第二十四話 ノモンハン
昭和十四年五月。
長かった満州の冬もようやく緩み、凍りついていた大地には遅い春が訪れていた。
越智啓介たちの研究班は、その頃にはハルビン近郊の飛行場を離れ、さらに西の海拉爾方面へ進出していた。目的は、前進飛行場へ移動した状態での連続運用試験である。
整った設備を持つ飛行場から飛ぶだけなら、これまで何度も試してきた。しかし実戦になれば、いつでも十分な整備施設や補給を利用できるとは限らない。限られた設備の中で燃料や弾薬を運び、飛ばした機体を整備し、故障が出れば直して、翌日もまた空へ送り出せるのか。
四機の改造九七式戦闘機も、いまでは整った飛行場を離れ、前進拠点で繰り返し運用できるかを試す段階へ入っていた。
「少尉殿」
格納庫の奥から矢野が顔を出した。
「はい」
「三号機、もう一回発動機見ときます」
「昨日も見てませんでした?」
「見た」
「何かありました?」
「今すぐ飛ばんいうほどやない。ただ、昨日の夕方から音がちょっと気になる」
「どこです?」
「それを今から探すんじゃ」
「俺も見ます」
「少尉殿が見ても分からん」
「最近はちょっと分かるようになりましたよ」
「ちょっとじゃろ」
「……はい」
横で聞いていた河野が吹き出した。
「少尉殿、もう随分ここにおるのに、まだ矢野さんには勝てませんね」
「整備で勝とうと思ったことないよ」
「操縦でも、まだ俺には――」
「それは今度やる」
「望むところです」
「二人とも」
真鍋が記録用紙から顔を上げた。
「今日の訓練内容を決めてからにしてください」
「はい」
「真鍋、最近ほんとに班長みたいだな」
「少尉殿が脱線しますので」
「誰のせいだよ」
相馬が無線機の横で笑っていた。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。
研究班が動き始めた頃には、四機を揃えて飛ぶだけでも試行錯誤の連続だった。それが今では、空へ上がれば互いの癖まで分かる。
河野が敵へ食いつきたくなる瞬間も、真鍋がどこで速度を残そうとするかも、相馬が何かを見つけた時にわずかに機首を動かす癖も、もう説明されなくても分かる。
啓介自身も、以前のように一つの操作へ意識を奪われることは少なくなっていた。
少なくとも、訓練の空では。
◇
五月十一日。
最初の報告は、昼を過ぎた頃に届いた。
「国境で衝突?」
啓介は整備記録から顔を上げた。
通信所から戻ってきた相馬が、一枚の紙を手にしている。
「はい。まだ詳しい内容までは来てません」
「場所は?」
「ノモンハン付近です」
啓介の手が止まった。
「少尉殿?」
「今、何て?」
「ノモンハンです」
「……ノモンハン」
その地名だけで、遠い記憶が一気に蘇った。
かつて歴史書の中で読んだ戦場。
満州国とモンゴル人民共和国が異なる国境線を主張し、小さな衝突から始まった戦いが、やがて日本軍とソ連軍を巻き込む大規模な戦闘へ膨れ上がっていく。
そして、その先に待っているものも知っていた。
だが、歴史書の中ではすべて過去形だった。今は、まだ五月十一日でしかない。
「日付は?」
「今日ですよ」
「……そうか」
河野が怪訝そうに啓介を見る。
「少尉殿、何か知っとるんですか」
「いや……」
すぐには答えられなかった。
知っている。
けれど、その知識をそのまま口へ出せるわけではない。
「報告は?」
「満州国軍とモンゴル軍が接触したらしいです。今のところ、それ以上は」
「日本軍は?」
「まだ大きく動いていません」
「ソ連軍は?」
「そこまでは」
河野が肩をすくめた。
「国境じゃ、時々ある話でしょう」
啓介は黙った。
