第二十一話 ただいま
海軍兵学校を卒業したあと、啓介に与えられた帰郷の日数は短かった。それでも、四年ぶりに故郷へ帰れるというだけで十分だった。
船を降り、汽車を乗り継ぐにつれて、窓の外の景色が少しずつ見慣れたものへ変わっていく。山の形、田畑の広がり方、その向こうに時折見える海。兵学校へ向かった四年前にも通ったはずの景色なのに、今はどこか以前とは違って見えた。
二十歳になったからなのか、四年間を江田島で過ごしたからなのか。それとも、この短い帰郷のあとには満州が待っていると知っているからなのか。
啓介は窓際へ頬杖をつきかけ、無意識に背筋を伸ばした。江田島で身についた癖は、そう簡単には抜けないらしい。
今の自分は海軍少尉候補生だった。兵学校を出たばかりで、一人前の士官になったつもりなどない。それでも、四年前に村を出た少年とは、多少なりとも違う姿で帰ることになる。
重吉は何と言うだろう。トヨはきっと、顔を見るなり飯を食べているかと聞くに違いない。
そして、奈々は。
最後に顔を合わせたのは、兵学校へ向けて村を発った朝だった。まだ早い時刻だというのに見送りに来てくれた奈々と別れ、それから四年、手紙だけは何度も交わしてきた。江田島での暮らしも、村で起きたことも、どうでもいい話も書いたし、たまには真面目な話もした。
雪の日に交わした約束のことも、忘れたことはない。
それでも、顔を見て話すのは、あの出発の朝以来になる。
「……変に緊張するな」
思わず声に出ると、隣に座っていた老人がちらりと啓介を見た。
「あ、すみません」
「何がじゃ」
「いえ……」
老人は軍装姿の啓介をしばらく眺め、それから穏やかに笑った。
「里帰りかね」
「はい」
「そりゃ親御さんも喜ぶじゃろ」
「……そうだといいんですが」
「何を言いよる。こんな立派になって帰ってきたら、喜ばん親がおるか」
啓介は少し照れながら頭を下げた。
「ありがとうございます」
汽車はゆっくりと、故郷へ近づいていった。
◇
村へ続く道へ入った時、啓介は最初、自分の目を疑った。
「……何だ、あれ」
道の向こうに人が集まっている。一人や二人ではない。十人を優に超え、その向こうからもまだ人が増えていた。
近づくにつれて、見覚えのある顔が一つ、また一つと分かってくる。
「来たぞ!」
誰かが叫んだ。
「啓介じゃ!」
「ほんまに帰ってきた!」
「おお、海軍さんじゃ!」
啓介は思わず足を止めた。
「いやいやいや……」
聞いていない。
普通に家へ帰り、父と母へ挨拶するつもりだった。なぜ村の人間まで待っているのか。
「啓介!」
人垣の向こうからトヨが飛び出してきた。
「母ちゃん」
その顔を見た瞬間、胸の奥が急に熱くなった。
トヨは啓介の前まで走ってくるなり、頬へ両手を伸ばした。
「ちょ、母ちゃん」
「痩せた?」
「いきなりそこ?」
「ちゃんと食べよったん?」
「食べてたよ」
「ほんま?」
「兵学校から帰って最初にそれ?」
「顔見たら気になるやろ!」
頬を触られ、肩を触られ、しまいには腕まで掴まれる。
「丈夫そうにはなったねえ」
「検査されてる気分なんだけど」
「怪我は?」
「ない」
「病気は?」
「してない」
「ほんまに?」
「ほんとだって」
四年前と何も変わっていない。
啓介は堪えきれずに笑った。
「母ちゃん」
「何」
「ただいま」
トヨの手が止まった。
一瞬だけ何かを堪えるような顔をしたあと、その目元がゆっくりと崩れた。
「……おかえり」
声が震えていた。
「啓介、おかえり」
「うん」
そのまま抱きしめられた。
二十歳にもなって村中の前で母親に抱きしめられるのは少し恥ずかしい。それでも、振りほどこうとは思わなかった。
「母ちゃん、人見てる」
「見せとけばええ!」
「そういう問題?」
周囲から笑い声が上がった。
「トヨさん、四年分じゃ!」
「そりゃ離さんわ!」
「啓介、諦めえ!」
