第十話 雨が降る前に
村上家へ着く頃には、日はだいぶ西へ傾いていた。
それでも暑さはほとんど和らいでいない。庭の土は白く乾き、風が吹くたびに細かな砂埃が足元を這った。
「父さま、ただいま」
奈々が玄関から声を掛ける。
「啓介が話あるんやって」
「お邪魔します」
少しして、奥から清一郎が姿を見せた。
「おお、啓介くんか。奈々から大事な話があると聞いたが」
「はい」
啓介が頭を下げると、清一郎はなぜか一瞬だけ妙な顔をした。
その後ろから出てきた綾乃も、啓介と奈々を見比べている。
「……何ですか?」
「いや」
清一郎が咳払いをした。
「まず上がりなさい。暑かったじゃろう」
「ありがとうございます」
座敷へ通され、啓介は清一郎と向かい合って座った。
奈々もその隣へ腰を下ろし、綾乃は少し離れたところから二人を見ている。
「それで」
清一郎が膝へ手を置いた。
「話というのは?」
「はい。実は――」
啓介が口を開きかけると、清一郎がもう一度咳払いした。
「その前に、一つだけ聞いてええか」
「何です?」
「奈々のことではないんじゃな?」
「……奈々?」
意味が分からず横を見る。
奈々も最初は首を傾げていた。
しかし、数秒して。
「父さま!」
顔がみるみる赤くなる。
「何考えとるん!」
「いや、わしはまだ何も言うとらん」
「今言うたやん!」
「奈々のことかと聞いただけじゃ」
「それが余計なんよ!」
「ちょっと待って」
啓介が二人の間へ口を挟んだ。
「俺、何の話だと思われてたんですか?」
綾乃がとうとう吹き出した。
「ごめんなさいね。奈々があまり真剣な顔で、『啓介が父さまと大事な話をしたい』と言うものですから」
「母さままで!」
「…………」
そこまで聞いて、啓介にもようやく分かった。
「違いますからね?」
「うむ」
「本当に違いますよ?」
「分かったと言うとる」
「なら、その納得したみたいな顔やめてください」
「啓介!」
「俺まで怒られるの!?」
綾乃は口元を押さえたまま笑っている。
十四歳にもなって、奈々の両親の前でこんな話をされるのは、さすがに居心地が悪い。
「……もういいです。本題に入ります」
「そうしよう」
清一郎もようやく表情を改めた。
啓介は一度息を整える。
「水のことです」
「水?」
「はい。帰りに水路を見たんですが、かなり水位が落ちていました」
清一郎の顔から、今度こそ笑みが消えた。
「ああ」
短く頷く。
「わしも気にはしとった」
「やっぱり」
「今年は雨が少ない。重吉さんとも、この間その話をしたところじゃ」
「父ちゃんと?」
「農家なら誰でも気づく。お前さんだけじゃないよ」
「……ですよね」
「何じゃ、その安心したような顔は」
「いや」
啓介は少し笑った。
「俺が考えすぎてるだけなのかなとも思ってたので」
「そこまでは分からん」
清一郎は腕を組んだ。
「この辺りでは、雨の少ない夏そのものは珍しくない。明日にでも夕立が来るかもしれんし、一度まとまった雨が降れば持ち直すこともある」
「はい」
「じゃが、今年は少し長い」
その言葉に啓介は頷いた。
やはり、大人たちも同じものを見ていたのだ。
毎日土に触れ、水を見て暮らしている人間が、気づいていないはずがない。
「俺も、旱魃になるって言いたいわけじゃないんです」
「ほう」
「ただ……もしこのまま雨が少なかった時のことを、今のうちに考えておけないかなと思って」
「今のうちに、か」
「はい」
清一郎が啓介を見る。
「具体的には?」
啓介は少し身を乗り出した。
「まず、水路です」
「水路」
「草や泥が溜まってるところを掃除して、漏れてるところがあれば塞ぐ。取水できるところも一度見ておく。それと、井戸の水位も確認しておいた方がいいと思います」
「なるほど」
