第十三話 親
試験を終えてからというもの、啓介は郵便屋の姿に妙に敏感になっていた。
学校へ通い、帰れば畑を手伝い、夜は本を読む。暮らしそのものは試験前と大して変わらないはずなのに、家の前を自転車が通れば思わず耳を澄ませ、学校にいる間も、ふとした拍子に試験のことが頭へ浮かんだ。
数学のあの問題は、おそらく合っている。英作文は最後に書き直した方でよかったのか、漢文には一つどうしても自信の持てないところがあったし、口頭試問では「怖くないと思っている人が命令する方が怖い」などと答えてしまった。
「……あれ、余計だったかな」
何度思い返してみても、今さら答えが出るはずはない。一九四五年に何が起きるのかは知っているのに、ほんの数週間先の自分がどうなっているのかさえ分からないというのは、考えてみれば妙な話だった。
◇
冬の気配が少しずつ濃くなり始めた、ある日のことだった。
授業は数学で、教師が黒板へ問題を書き、生徒たちはそれぞれ帳面へ式を立てていた。啓介も一問を解き終え、念のため計算を確かめていたところへ、廊下から近づいてきた足音が教室の前で止まった。
戸が開く。
「失礼する」
入ってきた人物を見て、生徒たちが一斉に姿勢を正した。校長だった。それだけでも珍しいのに、その後ろには教頭まで立っている。
数学教師も驚いたように振り返った。
「校長先生、どうされましたか」
「授業中にすまんな」
校長はそう答えると、手にしていた一枚の書面へ目を落とし、それから教室を見渡した。
「越智啓介」
「……はい」
胸の奥が大きく跳ねた。
啓介は立ち上がった。
「前へ」
「はい」
席を離れ、教壇の前まで歩く。ほんの数歩しかないはずなのに、妙に長く感じられた。
校長はもう一度書面を確かめてから啓介を見る。その口元が、わずかに緩んでいた。
「越智」
「はい」
「海軍兵学校生徒採用試験――」
一度言葉を切る。
「合格じゃ」
「…………」
啓介は動けなかった。
教室まで静まり返っている。
「……え?」
ようやく出た声は、自分でも情けないほど小さかった。
校長が笑った。
「聞こえなんだか」
「いえ……」
「海軍兵学校に合格した。来春、江田島へ入ることになる」
その言葉の意味が、少し遅れて胸の中へ落ちてきた。
受かった。
兵学校に。
自分が。
「……本当に、ですか」
「校長がこんなことで冗談を言うと思うか」
教室のどこかで、堪えきれないような笑いが漏れた。それをきっかけに静寂が崩れ、誰かが「越智、やったな!」と声を上げると、すぐに拍手が教室中へ広がった。
「おめでとう!」
「大したもんじゃ!」
「兵学校やぞ!」
教師が手を叩きながら「静粛に。まだ授業中じゃ」と言ったが、その顔にもはっきり笑みが浮かんでいた。生徒たちは声を抑えながらも、なかなか拍手をやめようとはしない。
啓介は教壇の前に立ったまま、周囲を見回した。
黒板も、木の机も、見慣れた同級生たちの顔も、昨日までと何も変わっていない。それなのに、急にすべてが違って見えた。
本当に行くのだ。
江田島へ。
歴史の中にしか存在しなかったはずの、あの海軍兵学校へ。
「越智」
校長に呼ばれ、我に返る。
「はい」
「まだ合格しただけじゃぞ。これで士官になったわけでも、偉くなったわけでもない。むしろ、これからの方が大変じゃ」
「はい」
校長は書面を啓介へ差し出した。
受け取る手が、わずかに震えている。
「よう勉強したな」
「……ありがとうございます」
「先生方にも礼を言いなさい」
「はい」
「それから、まずご両親へ知らせてきなさい」
「今からですか?」
「今日はもう帰ってよろしい」
啓介は思わず数学教師を見たが、教師も頷いていた。
「行ってこい」
「でも、授業が……」
「今日くらいは構わん」
「先生がそんなこと言うの、珍しいですね」
「気が変わらんうちに行け」
教室から小さな笑いが起きた。
校長も少し笑ったあと、改めて啓介を見る。
「越智」
「はい」
