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第二十二話 最初の部下たち

 帰郷の日々は、あっという間に終わった。


 数日という時間は、四年ぶりに戻った故郷で過ごすにはあまりにも短い。重吉の畑仕事を少し手伝い、トヨの料理を腹いっぱい食べ、村の人間に捕まって兵学校の話をさせられているうちに、もう出発の日になっていた。


 朝、越智家の前で荷物を持った啓介に、重吉は相変わらず余計なことを言わなかった。


「身体だけは気ぃつけろ」


「うん」


「分からんことは聞け。出来んことは、出来るようになるまでやれ」


 兵学校へ向かった四年前にも聞いた言葉だった。


 啓介は少し笑った。


「分かってる」


「なら、ええ」


 その横では、トヨが重吉とは正反対に、言いたいことを全部口にしていた。


「飯はちゃんと食べるんよ。向こうが寒いからいうて風邪ひいたらいかんし、怪我したらすぐ医者行くんよ。それから手紙も書いて、無茶なこと言われても何でもはいはい聞かんで――」


「母ちゃん」


「何?」


「兵学校で四年間、ずっと似たようなこと言われてきたよ」


「母親が言うんは別やろ」


「そういうもの?」


「そういうもん」


 反論しても勝てそうにない。


「……分かった。気をつけるよ」


 トヨはそれでも納得しきれないようだったが、最後には啓介の襟元を直し、少しだけ目を細めた。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 重吉にも頭を下げると、父は「ああ」とだけ答えた。


