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第二十三話 猛訓練

 研究班が正式に動き始めると、最初に徹底して鍛え直されることになったのは、ほかでもない班長の啓介だった。


「越智少尉。何で落とされたか分かりますか」


 飛行場の端で空を仰ぎながら、啓介はしばらく黙った。


「……河野軍曹を見すぎました」


「正解です」


「嬉しくないな」


 つい先ほどまでの模擬空戦で、啓介は河野の九七式戦闘機を追うことに夢中になり、右上にいたはずの真鍋を完全に見失った。気づいた時には後方へ入り込まれ、審判役から被撃墜の判定を受けている。


 飛行帽を脱ぎながら近づいてきた河野が、いかにも楽しそうに笑った。


「少尉殿、敵が一機しかおらんと思っとったでしょう」


「思ってない」


「では、真鍋兵曹はどこにいました?」


「途中までは右上にいた」


「その後は?」


「……分からなくなった」


「それを、敵一機しか見えとらんいうんですよ」


「はい……」


 反論できない。


「兵学校次席でも、空へ上がれば普通ですな」


「今に見てろよ」


「何をです?」


「絶対一回は落とす」


「訓練の目的、変わってません?」


「変わってない!」


 少し離れたところでは、相馬が腹を抱えて笑っている。


「少尉殿、完全に河野軍曹に遊ばれてますね」


「相馬、次はお前だからな」


「私は少尉殿の後ろだけ見ておきます」


「それが正しいんだよ!」


「では、撃たれないようにしてください」


「腹立つなあ!」


 その騒ぎに加わらず、真鍋だけは先ほどの飛行記録を黙々と書いていた。


「真鍋」


「はい」


「さっき、いつ俺の後ろに入った?」


「少尉殿が河野軍曹を二周追った時です」


「そんなに早く?」


「はい」


「何で気づかなかったんだろう」


「河野軍曹しか見ていなかったからでしょう」


「お前まで同じこと言うの?」


「事実ですので」


 啓介は肩を落とした。


 研究班をまとめるのは自分だが、空へ上がれば、この中で最も経験が浅いのも自分である。満州へ来てから操縦そのものには少しずつ慣れてきたものの、飛べることと戦えることは、やはり別の話だった。


 その違いを、河野と真鍋は毎日のように身体へ叩き込んでくれた。


     ◇


 啓介の操縦には、はっきりした癖があった。


 何をするか考えてから、操縦桿を動かす。


 地上なら、その慎重さが役立つことも多い。しかし空戦では、そのわずかな間が遅れになる。


「少尉殿は、次に何をするか決めてから操縦桿を動かしています」


 ある日の訓練後、真鍋がいつもの調子で言った。


「駄目?」


「遅いです」


「はっきり言うなあ」


「空戦ですので」


 河野の操縦が大胆に機体を振り、相手へ圧力を掛けながら隙を奪うものなら、真鍋の操縦はまるで逆だった。余計な操作をせず、旋回も必要以上に深くしない。それなのに高度も速度も崩れず、気がつけば必要な場所へ機体を運んでいる。


 その後ろを飛ぶと、自分がどれほど操縦桿を動かしすぎているのか嫌でも分かった。


「今の旋回、入り口で引きすぎです。そのせいで速度が落ちています」


「分かった」


「後から足しても、すぐには戻りません」


「分かったって」


「本当に?」


「河野軍曹みたいなこと言うなよ」


「河野軍曹も同じことを言っていました」


「……そうなの?」


「はい」


 悔しかったが、飛ぶしかない。


 翌日も、その次の日も、啓介は同じように空へ上がった。昨日できたことが今日は崩れ、ようやく掴んだと思った動きが模擬空戦へ入れば簡単に消える。それでも何十回と繰り返すうち、操縦桿や座席から伝わる感覚で機体の傾きや速度の変化を拾えるようになり、周囲へ目を向ける余裕が少しずつ生まれてきた。