それも事実だった。
今入っている情報だけを見れば、この衝突が後に何へ発展するのかを断定できる材料などない。それに、二〇〇五年に知っていた歴史には、自分も、この研究班も存在しない。大西や山本の判断にさえ、すでに僅かながら影響を与えているのなら、この先まで同じ道をたどるとは限らなかった。
「……今は様子を見るしかないな」
「そうですね」
相馬が頷いた。
啓介も整備記録へ目を戻したが、その日の残りの時間、書かれている数字はなかなか頭へ入ってこなかった。
◇
数日後、新しい報告が届いた。
満州国軍とモンゴル軍の衝突へ日本側の部隊が介入し、相手はいったん退いたらしい。それだけを見れば、このまま収まる可能性もあった。
それでも啓介は、何度も地図を開いた。
ハルハ河とノモンハン。かつて歴史書の地図で見た地名が、今は目の前の軍用地図に記されている。
「また見てますね」
横から相馬が声を掛けた。
「ああ」
「そんなに気になります?」
「ちょっとな」
「何が?」
啓介は地図を見たまま答えた。
「まだ分からない」
「またそれですか」
「分からないものは分からないんだよ」
相馬が少し笑った。
「少尉殿、そう言えるようになりましたね」
「昔は?」
「何でも考えれば答えが出ると思ってた顔してました」
「そんな顔ある?」
「あります」
否定しかけて、やめた。
たぶん相馬が正しい。
以前の自分なら、知っている未来と目の前の出来事を無理に結びつけ、何か答えを出そうとしたかもしれない。けれど今は、まだ分からない。
だから見るしかない。
そして五月も後半へ入った頃、状況は再び大きく動き始めた。
モンゴル側の兵力が戻り、その背後にはソ連軍がいるという情報が増えた。日本側も部隊を増強し、偵察報告には装甲車両や砲兵の存在が記されるようになっていく。
やがて、その日の昼過ぎ。
「航空戦闘があったそうです」
相馬の一言で、部屋の空気が変わった。
「敵機は?」
啓介がすぐに尋ねる。
「ソ連機です。戦闘機を含む複数機との報告」
「機種は?」
「I―16を含むらしいですが、まだ確認中です」
ポリカルポフI―16。
名前も、おおよその特徴も知っている。けれど、実際にこちらへ来ている機体が何型なのか、搭乗員の練度がどれほどなのか、どの高度を好み、どう戦うのかまでは分からない。
性能表を思い出したところで、本物の敵がその通りに飛んでくれるわけではない。
「少尉殿」
河野がこちらを見ていた。
「どう思います?」
「実際に見ないと分からない」
「珍しい答えですな」
「俺だって成長するんだよ」
「なら、見に行きます?」
「命令が出たらな」
河野の口元から、笑みが少し消えた。
◇
それから、飛行場の空気が変わるまでには時間が掛からなかった。
通信員が何度も指揮所と通信室を往復し、周辺飛行場の使用可能機数や燃料、弾薬、整備状況が次々と確認されていく。項目そのものは訓練中にも何度となく扱ってきたものだったが、人の声が違っていた。
「ノモンハン方面、航空援護要求!」
「戦闘機隊は?」
「既存部隊に出動準備を命じています!」
「増援到着は!」
「確認中!」
「使用可能機をもう一度洗え!」
啓介たちは指揮所の外で待っていた。
まだ研究班に対する命令はない。
四機には戦闘能力がある。だが、自分たちは正規の戦闘飛行隊ではなく、所属も陸海軍にまたがっている。研究班をそのまま戦闘へ投入するとなれば、現地の一将校が思いつきで決められる話ではなかった。
「少尉殿」
隣に立つ河野が言った。
「何?」
「俺たち、飛べます」
「ああ」
「四機とも」
「分かってる」
「改造機も全部出せる」
「ああ」
「だったら――」
