第十九話 論文
大西瀧治郎大佐とのやり取りは、啓介が思っていたより早く兵学校の中へ広まった。
翌日には同じ分隊の者が知っており、数日もすると上級生からまで声を掛けられるようになった。
「越智。お前、大西大佐に大型攻撃機では戦えんと言ったそうじゃな」
「言ってませんよ」
「戦闘機をもっと増やせ、と」
「それだけでもありません」
「戦艦もいらんとか」
「それは誰が付け足したんですか」
周囲から笑いが起こった。
人から人へ伝わるうちに、話は随分と大きくなっていた。大型攻撃機への疑問がいつの間にか大西への反論となり、最後には戦艦不要論にまで化けている。
「それで、論文を書かされるのは本当か?」
「……それは本当です」
「一月で?」
「それも本当です」
「御愁傷様」
「笑ってないで手伝ってくださいよ」
「嫌じゃ」
「即答ですか」
また笑いが起こった。
迷惑な噂ではあったが、そのおかげで思わぬことも起きた。兵学校のあちこちで、航空兵力について話をする者が増え始めたのである。
◇
「飛行機は天候に弱い」
ある日の昼休み、自習室の一角で二号生徒の一人が言った。
「雲が低い。風が強い。夜になる。それだけで予定通りの攻撃ができんこともある」
「それはそうですね」
啓介が頷くと、相手が少し意外そうな顔をした。
「反論せんのか?」
「正しいと思ったので」
「お前、航空派なんじゃろ」
「航空が重要になるとは思っています。でも、弱点までなくなるわけじゃないでしょう」
「ほう」
別の上級生も話へ加わった。
「戦艦なら多少の悪天候でも動ける。砲も何度も撃てる。少々被弾しただけで使えなくなるとは限らん」
「でも、航空機なら敵の主砲射程の外から攻撃できます」
「その航空機を載せとる空母を先に見つけられたら?」
「だから索敵が――」
「索敵機が落とされたら?」
「そこは戦闘機で――」
「また戦闘機か」
「だから何でも戦闘機で解決するとは言ってませんって」
周囲から笑いが漏れた。
砲は一度撃てば終わりではなく、艦はその海域に留まり続けることができる。一方で航空機は、一度飛び立てば燃料と弾薬を使い、帰ってきた機体を整備し、再び燃料と弾薬を補充して初めて次の出撃ができる。空母も搭載機が無事だからといって安心はできず、飛行甲板が使えなくなれば、艦内に何十機残っていても空へ上げることはできない。
「……なるほど」
啓介は思わず呟いた。
「何じゃ。納得するんか」
「今のは考えてませんでした」
「随分素直じゃな」
「だって論文を書くんですよ」
啓介は帳面へ書き込みながら答えた。
「俺は議論に勝ちたいわけじゃありません。何が本当に使えるのかを知りたいんです」
上級生たちが少し黙った。
「航空機だけで全部できるなら、それを書けばいい。でも、できないなら何が足りないのかも書かないと意味がないでしょう」
「調べた結果、戦艦が必要だという結論になったら?」
「必要な理由を書きます」
「大西大佐に喧嘩を売ったくせにか?」
「だから売ってません!」
また笑いが起きた。
啓介も笑いながら帳面へ一行を書き足した。
調べることが、また増えた。
◇
数日後には、教官まで議論へ加わった。
「お前ら、昼から何を騒いどる」
「航空と水上艦隊についてです」
「また越智か」
「どうして俺が原因なんですか」
「違うんか?」
「……まったく違うとは言えませんけど」
「なら同じじゃ」
「そんな」
教官は呆れた顔をしたものの、そのまま立ち去ろうとはしなかった。
「それで?」
一号生徒が、それまでの話を説明した。航空機の攻撃距離、戦艦の防御力、空母の弱点、索敵、戦闘機、天候。ひと通り聞き終えた教官は、やがて黒板の前へ歩いていった。
「お前ら、肝心なものが抜けとるぞ」
「何でしょうか」
「燃料じゃ」
啓介たちは黙った。
教官は黒板へ簡単な数字を書き始めた。
「航空機を百機飛ばす。一回飛ばして終わりか?」
「いえ」
「次の日も飛ばすなら?」
「また燃料が要ります」
「それだけか」
「爆弾、魚雷、機銃弾……」
「交換部品も」
別の生徒が言う。
「整備員も要ります」
「そうじゃ」
教官が頷いた。
「航空揮発油があれば飛行隊になるわけではない。人も工具も部品も要る。それを基地まで運ぶ船や車も要る」
「戦艦ならどうですか」
「戦艦は重油を食わんのか?」
「あ……」
「主砲弾も無限ではない。乗員には飯も水も要る」
黒板には、兵器そのものとは別の言葉が次々に書き加えられていった。燃料、弾薬、人員、整備、輸送。