 河野を追いながら別の機影を探せるようになった。真鍋に離されても、慌てて機首を向けずに済む。相馬がどこにいるのかも、以前よりずっと早く見つけられる。


 それでも、河野に後ろを取られる日はまだ多かった。


     ◇


 研究班の発足に合わせ、これまでの調査や現場から出た要求をもとに試験改修された九七式戦闘機も数機送られてきた。


「これが例の機体ですか」


「ああ」


 格納庫で、矢野が機首を軽く叩いた。


「研究用に手ぇ入れとる」


 発動機には出力を高めるための改修が加えられ、武装も従来の七・七ミリ機関銃から変わっていた。


「十三ミリ……」


 啓介が機首を見ていると、矢野が先に言った。


「大きければええ、とはならんぞ」


「分かってます」


「ほんまか?」


「重くなるし、反動も強い。弾も大きくなるから、積める数も減る」


「そこまで分かっとるならよろしい」


「発動機へ手を入れたのも、その分を補うためですか」


「それだけじゃないがな」


 矢野は少し顔をしかめた。


「出力上げりゃ、発動機だって楽やない。熱は増えるし、部品への負担も大きくなる。飛ばす側は速くなったいうて喜ぶが、その分――」


「整備する方の仕事が増える」


「分かっとるやないか」


「……すみません」


「まだ何もしとらんのに謝るな」


 そこへ河野が顔を出した。


「これ、十三ミリ撃てるんですよね」


「ああ」


「楽しみですねえ」


 矢野の顔が険しくなる。


「お前はまず機体を壊さん飛び方覚えろ」


「俺、少尉殿より着陸上手いですよ」


「何で俺を巻き込む!」


 啓介が抗議すると、河野は声を上げて笑った。


「少尉殿。今度は射撃ですよ」


「…………」


「顔が嫌そうですね」


「いや」


 啓介はもう一度、十三ミリ機関銃の収まる機首を見た。


「むしろ、そこが一番怖い」


     ◇


 その予感は、最初の実弾射撃で早くも当たった。


 敵機へ機首を向け、照準器に収めて撃つ。それだけなら簡単に思えたが、実際には標的も動けば自分も動く。狙いを定めている間にも位置関係は変わり、撃った弾が届くまでにも時間が掛かる。