「命令がない」
啓介は河野を見る。
「勝手には飛べない」
「…………」
「軍人だろ、俺たちは」
河野はまだ何か言いたそうだったが、やがて小さく頷いた。
「はい」
啓介は格納庫へ目を向けた。
命令はない。
それでも矢野たちは、すでに四機の周囲で動き回っている。
「矢野さん!」
「何じゃ!」
「まだ出撃命令出てませんよ!」
「知っとる!」
「じゃあ何してるんです!」
「命令来てから用意し始めたら遅いやろ!」
「…………」
「燃料は満タンにする! 十三ミリも積めるだけ積む! 給弾も発動機ももう一回確認じゃ! お前らは自分の装具でも見とれ!」
「はい!」
河野が小さく笑った。
「矢野さん、俺たちより出る気満々ですね」
「たぶんな」
◇
待っている時間は長かった。
実際には、それほど長くなかったのかもしれない。
飛行服へ着替え、地図を確認し、装具も確かめた。やるべきことをすべて終えてしまえば、あとは命令を待つしかない。
「少尉殿」
相馬が隣へ腰を下ろした。
「何?」
「怖いですか」
「急だな」
「顔が怖いので」
「元からだよ」
「普段はもう少しぼんやりしてます」
「お前な」
言い返したものの、その後の言葉が続かなかった。
何気なく自分の手を見ると、わずかに震えている。
「……怖いよ」
啓介は認めた。
相馬が少し意外そうにこちらを見る。
「普通に怖い」
訓練なら、撃墜判定を受けても笑える。帰れば記録を見て、どこで間違えたのかを調べられるし、翌日にはもう一度同じことを試せる。
実戦では、本当に弾が飛んでくる。当たれば機体は壊れ、燃えることもある。墜ちれば、その先はない。
二〇〇五年の歴史を知っていても、敵弾が自分だけ避けてくれるわけではない。未来から来たからといって、不死身になったわけでもなかった。
「河野軍曹は?」
「怖いですよ」
少し離れた場所から河野が答えた。
「実戦経験あるのに?」
「あるからですよ」
啓介は河野を見る。
「最初は?」
「もっと怖かったです」
「どうした?」
「飛びました」
「それだけ?」
「ほかに何があるんです」
河野は少し笑った。
「怖くなくなったら、たぶんそっちの方が危ないですよ」
真鍋も静かに口を開く。
「自分も、怖くないと言えば嘘になります」
「真鍋も?」
「はい」
「相馬は?」
「もう愛媛へ帰りたいです」
「何でお前が愛媛なんだよ」
「奈々さんの味噌汁」
「お前、こんな時までそれ言う?」
「少尉殿が話しすぎなんですよ」
「そんなに話した覚えないぞ!」
「十分聞きました」
河野が吹き出し、真鍋の口元もわずかに緩んだ。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が軽くなる。
啓介は三人を見た。
「確認しよう」
三人の表情が戻った。
「訓練でやった通りにする。二機一組を崩すな。敵だけを見るな。無線が死んでも、決めた通りに動け。無理なら離れろ」
「はい」
「それと」
啓介は一度言葉を止めた。
「敵を落とすために、味方を捨てるな」
河野が頷く。
「はい」
「帰るぞ」
三人がこちらを見る。
「全員で」
「はい」
今度の返事は、きれいに重なった。
◇
指揮所では、研究班の扱いを巡る照会が続いていた。
「研究班の九七戦は四機とも使えるのか」
「即時出動可能です」
「武装は?」
「試験改修済み。射撃試験及び訓練も終了しています」
「搭乗員は」
「四名。河野軍曹は実戦経験あり。他の三名も長期の合同訓練を実施済みです」
「班長は海軍少尉だったな」
「はい」
「勝手に使えるか」
「できません」
「関東軍へは?」
「照会済みです」
「海軍側は?」
