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第十四話 雪の約束

 年が明け、昭和九年になった。


 一月の終わりに十六歳を迎えた啓介にとって、江田島へ向かう日は、もう遠い先の話ではなかった。海軍兵学校への入校まで、あと二か月ほど。学校へ通いながら手続きや準備を進めるうち、日は思っていた以上の速さで過ぎていった。


 重吉は何も言わず畑仕事を少し減らしてくれたが、トヨは反対に、日が近づくほど心配事を増やしている。


「手拭い、もう一枚あった方がええんやない?」


「決められた分でいいって」


「寒かったら?」


「服はあるよ」


「腹減ったら?」


「飯は出る」


「足りんかったら?」


「兵学校で俺だけ飢えさせるわけないだろ」


「分からんやろ」


「何でだよ」


 トヨは冗談ではなく本気だった。


「風邪引いたら?」


「医者くらいいるよ」


「ほんまに?」


「海軍兵学校だよ?」


 横で味噌汁を飲んでいた重吉が、小さく笑った。


「父ちゃんも何とか言ってよ」


「諦めろ」


「そっち?」


「母親いうんは、そういうもんじゃ」


「あなたは心配やないん?」


 今度はトヨの矛先が重吉へ向いた。


「心配したところで、江田島まで付いてはいけん」


「そりゃそうやけど」


「啓介も十六じゃ」


「まだ十六よ」


「さっきまで十五やったんじゃけん、大して変わらん」


「父ちゃんまで何言ってるんだよ」


 重吉がまた笑った。


 啓介もつられて笑ったが、ふと、こんなやり取りをあと何度できるのだろうと思った。


 この家を出る。


 二〇〇五年の記憶を取り戻してからは、まだ五年も経っていない。それでも今では、片瀬慶介としての記憶と、それ以前からここで育った越智啓介の記憶を、わざわざ分けて考えることも少なくなっていた。朝目を覚ませば見える梁も、畑から戻った重吉が土を落とす音も、時々少し濃くなるトヨの味噌汁も、どれも自分の日常として身体に馴染んでいる。


 春になれば、その日常を置いて村を出る。


 そして、奈々とも今までのようには会えなくなる。


 そのことを思うと、胸のどこかに小さなものが引っ掛かった。


     ◇


 二月に入った、ある朝だった。


 目を覚ました啓介は、障子の向こうが妙に明るいことに気づいた。布団から出て障子を開けると、庭一面が白くなっている。


「……雪だ」


 深く積もっているわけではない。それでも屋根や畑、木々の枝には白い雪が残り、見慣れた村をすっかり別の景色に変えていた。


 愛媛の平地では珍しい光景だった。


 縁側へ出ると、冷たい空気が頬を刺し、吐く息が白くなる。


「珍しいねえ」


 後ろからトヨも出てきた。


「そうだな」


「あんたが小さい頃にも降ったことはあったけど、こんなに白うなったんは久しぶりやね」


「覚えてないな」


「そりゃ小さかったけん」


 重吉も庭を覗き込んだ。


「今日は外の仕事は大してできんな」


「じゃあ休み?」


「お前は休んでもええ」


「珍しい」


「その代わり、滑って怪我するなよ」


「十六だよ?」


「十六が滑らんのか」


「そういう意味じゃなくて」


「もうすぐ海軍行くけんいうて、急に大人になった気になるな」


「……それは確かに」


「分かればええ」


 重吉は満足そうに頷いた。


「何か腹立つな」


「ほんなら滑ってこい」


「何でそうなるんだよ」


 トヨが笑った。


     ◇


 昼を過ぎても、日陰の雪はまだ残っていた。


 啓介は清一郎から借りていた本を返すため、村上家へ向かった。歩くたびに足元で雪が小さく鳴り、いつもの田畑も今日は白い。春になれば、この道を歩くことも少なくなるのだろうと思いながら、見慣れた景色を眺めているうちに村上家へ着いた。


