第十七話 同期
江田島での生活が始まって数週間もすると、起床のラッパが鳴れば考えるより先に身体が動くようになっていた。寝具を整え、身支度を済ませ、決められた時間に決められた場所へ向かう。入校したばかりの頃ほど戸惑うことはなくなったものの、慣れて気が緩んだ時ほど、すぐに声が飛んでくる。
「四号!」
「はい!」
「顎が上がっとる!」
「はい!」
慌てて姿勢を直す。
楽になったわけではない。ただ、江田島での暮らしが少しずつ身体へ染み込み始めていた。
◇
夜の自習が終わる少し前になると、室内の空気が変わった。
筆記具を置き、本を閉じる。ざわめきが消え、生徒たちは姿勢を正した。
五省。
「至誠に悖る勿かりしか」
静かな室内へ声が響く。
「言行に恥づる勿かりしか」
「気力に缺くる勿かりしか」
「努力に憾み勿かりしか」
「不精に亘る勿かりしか」
啓介は目を伏せた。
江田島へ来る前から、その言葉自体は知っていた。けれど、知識として読むことと、一日の終わりに自分自身へ問い掛けることとは、まるで違った。
二〇〇五年の記憶があっても、端艇が速くなるわけではなく、教練の歩調も勝手には揃わない。英語を間違えれば自分で直さなければならず、知っていることと出来ることは違うのだと、江田島へ来てから何度も思い知らされていた。
――努力に憾み勿かりしか。
その問いに迷わず答えられる日は、まだ少なかった。
◇
「今日は端艇か……」
ある朝、海岸へ集められた生徒たちの前に端艇が並んでいるのを見て、隣から心底嫌そうな声がした。
啓介は横を見る。
「村田、そんなに嫌なのか?」
「昨日も腕が上がらんようになるまでやったんじゃぞ」
村田は、入校して間もない頃から何かと近くになる同期だった。数学には妙に強く、啓介が何行も使って解いた問題を、もっと短い式で片づけてしまうことがあるくせに、身体を使う課目になると途端に不満が顔へ出る。
「数学の時だけ元気じゃないか」
「頭は筋肉痛にならん」
「それは確かに」
「四号! 私語をするな!」
「はい!」
二人は同時に前を向いた。
端艇へ乗り込み、櫂を握る。
「用意!」
身体を前へ倒した。
「漕げ!」
一斉に櫂が水へ入る。
最初から綺麗に揃うはずもなかった。一人が早ければ別の者が遅れ、水へ入る角度まで違えば艇は思うように進まない。
「揃えろ!」
「はい!」
「腕だけで引くな!」
「はい!」
啓介も歯を食いしばって櫂を引いた。畑仕事で身体は鍛えてきたつもりだったが、端艇で使う筋肉は別物らしく、肩が熱を持ち、掌も痛み始める。
「越智、速い!」
後ろから村田の声が飛んだ。
「お前が遅いんだろ!」
「俺だけやない!」
「私語!」
「はいっ!」
二人とも黙った。
それでも漕ぎ続けるうちに、ばらばらだった櫂の音が少しずつ近づいていった。同じところで水を掴み、同じところで引く。さっきまで水へ張りついていたように重かった艇が、ある瞬間、不意に前へ滑り出した。
「……おお」
啓介は思わず声を漏らした。
自分一人が強く漕いだからでも、誰か一人が急に速くなったからでもない。全員の力が、同じ瞬間に揃ったのだ。
「越智」
「何?」
「今また何か考えたじゃろ」
「何で分かるんだよ」
「顔」
「奈々みたいなこと言うなよ」
口にした瞬間、しまったと思った。
村田の目が一気に輝く。
「奈々?」
「……漕げ」
「誰じゃ、それ」
「漕げって」
「女か?」
「村田」
「幼馴染か?」
「村田!」
「四号!」
「はいっ!」
二人揃って前を向いた。
岸へ戻る頃には腕も肩も重くなっていたが、啓介にはそれ以上に、うっかり奈々の名前を出してしまったことの方が厄介に思えた。
村田が忘れてくれるとは、とても思えなかった。
◇
水泳も容赦がなかった。
泳げればよいというものではなく、長く泳ぎ続け、疲れても慌てず、水の中で自分を保つことまで求められる。
啓介は愛媛にいた頃から川や海には慣れており、二〇〇五年の自分にも水泳経験があったので、多少は余裕があると思っていた。
