第十六話 四号生徒
翌朝、起床を告げるラッパが鳴った瞬間、それまで静まり返っていた建物が一斉に動き始めた。
「起床!」
啓介は反射的に身体を起こし、昨夜教えられた通りに寝具を畳み始めた。制服を整え、靴へ足を入れる。頭では順番を覚えているつもりだったが、周囲の四号生徒たちも一斉に動いているため、家で一人支度をしていた時とは勝手がまるで違った。
「四号、急げ!」
「はい!」
「越智、そこが違う!」
「はい!」
振り返ると、今しがた畳んだ寝具を指されていた。慌てて直そうとすると、今度は別の場所から声が飛ぶ。
「返事より先に手を動かせ!」
「はい!」
隣では靴の位置を注意され、その向こうでは制服の襟を直されている者がいる。ようやく身支度を終えたと思ったところへ整列の号令が掛かり、啓介は列へ急いだ。
「遅い!」
「はい!」
「前を見ろ!」
「はい!」
ここでは、支度の順番から物を置く位置まで決められており、ただ出来ればよいのではなく、速さと正確さまで求められた。
列の中で息を整えながら、啓介は昨日までの暮らしが急に遠くなったような気がしていた。
◇
江田島での暮らしが始まってしばらくは、朝から晩まで何かしら注意されているような日が続いた。
寝具の畳み方が違えば直され、帽子を置く位置がずれれば呼び止められ、整列では前後左右の間隔まで見られる。自分では出来ているつもりの時ほど、どこかに見落としがあった。
ある朝、啓介はいつもより早く寝具を整えられたことに少し満足し、まだ手間取っていた隣の生徒へ手を貸そうとした。
「そこ、こっちから畳めば――」
「越智!」
「はい!」
声に振り返る。
「自分の帽子はどうした!」
「あ……」
見ると、机の上に置いたままだった。
「他人を見る前に、自分のことを終わらせろ!」
「申し訳ありません!」
慌てて帽子を決められた位置へ戻した。善意で動いたつもりでも、自分の役目を残したままでは意味がないらしい。
その日の整列では、今度は早く並ぼうとして前の生徒との間隔を詰めすぎた。
「越智、近い!」
「はい!」
半歩下がる。
「下がりすぎだ!」
「はい!」
今度はわずかに前へ出る。周囲から笑いが漏れかけたが、すぐに全員が口を閉じた。啓介自身も笑いたかったが、そんな余裕はない。
最初のうちは、何をするにも細かすぎるように思えた。けれど、同じことを繰り返しているうちに、自分一人が半歩早いだけでも後ろがつられて崩れ、号令を聞き違えた者が一人いれば隣まで同じ動きをしてしまうことに気づいた。
速ければいいわけでも、自分だけ正しければいいわけでもない。皆で動くなら、皆で揃わなければならないのだ。
◇
四号生徒であることを強く思い知らされたのは、授業でも教練でもなく、廊下を歩いていた時だった。
同期の一人と移動していると、向こうから上級生が歩いてきた。二人とも慌てて姿勢を正し、教えられた通りに敬礼する。
そのまますれ違えると思った。
「四号」
低い声が飛んだ。
二人の足が同時に止まる。
「はい!」
振り返ると、上級生がこちらを見ていた。
「今の敬礼は何だ」
「申し訳ありません!」
「もう一度」
「はい!」
啓介は姿勢を正し、改めて敬礼した。
上級生は黙って見ている。
数秒後、今度は隣の生徒へ視線を移した。
「君もだ」
「はい!」
同期もやり直す。
しばらく二人を見たあと、上級生は短く「よし。行け」と言い、そのまま歩いていった。
「はい!」
再び歩き始めてから、啓介は隣の同期と一瞬だけ顔を見合わせた。笑いそうになったが、二人とも何とか堪える。
厳しい。
けれど、先ほどの上級生の制服には乱れ一つなく、歩き方も姿勢も、自分たちとは明らかに違っていた。同じ兵学校生徒でありながら、その差は遠くからでも分かる。
合格した時には大きなことを成し遂げたように思っていたが、ここへ来れば、まだ入口に立っただけだった。
◇
江田島へ来て、もう一つすぐに思い知らされたことがある。
ある日の数学の授業で、教官が黒板へ問題を書いた。
「解ける者」
何人もの手が上がる。
啓介も手を挙げた。
一人が指名され、前へ出て式を書く。答えは正しかった。
「よろしい」
教官が頷く。
「では、別の方法で解ける者」
啓介は少し驚いた。
また何本もの手が上がる。
次に指名された生徒は別の解法を示し、そのさらに後ろの者はもっと短い式で同じ答えへたどり着いた。
正解を出せば終わり、という学校ではないらしい。