「こちらも上げています」
将校が苛立ったように机を指で叩いた。
「戦場は待ってくれんぞ」
その時、通信員が顔を上げた。
「返答、入りました!」
室内の視線が一斉に集まった。
◇
「越智少尉!」
「はい!」
廊下を走る足音が聞こえ、啓介は立ち上がった。
現れた陸軍将校の手には、一枚の命令書がある。
「命令を伝達する」
「はい!」
身体が自然に固くなる。
「陸海軍合同航空運用研究班は、関東軍司令部及び海軍側の承認を得て、臨時にノモンハン方面航空作戦へ協力する」
「はい」
「本班は現地航空部隊の作戦指揮下に入り、友軍地上部隊上空の援護を実施せよ。敵航空兵力と遭遇した場合はこれを排除する。ただし独断による越境、長距離追撃その他、指定された任務を逸脱する行動は禁止する」
「了解しました!」
命令書を受け取る。
薄い紙だった。
これまで受け取ってきた命令書と、見た目には何も変わらない。
けれど、その先には本当にこちらを撃ってくる相手がいる。
「越智少尉」
「はい」
「出られるか」
啓介は深く息を吸った。
まだ怖い。
手の震えも、完全には止まっていない。
それでいい。
「出られます」
敬礼した。
「命令、受領いたしました」
「よし」
踵を返す。
「河野!」
「はい!」
「真鍋!」
「はい!」
「相馬!」
「はい!」
「出るぞ!」
「はい!」
四人は格納庫へ走った。
◇
四機の改造九七戦は、すでに出撃準備を終えていた。
「矢野さん!」
「遅い!」
「今、命令来たんですよ!」
「こっちは先に用意しとった!」
「ありがとうございます!」
矢野が啓介の機体を叩く。
「燃料よし! 機銃よし! 給弾よし! 発動機よし! 三号機も昨日気になっとったところは確認済みじゃ!」
「了解!」
河野、真鍋、相馬も、それぞれの機体へ向かっている。
啓介が操縦席へ上がろうとした時だった。
「少尉殿!」
「はい!」
呼び止められて振り返る。
矢野は笑っていなかった。
「機体はな、壊れても直せる」
「……はい」
「どうにもならんなら、別の機を用意することもできる」
油に汚れた手で、矢野は啓介の機体を軽く叩いた。
「じゃが、お前らの代わりは部品庫にはない」
啓介は何も言えなかった。
「帰ってこい」
しっかりと頷く。
「はい」
「返事が小さい!」
「はい!」
「それでええ!」
啓介は操縦席へ乗り込み、帯革を締めた。
計器を確認し、燃料計へ目を走らせる。照準器も問題ない。
やがて発動機が始動し、機体全体へ振動が伝わってきた。
油と排気の匂いがする。
何度も経験してきた出撃準備だった。
なのに今日は、同じ音がまるで違って聞こえた。
『少尉殿』
無線へ河野の声が入る。
『聞こえますか』
「聞こえる」
『行きます?』
啓介は左右を見る。
河野。
真鍋。
相馬。
三機ともいる。
「……ああ」
前には、満州の広い空があった。
その地平線の向こうに、ノモンハンがある。
二〇〇五年を生きていた頃の自分は、そこで何が起きたのかを知っていた。
けれど、これから何が起きるのかは、もう分からない。
「全機」
三つの返事が返る。
「離陸する」
啓介は操縦桿を握り直した。
「帰ってくるぞ」
『了解!』
出力を上げると、発動機の咆哮が一段大きくなった。
一番機が土の滑走路を走り始め、その後を河野、真鍋、相馬が続く。
速度が上がる。
機首が軽くなる。
啓介が操縦桿を引くと、車輪が大地を離れた。
上昇しながら一度だけ後ろを見る。
飛行場が、少しずつ小さくなっていく。
訓練では、何度飛び立っても最後にはあそこへ帰ってきた。
啓介は視線を前へ戻した。
地平線の向こうに、ノモンハンが待っていた。