 曳航標的を相手にした射撃を終え、地上で結果を確認した啓介は、しばらく黙った。


 横から覗き込んだ河野が、遠慮なく言う。


「少尉殿、思ったより当たりませんでしたね」


「言うな」


「十三ミリ、強いですよ」


「当たればな」


「その通りです」


「嬉しそうだな」


「俺は当てましたから」


「くそっ」


 真鍋も記録を見ながら口を開いた。


「少尉殿は、狙いすぎです」


「また?」


「はい。少尉殿が狙い終わった頃には、標的がもう移動しています」


 啓介は空を引かれていた標的を思い返した。


「相手の先を見る?」


「はい」


「あと、撃ちすぎです」


 河野が続ける。


「十三ミリは七・七ミリと同じ感覚でばら撒くもんじゃありません。弾数もありますし、撃てば機体も動きます」


 言われなくても、引き金を引いた瞬間の衝撃は身体に残っていた。破壊力が増せば、その反動も機体へ返ってくる。


「短く撃つ?」


「俺なら、近づいて一回で決めます」


「外したら?」


「もう一回」


「弾がなくなったら?」


「帰ります」


 啓介は笑った。


「いい答えだな」


「少尉殿に染められましたかね」


「そこは素直に喜んでいい?」


「半分くらいなら」


 射撃訓練はその後も繰り返した。


 完全に照準へ入れてから撃とうとすれば遅い。そこで標的の動きと自機の速度を見ながら、わずかな機会に短く撃つようにした。


 難しかったのは、その後だった。


 当たったか確かめたくなる。


 もう少し追えば、もう一度撃てる気がする。


 そのまま残れば、別の敵に狙われる。


 何度も同じ失敗をし、河野や真鍋から指摘されるうちに、啓介はようやく、撃つことだけではなく、撃った後にどう離れるかまで含めて一回の攻撃なのだと理解し始めた。


 矢野が見ていたのは、さらにその先だった。


「少尉殿。今日、何発撃った」


 啓介が答えると、今度は河野へ顔を向ける。


「お前は?」


「……ちょっと多めです」


「数字」


「はい……」


 河野が答えると、矢野の眉間へ皺が寄った。


「弾は勝手に生えてこんぞ」


「分かってますよ」


「十三ミリになって、一発一発が重くなっとる。積める量にも限りがあるし、運ぶ側の手間も増えとるんじゃ」


 啓介は帳面を開いた。


「そこも記録します」


「当たり前じゃ」


 火力を上げれば、それだけで強くなるわけではない。発動機も、機体も、整備も、補給も変わる。


 啓介は帳面へ書き込みながら、小さく呟いた。


「……本当に、何でも繋がってるな」


「何か言いました?」


 相馬が振り返る。


「独り言」


「少尉殿、増えましたね」


「満州来てから考えること増えたんだよ」


     ◇


 射撃と並行して、研究班本来の編隊研究も始めた。


「まず、今まで通りにやりましょう」


 作戦室の黒板に、啓介は三機を描いた。


「三機編隊」


 河野が言う。


「うん。いきなり変えない」


「四機を試すんじゃなかったんですか」


「試すよ。でも、今までのやり方がどうなのか記録しないまま変えたら、良くなったのか悪くなったのか分からないだろ」


 真鍋が尋ねた。


「何を記録しますか」


「編隊を保てた時間。敵を発見してから反応するまでの時間。互いを見失った回数。模擬空戦なら被撃墜判定。それと――」


「燃料」


 矢野が口を挟んだ。


「はい」


「飛ばした後の整備時間も。交換した部品も全部残せ」


「全部?」


「全部じゃ」


 河野が呆れたように笑う。


「地味ですねえ」


「研究だからな」


「俺、もっと格好いいことするんかと思ってました」


「例えば?」


「新戦法で敵役をばったばった落とすとか」


「それで何で勝てたのか分からなかったら、大西大佐に怒られる」


「殴られます?」


「たぶん言葉で」


「そっちの方が嫌ですね」


 三機編隊で何度も飛ぶうち、長く使われてきた理由も見えてきた。長機を中心にまとまりやすく、統制も取りやすい。


 一方で、模擬空戦へ入ると欠点も見えた。


「長機についていこうとすると、どうしても前へ意識が寄ります」


 帰投後、相馬が言った。


「広げれば周りは見えます。でも広げすぎたら、今度は三機でまとまる意味が薄くなる」


 同じ条件で何度か飛び、その記録を取った上で、ようやく四機編隊へ移った。


「二機で一組にする」


 啓介は黒板へ二組の線を引いた。


「一番と二番が互いを見る。三番と四番も同じ。それを二組合わせて動かす」


「間隔は?」


 真鍋が聞く。


「そこを試す」


「決めてないんですか」


「紙では考えた。でも、その数字を最初から正解にはしない」


 矢野が鼻で笑った。


「そこは少し学習したな」


「少し?」


「少しじゃ」


 実際、最初の四機編隊は見事に失敗した。


