第十八話 航空戦の未来
昭和十年。
江田島へ来て一年が過ぎ、四号生徒だった啓介たちは三号生徒になっていた。入校したばかりの頃のように、寝具の畳み方一つで右往左往することはもうない。号令が掛かれば身体が動き、教練の流れも分かる。村田に数学の式を直され、高木には水泳や教練で先を越され、逆に二人が分からないところは啓介が教える。そんなやり取りも、今ではすっかり日常になっていた。
むしろ三号生徒になってからの方が、自分の知らないことの多さを思い知らされるようになっていた。
そんなある日、生徒たちは講堂へ集められた。
「本日は、海軍航空について講話をいただく」
教官の言葉に、啓介の意識が自然と前へ向いた。
「講師は、横須賀海軍航空隊副長兼教頭、大西瀧治郎大佐」
その名を聞いた瞬間、啓介はわずかに目を見開いた。
知っている名前だった。
その名が後にどれほど重いものを背負うのかも、二〇〇五年の歴史として知っている。けれど、壇上へ姿を現した大西瀧治郎は、後世の写真で知る人物よりずっと若かった。
四十代半ば。がっしりとした身体つきで、講壇に立っただけで場の空気が引き締まる。大西は生徒たちをゆっくりと見渡した。
「諸君」
よく通る声だった。
「海軍の主力とは何だ」
突然の問いに、講堂が静まる。
「戦艦か」
何人かの表情が動いた。
「巨砲を備え、厚い装甲を持ち、敵艦隊を撃ち砕く。これまでの海軍を考えるなら、それで間違いではない」
大西はそこで一度言葉を切った。
「だが、飛行機が現れた」
啓介は聞き入った。
「飛行機は艦より速い。艦の目より遥かに遠くを見ることができ、主砲弾の届かぬ距離から爆弾や魚雷を敵へ運ぶこともできる。偵察にも使える。艦隊攻撃にも使える。陸上基地からも、航空母艦からも飛ばせる」
話は次第に具体的になっていった。
「諸君が士官となって海へ出る頃には、戦の形そのものが変わっておるかもしれん」
大西は講堂を見渡した。
「いや、変えねばならんと、わしは思っとる」
啓介は胸が高鳴るのを感じた。大西はすでに、航空機が従来の艦隊戦そのものを変える可能性を見ている。
啓介の頭には、真珠湾からマリアナまで、二〇〇五年の歴史で知った海戦が次々と浮かんだ。戦艦の主砲が届く前に航空隊が敵を捉え、索敵の遅れ一つが艦隊の運命を変える時代が来る。
大西の見ている方向は間違っていなかった。
だからこそ、講話を聞くうちに一つの疑問が残った。
◇
大西が特に力を込めて語ったのは、大型攻撃機だった。
より遠くまで飛び、より速く、より多くの爆弾や魚雷を運ぶ。敵がこちらへ手を伸ばす前に、遠距離から先に叩く。
「攻撃機そのものが敵戦闘機より高速であればどうなる」
大西が言った。
「追いつかれぬのであれば、長距離を飛ぶ援護戦闘機を付ける必要も薄くなる」
啓介はわずかに眉を寄せた。
理屈は分かる。
この時代の技術で遠距離攻撃を考えるなら、護衛戦闘機を無理に同じ距離まで飛ばそうとするより、攻撃機そのものを高速化する発想には合理性がある。
けれど、啓介はその先を知っていた。
攻撃機が速くなれば、戦闘機も速くなる。しかも攻撃機には爆弾や魚雷、長距離を飛ぶための燃料が必要で、防御火器や複数の乗員も載せなければならない。敵機を撃ち落とすことを主目的として作られる戦闘機と、いつまでも速度だけで競争し続けられるとは思えなかった。
聞いてみたいと思ったが、壇上にいるのは海軍航空の最前線で実際に航空兵力を考えている大佐で、自分はまだ兵学校の三号生徒にすぎない。何より、啓介が持っている決定的な証拠は、まだ起きていない未来の戦争であり、それを根拠にすることはできなかった。
迷っているうちに、講話は終わりへ近づいた。
「質問はあるか」
大西が言った。
誰も手を上げない。
