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第六節 ― 仮記録の陰陽師

 月見台の端で、紙の擦れる音がしていた。


 ユラの鈴。

 ハルマサの立つ足音。

 月紐の揺れる音。


 そのすべてに混じって、筆が走る音がある。


 セイラン=ナナツジは、星見楼の陰陽師として、そこにいた。


 正式な審査員ではない。


 以前の報告書では、仮記録扱いに落とされた。

 鏡水に現れた白い半面も、反転文字も、式面の内側に出た満月も、正式記録としてはまだ認められていない。


 だから、彼はこの場で重い発言権を持たない。


 それでも、来た。


 記録するために。


 セイランは、月見台の外縁に小さな文机を置き、膝をついて筆を走らせていた。


 白い紙の上に、墨の線が流れる。


 名喰月見台。

 半月の夜。

 黒皿、満月反応。

 サヨ=ミカゲ様、空座前に立つ。

 月紐、役名札を受理。

 封役儀、進行。

 ユラ=シラビョウ、白札外より鈴音。

 ハルマサ=アカツキ、封役中、抜刀せず立つ。


 そこまで書いた瞬間、文字が反転した。


 紙の上の墨が、鏡に映したように左右を裏返す。


 セイランは息を詰めた。


 まただ。


 前の鏡水の実験と同じ。

 自分で書いたはずの文字が、自分には読みにくいものへ変わっていく。


 まるで、誰かが反対側から読んでいる。


 あるいは、こちら側の記録を、向こう側の記録へ移そうとしている。


 セイランの手が、一瞬止まった。


 その隙に、紙の端が白く滲む。


 書いたはずの文字が、薄くなりかけた。


 サヨの影と同じように。


「ヒヨリ」


 セイランが低く呼ぶ。


 袖口から、小さな白い紙狐が飛び出した。


 耳と尾に青い線が入った式神。

 折り紙のような身体が、ひらりと文机の上へ乗る。


 ヒヨリは、逆さになりかけた紙の端を前足で押さえた。


 尾で、墨が滲む場所を軽く叩く。


 すると、消えかけた文字が、かろうじて紙に留まった。


 セイランは息を吐く。


「助かります」


 ヒヨリは返事をしない。


 ただ、尾で紙の余白に小さく書いた。


 ――読め。


 セイランは苦笑した。


「わかっています」


 そして、筆を持ち直す。


 反転した文字の隣に、もう一度同じことを書く。


 今度は、右から左へ。

 次に、左から右へ。

 それでも駄目なら、行を変えて、符号を付ける。

 漢字が反転するなら、星点で記す。

 星点がずれるなら、方位で補う。

 方位が狂うなら、時刻と証人名を添える。


 読みにくくなるなら、読めるまで写す。


 セイランは、そう決めていた。


 アリノリの声が、月見台の中央から響く。


「陰陽寮セイラン=ナナツジ」


 《コトサダメ》を通した声だった。


「儀礼中の記録は、典役院の許可を得て行われるものです。貴殿の報告は、現在も仮記録扱いです」


 セイランは筆を止めなかった。


「承知しています」


「ならば、その記録は正式な審査記録にはなりません」


「それも承知しています」


 アリノリの面が、わずかにこちらを向く。


「正式記録とならぬものを、なぜ書くのですか」


 セイランの筆先が、紙の上を滑った。


 今度は反転しない。


 彼は静かに答える。


「正式記録にならずとも、記録されなかったことにはしません」


 その声は大きくなかった。


 けれど、月見台に届いた。


 イロハは、セイランを見る。


 彼の額には汗が滲んでいる。

 反転文字を追い、消えかける墨を押さえ、ヒヨリと共に紙へ事実を縫い留めている。


 前に、ヒヨリは彼に告げた。


 あなたは、命じる役ではない。

 読む者。


 そして今、セイランは命じていない。


 止めてもいない。

 斬ってもいない。

 鈴を鳴らしてもいない。


 ただ、読む。


 そして書く。


 見たものを、なかったことにしないために。


 アリノリは言った。


「読めぬ記録は、混乱を招きます」


 セイランは筆を走らせながら答えた。


「読めるようにします」


「反転し、崩れ、正式様式を満たさぬ記録は、後世に誤解を残します」


「残らないよりはいい」


 その言葉に、月見台の空気が少しだけ変わった。


 セイラン自身も、自分がそんな言い方をしたことに驚いたようだった。


 普段の彼なら、もっと整った言葉を選んだだろう。


 陰陽寮の様式。

 記録の形式。

 正式な証明。

 読み手への配慮。


 それらを重んじる者だからだ。


 だが今は、違った。


 形式を整える前に、消えようとしているものがある。


 サヨの影。

 ユラの鈴。