 間隔を広げれば、互いに自由に動ける代わりに僚機が遠すぎる。そこで距離を詰めると、今度は大きく機動した時に互いが邪魔になった。


「遠い!」


 最初の帰投後、河野が言った。


「少尉殿、俺から相馬がほとんど見えません!」


「俺も見えなかった」


「何のための相互援護ですか!」


「だから近づける!」


 次は近づけすぎた。


「少尉殿」


 真鍋が淡々と言う。


「これでは戦えません。大きく動けば僚機へ寄りすぎますし、後ろを見る余裕もありません」


「……失敗です」


「はい」


「そこまで綺麗に言わなくていいだろ」


「確認です」


 横の間隔を再び広げ、高度にもわずかな差をつける。ようやく二機一組として動きやすくなった頃、今度は無線が使いものにならないという別の問題が浮かび上がった。


『二番、聞こえる?』


 空で啓介が呼び掛ける。


 返ってきたのは、声より大きな雑音だった。


『……番……聞……』


「何?」


 もう一度呼ぶ。


 また雑音。


 地上では問題なく使えていた無線が、飛べば発動機の音や風、振動に邪魔され、途端に頼りなくなる。


 帰投すると、相馬はすぐ無線機へ向かった。


「少尉殿。このまま長話するのは無理です」


「だよな」


「敵の方位と高度、機数。それに援護、離脱、集合くらいに絞りましょう。もっと短くしてもいい」


「決まった言葉に意味を持たせる?」


「自分もそう考えていました」


 二人で必要な情報を選び、短い通信符号へ置き換えていくうちに、相馬がふと顔を上げた。


「ただし、少尉殿」


「何?」


「無線が死んだ時も考えましょう」


 啓介は黙った。


「無線が使えることを前提にして戦い方を作ったら、山本次官に怒られるんでしょう?」


「相馬」


「はい」


「最近、俺の扱いが分かってきたな」


「お褒めいただき光栄です」


 結局、無線だけには頼らなかった。手信号や機体の動き、事前に決めた集合方法も試し、一つが使えなくなっただけで全体が止まらないようにした。


     ◇


 次に議論になったのは、空戦そのものだった。


「旋回戦をやめる?」


 河野が露骨に顔をしかめる。


「やめるとは言ってない」


 啓介は黒板へ向き直った。


「九七戦は回れる。それは強みだ」


「なら使う?」


「有利なら使う。でも、得意だからって毎回そこへ入る必要はないだろ」


 河野の眉が動いた。


「九七戦の強みを捨てる気じゃないんですね」


「捨てないよ」


 啓介は二機の線を引いた。


「旋回して有利なら回る。ただ、敵一機を追い続けて、高度も速度も全部なくしたところへ別の敵が来たら意味がない」


「なら、どうするんです」


「一機が攻撃して、もう一機は周りを見る。もう一組はさらに外を見る。攻撃した後も、有利なら続けるし、旋回戦へ入った方がいいなら入る。ただ――」


 黒板の上で、啓介の指が止まる。


「追うこと自体が目的になったら、一度離れる」


 河野はしばらく黙っていた。


「今回の十三ミリとも相性があると思う」


「一撃で当てる?」


「できれば」


「簡単に言いますね」


「射撃訓練で自分でも痛いほど分かりました」


「それならよろしい」


「偉そうだな」


「空戦では先輩ですから」


 否定できなかった。


 実際に飛んでみると、攻撃してそのまま離れるというだけのことさえ、思うほど簡単ではなかった。速度、角度、照準、僚機との位置、離脱方向。そのどこかが狂えば、すぐに高度も速度も失う。


 一度など、啓介は攻撃後の引き起こしで速度を殺しすぎ、河野へ簡単に後ろを取られた。


「少尉殿、死にましたよ」


 帰投した啓介を、河野が待ち構えていた。


「分かってる」


「一撃離脱じゃなかったんですか」


「離脱に失敗した」


「じゃあ一撃残留ですね」


「変な言葉作るな」


 相馬が腹を抱えて笑い、真鍋は記録を見ながら言った。


「攻撃角度が深すぎました。引き起こしで速度を使いすぎていますし、照準にも時間を掛けすぎです」


「……全部俺が悪いな」


「今回は」


「今回は、って付けるのやめようか」


「客観的評価です」


 翌日も飛び、その次の日も飛んだ。


 うまく離れられた日もあれば、また河野に捕まる日もある。旋回戦へ入った方がいい場面では九七戦の強みを使い、速度と高度を残せる時には無理に相手へ付き合わない。


 やがて五人の間でも、何か一つの戦い方へ無理に押し込むのではなく、その時々で最も有利な方法を選ぶという考え方が自然になっていった。


     ◇


 研究班が動き始めた頃には、満州の秋はすでに深まりつつあった。


 やがて長い冬が来ても、訓練は止まらなかった。


 早朝に飛び、帰れば矢野たちが機体を見る。その間に飛行記録を整理し、整備と補給が済めばまた飛ぶ。夜には地図と記録を机いっぱいに広げ、その日に起きたことを一つずつ確かめた。