「助けてくださいよ!」
啓介も笑いながら答えた。
その向こうに、皆から少し離れて腕を組んでいる男がいた。
「父ちゃん」
「……おう」
相変わらずだった。
啓介が近づくと、重吉は息子を上から下まで眺めた。
「大きゅうなったな」
「四年前よりは」
「そうか」
「うん」
それきり、二人とも黙った。
会いたかった。手紙では書けなかったことも、いくらでもある。それなのに、いざ顔を合わせると何を言えばいいのか分からない。
どうやら父も同じらしい。
「父ちゃん」
「何じゃ」
「ただいま」
「ああ」
重吉は一度だけ頷いた。
「おかえり」
そして次の瞬間、啓介の肩を強く叩いた。
「よう帰った」
「……うん」
「よう帰ったのう」
啓介は笑った。
「父ちゃん、痛い」
「鍛えとるんじゃろ」
「そういう問題じゃないよ」
重吉も、ようやく笑った。
◇
その後は大変だった。
「越智さんとこの啓介、よう見せてみい!」
「ほんまに兵学校出たんか!」
「次席じゃろ?」
「何で知ってるんですか!」
「トヨさんが!」
「母ちゃん!」
「ええやないの!」
兵学校次席という話まで、すでに村中へ広まっていた。
「海軍少尉さんじゃ!」
「まだ候補生です!」
「似たようなもんじゃろ!」
「全然違います!」
「軍艦には乗ったんか?」
「まだです!」
「飛行機は?」
「操縦できません!」
「何ができるんじゃ?」
啓介は少し考えた。
「……怒られても、すぐ返事ができます」
一拍置いて、大きな笑いが起こった。
「何じゃそれ!」
「兵学校で四年間鍛えました!」
「それだけか!」
「それだけじゃないですけど!」
啓介も笑った。
四年前、この人たちに見送られて村を出た。今は、その同じ人たちが自分を迎えている。
子供の頃に祭りの支度を一緒にした男もいた。水路をさらった人もいる。学校へ向かう途中、何度も挨拶を交わした老人もいる。
自分は、この村で育った。
故郷を離れて暮らしたからこそ、そのことが以前よりよく分かった。
「啓介くん」
「はい?」
「立派になったのう」
老人に言われ、啓介は少し困ったように笑った。
「まだ何にもしてませんよ」
「兵学校を出ただけでも大したもんじゃ」
「……ありがとうございます」
自然と頭が下がった。
その時、人垣の向こうに見覚えのある姿を見つけた。
啓介の目が止まる。
奈々だった。
四年前より明らかに大人びている。髪の結い方も変わり、顔立ちからも少女らしさが少し薄れていた。手紙の文字でしか知らなかった四年間が、そのまま目の前に立っているようだった。
奈々もこちらを見ている。
目が合った。
なぜか、二人ともすぐには動けなかった。
周囲には大勢の大人がいる。村上家の娘と、越智家の息子。もう十一歳の子供ではない。
啓介がどう声を掛けようか迷っていると、奈々の方が先に口を開いた。
「啓介」
いつもより少しだけ改まった声だった。
「ご卒業、おめでとうございます」
「あ……ありがとう」
呼び方はいつも通りなのに、言葉だけが妙に他人行儀だった。
それがおかしくもあり、少しだけ寂しくもある。奈々自身も落ち着かないらしく、笑ってはいるものの、視線がわずかに揺れていた。
「奈々も……元気だった?」
「うん。啓介も元気そうやね」
「手紙では知ってたけど」
「うちも」
そこで会話が途切れた。
とうとう啓介の方が耐えられなくなった。
「何だこれ」
「何が?」
「四年ぶりに会って、こんな会話する?」
奈々の口元が揺れた。
「だって、みんなおるし」
「それはそうだけど」
奈々は一度周囲を見た。
少し離れたところでは、大人たちが笑いながらこちらを見ている。どう考えても聞き耳を立てていた。
奈々はほんの少しだけ啓介へ近づいた。
「……おかえりなさい、啓ちゃん」
大人たちには届かないほどの、小さな声だった。
四年ぶりに、目の前の奈々から聞いた。