啓介は一度息を吸い、手を上げた。
「はい」
大西の視線がこちらへ向く。
「姓名」
「越智啓介、生徒であります」
「越智。言ってみろ」
啓介は立ち上がった。
「質問いたします」
「うむ」
「大型攻撃機が今後重要になるというお話には、自分も同意いたします」
「そうか」
「ですが、敵の戦闘機を、いつまでも速度だけで振り切ることはできるのでしょうか」
講堂の空気がわずかに変わった。
大西の眉が動く。
「どういう意味だ」
「攻撃機は、攻撃するための爆弾や魚雷を積まなければなりません。遠くまで飛ぶなら燃料も要りますし、防御火器も必要になります」
「当然だ」
「一方で戦闘機は、敵機を撃ち落とすことを主にして作れます。こちらの攻撃機が速くなれば、敵もさらに速い戦闘機を作るのではないでしょうか」
大西はすぐには答えなかった。
「つまり、お前は援護戦闘機が必要だと言うのか」
「必要になる場合はあると思います」
「場合がある?」
「はい」
「随分曖昧じゃな」
「……まだ、自分にも分かりません」
正直に答えると、大西の目が少し細くなった。
「それでよい。分からんことを分かった顔で話すよりはましじゃ」
だが、そこで終わらなかった。
「では越智」
「はい」
「大型攻撃機と同じ距離を飛び、それでも敵戦闘機と戦える機体をどう作る」
「…………」
「燃料を積めば重くなる。航続距離を求めれば、別の何かを削らねばならん。武装も速度も必要じゃ。簡単に護衛を付ければよい、では済まんぞ」
「はい」
その通りだった。
未来に長距離を飛べる高性能戦闘機が存在することを知っていても、それが昭和十年の日本で簡単に実現できるという意味ではない。
「どうする」
大西に問われ、啓介は少し考えた。
「……一つの方法だけで解決する必要はないと思います」
「ほう」
「前方に使える基地があるなら使います。航空母艦を使える状況なら、そこから戦闘機を出すこともできます。戦闘機自体の航続距離を延ばす方法も考えます」
「他には」
啓介は答えを急がず、頭の中にある未来の正解をそのまま並べるのではなく、今ここにある条件から考えた。
「敵が自由に戦闘機を上げられる状態そのものを、崩すことも必要だと思います」
大西の表情がわずかに変わった。
「続けろ」
「敵飛行場を攻撃する。こちらの戦闘機で敵戦闘機を抑える。攻撃隊を守ることだけではなく、敵に自由に空を使わせないようにする」
「制空か」
「はい」
「そのために戦闘機を増やせば、攻撃機は減るぞ」
「はい」
「敵艦隊を叩ける機数が減ってでもやるのか」
啓介は迷った。
「状況によると思います」
「またそれか」
「はい」
大西は少し笑ったが、目は笑っていなかった。
「便利な言葉じゃな。状況による」
「……すみません」
「謝れとは言っとらん。戦は本当に状況で変わる」
「はい」
「では、その状況を判断する基準は何だ」
啓介は答えられなかった。
「敵航空兵力か。距離か。こちらの攻撃目標か。搭乗員の練度か。残っている燃料か」
「はい」
「それを決めずに『状況による』では、作戦にならん」
「……はい」
痛いところだった。未来の結果を知っていることと、作戦を立案できることはまるで違う。
「それでも」
啓介は口を開いた。
「一度の攻撃に成功しても、そのたびにこちらの搭乗員が大勢帰ってこなくなるようでは、次の攻撃ができなくなると思います」
「搭乗員の養成に時間が掛かることくらい、航空におる者なら誰でも知っとる」
大西は即座に返した。
「はい」
「損害が出るから攻撃を止めるのか」
「いえ」
「なら、どうする」
「任務に必要な損害まで避けられるとは思いません」
啓介は言葉を探した。
「でも、避けられる損害まで払うのは違うと思います」
講堂が静まった。
大西は何も言わない。
