第九話 選ぶ道
あの夏から、季節は何度も巡った。
啓介の背は伸び、畑へ出れば重吉から一人前に近い仕事を任されることも増えた。毎朝走る習慣も続いていて、十四歳を目前にした身体には、三年前にはなかった少年らしい筋肉がつき始めている。
勉強も続けていた。
学校へ行き、畑を手伝い、時間があれば本を読む。町へ出られる日には図書館へ寄り、村上家では新聞を読ませてもらった。
奈々も少しずつ変わった。
顔立ちにはまだ幼さが残っているが、髪を結った姿などは以前よりずいぶん大人びて見える。
もっとも、啓介をからかって笑う時や、思い通りにならず頬を膨らませる時には、昔とほとんど変わらなかった。
二人きりになれば「啓ちゃん」と呼ぶことも変わらない。
あの夏から二年余りが過ぎた、昭和六年九月。
新聞の一面に、大きく満州の文字が載った。
◇
満州事変。
その文字を紙面の上に見つけた時、啓介はしばらく動けなかった。
柳条湖。
奉天。
関東軍。
二〇〇五年にいた頃なら、どれも歴史の教科書に載っていた言葉だ。
何年に起き、その後どうなったのか。
試験なら、その流れを順番に答えればよかった。
けれど、今目の前にある新聞には「その後」が書かれていない。
新しい情報が入るたびに記事が増え、村の大人たちは新聞を囲んで話をする。学校では男子たちが満州の話になると途端に声を弾ませた。
彼らにとっては、今まさに起きている出来事なのだ。
「……始まったか」
誰にも聞こえないように呟いた。
知っていた歴史が、本当に目の前で動き始めた。
その事実は、啓介が思っていた以上に重かった。
この先に何が続いたのかを、自分は知っている。
けれど、十三歳の今すぐにできることはない。
啓介は新聞を畳んだ。
ならば、やることは変わらない。
学ぶ。
身体を鍛える。
この国が今どこにいて、自分が何をできるのかを考える。
そうして、さらに季節が巡った。
◇
昭和七年の夏。
十四歳になった啓介は、学校からの帰り道で一枚の張り紙に足を止めた。
「……飛行予科練習生」
海軍の募集広告だった。
飛行機の絵の下に、応募資格や選考について細かな文字が並んでいる。
啓介は吸い寄せられるように近づいた。
「満十五歳以上……」
もう一度読む。
指で年を数えるまでもない。
「あと一年か」
海軍という道については、あの日からずっと調べてきた。
艦艇だけではない。
組織や教育、造船、通信、そして航空。
日本のことだけでなく、手に入る範囲で外国の海軍についても読んだ。
その中でも、どうしても航空には目が向いた。
これからの戦争で、飛行機の持つ意味が急速に大きくなることを啓介は知っている。海の上でも陸の上でも、そして、いつか日本の空そのものを守らなければならなくなる時にも。
予科練へ進めば、若いうちから航空の世界へ入れる。
十五歳。
来年には手が届く。
「早く中へ入った方が……」
そこまで呟き、口を閉じた。
本で読んでいるだけでは分からないことが、あまりにも多い。
実際の海軍は、どんな訓練をしているのか。
搭乗員は、どう育てられているのか。
現場では何が足りず、何が問題になっているのか。
未来の記憶があったところで、この時代の現実を知らなければ役には立たない。
早く入れば、それだけ早く知ることができる。
予科練という道は、啓介にはひどく魅力的に見えた。
それでも、張り紙を見上げたまま、すぐにはそこを離れなかった。
◇
数日後。
啓介は職員室の戸を叩いた。
「失礼します」
「越智か。どうした?」
担任が机から顔を上げる。
「ちょっと、相談があるんですけど」
「珍しいな。まあ座れ」
「はい」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
教師は急かさず、啓介が話し始めるのを待っていた。
「先生」
「うん」
「俺、海軍へ進むことを考えています」
教師の表情がわずかに変わった。
「そうか」
思ったほど驚いてはいない。
「前から海軍や飛行機の本ばかり読んどったからな」
「やっぱり分かります?」
「学校の本をあれだけ借りればな」
「ですよね……」
「それで?」
「この前、予科練の募集を見ました。来年には年齢も足ります」
教師が頷いた。
「飛行機に乗りたいんか?」
「乗りたいです」
そこは素直に答えた。
「でも、それだけじゃないです」
「というと?」
啓介は少し言葉を探した。
「本でいろいろ読んできましたけど、やっぱり外から見てるだけじゃ分からないことが多いんです。実際にどう訓練してるのか、どんな飛行機を使ってるのか。そういうものを、ちゃんと中で知りたくて」
「それで、早う海軍へ入りたいと」
「はい」
「なるほどな」
教師はしばらく黙ったあと、机の上で指を組んだ。
「予科練は立派な道じゃ」
「はい」
「航空の専門へ若いうちから入れる。飛行機が好きなお前には魅力もあるじゃろう」
