↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/30

第二十五話 四機の戦い

 高度が上がるにつれて、飛行場は急速に小さくなっていった。


 啓介は一度だけ振り返り、すぐに前へ視線を戻した。右に河野、左後方に真鍋、そのさらに後ろに相馬がいる。四機とも揃っていることを確かめてから、膝元の地図へ目を落とした。


 命令は明確だった。


 ノモンハン方面へ進出し、友軍地上部隊の上空を援護する。敵航空機と遭遇した場合はこれを排除する。ただし現地航空部隊の指揮に従い、指定された任務を逸脱してはならず、独断で敵地深くへ追撃することも禁じられている。


 自分たちは研究班である。実戦参加を許されたからといって、好き勝手に新しい戦い方を試していいわけではなかった。


『少尉殿』


 無線へ河野の声が入った。


「何?」


『静かですね』


「喋った方がいい?」


『初陣ですし、何か一言あるかと思いまして』


「俺も初陣なんだけど」


 一瞬、間が空いた。


『……そうでした』


「忘れるなよ」


 そこへ相馬が割り込んだ。


『少尉殿、声固いですよ』


「無線で分かる?」


『分かります』


 今度は真鍋だった。


『河野軍曹が喋りすぎです』


『真鍋、お前な』


「全機、私語はそこまで」


『了解』


 三つの返事が重なった。


 啓介は少しだけ笑った。怖さが消えたわけではない。それでも、一人で飛んでいるわけではなかった。


     ◇


 しばらく進むと、地上の景色が変わり始めた。


 果ての見えない草原を河川が蛇行し、そのところどころで小さな車両らしいものが動いている。さらに進んだ先では土煙が上がり、その少し前に地上で小さな閃光が見えた。


 砲撃だった。


 啓介は無意識にそちらへ目を向けた。


 二〇〇五年を生きていた頃、戦争は映像や写真の中にしかなかった。爆発した場所には人間がいるなど、頭では分かっていたはずなのに、実際に上空から見ると、その意味がまるで違って感じられた。


