第十一話 待つということ
心配していた水は、その後も細いままだった。
まったく雨が降らないわけではない。山の方に黒い雲が掛かり、夕立が村を通り過ぎる日もあったが、それで田へ回ってくる水が元の勢いを取り戻すほどではなかった。
村では、水がまだ残っているうちから上流の水路をさらい、伸びた草を刈り、漏れている場所へ手を入れていた。井戸の水位も確かめ、さらに流れが減った時には、どの田へどの順番で水を回すのか、大人たちが何度も顔を合わせて話し合った。
「そこを減らされたら、うちの下の田が持たんぞ」
「じゃが上へ入れすぎたら、こっちまで水が来ん」
「なら夜も回すか」
「誰が見るんじゃ」
田の位置も違えば、育てているものも、必要な水の量も違う。昔から続いてきた水の回し方にはそれなりの理由があり、誰か一人の思いつきで簡単に変えられるものではなかった。
啓介が新しい仕組みを作ったわけでもない。
まだ余裕があるうちに、一度みんなで考えておいた方がいいのではないか――そう口にしただけだった。
その一言をきっかけに清一郎が人を集め、重吉たち農家がそれぞれの経験を持ち寄り、水路を何十年も見てきた老人たちも加わった。意見がぶつかることはあっても、実際に水が尽きてから争うよりは、ずっと穏やかに話ができる。
その甲斐もあって、田はどうにか持ちこたえていた。
「啓介、そっち閉めるぞ」
「はい!」
重吉に呼ばれ、啓介は水路へ差し込んでいた板を少しずらした。
細い流れが二つに分かれ、その一方が音もなく田へ入っていく。水の広がり方を見ながら位置を調整していると、少し離れたところから重吉の声が飛んだ。
「もう少しじゃ」
「これくらい?」
「……そこじゃ」
板を固定して立ち上がると、啓介は額を腕で拭った。
朝のうちはまだ幾分ましとはいえ、水路へ降りて泥を掻けば、すぐに汗だくになる。顔を上げれば、今日も空は青く、白い雲はいくつか浮かんでいるものの、こちらへ雨を運んでくれそうな気配はなかった。
「帰るぞ」
重吉が鍬を肩へ担いだ。
「ああ」
「昼からまた勉強か」
「そのつもり」
「よう続くの」
「続けないと、兵学校なんて届かないだろ」
「そうか」
重吉はそれだけ言うと、畦道を歩き始めた。
啓介もその後を追った。
上の学校へ進み、その先で海軍兵学校を目指す。言葉にしてしまえば簡単だが、越智家にとっては軽い話ではない。
教科書も要る。通うにも金が掛かるし、学校にいる間は畑の働き手が一人減る。教師から進学の話を聞いて以来、重吉とトヨが何度も相談していることも知っていた。
それでも二人は、啓介が先へ進む道を最初から閉ざそうとはしなかった。
だからこそ、無駄にはできないと思う。
兵学校へ行きたいと言ったのは自分なのだ。
しばらく無言で歩いていると、前を行く重吉が振り返りもせずに言った。
「身体壊すほどやるなよ」
啓介は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「……うん」
◇
同じ日の夕方。
村上家の座敷では、清一郎が帳面を閉じたところだった。
「今のところは、どうにか持っとるな」
向かいで針仕事をしていた綾乃が顔を上げる。
「田ですか?」
「ああ。上の水路をさらったのは効いとる。あのまま放っとったら、下の方はもっと厳しかったじゃろう」
「早く手を入れてよかったですね」
「いずれ誰かが言い出したとは思うがな。ただ、もう少し遅かったかもしれん」
清一郎が湯呑みへ手を伸ばすと、綾乃は小さく笑った。
「啓介くんらしいですね」
「何がじゃ」
「皆が何となく気にしていたことを、『なら今やればいい』と考えるところです」
「十四の子供の考えることかの」
「でも、あの子は何でも自分でやろうとはしないでしょう?」
言われてみれば、その通りだった。
分からないことがあれば聞く。田のことは重吉たち農家に任せ、水路のことなら、それを昔から見てきた者の意見に従う。自分の考えは口にするが、自分だけが正しいと思っている様子はない。