 村を出る道を歩き始める。


 まだ朝は早く、田畑の向こうに薄い靄が残っていた。四年前にも同じ道を歩いたはずなのに、今日は少し違って見える。


 村外れの分かれ道へ来たところで、見覚えのある姿が立っていた。


「奈々」


「遅い」


「約束してた?」


「してない」


「じゃあ遅くないだろ」


「うちが待っとったんやけん、遅いん」


「無茶苦茶だな」


 奈々は小さく笑った。


 この時間なら、周囲には誰もいない。畑へ向かう農家の姿もまだ遠く、二人の声を聞く者はいなかった。


 奈々は啓介の荷物を一度見て、それから顔を上げた。


「もう行くんやね」


「ああ」


「満州、寒いんやろ?」


「場所によるんじゃないか。俺もまだ行ったことないから分からないよ」


「ちゃんと厚い服持った?」


「母ちゃんと同じこと言うなよ」


「大事なことやん」


「持ったよ」


「手紙は?」


「書く」


「ほんまに?」


「書ける時はちゃんと書く」


 奈々は少しだけ安心したように頷いたものの、笑顔の奥にはまだ寂しさが残っていた。


「ちゃんと帰ってきてよ」


「ああ」


「約束やけんね」


「分かってる」


 雪の日にも、昨夜にも、何度も同じような言葉を交わした。それでも、出発の朝に聞くと少しだけ重さが違う。


 奈々はしばらく啓介を見ていたが、やがていつものように笑った。


「いってらっしゃい、啓ちゃん」


 啓介も笑う。


「行ってきます」


 それだけだった。


 けれど歩き始めてからも、その声はしばらく耳に残っていた。


     ◇


 呉で命令書と必要な書類を受け取ったあと、啓介は大陸へ向かう船に乗った。


 瀬戸内を離れ、西へ進むにつれて日本列島が遠ざかっていく。


 同期の多くは、今頃それぞれの練習艦隊で少尉候補生として実務を学んでいるはずだった。村田も高木も、自分とは違う場所で新しい生活を始めている。


 その一方で、啓介の手元にある命令書には、索敵、通信、整備、補給、救難、航空部隊の継続運用といった文字が並んでいた。


 文章にすれば堅苦しい。


 だが、山本と大西から言われたことは、もっと単純だった。


 まず現場を見ろ。そして、自分の考えが正しいと思い込むな。間違っているなら、その理由を持って帰ればいい。


「……海軍に入って、最初に行くのが大陸か」


 甲板から海を眺めながら、啓介は小さく笑った。


 兵学校を次席で卒業した。航空戦についても何年も考え、論文まで書いた。


 しかし、実際の航空部隊が一日をどう動かしているのかさえ、まだまともに見たことがない。まして戦闘機の操縦経験もなく、空中戦など一度も経験していなかった。


 考えてみれば、満州へ送られた理由は明快だった。


「まずは教えてもらうところからだな」


 そう口にすると、少しだけ肩の力が抜けた。


     ◇


 船が大連へ近づく頃、啓介は甲板から街を眺めていた。


「……ここが大連か」


 港には大小さまざまな船が出入りし、岸には倉庫や建物が連なっている。日本語の看板もあれば中国語もあり、軍人や商人、荷役の労働者が入り交じって歩いていた。


 二〇〇五年の地図では何度も見たことがある。歴史の本にも大連という地名は出てきた。


 けれど、本の中に書かれた街と、目の前にある街はまるで違った。


 汽笛が鳴り、荷物が運ばれ、人が働いている。ここで生まれ、ここで商いをし、日が暮れれば家へ帰る人間がいる。


 歴史の舞台ではなく、今この瞬間にも人が暮らしている土地なのだ。


 大連からは鉄道で北へ向かった。


 列車に乗ってしばらくすると、啓介は車窓から目を離せなくなった。


「……広いな」


 最初に口から出たのは、それだけだった。


 愛媛なら、しばらく進めば山が迫り、道が曲がり、集落が現れる。田畑の形も変わり、場所によっては遠くに海も見えた。


 ところが、ここでは大地そのものがどこまでも続いている。列車が何時間走っても、景色の向こうにまだ土地があり、畑と草原が延々と続いていた。


 地平線が驚くほど遠い。


「この距離を、全部運ぶのか……」


 兵学校で何度も書いた言葉が、頭へ浮かぶ。


 兵站。


 燃料、食糧、弾薬、交換部品、人員。航空部隊なら、それに航空燃料や整備器材、通信機材まで加わる。


 いくら優秀な飛行機があっても、必要な物を必要な時に必要な場所まで届けられなければ飛ばせない。


 その理屈は知っていた。教官からも教わり、論文にも書いた。


 しかし、満州の大地を自分の目で見て初めて、その言葉へ重さが加わった。


 距離そのものが、軍隊の力を奪う。


「……これも、数字だけじゃ分からなかったな」


 啓介は鞄から帳面を取り出し、気づいたことを書き留めた。


     ◇


 長い鉄道移動を経て、ハルビンへ近づく頃には空気まで変わっていた。


 春とはいえ風は冷たく、街にはロシア風の建物が並んでいる。耳へ入ってくる言葉も一つではなく、愛媛とも江田島ともまるで違った。


 啓介の目的地は、さらにその郊外にあった。


 軍用車に揺られることしばらく。やがて土の滑走路が見え、その周囲に格納庫や兵舎、燃料施設、整備場が現れた。


「……ここか」


 滑走路の向こうには何機もの航空機が並んでいる。


 陸軍の九七式戦闘機。


 少し離れた場所には、海軍の九六式艦上戦闘機まであった。


 陸海軍双方の航空運用を調べるという話は、本当らしい。


 車を降りると、発動機の音が身体へ響いた。風の中には燃料と油の匂いが混じり、整備員たちが機体の周囲を忙しく動いている。


「越智候補生でありますか」


 声を掛けられ、啓介は振り返った。


「はい。越智です」


「お待ちしておりました。まず司令部へご案内します」


「お願いします」


 もう一度だけ飛行場を見渡してから、その後を追った。


 ここから先は、本では読めない。論文にも書けなかったものを、自分の目で確かめることになる。


     ◇


 満州へ来てしばらくの間、啓介に部下などいなかった。


 むしろ、徹底して教わる側だった。


 朝、最初の一機が飛ぶまでに何を準備するのか。一機を飛ばすために何人が働き、どれだけの燃料を使うのか。故障した機体の部品はどこから持ってきて、通信が切れた場合には何を基準に判断するのか。


