第十二話 試験
昭和八年の秋、越智啓介は十五歳になっていた。
兵学校を目指すと決めてからというもの、机に向かう時間はそれまで以上に長くなった。教師の助けを借りながら必要な学力を身につけ、受験の準備を進めてきたが、勉強すればするほど兵学校の壁の高さも見えてきた。
「……また違う」
放課後の教室で、啓介は返された答案を見ながら鉛筆の尻で頭を掻いた。
英作文だった。
書きたい内容そのものは分かっているし、使いたい単語もだいたい頭に浮かぶ。それなのに、いざ正しい英文として書こうとすると細かなところで間違える。
「英語は前にも習ったことあるし、もう少し楽だと思ってたんだけどな……」
「何をぶつぶつ言うとる」
向かいに座っていた教師が顔を上げた。
「独り言です」
「お前は昔から独り言が多いの」
「奈々にも言われます」
「ほうか」
教師は答案を受け取ると、赤鉛筆を走らせた。
「英文が読めることと、自分で正しく書くことは別じゃ。ここも、こっちも違う」
「……結構ありますね」
「漢文も同じじゃろ」
「そこは言わないでください」
「痛いところか」
「かなり」
意味を取るだけなら、それほど苦労しない。二〇〇五年で高校一年まで過ごした記憶は確かに役立つ。数学でも理科でも、一度習った考え方に見覚えがあることは多い。
だが、それだけで兵学校の試験に通用するわけではなかった。
「越智」
「はい」
「兵学校には、お前より頭のええ者が全国から受けに来ると思え」
「分かってます」
「ほんまか?」
「先生、最近そればっかりですね」
「怖がっとるくらいでちょうどええ」
教師は赤い印の入った答案を啓介へ返した。
「ここ。もう一度やれ」
「はい」
啓介はため息をつきながらも、もう一度鉛筆を取った。
未来から来たからといって、昔の試験が簡単になるわけではない。知らないことはいくらでもあり、間違えれば直すしかない。それでも分からなければ、教師に聞く。
結局、できることはそれだけだった。
◇
試験の日が近づくにつれて、越智家の空気も少しずつ落ち着かなくなった。
中でもトヨは、何かにつけて啓介へ食べさせようとするようになった。
「もう一杯食べる?」
「いらない」
「遠慮せんでもええよ」
「自分の家で何を遠慮するんだよ」
「身体も見られるんやろ?」
「見られるけど、今から飯を増やして身長が伸びるわけじゃないから」
「分からんやろ」
「分かるよ」
「食べんよりはええ」
その横で、重吉は何も言わず味噌汁を飲んでいる。
「父ちゃんも何か言ってよ」
「食える時に食っとけ」
「そっち側か……」
トヨが満足そうに頷いた。
「ほら」
「ほらじゃないって」
啓介は苦笑しながらも、結局もう少しだけ飯をよそった。
二人が心配していることくらいは分かっていた。
息子が海軍兵学校を目指すなど、越智家にとっては決して軽い話ではない。勉強を続けるにも金が掛かるし、その時間だけ畑の働き手も一人減る。それでも重吉もトヨも、一度として「もうやめろ」とは言わなかった。
そのことが、啓介にはありがたかった。
◇
出発の朝は、まだ日の低いうちから家の中が慌ただしかった。
啓介が荷物をまとめる横で、トヨは何度目か分からない確認を続けている。
「手拭いは?」
「入れた」
「着替え」
「ある」
「受験票」
「持ってる」
「見せて」
「さっき見せたよ」
「もう一回」
「母ちゃん、これで四回目」
「失くしたら試験受けられんやろ」
「失くさないって」
「お金は?」
「ある」
「弁当は?」
「持った」
「梅干し――」
「入ってる!」
戸口から重吉の声が飛んだ。
「そろそろ出さんと遅れるぞ」
「分かっとるよ」
そう言いながらも、トヨはまだ啓介の襟元を直している。
「母ちゃん」
「何」
「大丈夫だから」
「あんたの大丈夫は昔から信用できん」
「十五になってもまだ言われるの?」
「幾つになっても言うよ」
啓介は笑い、ようやく荷物を持ち上げた。
「じゃあ、行ってきます」
玄関を出ようとしたところで、重吉が呼び止める。
「啓介」
「ん?」
振り返ると、父はしばらく黙って息子の顔を見ていた。
もともと、こういう時に長い言葉を口にする人ではない。
