第十五話 江田島
昭和九年、春。
出発の朝は、思っていたよりも普通だった。目を覚ませばいつもの天井があり、台所からはトヨが朝飯を作る音が聞こえ、庭へ出れば重吉がいつものように空模様を確かめている。何年も繰り返してきた朝と何も変わらず、ただ部屋の隅にまとめられた荷物だけが、今日この家を出るのだと教えていた。
「忘れ物ない?」
朝飯を食べ終わるなり、トヨが聞いた。
「ないよ」
「ほんまに?」
「昨日、一緒に三回確認しただろ」
「夜に何か出したかもしれんやろ」
「出してないって」
「書類は?」
「ある」
「着替えは?」
「ある」
「手拭い――」
「母ちゃん」
「何よ」
「大丈夫」
言った途端、トヨが眉を寄せた。
「その『大丈夫』が一番心配なんよ」
「またそれ?」
「幾つになっても言うって言うたやろ」
「……そうだったな」
啓介が笑うと、トヨも何か言い返そうとしたが、口を開きかけたところで黙り、そのまま味噌汁の椀へ目を落とした。目元が少し赤いことに気づいたが、啓介は何も言わなかった。
「ほら。冷めるけん、ちゃんと食べ」
「うん」
向かいでは、重吉が黙って飯を食べている。いつも口数の多い人ではないが、今朝は普段以上に静かだった。
◇
家を出る時になって、重吉がようやく口を開いた。
「啓介」
「ん?」
「江田島行っても、最初から何でもできると思うなよ」
「分かってる」
「分からんことは聞け。出来んことは、出来るようになるまでやれ」
「ああ」
重吉はそこで一度言葉を切り、息子の顔を見た。
「それから、身体大事にせえ」
啓介は父の顔を見返した。
「父ちゃん」
「何じゃ」
「行ってきます」
重吉は大きく頷いた。
「ああ。行ってこい」
トヨは最後まで荷物を気にしていた。
「あんまり無茶せんのよ。飯、ちゃんと食べるんよ」
「分かった」
「風邪引いたら、ちゃんと診てもらうんよ」
「うん」
「手紙も」
「書くよ」
「ほんまに?」
「書く」
「……ならええ」
ようやくトヨが荷物から手を離した。
啓介は二人へ深く頭を下げた。
「行ってきます」
◇
村を出る道の途中で、奈々が待っていた。
来るだろうと思っていたので、今度は驚かなかった。
「おはよう」
「おはよう」
奈々は笑ったが、いつものようにすぐ何かを言ってくるわけではない。
「……何?」
「別に」
「その顔で別にはないだろ」
「どんな顔よ」
「何か言いたい顔」
「啓ちゃんに言われたない」
奈々は小さく笑った。
その手には、布で包んだ小さなものがあった。
「これ」
「何?」
「持ってって」
差し出された包みを受け取ると、布越しに何か硬いものと、紙のような感触がある。
「開けていい?」
「今は駄目」
「なんで?」
「江田島着いてから」
「……分かった」
「絶対やけんね」
「分かったって」
奈々は包みを見たあと、啓介へ視線を戻した。
「手紙、書いてよ」
「ああ」
「忙しくても」
「書ける時は書くよ」
「忘れんといてね」
「忘れない」
奈々はそれ以上何も言わず、少しだけ俯いた。
やがて顔を上げる。
「……頑張ってな」
「ああ」
「ちゃんと勉強して」
「それはする」
「怒られても逃げたらいかんよ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「昔、畑から逃げた人」
「何年前の話だよ」
「忘れん」
「そこは忘れてくれ」
奈々が笑い、啓介も笑った。ほんの少しだけ、いつもの二人に戻る。
けれど、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
「じゃあ」
「ああ」
奈々は啓介を見た。まだ何か言いたそうにも見えたが、最後にはいつもの声で言った。
「いってらっしゃい、啓ちゃん」
啓介も奈々を見る。
「行ってきます」
そのまま歩き出した。
しばらくして振り返ると、奈々はまだ同じ場所に立っていた。啓介が手を上げると、奈々も手を振る。次に振り返った時には、その姿はもう随分小さくなっていた。
◇
船が江田島へ近づくにつれ、啓介は何度も甲板から前方を見た。
瀬戸内の海は穏やかで、春の日を受けた水面が細かく輝き、その向こうに見えていた島影が少しずつ大きくなっていく。同じ船には啓介と同じくらいの年頃の少年たちが何人も乗っており、皆これから兵学校へ入る者たちだった。
全国から難関を突破してきたのだから、もっと自信に満ちた連中ばかりなのかと思っていた。ところが、誰もが何度も島の方を見ており、話し声もどこか小さい。膝の上に置いた荷物を握り直す者もいる。