 門をくぐり、声を掛けようとしたところで、庭から奈々の声が飛んできた。


「啓ちゃん!」


「奈々?」


 庭の隅にしゃがみ込み、手の中で雪を丸めている。


「何してるんだ?」


「雪」


「それは見れば分かる」


「ほら」


 奈々が白い玉を見せた。


「……投げるなよ」


「なんで分かったん?」


「顔」


「どんな顔よ」


「今から投げますって顔」


「そんな顔してないもん」


「してる」


「してない」


「絶対――」


 雪玉が飛んできた。


「冷たっ!」


 肩に当たって砕けると、奈々が声を上げて笑った。


「あはは!」


「お前な!」


 啓介も足元の雪を掴んだ。


「待て!」


「嫌や!」


「自分からやっといて逃げるな!」


「当たらんもん!」


「言ったな!」


 奈々が走り、啓介も追う。


 十六歳になったことも、春には江田島へ行くことも、その間だけは忘れていた。子供の頃と同じように庭を駆け、互いに雪を投げ合う。


「待て、奈々!」


「嫌やって!」


「なら止まれ!」


「何それ!」


 笑いながら振り返った奈々の足が滑った。


「きゃっ!」


「奈々!」


 啓介は慌てて駆け寄った。


「大丈夫?」


「……痛い」


「だから滑るって」


「啓ちゃんが追いかけるけん!」


「先に投げたの奈々だろ」


「それはそれ」


「無茶苦茶だな」


 呆れながら手を差し出す。


「ほら」


 奈々がその手を掴み、啓介は身体を引き起こした。


 立ち上がっても、奈々の手はまだ啓介の手の中に残っていた。


 川へ行けば手を引き、走れば袖を掴まれた。盆祭りの夜には、背負って家まで送ったことさえある。そんなことは、これまで何度もあったはずだった。


 それでも、今は互いに何も言わない。


 ほんのわずかな間のあと、奈々が先に手を離した。


「……本、返しに来たんやろ?」


「あ、ああ」


「父さま、中におるよ」


「うん」


 奈々は先に歩き出した。


 耳が少し赤い。


 寒さのせいなのか、それ以外なのか、啓介には分からなかった。


     ◇


 清一郎へ本を返し、しばらく話をしてから、啓介は腰を上げた。


「じゃあ、そろそろ帰ります」


「ああ。足元に気をつけなさい」


「はい」


「入校まで、もうすぐじゃの」


「はい」


「身体壊さんようにな」


「ありがとうございます」


 玄関へ向かうと、奈々がついてきた。


「送る」


「いや、いいよ」


「なんで?」


「外寒いし」


「啓ちゃんは帰るんやろ?」


「俺は帰らないと家に着かないだろ」


「なら、うちも途中まで」


「理屈になってないぞ」


「ええんよ」


「雪残ってるし」


「さっき走り回っとったやん」


「転んだだろ」


「……もう転ばん」


「信用できない」


「うるさい」


 結局、二人で歩くことになった。


 雪はもう止んでいる。厚い雲にも切れ目ができ、傾き始めた日の光が、白い田を薄く照らしていた。


 何百回と並んで歩いた、いつもの道だった。


 なのに、その日はやけに静かだった。


「……もうすぐやね」


 奈々が言った。


「何が?」


「兵学校」


「ああ」


「春になったら行くんやろ」


「うん」


「江田島」


「そう」


「遠いね」


「海の向こうっていっても、瀬戸内だぞ」


「そういうことやない」


「……分かってる」


 それから少しの間、二人の足音だけが雪の残る道に続いた。


「啓ちゃん」


「ん?」


「兵学校行ったら、忙しいん?」


「たぶん」


「手紙は?」


「書くよ」


「忘れん?」


「忘れないって」


「士官さんになっても?」


 啓介は奈々を見る。


「まだ何年も先だよ」


「なったらの話」


「忘れないよ」


 奈々は、それでも前を向いたままだった。


「だって、啓ちゃんは兵学校へ行くやろ」


「ああ」


「そしたら海軍入って、いろんなところへ行って……いろんな人に会うやろ」


「まあ、そうだろうな」


「うちは……」


 そこで言葉が止まった。


「うちは、ずっとここにおるかもしれん」


「…………」


「今みたいに、毎日会えんようになる」


 奈々の足が止まり、啓介も立ち止まった。


「啓ちゃんが受かったん、嬉しいんよ」


「うん」


「ほんまに嬉しい」


「分かってるよ」


「でも」


 奈々は少し俯いた。雪の上に、二人の影が長く伸びている。


「……寂しい」


 小さな声だった。


 けれど、啓介にははっきり聞こえた。


 何か答えなければと思ったのに、すぐには言葉が出てこなかった。兵学校へ行きたいという気持ちは変わらないし、村を出ることも自分で選んだ。それでも、だからといって離れることまで平気なわけではない。