「……受からなんでも、帰ってこい」
啓介は一瞬、父の顔を見返した。
「何それ」
「兵学校は難しいんじゃろ」
「うん」
「落ちたからいうて、帰れんようになるわけやない」
「そりゃそうだけど」
「じゃが」
重吉は少しだけ表情を緩めた。
「受けるからには、出せるもん全部出してこい」
啓介も笑った。
「結局、どっちなんだよ」
「知らん」
「父ちゃんらしいな」
「早う行け」
「ああ」
啓介は重吉とトヨへ改めて頭を下げた。
「行ってきます」
◇
家を出てしばらく歩くと、道の先に人影が見えた。
奈々だった。
「おはよう」
「……おはよう」
近づいてみると、少し眠そうに目を擦っている。
「眠そうだな」
「早かったんやもん」
「寝てればよかったのに」
「見送りしたかったんよ」
「こんな朝から?」
「ええやん」
三年前より背も伸び、顔立ちも少しずつ大人びてきたが、こうして眠そうにしている姿を見ると、昔とあまり変わらない。
「今日からなん?」
「うん。向こうへ行って、それから検査と試験」
「何日も?」
「何日か掛かるみたい」
「大変やね」
「今さら、ちょっと怖くなってきた」
半分は冗談のつもりだった。
だが、奈々は笑わなかった。
「怖いん?」
「そりゃ怖いよ」
「啓ちゃんでも?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「何でも平気な人」
「そんなわけないだろ」
奈々は少し意外そうな顔をした。
「落ちるかもしれないし、身体で駄目って言われたら、勉強した分まで見てもらえないからな」
「身体?」
「目とか耳とか、いろいろ」
奈々は啓介を上から下まで眺めた。
「……大丈夫やろ」
「何を根拠に」
「頑丈やけん」
「農具みたいに言うなよ」
「あははっ」
ようやく奈々が笑った。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
「啓ちゃん」
「ん?」
「受かりたいんよね」
「ああ」
「ほんまに?」
「うん」
そこだけは、もう迷わなかった。
奈々は静かに頷いた。
「ほんなら、頑張ってきて」
「ああ」
少し間を置いてから、奈々がもう一度口を開く。
「……ちゃんと帰ってきてな」
「試験だぞ?」
「知っとる」
「戦争へ行くんじゃないんだから」
「知っとるよ」
「なら――」
「言いたかっただけ」
少しむっとした顔で言われ、啓介は口を閉じた。
なぜそんなことを言うのか、まだよく分からない。
「分かった。帰ってくる」
「うん」
奈々がようやく笑った。
「いってらっしゃい、啓ちゃん」
「行ってきます」
◇
指定された試験場には、朝から大勢の少年たちが集まっていた。
見たことのない学校の制服がいくつもあり、一人で来ている者もいれば、父親に付き添われている者もいる。受付を待つ間も参考書を開いている者や、目を閉じて何かを頭の中で繰り返している者もいた。
啓介はその光景を眺めながら、乾いた喉を一度鳴らした。
「……多いな」
ここにいる者は皆、本気で兵学校を目指してきた少年たちなのだ。
自分より頭のいい人間など、いくらでもいるだろう。
「越智啓介!」
「はい!」
名前を呼ばれ、反射的に姿勢を正す。
海軍の制服を着た係員が、啓介の差し出した書類へ目を落とした。
「受験票を」
「はい」
ここでは家の事情も、村でどう暮らしてきたかも関係ない。
見られるのは、自分自身だった。
◇
最初に啓介を本気で緊張させたのは、学科試験ではなかった。
身体検査だった。
身長と体重を測られ、胸囲を見られ、歯や聴力、手足の状態まで順に確認されていく。その中でも、順番を待つ啓介の手のひらにじっとりと汗を滲ませたのは視力検査だった。
勉強なら、間違えればやり直せる。
知らなければ覚えることもできる。
しかし、自分の目が基準に届いているかどうかを、今この場で努力して変えることはできない。
「次、越智」
「はい」
指示された位置へ立ち、片方の目を覆う。
「これは」
「右です」
「次」
「上」
「これは」
「左です」
答えるたびに、自分の心臓の音ばかりが妙に大きく聞こえた。