 陸軍の操縦者に話を聞き、整備員の後をついて歩き、通信所へ顔を出した。燃料の受け払いを確認し、倉庫へ行けば部品の記録まで見せてもらった。


「候補生殿」


 ある日、顔馴染みになり始めた整備の下士官が、呆れたように啓介を見た。


「また来たんですか」


「邪魔でしょうか」


「邪魔いうより、昨日も一昨日もおったでしょう」


「まだ分からないことがあります」


「そんなん、一年おってもなくなりませんよ」


 啓介は少し考えた。


「では、一年いた方がいいでしょうか」


「そういう意味やない!」


 周囲で作業していた整備員たちから笑いが起こった。


 別の日には、操縦者へ質問を重ねすぎて、


「越智さん」


「はい」


「飛ぶ前に何でも頭で分かろうとする癖、やめた方がええですよ」


 と言われた。


「……高木にも似たようなことを言われました」


「誰です?」


「同期です」


「そいつ、正しいですわ」


「やっぱり?」


「飛行機は、越智さんが考え終わるまで空で止まってくれませんからね」


 言われた時には苦笑するしかなかったが、その意味はやがて始まった自分自身の操縦教育で嫌というほど理解することになった。


 地上教育を終え、基本操作を覚え、教官の指導を受けながら実際に操縦桿を握る。


 機体の構造も、揚力がどう生まれるかも、二〇〇五年の知識としては知っている。


 だが、知っていることと、空を飛べることはまったく別だった。


「越智、高い!」


「はい!」


「返事しとる暇があったら前を見ろ!」


「はい!」


「だから返事は後でええ!」


 着陸態勢へ入った機体が、滑走路へ近づいていく。


 啓介は高度を修正した。


 少し遅い。


 接地した瞬間、機体が跳ねた。


「うわっ!」


「操縦桿を暴れさせるな! 前を見ろ!」


「はい!」


 もう一度接地し、今度はどうにか機体を落ち着かせた。


 停止したところで、教官が長く息を吐いた。


「越智」


「……はい」


「お前、頭は悪くないんじゃろ」


「たぶん」


「なら、考えすぎるな」


「またそれですか」


「空で必要なことまで考えるなとは言わん。じゃが、お前は着陸しながら、着陸とは何かを考えとる」


「駄目でしょうか」


「まず降りろ」


「……はい」


「身体にも覚えさせろ。頭だけで飛ばすな」


「はい」


 悔しかったが、反論はできなかった。


 兵学校でも同じことを学んだし、論文を書いた時にも思い知らされた。


 頭で理解しただけでは足りない。実際にやってみなければ見えないことがあり、自分で出来ないことなら、少なくとも簡単に「出来る」とは言えない。


 啓介は黙って帳面を開き、その日の失敗を書き込んだ。


     ◇


 候補生として必要な教育と実務を重ねながら、満州の短い夏を越えた。朝晩の空気に秋の気配が混じる頃には、飛行場の仕組みも、来たばかりの頃よりずっと見えるようになっていた。