人の前では自然と使わなくなった呼び方。それでも二人の間では、何一つ変わらず残っている呼び方だった。
啓介は思わず笑った。
「うん。帰ってきたよ」
奈々も笑った。
それだけで、四年間離れていた距離が少し縮まったような気がした。
「後で話せる?」
「うん」
「いっぱいある」
「俺も」
「絶対よ」
「ああ」
「逃げたらいかんよ」
「何で俺が逃げるんだよ」
「昔から急にどっか行くけん」
「俺の意思じゃないことも多いんだけど」
「知らん」
その言い方まで昔と変わらない。
啓介はまた笑った。
◇
その日の夕方、越智家の食卓には普段よりずっと多くの料理が並んでいた。
「こんなに要らないって」
「何言いよるん」
トヨがさらに一皿置く。
「今日は祝いなんやけん」
「昼からずっと祝いだったよ」
「家のは別」
「何が違うの?」
「違うもんは違う」
「はいはい」
「はいは一回」
啓介は思わず笑った。
「……奈々みたいなこと言うなあ」
重吉も椀を持ちながら口元を緩めた。
「似た者同士じゃな」
「どっちが?」
「知らん」
「またそれ」
久しぶりに父と母と同じ卓を囲みながら、江田島でのことを話した。起床直後から怒鳴られたこと、端艇、水泳、村田や高木のこと。そして大西に質問した結果、なぜか論文を書く羽目になったこと。
話せる範囲だけではあったが、重吉もトヨも楽しそうに聞いていた。
「村田いう子は、よう手紙に出てきたね」
「数学がものすごく出来るんだよ」
「啓介より?」
「うん」
トヨが目を丸くした。
「おるんやねえ」
「どういう意味?」
「啓介が最近、何でも出来るみたいな顔しとったけん」
「してないよ」
「小さい頃は宿題も――」
「その話まだする?」
重吉が低く笑い、啓介もつられて笑った。
楽しかった。
だからこそ、その話を切り出すまで少し時間が掛かった。
「父ちゃん。母ちゃん」
声の調子が変わったことで、二人とも啓介を見た。
「話がある」
重吉の箸が止まった。
「卒業したら練習艦隊へ行くって、手紙に書いただろ」
「ああ」
「……予定が変わった」
トヨの顔から笑みが消えた。
「どこ行くん?」
「満州」
部屋が静かになった。
「満州?」
「うん」
「何で海軍が満州へ行くん」
「特別な教育なんだ。陸軍航空の部隊を見て、航空隊が実際にどう動いているのかを学んでくる」
「戦に行くんか」
重吉が低い声で尋ねた。
「違う」
そこは、はっきり答えた。
「今の俺は、そもそも飛行機を操縦できない。戦闘に参加するためじゃないよ。飛行場の運用や整備、通信、補給、そういうものを実際に見て学ぶのが目的なんだ」
「ほんまに?」
トヨが聞く。
「ああ」
「危ないことは?」
「絶対にないとは言えないけど」
「ほら!」
「母ちゃん」
啓介は苦笑した。
「外国へ行く練習航海だって、絶対安全とは言えないだろ」
「そりゃそうやけど……」
「俺も、行ってみないと分からないことが多いんだ」
重吉はしばらく黙っていた。
「命令なんか」
「うん」
「なら、行くんじゃな」
「ああ」
「……そうか」
それだけだった。
トヨはまだ納得できない顔をしている。
「いつ?」
「ここを出たら準備して、すぐ向こうへ行く」
「またすぐなん?」
「うん」
トヨは俯いた。
「母ちゃん」
「分かっとる」
少し強い声だった。
「兵学校行った時から分かっとったよ。ずっとこの家におれる仕事やないって」
「うん」
「でも、帰ってきたばっかりやん」
その一言に、啓介は何も返せなかった。
重吉が静かに味噌汁を飲んだ。
「なら」
父が言った。
「おる間は、ちゃんと家におれ」
「……うん」
「満州のことは、行く時に考えればええ」
「そうだな」
「今は帰ってきたんじゃろ」
啓介は父を見た。
「ああ」
「なら、飯食え」
「……うん」
啓介は箸を取った。
トヨも小さく息を吐き、食事へ戻った。
少し濃い味噌汁だった。
懐かしい味だった。
◇