「ここまで一人で来たと思うなよ。ご両親が働いて、お前を学ばせてくださった。先生方も、お前が受けると言うたから力を貸した。そのことは、江田島へ行っても忘れるな」
啓介は手の中の合格通知へ目を落とした。
畑から戻った重吉の泥に汚れた手や、遅くまで勉強している時にも何も言わず灯りを置いてくれたトヨの姿が、次々と頭に浮かんだ。放課後まで残って答案を直してくれた教師の顔も思い出す。
自分一人で、ここまで来たわけではない。
「……はい。忘れません」
「よし」
校長はそれ以上何も言わなかった。
◇
教室へ戻ると、今度は声を抑えながら、あちこちから祝福された。
「越智、おめでとう」
「江田島行っても忘れんなよ」
「偉くなったら軍艦乗せてくれ」
「勝手に乗せられるか」
思わず返すと、周囲から笑いが起きた。
「ほら、もう行け」
教師に促され、啓介は鞄を持った。
「先生」
「何じゃ」
「ありがとうございました」
頭を下げると、教師は一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「礼は江田島で落第せんかったら聞いてやる」
「厳しいなあ」
「当たり前じゃ」
そう言う顔は、やはり嬉しそうだった。
啓介はもう一度頭を下げて教室を出た。
学校の門を出た時にはまだ歩いていたが、手にした合格通知へ目をやるたびに足は少しずつ速くなり、気がつけば走っていた。
一刻も早く、二人へ知らせたかった。
◇
「母ちゃん!」
門をくぐり、そのまま庭へ飛び込むと、洗濯物を取り込んでいたトヨが驚いて振り返った。
「何ね! 何で学校から帰っとるん!」
「母ちゃん、聞いて!」
「忘れ物?」
「違う!」
「また何かしたん?」
「してないよ!」
「ほんなら何!」
走ってきた息を整えようとしたが、うまくいかない。
啓介は結局、そのまま言った。
「受かった!」
「何が?」
「兵学校!」
「…………」
「海軍兵学校、受かった!」
トヨは洗濯物を抱えたまま固まり、啓介の顔と手にした通知を何度も見比べた。
「……ほんま?」
「ほんと」
「ほんまに?」
「うん」
「嘘やない?」
「こんな嘘ついてどうするんだよ」
しばらく動かなかったトヨの目が、次第に大きくなっていく。
「ええええええっ!?」
あまりの声に、啓介は思わず耳を塞いだ。
「声でかっ!」
「父ちゃん!」
トヨは抱えていた洗濯物をその場へ置くと、もう畑の方へ走り出している。
「父ちゃーん!」
「母ちゃん、待って!」
「畑!」
「分かってる!」
「……速っ」
啓介も慌てて後を追った。
◇
重吉は畑にいた。
鍬を持ち、冬へ向けて土を起こしていたところへ、遠くからトヨの声が響く。
「父ちゃん!」
重吉が顔を上げた。
「何じゃ、騒々しい」
「啓介が!」
「また何ぞしたんか」
「だからしてないって!」
後から追いついた啓介が、息を整えながら父の前へ立った。
「父ちゃん」
「何じゃ」
「受かった」
「何に」
「兵学校」
重吉の鍬が止まった。
「…………」
「海軍兵学校」
今度はゆっくり言う。
「受かったよ」
重吉はすぐには何も言わず、鍬を持ったまま息子の顔を見つめていた。
やがて、ようやく口を開く。
「……そうか」
あまりにも父らしい返事で、啓介は少し笑いそうになった。
だが、重吉は鍬を地面へ置くと、ゆっくりこちらへ歩いてきた。土に汚れた両手が、啓介の肩へ置かれる。
「ほんまなんか」
「うん」
「江田島へ行けるんか」
「春から」
「……そうか」
肩に置かれた手へ、少し力が入った。
「ほんまに……受かったんか」
「うん」
「そうか」
今度の声は、少し掠れていた。
「父ちゃん?」
「見るな」
「え?」
「こっち見るな」
重吉は顔を横へ向けたが、もう見えてしまっていた。
目元に涙が浮かんでいる。
「父ちゃん」
「見るな言うとるじゃろ」
重吉は乱暴に袖で顔を拭った。
「別に、泣いてもいいだろ」
「良うない」
「何で」
「知らん」
啓介が少し笑うと、重吉も困ったように口元を歪めた。
そして、もう一度息子の肩を叩いた。
「ようやったのう、啓介」