「河野軍曹。二回目の接敵、追いすぎ」


「落とせました」


「その直後、真鍋に被撃墜判定」


「……分かっとります」


「死んでます」


「分かっとります!」


 真鍋が顔を上げた。


「二秒早く離脱すれば生きています」


「お前はそういうところだけ正確じゃな!」


「そこが必要なので」


 相馬が笑う。


「河野軍曹、死ぬ回数減りましたね」


「お前、嬉しそうに言うな」


 一方で、矢野の機嫌は飛ばせば飛ばすほど悪くなった。


「少尉殿、今日は終わり」


「まだ日が――」


「終わり」


「あと一回だけ」


「駄目じゃ」


「どうして?」


「発動機を見る。この二機は脚回り。十三ミリ積んだ方は機首も確認する」


「全部?」


「全部じゃ」


「飛べるのは?」


「今日はもうない」


 黙り込んだ啓介を見て、矢野が呆れた顔をする。


「そんな顔しても飛行機は増えん」


 後ろで河野が笑った。


「少尉殿、矢野さんには本当に勝てませんね」


「飛行機が飛ばなくなったら訓練できないからな」


 矢野が振り返る。


「飛行機を飛ばんようにするのは、お前らじゃ!」


「はい!」


「あと河野!」


「はい!」


「昨日の着陸!」


「あれは横風です!」


「風のせいにするな!」


「本当に横風だったんです!」


「脚が泣いとるわ!」


「飛行機が泣くか!」


「整備屋には聞こえる!」


 啓介は吹き出した。


 論文には、整備能力が航空戦力を左右すると書いた。しかし、ここへ来るまで、その言葉の中身までは分かっていなかったのだろう。


 油で手を黒くした人間が小さな異音を拾い、一本のボルトを確かめ、傷んだ脚を直して、翌朝もう一度空へ送り出す。その積み重ねがあって初めて、操縦者は次の日も飛べる。


     ◇


 満州の冬は、愛媛育ちの啓介には容赦がなかった。


「寒っ……!」


「少尉殿、まだ入口ですよ」


 河野が笑う。


「嘘だろ」


「本番はこれからです」


「帰りたい」


「愛媛へ?」


「一瞬、本気で」


「奈々さんのところ?」


「何で知ってる!」


 答えたのは相馬だった。


「手紙ですよ」


「お前、人の手紙見るなよ!」


「見てません。届く度に少尉殿の顔が分かりやすいだけです」


「…………」


「図星ですね」


「訓練増やすぞ」


「職権濫用!」


 笑っていられたのは地上だけだった。


 寒さは人間だけでなく、機体にも無線にも容赦しない。発動機が掛かりにくくなり、油の状態も変わる。雪が積もれば滑走路の状態も変わった。


 そこで啓介たちは、条件が崩れた時の動きも試すようになった。


 寒さで無線が沈黙し、出撃直前に一機が故障する。四機で始めた訓練が途中から三機になり、時には二機だけになることもあった。僚機を見失った場合には、あらかじめ決めた集合地点まで一人で戻る。


 整った条件でしか動かない戦い方では、実戦では役に立たない。


「少尉殿」


 ある晩、河野が地図を見ながら尋ねた。


「一人になった時は?」


「基本は帰る」


「即答ですか」


「任務によるけどな」


「敵を見つけても?」


「伝えられるなら伝える。攻撃する価値があるなら、その危険と比べる」


「最後は現場判断?」


「ああ」


 河野が笑った。


「少尉殿も、だいぶ現場っぽくなりましたね」


「褒めてる?」


「半分」


「残りは?」


「相変わらず面倒くさい」


「それは諦めて」


     ◇


 冬が終わろうとする頃には、最初とは随分違った飛び方になっていた。


 二機が互いを見ながら動き、片方が攻撃すれば、もう一機はその後ろを守る。残る一組も周囲へ意識を置き、必要なら二機単位で動きを変える。


 旋回戦に入るのか、高度と速度を生かすのかは、その時の状況で決める。十三ミリも撃ち続けるのではなく、確実な機会へ短く使う。無線が途絶えれば手信号や事前の取り決めへ切り替え、一つの失敗で編隊全体が止まらないよう、何度もやり方を組み直した。