翌日、啓介は村上家を訪れた。
子供の頃から何度も出入りした家なのに、門の前へ立つと妙に緊張する。
「ごめんください」
声を掛けると、すぐに家の家政婦さんが出てきた。
「越智さん!」
「ご無沙汰しております」
「お帰りなさいませ。旦那さまも奥さまもお待ちですよ」
「ありがとうございます」
案内されて廊下を歩いていると、奥から声が聞こえた。
「啓ちゃん来た!?」
続いて、こちらへ近づいてくる足音がする。
「奈々! 廊下を走るな!」
清一郎の声が飛んだ。
「はーい!」
返事だけはいい。
次の瞬間、奈々が曲がり角から現れた。
「……走ってるじゃん」
「走ってない」
「今見たけど」
「早歩き」
「無理あるだろ」
「うるさい」
奈々は啓介の腕を掴みかけ、奥から清一郎の咳払いが聞こえた途端、ほんの少しだけ動きを止めた。
「……ほら、啓介。父さま待っとるけん」
「急に呼び方変わったな」
「うるさい」
小声で言い返す顔は、昔のままだった。
◇
座敷には清一郎と綾乃が待っていた。
啓介は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。海軍兵学校を無事卒業いたしました。これまで父母ともども、いろいろとお世話になりました」
清一郎は一瞬黙り、それから苦笑した。
「……随分、堅うなったのう」
「え?」
「昔のお前さんなら、入ってくるなり新聞を見せてくれと言うとった」
綾乃が笑った。
「本当に」
「いや、今日は一応ちゃんとしようと思って」
「一応か」
清一郎の顔も緩む。
「まあ、座れ」
「はい」
「そこは『はい』でええんじゃな」
「もう癖です」
「兵学校は大したところじゃ」
全員が笑った。
それから清一郎は、改めて啓介を見る。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
「次席じゃったそうじゃな」
「何でここまで知ってるんですか」
「この村で知らん者がおると思うか」
「……思いません」
「正解じゃ」
また笑いが起きた。
綾乃も穏やかに言った。
「立派になりましたね、啓介くん」
「まだ少尉候補生です」
「それでもですよ」
「ありがとうございます」
横を見ると、奈々が嬉しそうにこちらを見ていた。
目が合うと、小さく笑う。
その顔を見た瞬間、雪の日の約束が頭をよぎった。
偉くなったら、奈々を迎えに来る。
兵学校を出たからといって、それを果たしたことにはならない。むしろ、ようやく最初の一歩を踏み出しただけだった。
◇
しばらく近況を話したあと、清一郎が尋ねた。
「それで、これからは練習艦隊か」
「……そのことなんですが」
奈々が顔を上げた。
啓介は少し息を吸った。
「予定が変わりました。満州へ行くことになりました」
奈々の表情が止まり、清一郎も眉を寄せた。
「満州?」
「はい」
「海軍の候補生が、なぜ満州なんじゃ」
「陸軍航空の実際を学ぶためです」
啓介は、話せる範囲で説明した。
三年前に航空について論文を書いたこと。その論文が大西を経て山本五十六海軍次官のところまで回り、机上で考えるだけではなく、実際の航空部隊を見てこいと命じられたこと。
操縦者がどう働き、整備員がどう機体を支え、通信や補給、救難が現場でどう動いているのか。自分の考えが正しいのか、それとも間違っているのかを含め、自分の目で確かめてくる。
「戦うために行くわけではありません」
最後に、そこだけははっきりと伝えた。
清一郎はしばらく啓介を見ていた。
「本当にか」
「はい」
「前線へ出る話ではないんじゃな」
「今の自分は、搭乗員ですらありません」
「そうか……」
清一郎が少しだけ息を吐いた。
奈々は黙っている。
「奈々?」
「いつ行くん?」
「ここを出たら、準備してすぐ」
奈々の視線が落ちた。
「昨日、帰ってきたばっかりやん」
「うん」
「また行くん?」
