第三節 ― 半月の夜の満月
空には、半月があった。
細くはない。
けれど、満ちてもいない。
夜の端を削り取ったような、静かな半月だった。
イロハは、それを見上げる。
たしかに、満月ではない。
暦は間違っていない。
陰陽寮の星読みも、方位も、月齢も、きっと間違っていない。
だが、名喰月見台の中央に置かれた黒皿の底には、すでに満月があった。
丸い。
白い。
あまりにも完全な円。
黒漆の底に浮かんだそれは、水面に映る月ではなかった。
空を映しているのではない。
皿の底から、内側の月が浮き上がってきたように見えた。
イロハの背筋が冷える。
箱の中の月。
鉄鉢の水面の月。
方位盤の面裏の月。
灰皿に浮かんだ白い半面。
これまで見てきた異常が、ここでは儀礼の一部として整えられている。
誰も驚かない。
仮面籍庁の役人たちは、黒皿の満月を当然のように見ていた。
月が空と違うことを、異常として扱っていない。
ここでは、それが手順なのだ。
アリノリ=シジョウは、定役面を着けていた。
面越しの顔は穏やかだった。
声も、まだ柔らかい。
けれど、その柔らかさには、もう人の迷いがなかった。
「黒皿、満月反応」
彼の背後に控えていた記録役が、静かに読み上げる。
「対象者、サヨ=ミカゲ様。皇族血統確認済み。皇族面台帳上、儀礼役名未登録」
対象者。
その言葉に、アヤメの肩がぴくりと動いた。
さっきまで、アリノリはサヨを「サヨ=ミカゲ様」と呼んでいた。
だが、儀式が始まった瞬間、彼女は名ではなく、対象になった。
サヨは何も言わない。
ただ、黒皿の満月を見ていた。
アリノリが片手を上げる。
四方の柱から垂れていた月紐が、風もないのに揺れた。
白い紐の先に、小さな札掛けが下がる。
そこへ、役人たちが一枚ずつ白い札を掛けていく。
一枚目。
――役名保留者。
白い札に墨の文字が浮かんだ瞬間、月見台の空気が少し変わった。
イロハには、サヨの輪郭がほんのわずかに遠ざかったように見えた。
距離は変わっていない。
サヨは同じ場所に立っている。
それなのに、誰かが彼女との間に薄い紙を一枚挟んだようだった。
二枚目。
――未登録皇女。
アヤメが一歩前へ出かける。
しかし、止まった。
サヨが、ほんのわずかに首を横へ振ったからだ。
三枚目。
――封じるべき未在。
ロウセツが低く舌打ちした。
「いい言葉を選びやがる」
その声は小さかったが、イロハには聞こえた。
封じるべき未在。
まだないものを、まだないうちに閉じるための言葉。
四枚目。
――白影宮外儀礼停止。
五枚目。
――月喰い中心因子。
その札が下がった瞬間、イロハの中で何かが弾けた。
「違います」
思わず声が出た。
役人たちの視線が、一斉にイロハへ向く。
アリノリも、面越しにこちらを見た。
「何が違うのですか、面師イロハ」
声は落ち着いている。
その落ち着きが、イロハの怒りをさらに煽った。
「サヨ様は、中心因子なんかじゃありません」
「現象の中心に近い位置におられる、という意味です」
「言葉を変えても同じです」
「いいえ。違います。断罪ではなく、観測分類です」
観測分類。
また、言葉が整えられる。
イロハは奥歯を噛んだ。
アリノリにとっては、正しい表現なのだろう。
責めていない。
侮辱していない。
ただ、記録し、分類し、保護するために必要な言葉を使っている。
けれど、その言葉がサヨから何かを奪っていく。
名前ではなく。
顔でもなく。
役を。
月紐に吊られた札が、ゆらゆらと揺れる。
そのたび、月見台にいる者たちの視線が少しずつ変わっていった。
最初は、サヨを皇女として見ていた。
白影宮の姫。
面のない皇女。
役名のない、けれど確かに尊ぶべき血筋の者。
しかし札が下がるたび、その視線の中に別のものが混じり始める。
役名保留者。
未登録皇女。
封じるべき未在。
月喰い中心因子。
言葉が人を塗り替えていく。
誰かが小さく囁いた。
「中心因子……」
別の役人が、目を伏せた。
「やはり白影宮の異常は……」
さらに遠くで、誰かが言った。
「皇女様というより、審査対象なのだな」
アヤメの手が刀の柄にかかった。
けれど、抜かない。
抜けば、サヨの審査は「危険」としてさらに強められる。