 操縦もまだ一人前とは言えないものの、少なくとも教官に毎回怒鳴られる段階からは抜けつつある。


 そんなある日、啓介のもとへ正式な辞令が届いた。


 海軍少尉任官。


「…………」


 しばらく紙を眺めた。


 兵学校へ向かった時には、まだ遠い先のことだと思っていた。それが今、本当に自分の階級になった。


 しかし感慨に浸っていられたのは、わずかな時間だった。


 ほぼ同時に、もう一通の命令書が届けられたからである。


 これまでの調査結果を踏まえ、小規模な陸海軍合同の航空運用研究班を編成する。


 その班長に、越智啓介少尉を充てる。


 啓介は最初から読み直した。


 それから、もう一度読んだ。


 三度目まで読んでも、文字は変わらなかった。


「……本気か?」


 実戦経験はない。操縦もようやく基礎を抜け始めた程度で、そもそも航空部隊の現場を知るために送られてきた人間である。


 にもかかわらず、今度はその自分に、陸海軍双方から集めた人間を使って訓練と試験を行い、その結果をまとめろという。


 所属する軍も、本来の指揮系統も同じではない。その中で行う研究については、自分が責任を負うことになる。


「論文書いてた頃の方が気楽だったな……」


 誰もいない部屋で呟いた。


 当然、返事はなかった。


     ◇


 格納庫の前には、四人の男が待っていた。


 最初に目についたのは、日焼けした顔で立っている陸軍軍曹だった。


 河野鉄平。


 戦闘機操縦者で、すでに大陸で実戦も経験している。


 啓介が近づくと、河野はきちんと姿勢を正して敬礼した。


「河野軍曹ですね」


「はい」


「越智です。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 そこまでは普通だった。


 ところが河野は敬礼を解くと、啓介の顔をまじまじと見た。


「……若いな」


「河野軍曹」


「はい」


「聞こえてます」


「聞こえるように言いました」


 初対面から遠慮がない。


 二人目は、河野とは対照的な男だった。


 海軍一等航空兵曹、真鍋清志。


 細身で姿勢がよく、制服にも靴にもほとんど乱れがない。操縦と編隊運用を担当する海軍側の人間だった。


「真鍋清志です」


「越智です。よろしく」


「よろしくお願いいたします」


 それだけ言うと、真鍋は黙った。


 啓介も少し待った。


 何も続かない。


「……以上?」


「何か必要でしょうか」


「いや。大丈夫です」


「はい」


 河野とは別の意味で手強そうだった。


 三人目は、啓介が声を掛けるより先に口を開いた。


「相馬恭平、海軍二等航空兵曹。通信、航法、偵察関係を担当します」


「よろしく」


「少尉殿の論文も読みましたよ」


「え?」


「途中まで」


「途中まで?」


「難しくて寝ました」


「おい」


「冗談です」


 相馬は笑っている。


 口調は軽いが、目は絶えず周囲を見ていた。


「通信関係なら任せてください。この飛行場の無線機は、時々機嫌が悪くなります」


「無線機に機嫌があるの?」


「ありますよ。少なくとも河野軍曹よりは」


「おい相馬」


「ほら」


「何がほらだ!」


 啓介は思わず笑いそうになった。


 最後の一人は、四人の中では少し年上に見えた。


 海軍一等航空兵曹、矢野庄吉。


 整備担当で、がっしりした体格をしている。作業衣の袖には油が染み、指先まで黒く汚れていた。


「矢野庄吉です」


「越智です。よろしくお願いします」


 矢野はすぐには答えなかった。


 啓介を一度上から下まで見てから、低い声で言う。


「よろしくできるかどうかは、少尉殿次第ですな」


 河野が吹き出した。


「矢野さん、初日からそれ言います?」


「先に言うた方がええ」


 矢野は啓介へ視線を戻した。


「少尉殿」


「はい」


「飛行機は、紙の上じゃ飛ばんですよ」


 やはり論文の話だった。


 もっとも、その言葉に腹を立てる理由はなかった。むしろ、自分自身がこの数か月で嫌というほど思い知らされたことでもある。


 啓介は頷いた。


「承知しています」


「ほんまに?」


「そのつもりで、ここまで来ました」


「ほう」


 啓介は少し考えてから、矢野へ頭を下げた。


「だから、教えてください」


「…………」


「俺が論文で間違えているところも、現場を知らずに馬鹿なことを書いていたところも、全部です」


 矢野の眉が上がった。


「少尉殿が、整備兵に教われ言うんですか」


「整備のことなら、俺より矢野さんの方が知ってるでしょう」


「そりゃまあ……」


「なら、お願いします」


 矢野はしばらく何も答えなかった。


 ただ、最初より少しだけ表情が柔らかくなった。


     ◇


「少尉殿」


 今度は河野が口を開いた。


「一つ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「俺ら、あんたの実験台ですか」


「違います」


 啓介は即答した。


「では?」


「研究班の仲間です」


「仲間」


「はい」


 河野は腕を組んだ。


「でも、この班で俺らに命令するのは少尉殿でしょう」


「研究については、そうなります」


「なら、何であんたなんです?」


 もっともな疑問だった。


 河野は実戦を知っている。真鍋には自分より長い操縦経験があり、相馬は通信や航法を専門としている。整備について矢野と自分を比べれば、そもそも比べること自体が失礼なほどだった。


「上がそう決めたからです」


「それは聞いてます」


「俺も、それ以上は聞いてません」


 数秒、沈黙が落ちた。


 最初に吹き出したのは相馬だった。


「ははっ」


「相馬」


「すみません。でも、本人も分からんのですか」


「分からないよ」


 河野の口元まで緩み、矢野も鼻で笑った。そして、それまで静かだった真鍋が初めて自分から口を開いた。


「大丈夫でしょうか、この班」


「真鍋まで言うの?」


「客観的な疑問です」


「俺も今、不安になってきたよ」


 とうとう全員が笑った。


 初対面とは思えない遠慮のなさだったが、啓介はむしろその方がよかった。階級だけを見て黙るのではなく、分からなければ聞き、違うと思えば言う。これから皆で何かを確かめようというのなら、そのくらいでなければ困る。


 笑いが収まったところで、啓介は改めて四人を見た。


「俺には実戦経験がありません。操縦も皆さんより下です。整備なら矢野さんには到底及ばないし、通信や航法は相馬兵曹の方が詳しい。空中戦については、河野軍曹や真鍋兵曹から教わる側です」


「では少尉殿は、何をするんです?」


 河野が尋ねた。


 啓介は少し考えた。


「皆さんが持っているものを、つなげたい」


「つなげる?」


「俺一人で何でも出来るようになるつもりはありません」


 江田島で、それが無理だということは嫌というほど学んだ。


 村田に数字を直され、高木から自分には見えていなかった動きを教わった。大西には考えの甘さを突かれ、教官から兵站を教わり、東京の研究者からは技術には必ず限界があると教えられた。