「……うん」
同じことをトヨにも言われた。
けれど、奈々に言われると胸の違うところへ刺さる。
「どれくらい?」
「分からない」
「いつ帰れる?」
「それも、まだ」
清一郎の眉がほんのわずかに動いたが、奈々の前では何も言わなかった。
奈々は俯いたままだった。
兵学校へ行くと決めた時もそうだった。奈々は、行くなとは言わない。自分の選んだ道を、いつも応援してくれる。
だからこそ、胸が痛んだ。
「ごめん」
思わず口から出た。
奈々が顔を上げる。
「なんで謝るん?」
「だって」
「啓介が決めたん?」
「いや。命令だけど」
「なら、啓介が悪いわけやないやん」
「でも――」
「行きたいん?」
聞かれ、啓介は黙った。
嘘をつきたくはなかった。
「……見たい」
「そっか」
「論文を書いた時から、現場が実際にどうなってるのかは知りたかった。だから、行けるならちゃんと勉強したい」
奈々は少しの間黙っていたが、やがて困ったように笑った。
「ほんなら、行っておいで」
「奈々」
「そんなん言われたら、行くなって言えんやん」
「……ごめん」
「また謝った」
「じゃあ、ありがとう」
「それも変」
ようやく奈々が笑った。
それでも、その目の奥にはまだ少しだけ寂しさが残っていた。
◇
「そういえば」
綾乃が、空気を変えるように口を開いた。
「奈々も啓介くんへ話すことがあるでしょう」
「母さま!」
「何じゃ?」
清一郎まで奈々を見る。
どうやらこちらは知らなかったらしい。
「何?」
啓介も首を傾げた。
「……別に」
「今絶対あるだろ」
「母さま!」
「いいじゃありませんか」
綾乃は楽しそうだった。
「奈々、先生になりたいそうですよ」
「え?」
啓介は思わず奈々を見る。
「先生?」
「……うん」
奈々が少し照れたように頷いた。
「いつから?」
「前から」
「聞いてないぞ」
「ちゃんと決めてから言おうと思っとったんよ」
奈々は膝の上で指を組んだ。
「女学校を出てからも勉強続けよって、先生になるために必要なことを今も勉強しよるん」
「そうだったのか」
「うん」
「何を教えたいの?」
奈々は少し考え、庭へ目を向けた。
「子供に色々教えたい。歌も好きやけん、できたら歌や音楽も教えたいなって思っとる」
「奈々らしいな」
「ほんま?」
「ああ」
奈々は少し嬉しそうに笑った。
「うち、小さい頃から色々教えてもらえたやん。本もあったし、女学校にも行かせてもろた。でも、みんなが同じやないやろ」
啓介は黙って聞いた。
「女の子やけんって学校を続けられん子もおるし、勉強したくてもできん子もおる。そういう子らに、知らんこと知るんって面白いんよって、教えられたらええなと思って」
「……そうか」
「それに」
奈々がこちらを見る。
「啓介、昔から本ばっかり読んどったやん」
「それ関係ある?」
「あるよ」
「どこが?」
「知らんこと知るん、楽しそうやった」
「……そうかな」
「そうやったよ」
奈々は笑った。
啓介はしばらく、その顔を見ていた。
四年前、自分は兵学校へ行く。奈々は村に残る。
どこかで、そんなふうに勝手に考えていた。
違った。
自分が江田島で四年を過ごしていた間、奈々も奈々の道を歩いていたのだ。
「いいな」
「え?」
「先生」
「ほんま?」
「ああ。奈々、向いてると思う」
「何で?」
「世話焼きだから」
「褒めてないやん!」
「褒めてるよ」
「どこが!」
「飯食べろとか、身体壊すなとか、手紙書けとか」
「それは啓介が心配やったからやろ!」
言い終えたところで、奈々が止まった。
啓介も黙る。
綾乃が口元を袖で隠し、清一郎がわざとらしく咳払いをした。
「父さま!」
「わしは何も言っとらん」
「母さまも笑わんといて!」
「笑ってませんよ」
「笑っとる!」
奈々の顔が赤くなった。
啓介も、何となく耳が熱かった。
◇
そのまま夕食も村上家でいただくことになった。