「だから――」
「ただな、越智」
教師が静かに遮った。
「海軍へ行く道は、それだけじゃない」
啓介は顔を上げた。
「兵学校を考えたことはあるか」
「……海軍兵学校ですか?」
「ああ。江田島の」
知らないはずがなかった。
海軍兵学校。
日本海軍の士官を育てる学校。
存在そのものは、何度も本で読んでいる。
だが、自分がそこへ進むことまでは、ほとんど考えたことがなかった。
「俺が、ですか?」
「何がおかしい」
「いや……相当難しいでしょう」
「難しい」
即答だった。
「今の勉強だけやっとれば簡単に届くようなところではない。兵学校を本気で目指すなら、その前にどう進学するかも考えにゃならん」
「……やっぱり」
「今すぐ受けるという話でもない」
教師は啓介をまっすぐ見た。
「じゃが、お前はここ何年かでずいぶん変わった」
「またその話ですか」
「事実じゃろう」
「まあ……」
「算術も国語もようできる。自分で本を探して読むようにもなった。身体も丈夫になった」
教師は一度言葉を切った。
「素行も、昔よりは」
「そこ、必要ですか?」
「必要じゃ」
「もう何年も前の話でしょう」
「先生は忘れん」
啓介は苦笑した。
教師も少し笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「兵学校を本気で目指すなら、これからは今まで以上に勉強せにゃならん。中学校へ進んで、必要な学力をつける道も考えた方がええ」
「はい」
「楽な道ではないぞ」
「……はい」
教師は少し身体を前へ乗り出した。
「じゃがな。予科練と兵学校は、どちらが偉いという話ではない」
啓介は黙って聞いた。
「予科練なら、航空の専門へ早く入れる。兵学校へ行けば、士官として海軍全体を学ぶ。その先で航空へ進む道もある」
「士官として……」
「越智」
「はい」
「お前は、何がしたいんじゃ」
問われて、啓介はすぐには答えられなかった。
飛行機には乗りたい。
実際の機体を知りたい。
空で戦うということを、自分の身体で理解したい。
それは本当だった。
けれど、それだけなのか。
「あの……先生」
「何じゃ」
「士官になったら、自分で決められることって増えますか」
教師が眉を上げた。
「何を決めたい」
「例えば……訓練のやり方とか、部隊をどう動かすとか。飛行機をどう使うかとか」
「うん」
「そういうことです」
本当は、もう一つあった。
どうすれば、人を無駄に死なせずに済むのか。
それだけは、まだ口にしなかった。
教師はしばらく啓介を見つめていた。
「増える」
やがて、静かに答えた。
「階級が上がり、人を率いる立場になれば、自分の判断で動かすものも増えるじゃろう」
「…………」
「ただし」
教師の声が少し低くなった。
「間違えた時、自分一人が困るだけでは済まんぞ」
啓介は顔を上げた。
「お前の命令を聞いて動く人間がおる」
「はい」
「お前が右へ行けと言えば右へ行く。飛べと言えば飛ぶ。そこへ行けば危ないと分かっていても、命令なら行かにゃならん時もあるかもしれん」
「…………」
「それを背負うのも士官じゃ」
啓介は何も言えなかった。
昔、学校へ来た老人の姿が脳裏に浮かんだ。
満州の凍った大地。
馬。
砲声。
そして、帰ってこなかった仲間。
あの日、自分は思った。
帰ってこられるはずの人間を、一人でも多く帰したいと。
一人の搭乗員なら、自分自身と、近くにいる仲間を守れるかもしれない。
けれど、人を率いる立場になれば、自分の判断はもっと多くの人間へ届く。
その代わり、間違えれば。
その判断で、人を死なせることになる。
啓介は膝の上で手を握った。
「……兵学校」
「すぐ決めんでええ」
教師が言った。
「十五で航空の専門へ入るのか。時間を掛けて士官を目指すのか。どちらにも意味がある」
「はい」
「よう調べて、それから決めい」
啓介は頷いた。
そして、もう一つ。
ずっと引っかかっていたことを口にする。
「先生」
「ん?」
「俺の家でも……目指せますか」
教師の目が少しだけ細くなった。
何を聞いているのかは、説明しなくても伝わったらしい。
越智家は小作農だ。
重吉とトヨが毎日働いて、ようやく家が成り立っている。
自分が上の学校へ進めば、その分だけ家の働き手が減る。
勉強を続けるにも金がかかる。
村上家とは違う。
「楽ではないな」
教師は正直に答えた。
「……ですよね」
「じゃが、家が貧しいというだけで、お前がここで勝手に諦める話でもない」
「え?」
「兵学校を受けるには何が要るのか。どう進めばええのか。金のことも含めて、使える手立てがないか先生も調べる」
「先生……」
「お前が本気なら、じゃ」
教師は少し笑った。
「肝心のお前が途中で嫌になったら知らんぞ」
「それは大丈夫です」
「お前の『大丈夫』は昔から信用ならん」