ここでは、怒りさえ札にされる。
イロハは、唇を噛んだ。
ユラを思い出す。
あの子は、神楽師だったか。
いや、ただの舞見習いでは。
そもそも、あの演目に必要だったか。
あの時と同じだった。
いや、もっとひどい。
あの時は、月に喰われた役を人々が忘れていった。
今は、人々が自分の手で札を掛け、忘れる形を整えている。
月だけではない。
人も、札も、制度も、役を喰う。
サヨの足元に、白い光が伸び始めた。
黒皿の満月から漏れた光だった。
水のように揺れ、石の床を這い、サヨの影へ触れる。
その瞬間、サヨの影が薄くなった。
影が消えたわけではない。
だが、輪郭がにじむ。
灰面長屋の濁った水桶を、イロハは思い出した。
ミツの顔が映らなかった。
サヨの顔も、はっきり映らなかった。
あの時と同じだ。
面を持たぬ者が、仮面構文の中で顔として認識されにくくなる。
今度は、水面ではない。
月見台そのものが、サヨを曖昧にしようとしている。
「サヨ様」
アヤメが呼んだ。
声には、わずかに震えがあった。
サヨは振り向かない。
代わりに、静かに言う。
「聞こえています」
その声は、まだ消えていない。
イロハは、そのことに少しだけ救われた。
アリノリは、黒皿の前へ進んだ。
「満月反応、安定」
記録役が続ける。
「月紐、役名札受理」
「対象者影、薄化開始」
対象者影。
イロハは、その言葉に耐えられなかった。
「影じゃありません」
再び言う。
「それはサヨ様です」
アリノリは、静かに返した。
「儀礼上の観測名です」
「人の影まで、観測名にしないでください」
「そうしなければ、何が起きているか共有できません」
「共有する前に、サヨ様が消えます」
アリノリは黙った。
ほんの一瞬だけ。
だが、その沈黙のあと、彼は穏やかに言った。
「だから、進めます」
イロハは息を呑んだ。
「これ以上、御身が月へ映らぬように」
アリノリは、《コトサダメ》を着けた顔をサヨへ向ける。
「保護封役に移行します」
その言葉と同時に、白い札がさらに下がった。
今度は、札に文字がまだない。
空白の札だった。
イロハは、その空白を見た瞬間、ぞっとした。
あれは、これから書き込むための札だ。
サヨの代わりに。
サヨより先に。
サヨの役を、誰かが。
サヨが、その札を見上げた。
表情は静かだった。
けれど、手がわずかに震えている。
イロハは、それを見逃さなかった。
怖いのだ。
当然だ。
自分の名前が消されるのではない。
自分の血筋を否定されるのでもない。
もっと深いところを、保留されようとしている。
何者として息をするのか。
それを、外から止められようとしている。
アリノリが告げる。
「サヨ=ミカゲ様。御身を、役名保留者として月見台中央へお進めします」
アヤメが耐えきれず声を上げた。
「サヨ様を空座へ置くつもりか」
「置くのではありません。御身と役名を一時的に分け、未定義役名を月より遠ざけるためです」
「同じことだ」
「違います」
アリノリの声は揺れない。
「これは保護です」
その言葉が、月見台の白い石に冷たく響いた。
保護。
守るために、中央へ置く。
守るために、役を分ける。
守るために、立つことを止める。
サヨは一歩、中央へ向かって進んだ。
アヤメが反射的に前へ出ようとした。
だが、サヨは静かに言った。
「アヤメ」
それだけで、アヤメは止まった。
「わたしの代わりに立たないで」
アヤメの目が見開かれる。
「サヨ様……」
「わたしが行きます」
サヨは、黒皿の満月と空座を見た。
白い札が揺れている。
役名保留者。
未登録皇女。
封じるべき未在。
月喰い中心因子。
それらが、彼女の上に降りかかろうとしている。
けれどサヨは、下がらなかった。
イロハは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
サヨは、保留されるために進んでいるのではない。
自分が進む場所を、他人だけに決めさせないために進んでいる。
黒皿の満月が、ひときわ白く光った。
その光の中で、サヨの影がさらに薄くなる。
月紐の札が鳴った。
かさり、かさり、と。
まるで、紙が人を食べる音だった。