啓介は最初遠慮したが、
「帰ってきたんじゃ。今日くらいええじゃろ」
と清一郎に言われ、そのまま残った。
久しぶりに見る料理が並ぶ食卓の中で、奈々が一つの椀を啓介の前へ置いた。
「…………」
味噌汁だった。
「何その顔」
「いや」
「飲んで」
「何で命令形?」
「いいけん」
奈々は啓介の正面へ座り、じっとこちらを見ている。
「……そんな見られたら飲みにくいんだけど」
「ええから飲んで、啓介」
「分かったよ」
椀を持つと、湯気の向こうから味噌と出汁の匂いがした。
最初に奈々が作った一杯を思い出す。
まだ十一歳だった頃、村上家の台所で、得意そうな顔をして出された味噌汁を一口飲み、啓介は何の遠慮もなく言った。
『……まずい』
今になって思えば、もう少し言い方というものがあった気はする。
啓介は汁を口へ含んだ。
奈々が少し身を乗り出す。
「どう?」
もう一口飲む。
「啓介?」
「……うまい」
「…………」
「ちゃんとうまいよ」
奈々の目が大きくなった。
「ほんま?」
「ああ」
「ほんまに?」
「何回聞くんだよ」
「うちが聞いとるん!」
「うまいって」
奈々の顔が一気に明るくなった。
「ほら!」
なぜか綾乃へ向かって胸を張る。
「母さま! 言うたやろ!」
「何を?」
「絶対、美味しいって言わせるって!」
「何年前の話ですか」
「ずっと覚えとったもん!」
「執念深いなあ」
「啓介!」
皆が笑った。
啓介も笑いながら、もう一度椀を持つ。
味は本当にうまかった。
それなのに、あの不味かった最初の一杯まで、なぜか少し懐かしく思えた。
◇
帰る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
清一郎と綾乃に見送られて門を出ると、奈々もそのまま外までついてきた。
二人で少しだけ歩く。
子供の頃なら、家まで送る、送らないで言い合った道だった。
村上家の灯りが少しずつ遠くなり、二人きりになったところで、奈々の声も自然と元へ戻った。
「啓ちゃん」
「ん?」
「先生、ほんまに似合うと思う?」
「ああ。さっきも言っただろ」
「父さまがおったけん、ちゃんと聞けんかった」
「何だそれ」
「ええやん」
啓介は笑った。
「似合うと思うよ。奈々なら、いい先生になる」
「……そっか」
奈々も嬉しそうに笑ったが、やがてその表情が少しだけ曇った。
「啓ちゃんも、満州行ってちゃんと勉強するん?」
「もちろん」
「いつ帰るか分からんのよね」
「うん」
「手紙は?」
「書く」
「ほんま?」
「書ける限り」
「忘れん?」
「忘れないよ」
何度も繰り返してきた会話だった。
奈々は一度俯いた。
「じゃあ」
「うん」
「待っとる」
啓介の胸が少し詰まった。
雪の日と同じ言葉だった。
けれど、あの頃より少しだけ重く聞こえた。
「ああ」
それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。
奈々が顔を上げる。
「ちゃんと帰ってきてよ」
「うん」
「今度は、もっと美味しいお味噌汁作るけん」
「今日ので十分うまかったよ」
「もっと」
「どこまで上達するつもりだよ」
「啓ちゃんが文句言えんくらい」
「今日もう言ってないだろ」
「念のため」
「何の念だよ」
奈々が笑った。
啓介も笑う。
しばらくして、奈々が小さく言った。
「……おやすみ、啓ちゃん」
「おやすみ、奈々」
啓介は歩き出した。
数歩進んだところで、足を止める。
何となく振り返ると、奈々はまだそこにいた。
「奈々」
「何?」
啓介は少し笑った。
「ただいま」
奈々は一瞬、目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……おかえり、啓ちゃん」
数日後には、またこの村を離れる。
それでも今夜だけは、啓介はちゃんと帰ってきていた。