その様子を眺めているうち、啓介の肩からも少し力が抜けた。
「……俺だけじゃないか」
海風を受けながら胸元へ手をやると、奈々から渡された包みがあった。まだ開けていない。約束どおり、江田島へ着いてから見るつもりだった。
船の進む先へ目を戻す。
島はもう近い。
「……あれが江田島か」
海軍兵学校。
これから自分が暮らす場所だった。
◇
江田島へ降り立つと、春の風の向こうに桜が揺れ、その先には赤煉瓦の大きな建物が陽を受けていた。制服姿の生徒が出入りし、開いた窓の向こうにも人影が動いている。遠くからは号令まで聞こえ、写真や資料でしか知らなかった場所が、目の前では当たり前のように一日を営んでいた。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
さらに先には大講堂も見える。そこで自分も、これから入校式を迎える。
胸が高鳴る一方で、少しだけ怖さもあった。ここから先は、本を読んで知った海軍ではない。自分がその中へ入り、自分自身で知っていく海軍だ。
「整列!」
鋭い声が飛んだ。
啓介の身体が反射的に動く。
「はい!」
「列を乱すな!」
「はい!」
「前を見ろ!」
「はい!」
隣にいた少年も慌てて位置を直した。先ほどまで桜や赤煉瓦を眺めていた空気は一瞬で消え、少年たちは一斉に姿勢を正した。
「私語をするな。指示をよく聞け!」
「はい!」
返事が重なる。
啓介は前を向きながら、どうやら見物をしている時間はもう終わったらしいと思った。
◇
そこからは、次々に指示が飛んできた。
人員を確認され、書類を提出し、所属する分隊を知らされる。支給された制服や帽子、靴にも扱い方があり、寝台や机はもちろん、それまでなら好きな場所へ置いていたような物にまで、一つずつ決められた位置があった。
「帽子はそこではない」
「はい」
「靴の位置を揃えろ」
「はい」
言われた通りに直す。
「違う」
「……はい」
もう一度直すと、今度は教える側が頷いた。
「そこだ。覚えておけ」
「はい」
たった靴一足でこれだった。
周囲を見れば、他の少年たちも同じように何かしら注意を受けている。兵学校へ合格した時にはあれほど村中から祝われたが、ここへ来れば啓介も、その隣にいる少年も同じ新入生だった。
妙な悔しさはなかった。
むしろ、少し面白かった。
◇
大講堂へ足を踏み入れると、高い天井の下に人々が整然と並び、自分たちの足音さえ普段より大きく響いて聞こえた。
啓介は決められた場所へ立ち、進んでいく式次第を見つめた。目の前で起きていることを少しでも覚えておこうと思っていたが、途中からは姿勢を崩さずにいるだけでも思った以上に神経を使った。
そして式を終えた時、啓介たちは正式に海軍兵学校の生徒となった。
――海軍兵学校四号生徒、越智啓介。
心の中で一度だけそう呼んでみると、胸の奥がじわりと熱くなった。
◇
夕方になり、ようやく自分の机の前へ座れた頃には、身体よりも頭の方が疲れていた。知らない場所で、知らない人間に囲まれ、何をするにも昨日までとは勝手が違う。
「……先が思いやられるな」
小さく呟きかけて、啓介は途中で口を閉じた。
今日だけでも、自分が思った以上に独り言を言っていることに気づいた。どうやら江田島では、この癖も直した方がよさそうだった。
周囲を確かめてから荷物へ手を入れ、朝、奈々から受け取った包みを取り出す。
布をほどくと、中に入っていたのは小さなお守りと一通の手紙だった。
「……やっぱり」
思わず笑う。
便箋を開くと、見慣れた奈々の字が並んでいた。
『啓ちゃんへ。
江田島に着いてから開けるって、ちゃんと守った?』
「……信用ないな」
小さく笑って続きを読む。
『ちゃんとご飯食べてください。
無理して身体壊したらいかんよ。
それと、手紙も書いてね。』
「奈々まで……」
トヨと似たようなことを書いている。
その先には、村のことや学校のこと、近所であった小さな出来事まで綴られていた。
啓介は最後まで読んだ。
そして、そのままもう一度最初へ戻った。
読み終えると、お守りを手のひらに載せてしばらく眺め、手紙と一緒に丁寧にしまった。
◇
夜になり、灯りが落ちると、建物は急に静かになった。
寝具へ横になった啓介は暗い天井を見上げた。隣では誰かが小さく寝返りを打ち、少し離れた寝台からは長く息を吐く音が聞こえてくる。
そうしているうち、いつの間にか雪の残る道に立つ奈々の姿が浮かんでいた。
『ちゃんと迎えに来てよ!』
啓介は暗闇の中で、ほんの少しだけ笑った。
――ああ。
遠くから、かすかな波の音が聞こえていた。