『少尉殿』


 相馬の声が入る。


『地上見すぎ』


「……了解」


 啓介は顔を上げた。


 地上へ気を取られるのも、敵一機へ夢中になるのと同じだった。


「全機、警戒」


『了解』


 視線を外へ広げる。右、上、左、後方。太陽の方向と雲の縁まで確認し、もう一度前へ戻そうとした、その時だった。


『敵機!』


 相馬の声が飛んだ。


 身体が一瞬だけ固くなる。


「方位」


『十時、高い。八!』


 啓介も見つけた。


 黒い点が並んでいる。目を凝らすうちに輪郭が浮かび、やがて航空機の形へ変わった。


「視認」


『I―16らしい』


 河野だった。


「了解」


 敵は八機、こちらは四機だった。


 もっとも、八機すべてが一塊になっているわけではない。高度差をつけた編隊が縦に伸び、前方の四機ほどが先にこちらへ進路を変え始めている。


 啓介は空全体を見た。


 同時に八機を相手にする必要はない。


「二機一組。河野、俺につけ。真鍋、相馬を頼む」


『了解!』


『了解』


 四機は大きく距離を開けないまま、二組へ分かれた。


 敵前方の四機が降下を始める。


 啓介の口の中が乾いた。


 もう訓練ではない。


 あの機体にも人が乗っていて、向こうも自分たちを撃つつもりで来ている。


     ◇


『来る!』


 相馬の声とほぼ同時に、敵機が上から降ってきた。


 機首のあたりに小さな光が瞬く。


 次の瞬間、啓介の横を光の線が走った。


 曳光弾だった。


 理解した途端、背筋が冷たくなる。


 本物の弾が、いま自分のすぐ横を通った。


「河野、離れるな!」


『了解!』


 機体を傾ける。


 一機が目の前を高速で横切った。その一瞬だけ、敵機の操縦席まで見えたような気がした。


 そこには当然、人が乗っている。


 頭では分かっていたはずなのに、いざ目にすると、それまで「敵機」としか見えていなかったものが、急に人間の乗る機械へ変わった。


『後ろ!』


 河野の声で我に返った。


 もう一機が入ってくる。


 啓介は反射的に旋回した。


 敵もついてくる。


 九七戦は回れる。このままなら追える。


 そう思った瞬間だった。


『上!』


 河野の声に顔を上げると、もう一機いた。


「――っ!」


 目の前の敵しか見ていなかった。


 訓練で何度も繰り返し、そのたびに河野や真鍋から叩かれた失敗だった。


 啓介は追うのをやめ、操縦桿を戻しながら速度を取り直した。その背後を曳光弾が抜けていく。


「河野!」


『います!』


 僚機を確認する。


「離脱!」


『了解!』


 二機で機首を下げた。


 出力を上げると、発動機の唸りが一段大きくなり、機体が前へ伸びる。


『一機、追尾!』


「そのまま来させる」


 訓練で何度も試した形だった。


「真鍋!」


『視認しています』


 それだけで十分だった。


 右上から真鍋と相馬が降ってくる。


 追っていた敵機がそちらへ気を取られた瞬間、河野が機体を返した。


『入ります!』


「了解!」


 河野機の機首が一瞬光る。


 十三ミリ二挺の短い一連射が敵機の翼付近へ入り、破片が散った。機体は大きく傾き、黒煙を引きながら高度を失っていく。


『一機』


 河野の声は、驚くほど淡々としていた。


 啓介は一瞬だけその敵機を目で追いかけそうになったが、すぐに周囲へ視線を戻した。


 空戦は終わっていない。


     ◇


 敵機が上を横切る。


 真鍋が河野の後ろへ回ろうとする一機を牽制し、相馬が周囲を見ていた。


『右下、一』


「視認」


 一機が正面から向かってくる。


 距離が急速に詰まった。


 啓介は照準器を見る。


 敵を中央へ完全に入れてから撃とうとした瞬間、射撃訓練で何度も言われたことを思い出した。


 それでは遅い。敵が来る位置へ先に照準を置き、近づいてくる機影を待つ。


 まだ遠い。


 もう少し。


 啓介は引き金を絞った。


 十三ミリの反動が機体全体へ重く伝わる。


 長くは撃たず、短い一連射だけで指を離し、そのまま敵機と高速ですれ違った。


 反射的に振り返りそうになる。


 しかし、やめた。


「相馬」


『いる』


 僚機の声を聞いてから前を見る。


 その直後だった。


『少尉殿』


 相馬の声が少し低くなる。


『今の、命中です』


「……え?」


 一瞬だけ後方へ目を向けた。


 先ほどの敵機から白い煙が出ている。それが次第に濃くなり、機体は一度、二度と回転しながら高度を失っていった。


 やがて、何か小さなものが機体から離れた。


「……人?」


 人影だった。


 その上で白い落下傘が開く。


 啓介は息を呑んだ。


 助かった。


 最初に浮かんだのは、それだった。


『見るな!』


 河野の声が無線へ叩きつけられる。