 そして満州へ来てからは、飛行機一機を飛ばすために、どれほど多くの人間が働いているのかを知った。


「まず、今までのやり方を教えてください。どう飛んで、どう連絡して、どう整備して、どう戦うのか。そのうえで、今のやり方が本当に一番いいのか、一緒に考えたい」


「少尉殿が変えたいいうやり方の方が、間違っとったら?」


 矢野が尋ねた。


「捨てます」


「簡単に言いますな」


「間違った考えを守るために、皆さんへ無理をさせる方が嫌です」


 矢野はそれ以上何も言わなかった。


     ◇


「ところで少尉殿」


 河野が格納庫の中に並んだ機体へ視線を向けた。


「新しいやり方を試すいうことは、結構無茶もするんでしょう」


「無茶?」


「機体を限界まで振り回すとか、今までやらんかった飛び方をするとか。一機や二機、壊すくらいは覚悟しとけって話ですか」


 啓介は少し黙った。


「機体を壊していいとは言えませんけど、必要なら今までと違うことも試すでしょうね」


「人間も?」


「人間の方から壊す訓練はしません」


 河野が啓介を見る。


「甘いですね」


「そうですか?」


「航空の訓練で、危険を全部なくすなんて無理でしょう」


「全部なくせるとは思ってません」


「実戦になれば?」


「帰れない人も出ると思います」


 河野の表情から笑みが消えた。


 実戦を知る人間に、綺麗事だけを言っても仕方がない。


「だったら――」


「だからです」


 啓介は静かに続けた。


「誰かが帰れなかった時に、『戦争だから仕方ない』だけで終わらせたくないんです」


 四人が黙った。


「なぜ帰れなかったのか。何が足りなかったのか。どうすれば次の人間は帰れるのか。同じ任務を果たせるなら、少しでも多く帰れる方を選ぶ。俺は、そこまで含めて戦い方を考えたい」


 河野はしばらく黙っていた。


「少尉殿」


「はい」


「実戦じゃ、そんな綺麗にいかんですよ」


「分かってます」


「本当に?」


 啓介は少し考えた。


「たぶん、今の俺が思ってるより、ずっと酷いんでしょうね」


 河野の目がわずかに細くなった。


「だから教えてください。帰れないことがあるのは分かっています。でも、帰れなかった理由まで諦めるつもりはありません」


 しばらくして、河野が小さく息を吐いた。


「変わってますね、少尉殿」


「よく言われます」


「兵学校次席いうから、もっと頭の固い人かと思ってました」


「偏見ですよ」


「論文まで書いとるし」


「それも偏見です」


 相馬が笑った。


「私は結構好きですよ。実験台より仲間の方がいい」


「相馬」


 真鍋が静かに言う。


「何です?」


「調子に乗るのが早い」


「真鍋さん、意外と厳しいですね」


「事実です」


「少尉殿、この人が一番怖いですよ」


「俺に振らないで」


 小さな笑いが起こった。


     ◇


「それで」


 矢野が格納庫の方を顎で示した。


「少尉殿、何から始めます?」


 啓介もそちらを見る。


 九七式戦闘機と九六式艦上戦闘機が並び、その周囲では整備員たちが忙しく動いている。格納庫の向こうには、どこまでも広い満州の空があった。


 机の上で考えていた航空戦が、今は目の前にある。


「まず、今まで通りにやってください」


 河野が眉を上げた。


「変えないんですか」


「いきなり変えて、良くなったのか悪くなったのか分からなくなったら困るでしょう。まず今のやり方を見て、記録を取ります」


「そのあと?」


「皆で話します」


「それから?」


「一つずつ変えましょう」


 河野が少し笑った。


「ずいぶん地味ですね」


「大西大佐にも山本次官にも、答えを先に決めるなと釘を刺されていますから」


「偉い人に随分怒られとるんですね」


「そこは言わなくていいです」


 相馬が吹き出し、真鍋の口元もほんの少しだけ動いた。


 矢野はすでに格納庫へ向かって歩き始めている。


「ほんなら少尉殿、来ますか」


「はい」


「綺麗な軍服、油まみれになりますよ」


 啓介は自分の袖を見た。


「洗えば落ちます?」


「ものによりますな」


「先にそれ聞けばよかった」


 河野が笑いながら矢野の後を追い、相馬は途中で無線機の方へ寄った。真鍋だけが数歩先で振り返る。


「少尉殿」


「何?」


「置いていきますよ」


「あ、今行く!」


 啓介は慌てて四人の後を追った。


 発動機の音と油の匂いが満ちる格納庫の中へ、一歩踏み込んだ。

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