第二十話 卒業航海
大西瀧治郎は、机の上に置かれた冊子をもう一度開いた。
表紙には、『将来海戦ニ於ケル航空兵力ノ運用並ニ航空戦力維持ニ関スル考察』という、兵学校生徒のものにしてはいささか大仰な題と、その下に越智啓介の名が記されている。
講話の席で手を挙げ、随分と生意気なことを言った三号生徒に、ならば口先だけで済ませず少し頭を使わせてみようと課したものだった。
大型攻撃機は、敵戦闘機をいつまでも速度だけで振り切り続けられるのか。攻撃隊を守るための戦闘機は必要ではないのか。そして、一度の戦果と引き換えに熟練搭乗員を失い続ければ、その次の戦いをどうするのか。
思いつきを並べるだけでは話にならん。数字と資料を拾って一本の論にしてみろ――そう言ったのは大西自身である。
ところが出来上がってきたものは、彼が予想していた生徒論文より、少しばかり広かった。
もちろん、書かれていることの一つ一つが目新しいわけではない。索敵も通信も、整備も補給も、搭乗員養成の重要性も、航空の現場にいる者なら誰もが考えることである。
大西が目を留めたのは、それらを別々の問題として扱っていないことだった。
敵を見つけても、その情報が伝わらなければ攻撃隊は動けない。機体が揃っていても整備できなければ飛ばず、燃料や弾薬が届かなければ二度目の出撃はない。そして、どれほど新しい機体を揃えても、それを使いこなす搭乗員を失えば、航空隊そのものの力が落ちていく。
越智啓介は、それらすべてをひとまとめにして、一つの航空戦力として見ようとしていた。
「……なるほどな」
大西はページをめくった。
だからといって、出来のよい論文というだけで褒めて済ませるつもりはない。戦闘機への期待は大きすぎるし、通信や索敵についても、実際の戦場で論文通りに働くとは限らない。技術的に楽観的な箇所もあり、大西は欄外へ何度も書き込みを入れていた。
それでも読み返すたび、結局は同じところへ戻ってくる。
「……面白い」
特に頭に残ったのは、搭乗員についての考え方だった。
一度の戦闘でどれほど敵を破壊したかだけではなく、その戦闘が終わった時、こちら側にどれほどの戦力が残っているのかを見る。大きな戦果を挙げても、そのたびに熟練者を失っていけば、いずれ同じ攻撃を繰り返すことはできなくなる。
一度勝つことと、何度でも戦えることは同じではない。
講堂で向かい合った時、越智は言っていた。
――帰ってきた人は、次も飛べる。
あの時にはまだ形になっていなかった考えを、広島まで資料を探しに行き、東京の研究者にまで話を聞き、数字と資料を拾い集めて一本の論にしてきた。
「兵学校生徒が、何をやっとるんだ」
呆れたように呟きながらも、大西の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
冊子を閉じると、机の端に置いてあった封筒へ目をやる。
「山本さんなら、どう読むかの」
煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
◇
それから三年が過ぎた。
昭和十三年、春。
越智啓介は二十歳になっていた。
四号生徒として初めて江田島の赤煉瓦を見上げた日は、今では随分と遠く感じられる。寝具の畳み方を直され、敬礼を何度もやり直させられ、端艇では村田と喋って怒鳴られ、水泳では何度挑んでも高木に追いつけなかった。
そんな毎日を積み重ねているうちに、いつしか自分たちが下級生を指導する立場になっていた。
三年前に提出した論文も、出したきりで終わったわけではない。時折、教官を通じて大西から質問や指摘が戻ってきた。
前提が甘い。数字が足りない。現場で本当に可能なのか。
そのたびに啓介は資料を探し直し、計算をやり直し、自分の考えを修正した。今になって最初の論文を読み返せば、自分でも赤を入れたくなる箇所がいくつもある。
それが、不思議と嫌ではなかった。
三年前より分からないことが増えたというのは、見えるものが増えたということでもある。何も知らなかった時には疑問にすら思わなかったことを、今では疑えるようになっている。
そんな四年間の兵学校生活も、いよいよ終わりが近づいていた。
◇
「越智」
「ん?」
後ろから村田に肩を叩かれた。
「出たぞ」
「何が?」
「席次」
その一言で、啓介の顔つきが変わった。
村田がにやりとする。
「気にしとらん顔してたくせに」
「気にするに決まってるだろ」
「行くか」
「ああ」