「兵器の性能表だけを見て戦争を考えるな」
教官が振り返った。
「動かし続けられるかどうかまで含めて、戦力じゃ」
啓介は鉛筆を止めた。
二〇〇五年の歴史では、日本が油に苦しみ、輸送船を失い、部品が届かなくなり、やがて飛行機があっても満足に飛ばせなくなることを知っている。けれど重要なのは、未来で実際に困るからではない。昭和十年の今、目の前へ数字を置いて考えても、燃料や部品、整備する人間や、それらを運ぶ手段がなければ航空隊は動かないのだ。
「教官」
「何じゃ」
「燃料の消費量や、機体を動かすのに必要な人員の資料は見られますか」
「何に使う」
「論文です」
「機密に触れん範囲ならな」
「お願いします」
「まず申請を書け。必要な資料を一覧にして出せ。『航空関係全部』などと書いたら突き返すぞ」
「……はい」
調べれば調べるほど、調べなければならないことが増えていった。
◇
村田と高木も、結局は付き合ってくれた。
「これ、違うぞ」
夜の自習時間、村田が資料を指した。
「どこ?」
「ここ。航続距離と速度から、そのまま飛行時間を出しとるじゃろ」
「うん」
「ずっと同じ飛び方をする前提になっとる」
「あ」
「上昇もする。戦闘もする。速度も変わる。その分、燃料の使い方も違うじゃろ」
「……その通りです」
「何で敬語なんじゃ」
「悔しいから」
「知らんがな」
村田が笑った。
向かいでは、高木が機体の図を見ている。
「越智」
「何?」
「これ、本当に一機へ全部やらせるつもりか?」
「全部って?」
「長く飛べて、速くて、よく曲がって、武装が強くて、撃たれても丈夫」
「……できれば」
「重くならんのか」
「そこを調べてるんだよ」
「たぶん欲張りだぞ」
「やっぱり?」
高木は紙を返した。
「何を一番やらせたいのか、先に決めた方がいいんじゃないか」
啓介は自分の書いた要求を見た。
頭の中には、未来で知っている優れた戦闘機がいくつも浮かんでいる。長い航続距離、高い速度、強力な武装、防弾、運動性能。けれど、それらは何十年もの技術の積み重ねの先に生まれたものであり、昭和十年の技術へ未来の完成品と同じ性能をすべて要求してよいはずがない。
「ありがとう、高木」
「何が?」
「考え直してみる」
「俺は重そうだと思っただけだぞ」
「それで十分」
高木は首を傾げた。
「また越智が考え始めたぞ」
村田が言う。
「ほっとけ」
◇
兵学校の図書室には、かなりの資料が揃っていた。それでも、啓介が欲しいものが何でも手に入るわけではない。
外国の航空機や発動機、翼型、燃料搭載量、欧米の航空雑誌、それに製造や整備についての工学資料。蔵書を調べ、教官へ相談し、それでも足りないものを一覧にしていった。
「広島の図書館も当たってみたいです」
「浅野図書館か」
「はい」
「行ってから探すつもりか?」
「そのつもりでした」
「先に問い合わせろ」
「……あ」
「外出の時間もただではないぞ」
「はい」
言われてみれば当然だった。
数日かけて照会すると、目的に合いそうな工学書や外国雑誌がいくつか見つかった。そこでようやく許可を得て、休日に広島へ渡ることになった。
◇
浅野図書館は、兵学校の図書室とはまた違った雰囲気を持っていた。
軍事関係の専門資料なら江田島の方が多い。だが、民間の工学書や海外の技術動向を紹介する雑誌には、兵学校では目にしなかったものもあった。
啓介は机へ資料を積み、必要な数字を書き写しては出典を控え、知らない英単語が出ればそのたびに辞書を引いた。一冊を読めば別の文献が紹介され、そちらを探せば、また知らなかった考え方が現れる。
昼を過ぎた頃、啓介は一度鉛筆を置いた。
二〇〇五年の自分が知っていたのは、結局のところ戦争の結果だった。航空母艦が大きな役割を果たし、日本が熟練搭乗員の損耗に苦しむことは知っている。だが、その時代の技術で何が可能で、何を得るために何を捨てなければならなかったのかまでは知らない。
昭和十年の資料を一つずつ積み上げるほど、未来から持ってきたはずの答えは何度も揺らいだ。
「……俺、全然知らないな」
小さく呟いた。
不思議と落ち込まなかった。
知らないのなら、調べればいい。
この時代へ来たばかりの頃から、結局やっていることは同じだった。
◇
本を読んでも、どうしても分からないことが残った。
空気抵抗や翼の形、発動機の出力、重量と航続距離の関係。どこまでが現実的な要求で、どこから先が空想になるのかは、資料を読むだけでは掴みきれない。