 ハルマサの抜かぬ守り。

 アヤメが一歩引いたこと。

 イロハが勝手に彫らないと決めたこと。


 それらが、正式記録になるまで待っていたら、月か札か制度に喰われる。


 だから、まず書く。


 読みにくくても。

 反転しても。

 仮記録でも。


「私は」


 セイランは、ようやく顔を上げた。


「この場で起きたことを、なかったことにはしません」


 ヒヨリが、紙の上で尾を立てた。


 小さな紙狐の影が、半月の光に揺れる。


 セイランは続ける。


「サヨ=ミカゲ様が、自ら空座前へ進んだこと」


 筆が走る。


「アヤメ=シラハ殿が、代わりに立たず、後ろへ引いたこと」


 また一行。


「ユラ=シラビョウ殿が、白札外より鈴を鳴らしたこと」


 文字が一瞬反転する。


 ヒヨリが紙を押さえる。


 セイランは書き直す。


「ハルマサ=アカツキ殿が、刀を抜かずに道を遮ったこと」


 墨が滲む。


 彼は、上から星点を打つ。


「面師イロハ=ナギ殿が、サヨ様の役を勝手に定めぬと表明していること」


 イロハは息を止めた。


 そんなことまで書くのかと思った。


 だが、セイランは書いた。


 記録とは、起きたことを残すもの。


 なら、言葉になりにくい決意も、ここでは起きたことなのだ。


 アリノリは沈黙していた。


 《コトサダメ》の面は、何も読めないものを前にした時のように、わずかに白く揺れている。


 セイランの記録は、正式な役名ではない。

 台帳にもない。

 定役面で判定しにくい。


 だが、確かにそこにある。


 仮記録。


 まだ正式には認められないが、消されてもいない記録。


 それは、今のサヨに似ていた。


 まだ役名になっていない。

 面もない。

 だが、いないことにはできない。


 黒皿の満月が、ふたたび波打った。


 今度は白い歯のような光が、皿の底から伸びかける。


 セイランの紙に書かれた文字が、一斉に薄くなる。


「消える」


 イロハが叫ぶ。


 セイランは、すぐに筆を置いた。


 両手で紙を押さえる。


 ヒヨリも全身で紙へ貼りつく。


 それでも、墨が白く抜けていく。


 記録そのものが、月へ吸われそうになっている。


 セイランは歯を食いしばった。


「ヒヨリ」


 紙狐が、尾で自分の胸を叩く。


 紙の身体から、小さな青い線がほどけた。


 それが、セイランの筆に絡む。


 式神の力を、筆へ通したのだ。


 セイランは、その筆で消えかけた文字の上から、もう一度線を引く。


 反転するなら反転ごと。

 崩れるなら崩れた形ごと。

 白く抜けるなら、抜けた部分の輪郭ごと。


 記録する。


 きれいな文字ではない。


 だが、そこに何かがあったことだけは残る。


「読みにくいなら」


 セイランは、低く言った。


「読めるまで写します」


 筆が走る。


「正式記録にならずとも」


 また一行。


「記録されなかったことにはしません」


 その瞬間、紙の白抜けが止まった。


 完全に戻ったわけではない。


 文字は反転し、ところどころ滲み、星点と方位記号が混ざっている。

 正式な報告書としては、ひどく読みにくい。


 けれど、残った。


 サヨの影が、ほんの少し濃くなる。


 イロハは、それを見た。


 鈴がサヨの輪郭を呼んだ。

 ハルマサの立つ姿が、札の進行を止めた。

 セイランの仮記録が、サヨの選択を「なかったこと」にさせない。


 ひとつひとつは小さい。


 どれも、制度から見れば不完全だ。


 白札の外側の鈴。

 封役中の武士。

 仮記録の陰陽師。


 けれど、その不完全なものたちが、サヨのまわりに集まり始めている。


 サヨは、黒皿の満月を見たまま、そっと口を開いた。


「わたしは、記録されていますか」


 セイランは、即座に答えた。


「はい」


「正式ではなくても」


「はい」


「読みにくくても」


「読めるまで、写します」


 サヨは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 その表情は、泣きそうにも見えた。


 けれど彼女は泣かなかった。


 代わりに、静かに言った。


「ありがとう」


 月紐が揺れる。


 空白の札は、まだ空白のままだ。


 アリノリは、筆を持つ手を下ろしていない。


 封役の儀は止まっていない。


 けれど今、サヨの選択は、少なくとも一枚の紙の上に残された。


 仮の記録として。


 それはまだ弱い。


 しかし、喰われなかった。

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