やはり甘かった。
「……まだ泳ぐんか」
ようやく陸へ上がった村田が、その場へへたり込んだ。
「死ぬ」
「海軍入って水泳で死ぬなよ」
「越智は何で普通に喋れるんじゃ」
「俺もきついよ。腕上がらないし」
「顔がそう見えん」
啓介も肩で息をしていた。ただ、村田ほど顔に出ないだけだ。
「あれ見い」
村田が海を指した。
一人、まだ泳いでいる。
「高木か」
「何なんじゃ、あいつ」
「知らない」
高木は東京から来た同期で、村田ほど口数は多くない。教練でも、一度注意された動きを次にはきちんと直しており、水泳になると啓介より明らかに速かった。
しばらくして、高木が海から上がってくる。息は切れているが、足取りはしっかりしていた。
「高木」
「ん?」
「疲れんのか?」
村田が聞いた。
「疲れてる」
「嘘つけ」
「何でだ」
「顔が平気そうじゃ」
高木は啓介を見る。
「越智もそう見えるけど」
「ほら!」
「俺まで巻き込むなよ」
啓介は笑った。
「でも高木、速いな」
「そうか?」
「そうだよ。俺じゃ追いつけない」
素直に言うと、高木が少し意外そうな顔をした。
「越智でも、そういうこと言うんだな」
「何だよ、それ」
「勉強も出来るし、端艇でも最後まで動いとるから、何でも出来る奴かと思ってた」
「全然」
啓介は首を振った。
「数学なら村田の方が速い時あるし、水泳なら高木の方が上だろ」
「聞いたか、高木」
村田が急に胸を張った。
「わしは数学では越智より上らしい」
「身体は?」
「今それは関係ない」
「都合いいな」
三人で笑った。
自分より得意なものを持つ人間が、すぐ隣にいる。それは少し悔しかったが、それ以上に啓介には面白かった。
「なあ、村田」
「何じゃ」
「ここ、面白いな」
村田はしばらく啓介を見た。
「今、水泳で半分死んどる人間の台詞か?」
「そうだけど」
「やっぱり変な奴じゃ」
「お前に言われたくないな」
「何でじゃ」
「数学の問題見ながら笑う奴だぞ」
「解けたら嬉しいじゃろ」
「ほら」
横で高木が吹き出した。
◇
最初の頃、同期たちは互いに少し距離を取っていた。
全国各地から集まった者ばかりで、言葉も育った家も得意なことも違う。誰がどういう人間なのか、互いによく分からなかったのだから当然だった。
それが、一緒に叱られ、一緒に飯を食い、同じ教練で失敗しているうちに少しずつ変わってきた。
ある晩の自習時間。
「越智」
村田が小声で呼んだ。
「何?」
「ここ」
英語の問題を指している。
「分からん」
「数学の天才が?」
「誰が天才じゃ」
「さっき自分で俺より上だって喜んでただろ」
「数学と英語は別じゃ」
「どれ」
啓介が帳面を覗き込む。
「これは、この文が先に掛かって――」
「いや」
反対側から高木が口を挟んだ。
「その訳だと少しおかしくないか」
「え?」
「ここまで一つじゃないのか」
三人で文章を覗き込む。
しばらく考えたあと、啓介が頷いた。
「……ああ。高木の方が自然だな」
「じゃが、試験でそれ書いてええんか?」
「教官ならこっちじゃないか」
「何で分かる?」
高木が苦笑した。
「昨日、似た訳をして直された」
「経験者かよ」
「だから覚えてる」
「なら高木、書いて」
「自分で書け」
「冷たいのう」
「試験まで俺が書くのか?」
「それは困る」
「なら覚えろ」
「はいはい」
「返事は一回」
啓介と高木が同時に村田を見る。
「……はい」
三人とも堪えきれずに笑った。
「静かにせんか」
近くから声が飛ぶ。
「すみません」
今度は三人揃って頭を下げた。
◇
そんなある日の夕方だった。
「越智」
「はい」
「手紙だ」
「え?」
差し出された封筒を見た瞬間、誰から来たのか分かった。
見慣れた字だった。
村上奈々。
それだけで、自然と頬が緩む。
「おお」
すぐ横から声がした。
嫌な予感がした。
「何じゃ、その顔」
「何でもない」
村田だった。
しかも高木まで隣にいる。
「手紙か?」
「そうだよ」