啓介は続けた。
「同じ任務を果たせるなら、少しでも帰ってこられる方を選ぶべきです」
「なぜだ」
「帰ってきた人は、次も飛べるからです」
大西の目が啓介を捉えた。
「一度の攻撃で成功しても、次に飛ばせる人がいなくなれば、それで終わってしまいます」
「機体も同じではないか」
「はい。でも、機体は時間と資材があれば、新しく作ることができます」
「人間は作れん、と言いたいのか」
「……はい」
大西の口元がわずかに動いた。
「随分当たり前のことを言うな」
「はい」
啓介も少し困った。
「でも、その当たり前を含めて作戦を考えないといけないと思います。一人を飛ばせるようにするまでには時間が掛かりますし、実戦を経験した人なら、その経験も簡単には代えられません」
大西は腕を組んだ。
「お前は、一回の攻撃でどれだけ威力を出せるかだけではなく、その次にも航空兵力を使える状態を残したいわけか」
啓介は少し考えた。
「……はい。たぶん、そういうことだと思います」
「たぶん、か」
「すみません。まだ上手くまとまっていません」
「だから質問しとる」
大西は容赦がなかった。
◇
「十七歳だったな」
「はい」
「外国の航空論は読んだか」
「手に入るものを少しだけです」
「ドゥーエは」
「概要しか知りません」
「ミッチェルは」
「詳しくはありません」
「海軍航空の実際の搭乗員養成期間は」
「正確には知りません」
「攻撃機一機を一年動かすのに、どれだけ燃料が要る」
「分かりません」
「戦闘機一個飛行隊を維持するために必要な整備員の数は」
「……分かりません」
「では、空母一隻から継続して出せる攻撃隊の規模は」
「それも……分かりません」
問われるたびに、答えられないことが増えていった。
大西は鼻で息を吐く。
「今のお前の話では、作戦にはならんな」
「……はい」
「穴だらけじゃ」
「はい」
「戦闘機が必要だと言う。何機必要なのか分からん。制空が必要だと言う。どの程度取ればよいのか分からん。搭乗員を残せと言うが、では何人失えば部隊が戦えなくなるのかも分からん」
「はい」
「思いつきじゃ」
「……はい」
厳しかったが、間違ってはいなかった。未来を知っているというだけで、頭の中では答えを持っているつもりになっていた。ところが昭和十年の数字で問い直されると、自分が知っているのは結果ばかりで、その結果へ至る途中をほとんど説明できない。
「だが」
大西が言った。
啓介が顔を上げる。
「その一点は、調べてみる価値がある」
「一点?」
「一度の攻撃力だけではなく、航空兵力を継続して使うにはどうするか、というところじゃ。搭乗員の損耗もその一つ。機体もそう。整備も補給もそうじゃ」
大西は啓介を見る。
「今の話ではまだ粗い。だが、考える入口にはなる」
「はい」
「越智」
「はい!」
「今の考えを、論文にまとめてみろ」
「……はい?」
講堂がわずかにざわめいた。
「自分が、ですか」
「質問したのはお前じゃろう」
「それはそうですが」
「なら最後まで考えろ」
「……はい」
「ただし」
大西の声が低くなった。
「今日みたいに思いつきを並べただけなら、読む価値はない」
「はい」
「速度、航続距離、搭載量、機数、搭乗員の養成期間、整備、補給。手に入る範囲で数字を拾え。戦闘機が必要だというなら、何をさせる戦闘機なのか分けろ。攻撃隊の護衛か、敵戦闘機の排除か、基地防空か」
「はい」
「搭乗員の損耗を問題にするなら、何が損害を増やすのかも調べろ」
「はい」
「それで、お前の考えが間違っていたなら?」
啓介は一瞬答えに迷った。
「……間違っていたと書きます」
大西の口元がわずかに緩んだ。
「それでよい」
「はい」
「先に結論を決めて、都合のよい数字だけ集めるな。事実を拾え。自分の考えと違う数字が出たなら、それも書け」