「もし本当に水が足りなくなったら、どの田へいつ流すのかも、先に大人たちで決めておいた方がいいと思います」
清一郎の目が少し細くなった。
「水の取り合いを心配しとるんか」
「はい」
啓介は頷いた。
「水が十分あるうちは、みんな譲れると思うんです。でも、本当に自分の田が枯れそうになったら……」
「そうはいかん」
「ですよね」
三年間、農家の息子として暮らしてきた。
一枚の田に、どれだけ人の手が掛かっているのかも知っている。
朝から晩まで世話をし、ようやく実ろうとしている作物を、誰だって簡単には諦められない。
「揉め始めてから決めるより、まだ余裕があるうちに決めておいた方がいいと思うんです」
「うむ……」
清一郎はすぐには答えなかった。
啓介も急かさず待つ。
やがて、清一郎が尋ねた。
「他には?」
「食べ物です」
「食料か」
「はい」
「今年の収穫が悪くなるところまで考えとるんじゃな」
「一応です」
啓介は言葉を選んだ。
「前に新聞で、凶作になった土地の記事を読んだことがあります。原因は違っても、採れなくなってから食べ物を集めようとすると大変なのは同じだと思って」
「買い集めるんか?」
「いえ」
啓介はすぐに首を振った。
「必要以上に買えば、他の人が困ります。まず村上家の蔵に今どれくらいあるのか確認して、足りなさそうなら、まだ普通に手に入るうちに少し補うくらいでいいと思います」
「村で必要になった時の分も考えて、か」
「できるなら」
「…………」
清一郎はしばらく黙った。
啓介はその顔を見ながら、自分の考えを頭の中でもう一度確かめた。
今年、本当に旱魃になるかどうかは分からない。明日の天気すら分からないのだ。
なら、無理に当てようとするより、外れても困らない備えを考えればいい。
「清一郎さん」
「うん?」
「雨が降ったら、それでいいんです」
「…………」
「水路を掃除しても損はしないし、井戸を見ておくのも無駄じゃない。食べ物だって、使える分だけなら後で食べられます」
啓介は少し笑った。
「俺が心配しすぎたって、みんなに笑われるくらいが一番いいです」
清一郎の口元が、わずかに緩んだ。
「変わった子じゃな、お前さんは」
「それ、もう何年も言われてます」
「そうじゃったな」
横で奈々が得意そうに頷いた。
「啓介は昔から変よ」
「昔からって、奈々まで言うなよ」
「でも、今の方が賢い」
「前をどれだけ馬鹿だと思ってるんだ」
「宿題せんかったし」
「まだ言う?」
綾乃が笑う。
清一郎も一度笑ったが、すぐに庭の方へ視線を向けた。
「実はな」
「はい」
「水路を一度見た方がええとは、わしも思っとった」
「そうなんですか?」
「ああ。ただ、まだ騒ぐほどではないとも思うてな」
清一郎は静かに続けた。
「じゃが、お前さんの言う通りじゃ。大騒ぎすることと、前もって手入れすることは別じゃな」
「はい」
「水が十分あるうちなら、配分の話も冷静にできる」
「そう思います」
「蔵も一度見ておくか」
啓介の顔が明るくなった。
「やってくれるんですか?」
「そんな大層な話ではない」
清一郎は苦笑した。
「水路を掃除し、井戸を見て、蔵を調べるだけじゃ。何も起きなければ、ただ夏の仕事を一つ余計にしただけで済む」
「はい」
「それなら安いもんじゃ」
清一郎はそう言って立ち上がった。
「明日の朝、何人かに声を掛けよう」
「本当に?」
「ああ。重吉さんにもな」
「父ちゃんにも?」
「当たり前じゃ。田を知っとる者がおらんと話にならん」
言われてみれば、その通りだった。
啓介は思わず笑う。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
清一郎は啓介を見下ろした。
「本当に雨が降らなんだら、これからが大変じゃ」