「専門家の話を聞きたいです」
啓介が教官へ言うと、案の定、嫌そうな顔をされた。
「誰にじゃ」
「東京帝国大学の航空研究所に……」
「馬鹿を言うな」
「ですよね」
「分かっとるなら言うな」
「でも、聞きたいんです」
「お前は兵学校生徒じゃぞ」
「はい」
「論文一本のために東京まで行きたいと言う三号生徒を、わしは初めて見た」
「自分も初めてです」
「威張るな」
「すみません」
教官は額へ手をやった。
「そもそも、向こうがお前を相手にする理由がない」
「……そこなんですよね」
「そこで一緒に悩むな」
もっともだった。
海軍兵学校生徒とはいえ、啓介はまだ十七歳でしかない。大学の研究者へ突然押しかけ、戦闘機について教えてほしいなどと頼めるはずもなかった。
「では、諦めます」
「随分早いな」
「無理なものは仕方ないので。資料だけでも――」
「待て」
「はい?」
「まず、何を聞きたいのかまとめて出せ」
啓介は目を瞬いた。
「いいんですか?」
「行かせるとは言っとらん。お前自身が何を知りたいのか分からん状態では、話にならんと言っとる」
「はい!」
「声が大きい」
「すみません」
それから数日、啓介は質問事項を何度も書き直した。
戦闘機へ長い航続距離を持たせた時、重量増加が性能へどのような影響を与えるのか。防弾、武装、発動機出力、翼面積をどこまで両立させられるのか。
教官へ提出してから、さらに何日か経った。
「越智」
「はい」
突然、教官室へ呼ばれた。
「休暇の一部を使え」
「……何にですか」
「東京じゃ」
「え?」
「航空研究所へ照会した。向こうも受け入れてよいそうじゃ」
啓介は言葉を失った。
「本当に?」
「大西大佐からも話が行ったらしい」
「大西大佐が……」
「ただし、勘違いするな」
教官の目が鋭くなる。
「これは褒美でも、見学旅行でもない。海軍兵学校生徒として行くんじゃ。相手の時間をいただく以上、質問は整理しておけ」
「はい」
「分からんことを聞くのは構わん。知ったかぶりだけはするな」
「はい」
「帰ったら報告書」
「……論文のほかに?」
「当然じゃ」
「はい……」
「急に元気がなくなったな」
「いえ。光栄です」
「そういうことにしておこう」
◇
東京帝国大学航空研究所で目にするものは、兵学校とはまるで違っていた。
風洞や計測器、機体模型、翼、発動機。研究者たちは、飛行機をどう戦わせるかではなく、なぜ飛ぶのか、何が性能を決めるのかを、実験と数式で一つずつ確かめていた。
啓介の相手をしてくれたのは、佐伯という若い助教授だった。
「戦闘機へ長い航続距離を持たせたい、と」
佐伯は質問書を見ながら言った。
「はい」
「そのうえ高速にしたい」
「はい」
「敵戦闘機と戦える運動性能も欲しい」
「はい」
「武装も強く」
「できれば」
「防弾も?」
「……できれば」
佐伯がとうとう笑った。
「君は欲張りだな」
「やっぱりそうですか」
「全部良くしたいという気持ちは分かる。だが、飛行機はそんなに都合よくできていない」
佐伯は紙へ簡単な機体を描いた。
「航続距離を延ばしたいなら、まず燃料が要る。燃料を増やせば重くなる。重い機体を速く飛ばしたければ、もっと出力が欲しくなる。大きな発動機を積めば、また重量が増える。武装も装甲も同じだ」
啓介は夢中で書き留めた。
「では、どうするんですか」
「何をさせたいかを決める」
「何を?」
「飛行機にだ」
佐伯は鉛筆の先で図を示した。
「遠くの敵爆撃機を迎え撃つ機体なのか。艦隊上空を守る機体なのか。攻撃機について長距離を飛ぶ機体なのか」
「任務から決める……」
「そうだ」
「一機ですべてやる必要はない?」
「全部できれば便利だろう。しかし、そのせいで全部が中途半端になれば意味がない」
「なるほど……」
「それと」
佐伯は質問書を指で叩いた。
「使う側が、こういう飛行機が欲しいと要求するのは必要だ。だが、技術的に出来ないものは、何度要求しても飛ばない」
「……はい」
「逆に技術者が、こんな機体なら作れますと言っても、使う側に必要がなければ兵器として意味がない」
啓介は書く手を止めた。
「戦術と技術は、互いに相手を知らんといかんのだろうな」
その言葉が胸に残った。
戦術と技術は、一方がもう一方へ答えを押しつけるものではなく、互いの条件を突き合わせながら形を決めていくものなのだろう。
「ありがとうございます」
「それにしても」
「はい?」