二人で掲示へ向かうと、すでに大勢の同期が集まっていた。
卒業席次。兵学校を出たあとまで何かと付きまとう、いわゆるハンモックナンバーである。
啓介は人の肩越しに、上から名前を追った。
一番に記された名前を見て、わずかに眉が動く。
やはり、あいつだった。
学術だけではない。教練も統率もよく、この四年間ほとんど隙を見せなかった同期である。
そのすぐ下に、自分の名があった。
二番――越智啓介。
「…………」
しばらく黙っていると、隣から村田が覗き込んだ。
「次席じゃ」
「…………」
「越智?」
「惜しい」
「は?」
「惜しい!」
思わず声が大きくなり、周囲の同期が一斉に振り返った。
「お前、次席で悔しがるんか!」
「ここまで来たら首席取りたかっただろ!」
「欲張りすぎじゃ!」
「だって二番だぞ!」
「二番じゃけん凄いんじゃろうが!」
あちこちから笑いが起き、啓介自身も途中から笑ってしまった。
全国から選ばれた同期と四年間競い続け、その中で二番だったのだから、十分すぎるほどの結果だ。それくらいは自分でも分かっている。
それでも、悔しいものは悔しい。
啓介はもう一度、首席の名前を見た。
「……負けたな」
今度は素直に口にした。
自分には二〇〇五年までの記憶があり、同年代ならまだ知らない知識も最初からいくらか持っていた。それだけ有利なものを持ちながら、それでも一番ではなかった。
「本当に凄い奴って、いるもんだな」
「今さら何じゃ」
「いや」
啓介は笑った。
この四年間、読めるものは読み、走り、泳ぎ、教練にも手を抜かず、同期と議論し、間違えればそのたびに直してきた。そのうえで負けたのなら、認めるしかない。
「まあ、納得するよ」
「急に殊勝になったのう」
「でも次は勝つ」
「何で競うんじゃ」
「知らん」
「やっぱり負けず嫌いじゃないか」
二人で笑った。
◇
その日の午後、啓介は突然、教官室への出頭を命じられた。
「何した?」
立ち上がった途端、村田が寄ってくる。
「何で最初にそれなんだよ」
「心当たりは?」
「……ありすぎて逆に分からない」
「論文じゃないか」
「三年前だぞ」
「大西大佐なら、まだ何か持ってきそうじゃ」
「縁起でもないこと言うなよ」
冗談を返しながらも、胸の奥にわずかな嫌な予感が残った。
教官室の前で姿勢を整え、声を掛ける。
「越智啓介生徒、参りました」
「入れ」
「失礼します」
室内へ入ると、机の前に一通の書類が置かれていた。
「越智」
「はい」
「卒業後のことじゃ」
「はい」
兵学校を卒業すれば、海軍少尉候補生となる。通常ならば同期とともに練習艦隊へ入り、艦上での実務を学びながら遠洋航海へ出ることになる。
啓介も、それを楽しみにしていた。
二〇〇五年の地図や写真ではなく、この時代の世界を、自分の目で見ることができる。
「お前は、通常の練習艦隊とは別の教育課程へ回される」
「…………はい?」
一瞬、聞き間違えたと思った。
「別の、というのは」
「そのままの意味じゃ」
「何か問題がありましたか」
「逆じゃ」
「では、なぜ」
「卒業後は少尉候補生として、指定された特別実務教育へ入る」
「特別実務教育?」
「ああ」
「どこへ行くんですか」
教官は一度書類へ目を落としたあと、啓介を見た。
「満州じゃ」
今度こそ言葉が止まった。
「……満州?」
「そうじゃ」
「満州国の?」
「他にどこがある」
「それは分かっています!」
思わず声が大きくなる。
「自分、海軍ですよね」
「そうじゃ」
「それで、どうして満州なんですか」
「陸海軍航空に関する実務研究じゃ」
「合同で?」
「ああ」
満州、陸軍航空、そして三年前の論文。
頭の中で一本の線がつながりかけた。
「まさか……」
「詳しい説明は、指定された場所で受けろ」
「誰の命令ですか」
「上じゃ」
「どこの上です?」
「行けば分かる」
「それ、説明になってませんよ」
「越智!」
「はい!」
身体が反射的に固まった。
「候補生教育そのものを免除する話ではない。お前だけ士官になるための課程を飛ばすわけでもない。必要な教育は別途組み直して受けてもらう」
「では、順番を変えるだけですか」
「大雑把に言えばそうじゃ」
「前例は?」
「少なくとも、お前が気にすることではない」
「……はい」
「命令書を読め。以上」
「はい!」
敬礼して教官室を出た。
廊下を数歩進んだところで、ようやく足が止まる。
同期と練習艦隊へ乗り、外国の港を回りながら世界を見るはずだった。それが、自分だけまったく別の方向へ外されようとしている。