清一郎は湯呑みを置き、しばらく考え込んだ。
「兵学校か……」
「本気みたいですね」
「先生も、あれなら挑戦させてみたいと言うとった」
「啓介くんなら頑張るでしょう」
「頑張ったから受かるとは限らん」
「あら、厳しい」
「難しいところなんじゃろうが」
綾乃が笑い、清一郎も少しだけ口元を緩めた。
だが、その視線はやがて座卓の端へ移った。
そこには、一通の手紙が置かれている。
「……こっちは、どうします?」
綾乃も同じものを見た。
「それなんじゃがな」
清一郎は腕を組んだ。
少し前、奈々を連れて松山へ出た折、人の集まる席で奈々が歌う機会があった。その時に娘を見かけた家から、後になって話が届いたのだ。
今すぐ嫁に来てほしいという話ではない。
奈々はまだ十四歳である。
ただ、いずれ年頃になった時、将来の縁として考えてもらえないか――そういう打診だった。
「先方は、きちんとしたお家なのでしょう?」
「ああ。商いもうまくいっとるらしい」
「息子さんも、悪い話は聞かないとか」
「真面目な子らしい」
「でしたら、条件だけを見れば悪いお話ではありませんね」
「……そうじゃな」
娘の将来を考える父親としてなら、喜んでもよい話なのかもしれない。
それでも清一郎は、手紙を取り上げようとはしなかった。
「まだ早い」
「奈々が若いから?」
「それもある」
綾乃が夫の顔を見た。
「それだけ?」
「…………」
「あなた」
「分かっとる」
清一郎は少し不機嫌そうに答えた。
「啓介くんのことじゃろ」
「私は名前を出していませんよ」
「顔に書いてある」
「あなたにもね」
返事が止まる。
綾乃は、それ以上追い詰めるでもなく微笑んだ。
「別に、あの二人がどうなると決まったわけじゃない」
「ええ」
「啓介くんが奈々をどう思っとるかも知らん。奈々にしたって、まだ子供じゃ」
「そうですね」
「それに、越智家と村上家では事情も違う」
清一郎は一度言葉を切った。
「重吉さんもトヨさんも、わしは信用しとる。付き合いだって長い。じゃがな、子供の頃から仲がええことと、娘の将来を決めることは別じゃ」
「ええ」
「親として、何も考えんわけにはいかん」
綾乃は針仕事を膝へ置いた。
「でも、家の違いだけなら、あなたの中ではとっくに答えが出ているでしょう?」
清一郎が眉を寄せた。
「お前は嫌なところを突くな」
「夫婦ですから」
綾乃は涼しい顔をしている。
清一郎はしばらく黙っていたが、やがて低い声で続けた。
「……それより気になるのは、軍人になることじゃ」
綾乃の表情からも、少し笑みが消えた。
「兵学校へ入れば村を出る。士官になれば海へ出る。この先、国がずっと静かだとも限らん」
「ええ」
「危ない仕事じゃ」
それは地主としてではなく、娘の父親としての言葉だった。
「奈々が待っても、帰ってこられんことだってある」
庭では、相変わらず蝉が鳴いていた。
綾乃もすぐには答えなかった。
やがて静かに尋ねる。
「それでも、啓介くんが兵学校へ入ったら?」
「…………」
「あなたはどうするの?」
清一郎は座卓の手紙へ目を落とした。
「少なくとも」
少し考えたあと、ゆっくり答える。
「自分の力でそこまで行く男なら、家が違うというだけで最初から駄目とは言えんじゃろう」
「そう」
「まだ何も決めとらんぞ」
「分かっています」
「奈々の気持ちも聞いとらん」
「ええ」
今度は綾乃もからかわなかった。
清一郎は手紙を取り上げ、しばらく眺めたあと、元の場所へ戻した。
「先方には、今はまだ早いと伝えよう」
「はい」
「断るわけではない。ただ、しばらく待ってもらう」
「それがいいでしょうね」
奈々自身が、この先何を望むようになるのか。
そして、あの少年がどこまで自分の道を進むのか。
今ここで、親がすべてを決めてしまう必要はない。
清一郎が手紙を畳もうとした、その時だった。
廊下の向こうで、床板が小さく鳴った。
清一郎が顔を上げる。
「奈々?」
返事はない。
「そこにおるんか?」
少し間があった。
「……おらんよ」
「おるやないか」
