨの声が落ちた。
「アヤメ」
静かな声だった。
けれど、月紐の音よりもはっきり届いた。
アヤメの身体が止まる。
サヨは振り返らない。
黒皿の満月を見つめたまま、言った。
「わたしの代わりに立たないで」
アヤメの目が見開かれた。
「ですが――」
「お願いです」
サヨの声は震えていなかった。
しかし、冷たいわけでもなかった。
「ここであなたがわたしの前へ立てば、わたしはまた、誰かに守られる場所へ戻されます」
「それは、私の役です」
「ええ」
サヨは小さく頷いた。
「あなたは、わたしを守る役です」
その言葉に、アヤメの表情が揺れた。
かつて夜。
箱の中の満月に照らされ、自分が何を守る役なのかわからなくなった時。
サヨは、アヤメの役を呼び戻した。
あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です。
それは、アヤメにとっての支えだった。
けれど今、サヨは続けた。
「でも、守ることは、わたしの代わりに立つことだけではありません」
アヤメは息を呑む。
白い光が、なおもサヨの足元に伸びている。
影は薄い。
今にも空座の方へ引かれそうに見える。
それでもサヨは、一歩も下がらない。
「わたしが立つ場所を、空けてください」
その言葉に、アヤメの指が柄から離れた。
とてもゆっくりと。
苦しそうに。
まるで、自分の役の一部をほどくように。
アヤメは一歩、引いた。
その一歩は、敗北ではなかった。
サヨの後ろへ立つための一歩だった。
「……承知しました」
声は低かった。
「お進みください、サヨ様」
アヤメは、深く頭を下げた。
「ここから先は、私が代わる場所ではありません」
イロハの胸が熱くなった。
アヤメは守ることをやめたのではない。
守り方を変えたのだ。
前に立つのではなく、後ろで支える。
サヨの代わりに役を引き受けるのではなく、サヨが自分で立つために場所を空ける。
それは、小さく、けれど大きな変化だった。
アリノリは、そのやり取りを面越しに見ていた。
「護衛役、後退確認」
記録役が書き留める。
イロハは眉を寄せた。
それさえも記録される。
アヤメの選択も、サヨの言葉も、ここではすぐに儀礼上の事象へ変えられていく。
アリノリの声が再び響く。
「対象者、空座前へ」
「対象者ではありません」
イロハが言った。
今度は、前よりも静かに。
アリノリがこちらを見る。
「面師イロハ。儀礼中の発言は、許可を得てからにしてください」
「サヨ様です」
イロハは言った。
「対象者じゃありません」
アリノリは、少しだけ沈黙した。
「儀礼上の呼称です」
「儀礼上、そう呼ぶから、みんながそう見るんです」
イロハは黒皿の満月を見た。
そこには、半月の夜にあり得ない満月が浮かんでいる。
けれど今、怖いのは月だけではなかった。
言葉だ。
対象者。
未登録。
保護封役。
停止。
中心因子。
ひとつひとつが、白い札になる。
人の目を変える。
サヨをサヨではないものへ、少しずつ置き換えていく。
「月が喰うんじゃない」
イロハは呟いた。
「こういう言葉も、喰うんだ」
アリノリは何も言わなかった。
代わりに、《コトサダメ》の額の朱印が淡く光った。
白い札が、さらに一枚、月紐から下がる。
そこにはまだ文字がない。
空白の札。
イロハの背筋が凍る。
空白は、恐ろしい。
何も書かれていないからではない。
これから、誰かが書けるからだ。
アリノリが、空白の札へ手を伸ばす。
「未在役名、仮記載準備」
記録役が告げる。
サヨの影が、また薄くなった。
今度は輪郭だけではない。
御簾の内側にある顔の線まで、どこか遠くなる。
イロハは思わず踏み出した。
「やめてください」
仮面籍庁の下役が、すぐに前を塞ぐ。
「儀礼中です。面師イロハ殿は控えてください」
「今、止めないと――」
「本審査は、典役卿の権限により進行しています」
下役の声もまた、冷静だった。
誰も怒鳴らない。
誰も乱暴に押さえつけない。
けれど、動けない。
制度は、叫ばずに人を止める。
イロハの指が震えた。
面箱の中の《ナギノオモテ》が、かすかに熱を持つ。
開けるべきか。
いや、違う。
まだ違う。
ここで開ければ、自分の面の力をサヨへ重ねてしまう。
決めたはずだった。
サヨ様には、同じことをしない。
勝手に役を置かない。
なら、今できることは何か。
イロハは息を吸う。
サヨを見る。
サヨはまだ、立っている。
薄くなりながらも、そこにいる。
空座の前で。
白い光に足元を絡め取られながら。
それでも、誰かに代わらせずに。
アリノリが空白の札へ筆を向けた。
「サヨ=ミカゲ。未在役名、保護封役。仮称――」
その瞬間。
遠くで、小さな鈴が鳴った。
りん。
かすれていた。
正式な奉納鈴の音ではない。
整った神楽の音でもない。
けれど、確かに鳴った。
イロハは振り向く。
名喰月見台の外縁。
役人たちの後方。
白札を貼られたままの神楽師ユラ=シラビョウが立っていた。
鈴祈舞面は着けていない。
正式な舞ではない。
けれど、彼女は小さく鈴を持ち、震える手で、もう一度鳴らした。
りん。
月紐が揺れた。
黒皿の満月が、一瞬だけ波打つ。
アリノリの筆が、空白の札の前で止まった。
サヨは、その音を聞いた。
そして、薄くなりかけた影のまま、ほんの少しだけ顔を上げた。
イロハは気づく。
封役の儀は、まだ終わっていない。
サヨはまだ、空座に置かれていない。
ならば、まだ間に合う。