「先生までそれ言うんですか」
「昔から知っとるけんな」
啓介も笑った。
けれど、胸の中では二つの道が、初めてはっきりと分かれていた。
早く航空の世界へ入り、飛行機を知る道。
時間を掛けて学び、士官としてその先へ進む道。
どちらを選ぶべきなのか。
まだ答えは出なかった。
◇
放課後。
校門を出たところで、奈々が待っていた。
「啓介」
まだ他の児童が近くにいる。
「何?」
「今日、先生と何話しよったん?」
「見てたの?」
「職員室入るとこ見えた」
「別に怒られたんじゃないぞ」
「まだ何も言うてないやん」
「奈々の顔がそう言ってる」
「失礼やね」
二人は並んで歩き始めた。
学校から離れ、人の姿が少なくなった頃。
「ほんで?」
奈々がもう一度聞いた。
「何の話?」
「進路」
「予科練?」
「それも」
「それも?」
啓介は少し迷ってから口にした。
「先生に、兵学校も考えてみろって言われた」
奈々の足が止まった。
「……兵学校?」
「ああ」
「江田島の?」
「知ってるんだ」
「それくらい知っとるよ」
少しむっとしたあと、奈々の表情が曇った。
「行くん?」
「まだ決めてない」
「予科練は?」
「そっちも考えてる」
「…………」
「何?」
奈々はしばらく黙っていた。
「どっちにしても」
「うん」
「村から出るんやね」
啓介も黙った。
自分にとっては、予科練か兵学校かという話だった。
だが、奈々にはどちらでも同じなのだ。
啓介が、この村からいなくなる。
「まだすぐじゃないよ」
「分かっとる」
「兵学校なら、そもそも受かるかどうかも――」
「そういう話やない」
静かな声だった。
啓介は口を閉じた。
奈々は前を向いたまま歩き始める。
「毎日会えんくなるやん」
「……そうだな」
「川も行けん」
「うん」
「祭りも、一緒に行けんかもしれん」
「休みに帰れれば行けるだろ」
「帰れるん?」
奈々がこちらを見る。
「帰れる時は帰るよ」
「ほんま?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
奈々はしばらく啓介を見ていたが、やがてほんの少し表情を緩めた。
「じゃあ、うちの歌も聴きに帰ってきてよ」
「そこなの?」
「大事やもん」
「前に一回泣いたからって、味しめてない?」
「違う!」
「絶対そうだろ」
「啓ちゃん!」
いつもの調子で怒る。
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「それに」
奈々は少し間を置いた。
「お味噌汁も」
「……ああ」
「今はまずないやろ?」
「最初よりは」
「何その言い方!」
「冗談だって」
「もう!」
奈々が腕を振り上げる。
啓介は笑いながら一歩逃げた。
「待てって!」
「知らん!」
「美味しいよ。ちゃんと」
「遅い!」
怒ってはいる。
けれど、さっきまでの寂しそうな顔は消えていた。
◇
しばらく歩いたところで、奈々が額の汗を拭った。
「……暑いね」
「暑いな」
啓介も襟元を手で扇ぐ。
夏なのだから暑いのは当然だ。
けれど、今年はどこか妙だった。
道端の草が、ところどころ色を失っている。
畑の土も乾き、小さなひびが走っていた。
啓介は歩きながら空を見上げる。
雲はある。
けれど、雨を降らせそうな気配はない。
「最近、雨降らないな」
「うん」
奈々も空を見た。
「母さまも言いよった。夕立も少ないって」
「父ちゃんも最近、毎日空見てる」
重吉は朝になると空を見上げ、夕方には水路を見に行くことが増えていた。
口数の少ない父だから、特に何かを言うわけではない。
それでも、何を気にしているのかくらいは分かる。
二人は水路に沿って歩いた。
啓介は何気なく水面へ目を向け――足を止めた。
「……あれ?」
「どうしたん?」
水は流れている。
だが、細い。
水路の石を見る。
いつもなら水に隠れている部分が、白く乾いていた。
「…………」
啓介はしゃがんだ。
手を伸ばし、乾いた石へ触れる。
ここ数日のことではない。
思い返せば、まとまった雨はしばらく降っていなかった。
畑で土を触れば分かる。
重吉が水路を見る回数が増えたことも。
村の大人たちが、水の話をすることが増えたことも。
「啓ちゃん?」
奈々の声で顔を上げた。
「奈々」
「何?」
「清一郎さん、今日家にいる?」
「父さま?」
「ああ」
「たぶんおるけど……」
奈々も啓介の横へしゃがみ、水路を見る。
「何で?」
啓介はもう一度、白く乾いた石へ目を落とした。
「水のことで、ちょっと話したい」
「水?」
「うん」
奈々は不思議そうな顔をした。
けれど、啓介の表情を見ると、それ以上は聞かなかった。
「……分かった。行こ」
「ああ」
二人は立ち上がり、村上家へ向かった。
背後では、細くなった水が、乾いた水路の底をかすかな音を立てて流れていた。