「満州……」
思い当たるものは、やはり三年前の論文しかない。
だが、生徒が書いた論文一本で、兵学校卒業後の教育順序まで変えることのできる人間など、海軍の中でも限られている。
「……誰だよ」
嫌な予感しかしなかった。
◇
数日後、指定された部屋の前で、啓介は一度深く息を吸い、制服の襟を確かめた。
「越智啓介、参りました!」
「入れ!」
聞き覚えのある声だった。
戸を開けて中へ入る。
「失礼します!」
そこにいた人物を見て、すぐに分かった。
「大西大佐」
「久しぶりじゃな、越智」
「はい!」
三年前、あの日の講話で手を上げなければ、論文を書くこともなかった。
「今回の件は、大西大佐が?」
「わし一人で決められる話ではない」
「では――」
「紹介しよう」
大西が横へ視線を向けた。
そこに座っていた将官を見た瞬間、啓介の思考が止まった。
二〇〇五年の歴史書や写真、そして遊就館でも何度も見た顔だった。
「君が、越智啓介君かね」
低く、落ち着いた声だった。
「……はい」
「山本だ」
言われるまでもない。
山本五十六。現在の海軍次官であり、このまま自分の知る歴史が進めば、やがて連合艦隊司令長官となる男である。
「越智啓介、海軍兵学校生徒であります!」
身体が勝手に固くなる。
「そう緊張せんでもいい」
無理です。
心の中だけで答えた。
歴史上の人物が目の前にいるだけでも十分なのに、その山本五十六が自分の名前を知っている。しかも机の上には、見覚えのある冊子が置かれていた。
「論文は読ませてもらった」
「……ありがとうございます」
「正直に言えば、すべてに賛成というわけではない。航空の可能性を大きく見すぎているところがあるし、通信や索敵も、君の書いた通りに働くとは限らん。技術に期待しすぎている箇所もある」
「……はい」
かなり容赦がない。
横を見ると、大西が少し笑っている。
「だが」
山本は冊子の表紙を指先で軽く叩いた。
「考え方は面白い」
「ありがとうございます」
「普通の生徒論文なら、ここまで話を進めてはいない」
啓介は思わず顔を上げた。
「それは……」
「勘違いはせん方がいい。君の結論が正しいと決めたわけではない」
「はい」
「だから、その先を見てもらう」
「その先、ですか」
「大西君から聞いた通りだな」
「……何を聞かれたのでしょうか」
思わず口から出た。
「越智」
大西がこちらを見る。
「はい!」
山本の口元が少し緩んだ。
「そういうところも聞いている」
何を報告されたのか、聞きたいような、聞きたくないような気分だった。
しかし山本はすぐに表情を戻した。
「君の論文は、紙の上なら一応筋が通っている。しかし、戦は紙の上でやるものではない。敵は計算通りに動かんし、天候も機械も人間も、こちらの都合だけでは動いてくれん」
啓介は黙って聞いた。
「だから、現場を見てこい」
「……それが満州なのですか」
「そうじゃ」
今度は大西が答えた。
「陸軍航空側にも話を通してある」
「自分は、何をするのでしょうか」
「まずは見る」
「見る?」
「お前はまだ搭乗員ではない」
大西の声が少し厳しくなった。
「兵学校を出たばかりの少尉候補生に戦闘機を渡して、論文通りの戦術を試してみろなどとは言わん。操縦者と話せ。整備員と動け。通信を見ろ。補給も見ろ。飛行場が一つの部隊として、実際にどう動いているのか自分の目で確かめろ」
「はい」
「演習にも参加してもらう。不時着した機が出れば、どう回収するのかを見ろ。搭乗員が戻らなかった時、部隊がどう動くのかも見ろ。お前が論文に書いたものが、現場でも本当に同じように見えるのか確かめてこい」
啓介の表情が変わったのを、山本は見逃さなかった。
「そこが一番気になるかね」
「……はい」
「なら、なおさら自分の目で見なさい。ただし、勘違いしてはいかん」
「はい」
「君の論文を証明してこい、と言っているのではない」
啓介は顔を上げた。
「間違っているなら、間違っていると確かめてこい」
「……成功することが目的ではないのですか」
「違う」
山本は即答した。
「現実を知ることが目的だ。君の考えで上手くいかないなら、なぜ上手くいかなかったのかを持って帰ればいい」
大西も頷いた。
「研究所でも似たようなことを言われたじゃろう。要求だけ並べても飛行機にはならんし、理屈だけ並べても部隊は動かん。現場へ行けば、もっと思い通りにならんぞ」
「怖いことを言いますね」
「事実じゃ」