英語でも事情は似ていた。文章を訳せば終わりではなく、なぜその語を選んだのか、別の表現ならどうなるのかまで聞かれる。体力でも、走れば自分より速い者がいた。
二〇〇五年で高校一年まで学んだ記憶があり、この時代へ来てからも勉強は続けてきた。それは確かに大きな助けになっていたが、未来から来たというだけで一番になれるほど、江田島は甘くなかった。
自分より速く考える者も、自分より上手く身体を動かす者もいくらでもいる。それが少し悔しい反面、啓介には妙に面白くも感じられた。
分からなければ聞けばいい。相手のやり方が良ければ覚えればいいし、自分に分かることなら今度はこちらが教えればいい。
知らないことがあるというのは、思っていたより悪くなかった。
◇
ある金曜日の昼。
食事へ向かいながら、啓介は密かに期待していた。
二〇〇五年の海上自衛隊では、金曜日にカレーを食べることが有名だった。曜日感覚を保つためだと聞いた覚えもある。
ここは、その源流にあたる海軍の兵学校である。
「……ひょっとして」
わずかな期待を抱きながら食堂へ入り、膳を受け取った。
「…………」
飯と汁物、それに魚が載っていた。
カレーではない。
啓介はしばらく魚を見た。
「どうした?」
隣の同期が怪訝そうな顔をする。
「いや」
「魚嫌いなんか?」
「好きだけど」
「なら食えよ」
「……そうだな」
箸を取る。
二〇〇五年で知っていた習慣が、何十年も前から同じだったとは限らない。未来を知っているからといって、過去まで知っていることにはならないのだ。
「何笑っとるんじゃ?」
「いや。ちょっと勘違いしてただけ」
「何を?」
「こっちの話」
「変な奴じゃな」
「よく言われる」
啓介は魚を口へ運んだ。
妙なところで、一つ勉強した気がした。
◇
それから何日か経った昼だった。
食堂へ入った瞬間、香辛料の匂いが鼻に届いた。
啓介は思わず足を止めかける。
膳を受け取ると、飯の横には褐色のカレーが掛かっていた。
「カレーだ」
声が漏れた。
「何じゃ、そんな嬉しそうな顔して」
隣の同期が笑う。
「好きなんだよ」
「そんなに?」
「ああ」
席につき、一口食べた。
越智家では滅多に食卓へ上がらなかった味だった。肉や野菜の旨味に香辛料が重なり、授業と教練で腹を空かせた身体には、その濃い味がありがたい。
「……うまい」
「そんなにか?」
「うまいよ」
「毎日これでもええんか?」
「俺はいける」
「絶対飽きるじゃろ」
「いや、本当に――」
もう一口運ぼうとして、啓介の手が止まった。
香辛料の匂いと温かな飯を口にした瞬間、五年前の八月六日、靖國神社の遊就館で海軍カレーを食べた時の感覚がふいに蘇った。
あの時も、初めて口にしたはずなのに、なぜか妙に懐かしかった。
そして、その記憶のさらに奥で、ほんの一瞬だけ別の光景が揺れた。
金属の食器。
狭い室内。
潮の匂いの中で、肩を寄せて飯を食べながら笑っている若い男たち。
「…………」
「越智?」
呼ばれて瞬きをする。
目の前には兵学校の食堂があり、同期たちの話し声が飛び交っていた。
「どうした?」
「あ……いや。なんでもない」
啓介はもう一度カレーを口へ運んだ。
今度は、ただ美味かった。
それでも、先ほど浮かんだ見知らぬ若者たちの姿は、しばらく記憶の奥から消えなかった。
「……やっぱり、これ好きだな」
「さっきからそれしか言うとらんぞ」
「いいだろ」
「子供みたいじゃな」
「お前も同い年だろ」
「それはそうじゃ」
二人で笑った。
◇
食事を終え、膳を片付けながら同期が言った。
「越智」
「何?」
「午後、また教練じゃったな」
「そうだったな」
「今日こそ歩調ずらすなよ」
「それ俺じゃなくてお前だろ」
「昨日は越智じゃ」
「一昨日はお前」
「なら今日は二人とも怒られんようにするか」
「最初からそうしろよ」
顔を見合わせて笑いながら廊下へ出たところで、遠くから声が飛んできた。
「四号! 集合急げ!」
二人の顔から笑みが消えた。
「やばい」
「走れ!」
反射的に駆け出す。
「廊下を走るな!」
「はい!」
二人揃って急停止した。
一瞬だけ顔を見合わせる。
「……どうする?」
「早歩き」
「それだ」
二人は今度こそ、走っていると言われないぎりぎりの速さで集合場所へ向かった。後ろからも四号生徒たちが次々と続いてくる。
啓介はその列に混じり、次の教練へ向かった。