「……うん」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
「父ちゃん」
「何じゃ」
「ありがとう」
重吉が眉を寄せる。
「何が」
「学校、行かせてくれて」
「…………」
「母ちゃんも」
振り返ると、トヨはもう目元を押さえていた。
「何ね。急にそんなこと言うて」
「校長先生に、ちゃんと礼を言えって言われた」
「校長先生が言わんかったら言わんかったん?」
「そういう意味じゃないって」
「なら今言わんでもええやろ」
そう言いながら、トヨは何度も目元を拭っている。
「ほんまに……あんたが兵学校なんて」
「そんなに意外?」
「昔のあんた知っとったらねえ」
「今その話する?」
「宿題せんし」
「母ちゃんまでまだ言うの?」
重吉が低く笑った。
その声につられ、啓介も笑う。
三人とも目元を赤くしながら、しばらく畑の中で笑っていた。
◇
その日の午後には、合格の話はもう村中へ広がっていた。
どこから伝わったのか考えるだけ無駄だった。
「啓介くん、おめでとう!」
「兵学校じゃて?」
「大したもんじゃ!」
「越智さんとこの啓介がのう」
「春から江田島か!」
「士官さんになるんじゃな!」
「まだなってません!」
「そのうちなるんじゃろ!」
「受かってからも大変なんですって!」
いくら説明しても、皆あまり聞いてくれない。啓介は祝いに来る人たちへ何度も頭を下げ、同じことを聞かれては同じ返事を繰り返した。
重吉は普段以上に口数が少なく、逆にトヨは来る人ごとに昔話を始める。
「この子がねえ、昔は夏休みの最後まで宿題を――」
「母ちゃん、それだけは言わなくていいから!」
どっと笑いが起きた。
午後の越智家は、普段の静けさが嘘のように賑やかだった。
◇
日が傾き始めた頃だった。
「啓ちゃーん!」
庭の向こうから聞き慣れた声が響き、啓介は振り返った。
「奈々?」
玄関へ出ると、女学校の制服姿の奈々が門のところに立っていた。よほど急いできたらしく、肩で息をしている。
「何で走ってきたんだよ」
「聞いた!」
「何を」
「受かったんやろ!」
「もう知ってるの?」
「学校で聞いた!」
「奈々の学校まで?」
「先生が知っとった!」
「……この辺の情報どうなってるんだよ」
「そんなことどうでもええ!」
「よくないと思うけど」
奈々は啓介の前まで来ると、そこで急に口を閉じた。
「……奈々?」
「…………」
「どうした?」
俯いたまま、奈々が小さく尋ねる。
「本当に受かったん?」
「ああ」
「兵学校」
「うん」
「江田島」
「春から」
「…………」
制服の裾を掴んでいる指に、ぎゅっと力が入った。
「奈々?」
「……何でもない」
「またそれ?」
「何でもないんよ」
奈々はそう言って顔を上げたが、その目は少しだけ潤んでいた。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「いや――」
「泣いてない!」
「分かったよ」
啓介がそれ以上言わずにいると、奈々は一度深く息を吸い、少し時間をかけて笑った。
「啓ちゃん」
「ん?」
「合格、おめでとう」
「……ありがとう」
声はいつもの奈々だった。
ただ、ほんの少しだけ震えている。
庭の向こうでは、まだ祝いに来た大人たちの声が聞こえていた。
しばらくして、奈々が小さく尋ねる。
「ほんまに行くんやね」
「ああ」
「春になったら?」
「うん」
「……そっか」
奈々の視線が地面へ落ちた。
「まだ何か月かあるよ」
「分かっとる」
「明日行くわけじゃないし」
「それも分かっとる」
「なら――」
奈々が顔を上げた。
「分かっとっても、思うことくらいあるんよ」
啓介は口を閉じた。
「……まあ、いいけど」
「よくない」
「どっちだよ」
奈々が小さく笑った。
少しだけ、いつもの奈々に戻る。
それでも、もう一度啓介を見ると、静かに言った。
「……よかった」
啓介は何も言わず、笑った。
奈々も笑い返した。
ただ、制服の裾を握っていた指だけは、なかなかほどけなかった。