「はい」
「分からんものは?」
「分からないと書きます」
「よし」
啓介は背筋を伸ばした。
「期限は一月でどうじゃ」
「一月……」
「長いか?」
「いえ!」
「なら二週間でも――」
「一月でお願いします!」
講堂のあちこちで笑いを堪える気配がした。
大西の口元も少しだけ緩む。
「よろしい」
「はい!」
「兵学校側にも話しておく。使える資料は調べろ。必要なら教官にも聞け。ただし、書くのはお前じゃ」
「分かりました」
「座れ」
「はい!」
啓介は席へ戻った。
腰を下ろした途端、隣から小さな声が飛んでくる。
「越智」
村田だった。
「何」
「お前、馬鹿じゃろ」
「……俺も今そう思ってる」
村田が吹き出しそうになる。
「大西大佐に自分から質問するけんじゃ」
「質問しただけだよ」
「それで論文一本じゃ。高くついたのう」
反対側から高木が口を挟んだ。
「でも面白かった」
「高木。人ごとだと思ってるだろ」
「人ごとだからな」
「おい」
「資料探しなら手伝う」
啓介は高木を見る。
「ほんと?」
「ああ。実際の機体や運用の資料を集めるくらいならな」
「助かる」
「数字はわしが見てやる」
村田も言った。
「何で上からなんだよ」
「大西大佐に計算間違いを指摘されたら恥ずかしいじゃろ」
「…………お願いします」
「急に素直になったな」
「うるさい」
前方から教官の視線が飛んできた。
三人は同時に口を閉じた。
◇
その夜、五省を終えたあと、啓介は机の前に白い紙を置いていた。
大西に浴びせられた問いが、次々と頭へ浮かんでくる。
速度や航続距離だけではない。搭載量が変われば必要な発動機も変わり、戦闘機と攻撃機の比率を考えるなら機数も要る。索敵、基地、空母、整備、燃料、そして搭乗員まで含めれば、講堂で口にした話がどれほど粗かったのか嫌でも分かった。
未来の出来事を根拠にはできない。真珠湾も、ミッドウェーも、マリアナも、この世界ではまだ起きていない。知っている結末から答えを書くのではなく、その結末へ至った理由を、昭和十年の今ここにある資料から探さなければならない。
攻撃機と戦闘機の実際の航続距離はどれほど違い、その差を埋めようとすれば何を犠牲にすることになるのか。さらに航空兵力を継続して使うなら、搭乗員だけでなく、整備員や燃料、部品まで考えなければならない。
「……とんでもないことになったな」
思わず小さく呟く。
「今さら気づいたか」
隣から村田の声が返った。
「聞こえてた?」
「独り言が大きい」
「この癖、本当に直らないな」
高木も本から顔を上げた。
「題は決まったのか」
「まだ」
「『爆撃機不要論』」
村田が言う。
「言ってないよ!」
「『全部戦闘機にせよ』」
今度は高木だった。
「高木まで乗るな!」
「静かにせんか!」
「……すみません」
三人揃って声を落とした。
啓介はもう一度、白紙へ向き直る。
鉛筆を取り、少し考えてから一番上へ書いた。
『将来海戦ニ於ケル航空兵力運用ニ就テ』
文字を眺める。
「……硬いな」
「兵学校の論文なんじゃから、そんなもんじゃろ」
村田が小声で言った。
「今度は聞こえていいんだよ」
「どっちじゃ」
啓介は少し笑った。
題など、あとで直せばいい。
まず、自分が何に引っ掛かったのか。そこから考えるしかない。
一度の攻撃で、どれだけ敵を傷つけられるかだけではなく、その攻撃が終わったあと、こちらに何が残り、次にもう一度飛べるのか。機体も、燃料も、整備する者も、そして空へ上がる搭乗員も、そのすべてが残って初めて次の戦いができる。
未来の答えを書くのではなく、昭和十年の今、この時代にあるものだけで、自分の考えが本当に成り立つのかを確かめる。
啓介は鉛筆を紙へ置き、最初の一行を書き始めた。