「誰からじゃ」
「見るな」
啓介は慌てて封筒を伏せたが、遅かった。
「村上……奈々?」
「読むな!」
「やっぱり女じゃ」
「差出人を勝手に読むなよ!」
「端艇の奈々じゃろ」
「覚えてたのか」
「そういうことは忘れん」
「他に覚えることあるだろ」
「幼馴染か?」
高木まで聞いてくる。
「そうだよ」
「へえ」
「何だよ、その顔」
「何も」
「絶対何か考えてるだろ」
「村田と一緒にするな」
「何でわしだけ悪いんじゃ!」
啓介は手紙を胸元へ隠した。
「とにかく見るなよ」
「見ん見ん」
村田が答える。
「信用できないな」
「失礼じゃな」
高木が小さく笑った。
◇
少し離れたところで封を切った。
便箋を広げると、奈々の顔がそのまま浮かぶような字が並んでいる。
『啓ちゃんへ。江田島はどうですか。ちゃんとご飯食べていますか。』
「……母ちゃんみたいだな」
思わず笑った。
『歌も練習しよります。父さまにも聞いてもらいましたが、途中で寝ました。』
「清一郎さん……」
吹き出しそうになる。
さらに読み進めると、
『お味噌汁も練習しよります。今度帰ってきたら作ります。もうまずいとは言わせません。』
とあった。
「まだ気にしてるのかよ」
あの一杯は、啓介もまだよく覚えている。
最後の方まで読み進めたところで、少しだけ小さな字で書かれた一行に目が止まった。
『雪の日に言うたこと、忘れんといてね。奈々』
啓介はしばらく、その文字を見つめた。
何のことかは、聞くまでもない。思い出すと、少し顔が熱くなった。
「越智」
少し離れたところから村田の声がした。
「何だよ」
「にやけとるぞ」
「うるさい」
「ええ手紙じゃったんか?」
啓介はもう一度、手元の便箋を見る。
「ああ」
素直に答えた。
「いい手紙だった」
「なら早う返事書け」
「分かってるよ」
すると高木が横から言った。
「それは村田の言う通りだな」
「何で高木まで」
「相手は待ってるんだろ?」
啓介は一瞬だけ返事を止めた。
それから手紙を丁寧に畳む。
「……そうだな」
「書くよ」
◇
その晩、五省を終えたあと、啓介は便箋を前にしていた。
書きたいことはいくらでもあった。端艇で腕が上がらなくなったこと、水泳では高木に敵わなかったこと、村田には数学で何度か負けたこと。海軍の生活は思っていた以上に厳しく、今でもよく叱られていることも書きたかった。
それから、カレーが出たことも。
鉛筆を取る。
『奈々へ。手紙ありがとう。俺は元気です。』
書き始めると、思ったより言葉は自然に続いた。
村田は数学が得意で、よく人をからかうこと。高木は水泳が速く、何をやらせても要領がいいこと。二人とも面倒なところはあるが、一緒にいると退屈しないこと。
奈々の知らない江田島での日々を、少しずつ紙の上へ移していく。
何枚か書いたところで、鉛筆が止まった。
奈々の手紙の最後が頭へ浮かぶ。
少し迷ってから、一行だけ付け足した。
『雪の日のことは、ちゃんと覚えています。』
書いた文字を見た途端、急に恥ずかしくなった。
それでも、消さなかった。
「越智」
後ろから村田の声がする。
「書けたか?」
「まだ」
「長いのう」
「書くことが多いんだよ」
「恋文じゃな」
「違う!」
「静かにせんか!」
「……すみません」
啓介が声を落として謝ると、村田は肩を震わせている。少し離れたところでは、高木まで口元を押さえていた。
「お前ら、覚えてろよ」
声には出さず、口だけ動かす。
村田が何か言い返そうとしたところへ、集合を促す声が飛んだ。
「四号、急げ!」
「はい!」
啓介は書き終えた便箋を丁寧に折り、奈々の手紙と一緒にしまった。
「越智、遅れるぞ」
高木が呼ぶ。
「今行く」
「また越智だけ怒られるぞ」
「村田、お前のせいだろ」
「わしは何もしとらん」
「さっき恋文とか言ったの誰だよ」
「事実確認じゃ」
「どこがだ」
「四号! 急げ!」
「はい!」
三人は顔を見合わせた。
次の瞬間には、揃って駆け出していた。