「海軍兵学校の生徒が、どうしてここまで気にするんだ」
「……考え始めたら、止まらなくなりまして」
「そうか」
佐伯は笑った。
「なら考える癖は大事にした方がいい。ただし、何でも一機へ詰め込む癖は直した方がいいな」
「……気をつけます」
◇
江田島へ戻った啓介は、それまでに書いた草稿を最初から読み返し、何枚にも線を引いた。
「うわ」
横から覗き込んだ村田が声を漏らした。
「ほとんど消したじゃないか」
「東京へ行く前に書いたところ、欲張りすぎだった」
「最初から高木が言うとったじゃろ」
「言ってた」
高木が顔を上げる。
「俺に感謝しろ」
「ありがとうございます」
「素直すぎて気持ち悪い」
「どっちなんだよ」
三人で笑った。
論文の形は、最初に考えていたものから大きく変わっていた。大型攻撃機をどうするのか、戦闘機をどれほど増やすべきか。そこから始まったはずなのに、調べるうちに、その二つだけでは何も完結しないことが見えてきた。
「結局、何が一番大事なんだ?」
高木が原稿をめくりながら聞いた。
以前なら戦闘機、あるいは航空母艦と答えたかもしれないが、今は少し違っていた。
「……繋がってることかな」
「繋がる?」
「敵を見つけても、知らせられなかったら誰も動けないだろ。戦闘機が空を押さえても、攻撃隊が来なきゃ敵は叩けない。攻撃隊が帰ってきても、整備できなきゃ次は飛ばない」
「ああ」
「飛行機があっても搭乗員がいなきゃ動かないし、搭乗員がいても燃料がなきゃ飛べない。たぶん、一つ一つが一番じゃなくてもいいんだよ」
「じゃあ、何が要る?」
「必要な時に、全部がちゃんと繋がって動くこと」
村田はしばらく黙ったあと、原稿の一枚を指で叩いた。
「それ、最後にちゃんと書いたか?」
「……まだ」
「書けよ」
「そうだな」
啓介は鉛筆を取った。
◇
最後まで残ったのは、搭乗員をどう扱うかという問題だった。
機体と違い、経験を積んだ人間は工場から補充することができない。撃墜されても救助できれば経験は残り、負傷した者も治療して復帰させることができる。熟練者の一部を教育へ戻せば、それまでに得た知識を後進へ渡すこともできる。
正確な数字が得られないものは、無理に埋めなかった。
分からないものは、分からないと書く。
それも大西から命じられたことだった。
戦争をする以上、どうしても損害は出る。自分が士官になれば、いつか部下へ危険な命令を出さなければならない日も来るだろう。それでも、同じ任務を果たせる二つの方法があるのなら、少ない損害で済む方を選ぶべきだ。一度の攻撃で部隊の半分を失えば、その部隊は翌日、同じ力では戦えない。
避けられない損失と、避けられる損失は同じではない。それは人命の問題であると同時に、次の戦いにどれだけの戦力を残せるかという問題でもあった。
啓介は文章を読み返し、最後に数行を書き足した。
◇
翌朝、啓介は原稿を抱え、教官室の前へ立った。
「越智啓介生徒、入ります」
「入れ」
「失礼します」
机の前へ進み、原稿を差し出した。
「完成しました」
「ようやくか」
「はい」
教官が受け取る。
予想していたより厚かったらしく、少しだけ眉を上げた。
「……随分あるな」
「調べていたら増えました」
「大西大佐は、論文を一本書けと言っただけじゃぞ」
「途中で自分もそう思いました」
教官が小さく笑い、表紙へ目を落とした。
「『将来海戦ニ於ケル航空兵力ノ運用並ニ航空戦力維持ニ関スル考察』」
「はい」
「大きく出たな」
「……題を変えた方がいいでしょうか」
「もう書いたんじゃろ」
「はい」
「なら、中身で責任を取れ」
「はい」
教官は原稿を机へ置いた。
「後悔しとるか?」
「何をですか」
「大西大佐へ手を上げて質問したことじゃ」
啓介は少し考えた。
あの時に黙っていれば、広島へ資料を探しに行くことも、東京まで出ることもなかった。村田に計算を直され、高木に欲張りすぎだと言われ、夜遅くまで資料と格闘することもなかっただろう。それでも、後悔しているかと聞かれれば、答えは決まっていた。
「いえ」
「そうか」
「面白かったです」
教官は少しだけ笑った。
「なら、よかった」
原稿をもう一度見た。
「これは大西大佐へ送る」
「お願いします」
啓介は敬礼した。
「失礼します」
教官室を出て数歩進んだところで、啓介は長く息を吐いた。
「……終わった」
ようやく肩の力が抜ける。教官室の閉じた戸を一度だけ振り返ったあと、啓介は前を向き、そのまま次の授業へ向かった。