「反対」
「はい」
もう片方の目でも同じことを繰り返す。
試験官は手元の紙へ何かを書き込んだあと、特に表情を変えることもなく顔を上げた。
「よし。次へ」
「……はい!」
思わず声が大きくなった。
試験官が怪訝そうに啓介を見る。
「何じゃ」
「いえ!」
「早う行け」
「はい!」
廊下へ出てから、ようやく大きく息を吐いた。
まだ何も決まってはいない。
それでも、胸につかえていたものが一つだけ取れた気がした。
◇
学術試験は数日にわたった。
試験場では紙をめくる音と鉛筆を走らせる音が絶えず続き、窓の外から入ってくる秋の風にも、受験生たちはほとんど顔を上げなかった。
数学の問題を開いた時、啓介はまず深く息を吐いた。
見覚えのある考え方は多い。
だからこそ、油断しないようにした。
一問解けば計算を確かめ、答えが出ても問題文をもう一度読む。二〇〇五年の記憶のおかげで理解できるものもあれば、この数年で学び直したからこそ解けるものもあったが、最近では、その二つをいちいち分けて考えることも少なくなっていた。
今ここで答案を書いているのは、どちらの記憶も持った自分なのだから。
予想していた通り、英語には苦しめられた。
英文の意味そのものは取れるのに、和訳では日本語として整えなければならず、英作文では曖昧な文法を許してくれない。漢文も同じで、何を言っているのかは分かっていても、問われた形に正確に答えようとすると途端に難しくなる。
知っていることと、分かっていることと、試験で点にできることは同じではない。
歴史では別の意味で慎重になった。
啓介の頭には、昭和八年より後に起こる出来事まで残っている。同じ歴史でも、二〇〇五年に習った説明と、今この時代に教えられているものが完全に同じとは限らない。
問題が何を聞いているのかを読み、必要なことだけを書く。
自分だけが知っている「その後」を、答案へ紛れ込ませない。
未来を知っていることが、少しだけ厄介に思えた。
日を追うごとに、受験生の顔からは余裕がなくなっていった。休憩時間にも参考書を開いている者がいれば、廊下の隅で終わった問題について小声で話している少年たちもいる。
「三問目、どうした?」
「言うな。忘れたい」
「俺もや」
聞こえてきた会話に、啓介は思わず少し笑った。
ここにいるのは、何も怪物ばかりではない。
皆、自分と同じ十五、六歳の少年だ。
ただし、その誰もが本気でこの場所を目指し、ここまで勉強してきた。
そう思うと、かえって気持ちが引き締まった。
最後の答案を提出した時には、鉛筆を握っていた指が少し痛んでいた。
「終わった……」
思わず漏れた声に、近くにいた少年が小さく笑った。
「まだ口頭があるぞ」
「……そうだった」
「俺、それが一番嫌じゃ」
「今、俺も同じ気持ちになった」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
◇
やがて、啓介の順番が来た。
「越智啓介」
「はい」
返事をして部屋へ入ると、数人の海軍士官が机を挟んで座っていた。
学校の教師とは、やはり空気が違う。
「座れ」
「はい」
背筋を伸ばして腰掛ける。
手元の書類へ目を落としていた一人が尋ねた。
「父親の職業は」
「農業です」
「そうか」
それ以上、そのことを問われることはなかった。
別の士官が顔を上げる。
「なぜ兵学校を志願した」
「海軍士官になりたいからです」
「なぜ士官なのだ」
何度も考えてきた問いだった。
それでも、実際に問われると喉が少し乾いた。
「一人でできることには、限りがあると思うからです」
「続けろ」
「私は、航空へ進みたいと思っています」
「飛行機乗りになりたいのか」
「はい。ただ、飛行機だけではなく、その前に海軍全体を学びたいと思いました」
「なぜだ」
啓介は一度息を整えた。
「飛行機だけを知っていても、艦や部隊がどう動くのか分からなければ、うまく使えないと思うからです。整備する人も、燃料や弾を運ぶ人も必要ですし、それも含めて知らなければならないと思っています」
一人の士官が、手元の紙へ何かを書き込んだ。