 そして訓練が終われば、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのかを必ず記録へ残した。


 そんな日々を重ねるうち、五人は互いの動きを少しずつ予測するようになっていた。


 河野なら、どこまで敵を追うのか。


 真鍋なら、どこで速度を残すのか。


 相馬なら、敵を見つけた時に何を先に伝えるのか。


 言葉を交わす前から、相手が次に何をするのか分かる場面が増えていった。


     ◇


 その日の模擬空戦では、敵役の三機が先に高度を取っていた。


 こちらは四機。


 啓介、河野、真鍋、相馬。


 無線にはわずかに雑音が混じっている。


『右前方、高い。三』


 相馬だった。


「了解」


 啓介は敵を探す。


 太陽から少し外れた空に、三つの機影があった。


「河野、真鍋。前へ」


『了解』


 二機が進む。


 敵役も動いた。一機が河野へ降り、もう一機がその後ろへ回ろうとする。


 河野は食いつかない。


 以前なら、もう追っていた。


 啓介の口元が少し緩んだ。


『少尉殿』


「何」


『今、笑いました?』


「飛んでる時にそんなこと聞くな、相馬」


『了解』


 河野が一撃を掛ける。


 短く撃ち、そのまま抜けた。


 敵が河野を追い、真鍋がその後ろを見ている。


「相馬」


『はい』


「入る」


『了解』


 二機で高度を使って降りた。


 啓介は敵だけを見なかった。


 河野。


 真鍋。


 相馬。


 残る敵。


 順番に視線を走らせる。


 一機が照準へ近づいた。


 以前の自分なら、もっと完全に狙おうとしただろう。


 今は違う。


 短く撃つ。


 そのまま抜ける。


『少尉殿、右から一機』


「見えた」


 旋回して追うこともできた。


 だが、周囲には相馬がいる。河野と真鍋もすでに離脱している。


「離れる」


 二機で距離を取り、やがて河野と真鍋も合流した。


 四機。


 まだ揃っている。


「もう一度行くぞ」


 三つの返事が重なった。


     ◇


 訓練終了の信号が出ると、四機は順番に飛行場へ戻った。


 最後に降りた啓介の車輪が土を噛む。


 一瞬だけ機体が跳ねかけたが、もう慌てることはなかった。そのまま姿勢を保ち、ゆっくり速度を落として機体を止めた。


 発動機を切ると、音が静かに消えていく。


 操縦席から降りると、矢野がもう近づいてきていた。


「少尉殿」


「はい」


「今日は少しマシな着陸じゃった」


「そこから?」


「脚を壊されんのが一番じゃ」


「褒められてると思っておきます」


 河野たちも集まってきた。


「判定は?」


 啓介が尋ねると、相馬が記録を見る。


「こちらの被撃墜判定、なし。敵側は複数の有効射撃判定ですが、最終判定は審判待ちです」


「了解」


 敵を何機落とせたかも大切だった。


 それでも啓介の目は、自然と四人の姿を探していた。


 河野がいる。


 真鍋がいる。


 相馬がいる。


 矢野は、もう改造九七戦の機首を覗き込んでいる。


「……全員帰ったな」


 思わず口から出た。


 河野がこちらを見る。


「模擬訓練ですよ」


「ああ」


「本物なら、こんな綺麗にはいきません」


「分かってる」


「撃たれる奴も出る。帰れん奴も出る」


 啓介は黙って河野を見た。


「それでも、まだ全員で帰るって言いますか」


 答えは変わらなかった。


「言うよ」


 啓介は並んだ機体へ目を向けた。


「全員が必ず帰れるなんて、俺には約束できない。でも、最初から誰かを帰さないつもりで飛ぶことはしない。そのために、これだけやってきたんだろ」


 しばらくして、河野が以前よりずっと自然な動きで敬礼した。


「了解しました」


 真鍋も続く。


「了解」


 相馬も笑いながら敬礼した。


「帰るまでが訓練ですね」


「遠足みたいに言うな」


「似たようなものでしょう」


「全然違う」


「お前ら!」


 矢野の声が飛んできた。


「はい!」


「話終わったんなら全員こっち来い! 今日の飛ばし方でどこが傷むか覚えろ!」


 河野が顔をしかめる。


「まだやるんですか」


「飛んで終わり思うたか!」


「少尉殿」


「何?」


「猛訓練って、空だけじゃないんですね」


「今さら気づいた?」


「早う来い!」


「はい!」


 声を揃えて返事をし、啓介たちは矢野の待つ改造九七戦へ向かった。


 さっきまで空を飛んでいた機体には、まだ熱が残っている。


 啓介が機首へ手を伸ばした時、矢野が振り返った。


「少尉殿、そこ触るな。熱いぞ」


「あっ――熱っ!」


「言うたじゃろ!」


「もっと早く言ってくださいよ!」


 河野たちの笑い声が格納庫いっぱいに響いた。


 啓介は赤くなった手を振りながら、その輪の中へ入っていった。

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