大西が笑った。
山本は机の上から一枚の書類を取った。
「満州で、頭の中だけでは分からんものを見てきなさい」
「はい」
「上手くいかなかったら?」
啓介は少し考えた。
「失敗した理由を持って帰ります」
「では、上手くいったら?」
「成功した理由を持って帰ります」
山本が頷いた。
「それでいい」
「はい!」
背筋を伸ばしたところで、啓介はどうしても気になることを思い出した。
「質問してもよろしいでしょうか」
「何かね」
「練習航海は」
大西が即答した。
「諦めろ」
「…………」
「必要な候補生教育は別途受けさせると言うたじゃろう」
「世界を見られると、楽しみにしていたんですが」
「満州も世界じゃ」
「そういう問題でしょうか」
「命令じゃ」
「……はい」
それを言われれば終わりだった。
山本が小さく笑う。
「ただ、出発までは少し日がある。兵学校を出たら、一度故郷へ帰ってきなさい。数日程度だが、出発までの都合はつけてある」
啓介は思わず顔を上げた。
「いいのですか」
「ああ」
「ありがとうございます!」
「声が大きい」
「すみません」
それでも、口元が緩むのを止められなかった。
重吉とトヨに会える。そして、奈々にも。
雪の日から四年。手紙は何度も交わしてきたが、顔を合わせるのはあの日以来だった。久しぶりに故郷へ帰れると思うだけで嬉しくなる。
だが、その嬉しさのすぐ後に、別のことが頭へ浮かんだ。
帰れば、話さなければならない。
練習艦隊へ行くはずだった予定が変わり、その先には満州が待っていることを。
「どうした」
大西に聞かれた。
「いえ」
「急に難しい顔になったぞ」
「帰ったら、説明しないといけない人がいまして」
「両親か」
「それもあります」
大西がわずかに眉を上げた。
山本は何も言わず啓介を見たあと、少しだけ笑った。
「なら、自分の口で話してきなさい」
「はい」
啓介は姿勢を正した。
兵学校へ入った時、自分は未来を変えたいと思っていた。けれど、何をすれば変えられるのかも、どこから手をつければよいのかも分からなかった。
三年前、ただ疑問に思ったことを口にし、その疑問を調べて一本の論文を書いた。それが今、自分を江田島の外へ押し出そうとしている。
怖さはあったが、それでも逃げたいとは思わなかった。
「海軍兵学校生徒、越智啓介」
一度大きく息を吸う。
「命を受けます」
◇
その頃、愛媛では、奈々が村上家の縁側に座り、啓介から届いた手紙を読んでいた。
「ふふっ」
思わず漏れた笑い声に、針仕事をしていた綾乃が顔を上げる。
「何がそんなにおかしいの?」
「啓ちゃん」
「またお手紙?」
「うん」
「元気そう?」
「元気」
奈々は嬉しそうに頷き、もう一度手紙へ目を落とした。
「もうすぐ卒業やって。それでね、席次も出たんやって」
「どうだったの?」
「二番」
「まあ、すごいじゃない」
「本人は悔しいんやって」
綾乃は少し笑った。
「……啓介くんらしいわね」
「やろ?」
奈々も嬉しそうに笑う。
手紙には、以前書いた論文についても少し触れられていた。偉い航空将校の話を聞いていて気になることがあり、質問したところ、なぜか話が大きくなって論文を書くことになったという。
「気になったら、そのままにできん人やけん」
奈々が言うと、綾乃は娘の横顔を見ながら頷いた。
「昔からそうだったわね」
「最近はもっと酷いんよ」
「それ、悪口?」
「違うもん。啓ちゃんらしいなって」
奈々は手紙を丁寧に撫でた。
「それでね、母さま。卒業したら、一度帰ってこられるって」
その一言を口にした途端、奈々の顔が一気に明るくなった。
「まあ。それはよかったわね」
「うん!」
「では、いろいろ準備しないとね」
「そうなんよ」
奈々は勢いよく立ち上がった。
「お味噌汁、もう一回見て」
「まだ練習するの?」
「当たり前やん」
「もう十分上手でしょう」
「まだ駄目。啓ちゃん、最初のはまずかったって、ずっと言うもん」
綾乃が吹き出した。
「それは、あなたが本当に不味いものを出したからでしょう」
「だから今度は絶対言わせんの!」
「もう何年練習してるの」
「一生分」
「まあ」
「……何その顔」
「何でもありませんよ」
「絶対何か考えたやろ」
「さあ」
「母さま!」
綾乃が笑い、奈々もつられて笑った。
しばらくして再び縁側へ腰を下ろすと、奈々は手紙を開き、卒業したら一度帰ると書かれた一文をもう一度読み返した。
啓介が帰ってくる。
今は、それだけで十分だった。