「将来、航空が重要になると思うのか」
「はい」
「理由は」
ここは慎重に答えなければならない。
「艦より遠くを見ることができます。敵を探すこともできますし、艦より先に攻撃することもできます。ただ、飛行機だけでは戦えませんから、他のものとどう組み合わせるかを学びたいです」
「なるほど」
士官はそれ以上反応を見せず、次の問いへ進んだ。
「士官になれば、部下へ危険な命令を出さねばならぬ時がある」
「はい」
「その命令で、人が死ぬこともある」
「はい」
「怖くないか」
啓介はすぐには答えなかった。
学校へ来た老人の声が、ふと記憶の中から蘇った。
――怖かったよ。
満州の寒さと、砲声と、帰ってこなかった仲間について語った老人は、確かにそう言った。
「……怖いと思います」
一人の士官が顔を上げた。
「それでも士官を志願するのか」
「はい」
「なぜだ」
うまく答えなければと思うほど、用意していた言葉が遠ざかっていく。
しばらく迷った末、啓介は思ったままを口にした。
「……怖くないと思っている人が命令する方が、俺は怖いです」
言ってから、自分の言葉遣いに気づいた。
「失礼しました。私は――」
「よい。続けろ」
「はい」
啓介は膝の上で手を握り、言葉を選んだ。
「危ないことを、危ないと思わなくなるかもしれないからです。任務のために必要なら、危険な命令を出さなければならない時もあると思います。でも、同じことができるなら、一人でも多く帰ってこられる方を選べる士官になりたいです」
部屋は静かなままだった。
感心したように声を上げる者もいない。
一人の士官が、しばらく啓介を見たあとで書類へ何かを書き込んだ。
「分かった」
「はい」
その後も質問は続いた。
学校で何を学んできたか。
集団生活についてどう考えるか。
体力には自信があるか。
海軍へ入ったら何を学びたいか。
答えに詰まるものもあったが、分からないことまで知っているふりだけはしなかった。
やがて士官が書類を閉じる。
「よろしい。下がれ」
「はい。失礼します」
立ち上がって一礼し、戸を閉める。
廊下へ出た途端、啓介は肺の中の空気を一気に吐き出した。
「……終わった」
今度こそ、本当に終わった。
◇
帰り道では、不思議なほど頭が空っぽだった。
数学のあの問題は合っていたのか。英作文は、最後に直した方で本当によかったのか。口頭試問で思わず「俺」と言ってしまったのは、やはりまずかったのではないか。
考え始めれば、いくらでも出てくる。
しばらくは一つずつ思い返していた啓介も、やがてどうにもならないことに気づいて諦めた。
「……もう知らん」
車窓の外には、秋の田畑が流れていた。
ほんの数年前まで、海軍兵学校など自分の人生とは何の関係もない場所だった。二〇〇五年の片瀬慶介にとっては、歴史の中に出てくる学校の一つにすぎなかった。
それが今では、自分が本気で入りたい場所になっている。
奇妙な話だと思う。
けれど、嘘ではなかった。
◇
村へ戻る頃には、日は西へ傾いていた。
家へ続く道を歩いていると、少し先に人影が見えた。
奈々だった。
「……何してるん?」
声を掛けると、奈々が振り返った。
「待っとった」
「いつから?」
「ちょっと前」
「ほんとか?」
「ほんま」
「どうやった?」
「分からない」
「手応えは?」
「それも分からない」
「何も分からんやん」
「試験なんて、そんなもんだろ」
「身体は?」
「そこは通った」
奈々が得意そうに笑った。
「ほら。頑丈やった」
「そこ、自慢していいのかな」
「ええやん」
啓介もつられて笑った。
「疲れた?」
「かなり」
「なら、帰ろ」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
夕方の風は、出発した朝より少し冷たく感じられた。何日か村を離れていただけなのに、見慣れた田畑も、遠くの山も、妙に懐かしく見える。
しばらく歩いたところで、奈々が口を開いた。
「啓ちゃん」
「何?」
「おかえり」
啓介は一瞬だけ足を緩めた。
「……ただいま」
奈々が笑った。
二人はそのまま、夕暮れの道を並んで歩いた。