次の瞬間、廊下を走っていく足音が聞こえた。
清一郎は額を押さえ、綾乃はとうとう声を上げて笑った。
「……どこから聞いとったんじゃ」
◇
奈々は自分の部屋へ飛び込むと、後ろ手に襖を閉め、そのまましばらく動けなかった。
胸がうるさい。
聞くつもりなどなかったのだ。
廊下へ出たところで自分の名前が聞こえ、何となく足を止めただけだった。それなのに、そこへ啓介の名前まで出てきてしまった。
「……啓ちゃん」
誰もいない部屋で小さく呼んでみると、それだけで頬が熱くなった。
「何なんよ……」
両手で顔を押さえる。
盆祭りの夜に背負ってもらった背中も、初めて作った味噌汁を不味いと言いながら最後まで飲んでくれた顔も、毎日の帰り道も、これまではただ当たり前のように自分の中にあった。
なのに父と母の口から啓介の名前を聞いた途端、その一つ一つを思い出すことまで、妙に恥ずかしくなった。
「……もう」
奈々は布団へ顔を埋める。
啓介が兵学校を目指すなら、いつか村を出る。
今よりずっと遠くなる。
毎日のように顔を合わせ、一緒に帰ることもできなくなる。
考えるだけで嫌だった。
けれど、あれほど勉強していることを奈々は知っている。朝には畑を手伝い、そのあと机へ向かっていることも、重吉とトヨが先へ進ませてくれることを啓介がどれほど大切にしているかも知っていた。
啓介自身が見つけた道なのだ。
「行かんといて、なんて……言えんやん」
布団へ頬を押しつけたまま、小さく呟く。
どうすればいいのかは、まだ分からない。
ただ、父が縁談の返事を急がないと知ったことだけは、少し嬉しかった。
奈々はしばらくそのまま横になり、ようやく落ち着いてきた胸の音を聞いていた。
◇
数日後。
啓介は水路の脇へしゃがみ込み、溜まった泥を掻き出していた。
「啓介」
後ろから声がする。
周囲には大人たちの姿もあったので、奈々はいつもの呼び方をしなかった。
振り返ると、籠を提げた奈々が立っている。
「何?」
「休憩」
「まだやるけど」
「休みなさいって父さまが」
「清一郎さんが?」
「それと、うちが」
「そっちが本命だろ」
「ええやん」
籠の中には水と梅干しが入っていた。
「ほら」
「ありがとう」
啓介は器を受け取ると、一気に水を飲んだ。
「生き返る……」
「大げさやね」
「泥掻いてみろよ。重いぞ」
「うちは持ってきた人」
「便利だな、その役」
「大事な役よ」
奈々が胸を張るので、啓介は笑いながらもう一口飲んだ。
少し離れたところでは、大人たちが変わらず作業を続けている。奈々は一度そちらを確かめてから、少しだけ声を落とした。
「……啓ちゃん」
「ん?」
「兵学校、本気で受けるん?」
啓介は器を膝へ置いた。
「うん」
「予科練は?」
「今でも魅力はあるよ。早く航空の現場へ入れるからな」
「なら、どうして兵学校なん?」
聞かれて、啓介はすぐには答えなかった。
飛行機に乗りたいという気持ちは、今も変わらない。
だが、それだけでは足りないと思うようになっていた。
「海軍そのものを、もっと広く知りたいんだと思う」
「海軍そのもの?」
「ああ。船も飛行機も、部隊をどう動かすのかも、人をどう育てるのかも。そういうものをちゃんと学んで、その上で航空へ行きたい」
自分でもまだ、すべてをうまく言葉にできるわけではない。
それでも以前より、進みたい道の形ははっきりしていた。
「変かな」
奈々は少し首を傾げた。
「よう分からん」
「正直だな」
「でも」
奈々は笑った。
「啓ちゃん、飛行機に乗るだけやなくて、もっと色々したいんやね」
「……たぶん、そういうこと」
「なら、兵学校でええんやない?」
「簡単に言うなよ。まず受からないと」
「受かりよ」
「だから簡単に言うなって」
「頑張ったらええやん」
「ああ」
「うちも応援する」
その声がいつもより少しだけ静かだったので、啓介は奈々の顔を見た。
「どうした?」
「何が?」
「いや……」
最近、奈々は時々こんな顔をする。
何かを言いかけて、そのまま飲み込んでしまうような顔だ。