「……はい」
「降ったら?」
「俺が笑われます」
「そうじゃな」
清一郎が笑った。
「その時は、わしも一緒に笑うてやる」
「そこは庇ってくださいよ」
「嫌じゃ」
座敷に小さな笑いが広がった。
◇
話が一段落したところで、綾乃がお茶を入れ直した。
清一郎は湯呑みを受け取ると、ふと思い出したように言った。
「そういえば啓介くん」
「はい?」
「海軍へ行きたいそうじゃな」
「……もう知ってるんですか」
「小さい村じゃけんの」
「本当に何でも広まるな……」
「悪いことはできんぞ」
「しませんよ」
奈々が隣で小さく笑った。
清一郎は湯呑みを置く。
「予科練か?」
「それも考えてます。でも先生から、兵学校も考えてみろって言われました」
「兵学校」
清一郎の眉が少し動いた。
「江田島か」
「はい」
「なるほどな」
少し考えてから、清一郎は啓介を見る。
「今日の話を聞いとると、先生がそう言うた理由も分かる気がする」
「え?」
「軍人に限った話でもないがな」
清一郎は庭の方へ目をやった。
「何か起きてから働く人間は、よう目立つ」
「…………」
「火が出れば火を消す。揉め事が起きれば止める。危ない時に前へ出る者は立派じゃ」
「はい」
「じゃが」
清一郎は啓介へ視線を戻した。
「火が出んようにしておくことも、大事な仕事じゃろう」
啓介は黙った。
「水がなくなってから皆をまとめるより、なくなる前に水路を直す。その方が、誰も困らんで済む」
「……そうですね」
「人の上に立つなら、そういうことも考えられる者になりなさい」
啓介は少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
先日、教師から言われた言葉が、ふと胸に蘇った。
――それを背負うのも士官じゃ。
清一郎の言葉は、それとは少し違うところから、同じ場所へ続いているような気がした。
「覚えておきます」
「うむ」
清一郎は満足そうに頷いた。
そこで話は終わるかと思ったが。
「ところでな」
「はい?」
嫌な予感がした。
「さっきの話じゃが」
「水ですか?」
「いや」
清一郎が奈々を見る。
「奈々とのことは、本当に何も――」
「父さま!」
「だから違いますって!」
「確認しただけじゃ!」
「確認せんでええ!」
奈々の顔が真っ赤になる。
綾乃はまた笑い出した。
啓介も、もう否定するのが馬鹿らしくなって笑った。
外では相変わらず蝉が鳴いている。
雨の匂いは、まだどこにもなかった。
◇
翌朝。
啓介が重吉とともに水路へ向かうと、すでに何人もの男たちが集まっていた。
鍬や鋤を担いだ者。
井戸を見に行く者。
水路沿いを上流へ歩いていく者。
「啓介」
前を歩いていた重吉が振り返る。
「ぼさっとするな。草取るぞ」
「あ、うん」
啓介は慌てて後を追った。
少し先では、清一郎が村の男たちと話している。
「まず上まで見よう。詰まっとるところがあったら先にそこをやる」
「こっちの井戸も水が下がっとるぞ」
「あとで見よう」
「田への水はどうする?」
「今のうちに話を決めとこう。まだ喧嘩せんで済むうちにな」
昨日、座敷で話していたことが、もう現実の作業になっていた。
啓介はしばらくその様子を見ていた。
「何しよる」
重吉に頭を軽く叩かれた。
「痛っ」
「働け」
「分かってるよ」
啓介は水路へ降りた。
泥を掻き、草を抜く。
朝だというのに、すでに汗が額を伝い始めていた。
やがて、詰まっていた泥を取り除いた先から、水が少しだけ勢いを増して流れてくる。
啓介は手を止め、空を見上げた。
今日も青い。
雲は遠く、雨になる気配はなかった。
啓介は鍬を握り直した。
その横を、昨日より少しだけ勢いを増した水が流れていった。
雨は、まだ降っていなかった。