「俺もだよ」


 奈々が顔を上げた。


「え?」


「俺も寂しい」


「……啓ちゃんが?」


「何だよ。俺が寂しがったら変なのか」


「だって、ずっと兵学校行きたそうにしとったけん」


「行きたいよ」


「なら――」


「行きたいのと、寂しいのは別だろ」


 奈々が黙った。


「父ちゃんと母ちゃんとも離れるし」


 啓介は少し笑った。


「奈々とも会えなくなる」


 奈々の目がわずかに大きくなった。


「……うちも?」


「当たり前だろ」


 なぜそこまで驚くのか、啓介にはむしろ不思議だった。


「奈々とは、ずっと一緒にいたんだから」


「…………」


 奈々は俯いた。


 今度は耳まで赤くなっている。


「どうした?」


「何でもない」


「またそれ?」


「今はええんよ」


「何なんだよ」


 啓介は苦笑した。


 兵学校へ進むことをやめるつもりはない。けれど、そのために奈々との間まで遠くなってしまうことは、どうしても嫌だった。


「奈々」


「ん?」


「俺、頑張るよ」


 奈々が首を傾げた。


「兵学校で?」


「ああ」


「それは頑張ってもらわんと困る」


「何で奈々が困るんだ」


「せっかく受かったんやもん」


「そうだけど」


 啓介は笑った。


「ちゃんと勉強して、海軍のことを覚えて、士官になる」


「うん」


「それから……」


 続きが喉につかえた。


 頭には浮かんでいるのに、いざ口にしようとすると急に恥ずかしくなる。


「それから?」


 奈々が待っている。


「……偉くなる」


「偉くなりたいん?」


「ああ。できることを増やしたい」


「うん」


「それで」


 啓介は一度、息を吸った。


「偉くなったら――奈々を迎えに来る」


「…………」


 冷たい風が、雪の残る道を抜けていった。


 奈々は瞬きもせず、啓介を見ている。


「……うちを?」


「ああ」


 しばらく何も言わない。


「奈々?」


「……もう一回言って」


「嫌だよ。恥ずかしい」


「言って」


「聞こえてただろ」


「ちゃんと聞きたいんよ」


 奈々は真剣だった。


 その顔を見ていると、逃げる方がもっと恥ずかしい気がした。


 啓介は頬が熱くなるのを感じながら、もう一度言った。


「……偉くなったら、奈々を迎えに来る」


 奈々の目に、少しずつ涙が溜まった。


「何で泣くんだよ」


「泣いてない」


「いや、泣いてるだろ」


「今は寒さで出るん!」


「無茶苦茶だな」


 奈々は目元を拭い、それから泣きながら笑った。


「ほんなら」


「うん」


「うち、待っとる」


 今度は啓介が黙った。


「……待つの?」


「うん」


「いつになるか分からないぞ」


「ええよ」


「兵学校もあるし、そのあとだって――」


「啓ちゃん」


 奈々が言葉を遮った。


「何?」


「迎えに来るんやろ?」


「ああ」


「なら、待っとる」


 あまりにも迷いなく言うので、啓介はしばらく奈々の顔を見ていた。


「……ありがとう」


「何で啓ちゃんがお礼言うん?」


「知らない」


「変なの」


「奈々に言われたくない」


 二人とも笑った。


 しばらくして、奈々が何かを思いついたように顔を上げた。


「ほんなら」


「何?」


「毎日、お味噌汁作る」


「…………」


「何その顔」


「いや、今のなら大丈夫かなって」


「今のならって何!」


「最初のは不味かっただろ」


「もう上手になった!」


「ほんとに?」


「ほんま!」


「じゃあ、楽しみにしてる」


「毎日作るけん」


「うん」


 奈々が満足そうに笑い、啓介も笑った。


 二人の笑い声が、雪の残る道に静かに響いた。


     ◇


 いつもの分かれ道まで来た。


 右へ進めば越智家。反対へ戻れば村上家へ続く、子供の頃から何度もここで別れてきた場所だった。


「じゃあ、また明日」


「うん」


 奈々は頷いたが、すぐには歩き出さなかった。


「奈々?」


「啓ちゃん」


「何?」


 奈々は少し迷ったあと、啓介を見た。


「さっきの、忘れんといてね」


「忘れないよ」


「……約束やけんね」


 啓介も奈々を見る。


「ああ」


 奈々が笑った。


「うちも忘れん」


「じゃあな」


「うん」


 啓介は自分の家へ向かって歩き始めた。


 数歩進んだところで、背後から声が飛んでくる。


「啓ちゃん!」


 振り返ると、白い道の向こうに奈々が立っていた。


「何?」


「ちゃんと迎えに来てよ!」


 啓介は一瞬だけ目を丸くし、それから大きく手を上げた。


「ああ!」


 奈々も手を振った。


 白い道の上には、さっきまで二人で並んで歩いてきた足跡が、長く残っていた。

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