理由はまだ分からない。
「何でもないならいいけど」
「うん」
奈々はそう答えると、空になった器を受け取った。
「ほら。仕事戻り」
「持ってきた本人が追い出すのか」
「休憩終わり」
「厳しいな」
「兵学校行くんやろ?」
「それとこれとは関係ないだろ」
「ある」
「どこが?」
「知らん」
「何だよそれ」
奈々は楽しそうに笑った。
◇
夏の終わりになると、村にもまとまった雨が何度か降った。
水路には少しずつ流れが戻り、危ぶまれていた田も、大きく傷まずに済んだ。秋の収穫は例年より少なかったものの、村全体が困窮するような事態にはならなかった。
「まあ、こんだけ取れりゃええ」
刈り取った稲を眺めながら、重吉が言った。
「一時はどうなるかと思うたが」
「うん」
啓介も頷いた。
水路を直したのも、田を守ったのも村の大人たちだった。啓介がしたのは、ほんの少し早く声を上げただけだ。
それでも、その少しが無駄ではなかったことくらいは分かった。
「啓介」
「何?」
「手ぇ止まっとるぞ」
「……はい」
重吉に言われ、啓介は慌てて稲束を持ち直した。
◇
秋が深まるにつれて、啓介が机へ向かう時間は少しずつ長くなった。
兵学校を目指すと決めたからといって、すぐに受験できるわけではない。そこへたどり着くために、まず必要な学力を身につけなければならず、これから先の進学についても、教師や両親と相談を続けている。
数学や英語、国語、漢文、歴史、地理。
二〇〇五年の高校生だった頃に見覚えのある内容も少なくないが、一度習ったことがあるのと、この時代の試験で答案を書けることはまるで別だった。
特に英語は、思っていたほど楽ではない。
「……こんな文だったっけ」
辞書と参考書を見比べながら眉を寄せる。
現代で習った英語が、そのまま通用するわけではないし、漢文も意味が取れることと、試験で求められる形へ答えを整えることでは勝手が違う。
「甘くないな……」
小さく呟き、もう一度本へ目を落とした。
しばらくして、庭先に人の気配がした。
顔を上げると、縁側の端に奈々が座っている。
「……いつからいた?」
「ちょっと前」
「呼べよ」
「勉強しよったやん」
「だからって黙ってることないだろ」
奈々の膝には、小さな風呂敷包みが載っていた。
「それ何?」
「母さまが持って行けって」
「食べ物?」
「うん」
「じゃあ置いてけ」
「現金やねえ」
「腹減ったんだから仕方ないだろ」
奈々が笑う。
「食べる?」
「ちょうど休みたかった」
「ほんまに?」
「ああ」
啓介が本を閉じようとすると、奈々は首を振った。
「別にええよ」
「何が?」
「切りのええところまでやったら」
「でも奈々、待つことになるぞ」
「ええよ」
あまりにもあっさりした返事だった。
「いつ終わるか分からないぞ」
すると奈々は、庭の方へ視線を向けたまま答えた。
「ほんなら終わるまでおる」
「退屈だろ」
「別に」
啓介はしばらくその横顔を見ていた。
「……変なの」
「啓ちゃんにだけは言われたない」
「何でだよ」
「いいから、勉強し」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
苦笑しながら本を開くと、奈々はそれ以上何も言わなかった。
紙をめくる音と鉛筆の走る音の向こうで、庭の虫が鳴いている。奈々は時々庭を眺めては、思い出したように啓介の手元へ目を向けるだけで、退屈そうにするでもなく、帰ろうともしなかった。
啓介も次第にその存在を気にしなくなり、再び問題へ集中した。
やがて最後の一行を書き終え、本を閉じる。
「……終わった」
すると、すぐ隣から声が返ってきた。
「終わった?」
「ああ」
奈々は待っていたと言わんばかりに立ち上がり、膝の上の風呂敷を持った。
「ほんなら食べよ」
「待たせたな」
「別に」
「退屈じゃなかった?」
「全然」
「ほんとか?」
「ほんま」
奈々は笑った。
啓介も縁側へ出る。
二人で並んで風呂敷を開く頃には、秋の日はもう西へ傾き始めていた。