『まだ敵がいる!』


「――了解!」


 啓介は前へ視線を戻した。


 自分が、人の乗った飛行機を撃ち落とした。その事実が胸へ引っ掛かったが、今は考えている時間ではない。


     ◇


『三時、二!』


「了解!」


 二機が河野と真鍋へ向かっていた。


「相馬、ついてこい」


『了解』


 高度を使って降りる。


 河野は一機を引きつけながら離脱し、もう一機には真鍋が対応している。


「河野、離脱!」


『了解!』


 河野機が機首を下げ、その後を敵機が追う。


 啓介は上から入った。


 照準器の中へ敵機を捉える。


 今度は狙いすぎない。


 短く撃つ。


 十三ミリ弾が敵機の胴体付近へ入り、小さな破片が散った。


 それでも機体は飛び続けている。


 啓介は追わなかった。


「離脱」


『了解』


 相馬とともに抜け、高度と速度を取り戻す。


 撃破できたかもしれない。だが、それを確かめるために敵へ食いつけば、その間に別の敵が来る。


 まず味方を見る。


 河野。


 真鍋。


 相馬。


 三機ともいる。


 真鍋も敵を振り切り、こちらへ戻り始めていた。


     ◇


 戦闘が始まってから、どれほど時間が経ったのか分からなかった。


 実際には数分だったのだろう。


 啓介には、もっと長く感じられた。


 敵機は次第に高度を取り始め、こちらへ攻撃を掛けていた機体も一機、また一機と距離を取っていく。最初に接敵した敵のうち、少なくとも二機は高度を大きく失い、もう一機にも命中が確認できていた。


 上空に残っていた敵機も、仲間と合流するように離れ始める。


『追撃可能』


 河野だった。


 啓介にもそう見えた。


 機体はまだ動く。


 燃料にも余裕がある。


 追えば、もう一度戦えるかもしれない。


 だが、命令は明確だった。


「追わない」


 一瞬、無線が静かになった。


『了解』


「全機、集合」


『了解』


 四機が戻ってくる。


「損傷報告」


『河野、右主翼に被弾。操縦に問題なし』


『真鍋、異常なし』


『相馬、異常なし』


 啓介も自分の計器へ目を走らせた。発動機、操舵、燃料ともに異常はない。


「越智、異常なし」


 四機とも飛んでいる。


 そこで初めて、肺に溜まっていた息を長く吐いた。


「帰投する」


     ◇


 帰路では、誰もあまり喋らなかった。


 無線状態が悪かったこともあるが、それ以上に、何を話せばいいのかまだ自分たちでも分かっていなかった。


 啓介の頭からは、先ほどの光景が離れない。


 煙を吐きながら落ちていく機体と、そこから飛び出した人影。その上に開いた白い落下傘。


 一機撃墜。二〇〇五年なら、その一言で済んだ。


 歴史書にも、何機撃墜したと数字で書かれる。模型の箱に描かれた撃墜マークを格好いいと思ったことさえある。


 けれど、その数字の中には人間がいる。


『少尉殿』


 河野の声が入った。


「何?」


『さっきは助かりました』


「俺もその前に助けられた」


 少し間が空いた。


「河野軍曹」


『はい』


「最初に落とした時、どうだった?」


 今度は河野が黙った。


『……帰り道で、色々考えました』


「例えば?」


『向こうにも家族がおるんだろうな、とか』


 啓介は何も言えなかった。


『でも、向こうが撃ってきたら、こっちも撃たんと死にます』


「ああ」


『そこだけは、どうにもならんです』


「……そうだな」


 それ以上の言葉は見つからなかった。


 あの白い落下傘の下にいた男にも、帰りを待つ人がいるのかもしれない。それでも、あの空で撃たなければ、自分か仲間が撃たれる。


 どちらも本当なのだろう。


 啓介は答えを出せないまま、前方の空を見続けた。


     ◇


『飛行場視認』


 相馬の声が入った。


「了解」


 啓介は無意識に周囲を確認する。


 河野。


 真鍋。


 相馬。


 三機ともいる。


「着陸順、河野、真鍋、相馬。俺が最後」


『了解』


 一機ずつ降りていく。


 最後に啓介が進入した。


 滑走路が近づき、車輪が土へ触れる。機体がわずかに揺れたが、もう着陸そのものを頭で追いかける必要はなかった。身体が覚えた通りに速度を落とし、そのまま機体を止める。


 発動機を切ると、音がゆっくり消えていった。


 帰ってきた。


 操縦席から降りると、矢野が走ってきた。


「少尉殿!」


「戻りました!」


「四機ともか!」


「四機ともです!」


 矢野の目が啓介の後ろへ動く。


 河野も、真鍋も、相馬も、自分の足で立っている。


「……そうか」


 ほんの一瞬だけ、矢野の顔から力が抜けた。


 しかし、すぐにいつもの表情へ戻る。


「河野!」


「はい!」


「右の翼どうした!」


「敵弾です!」


「見りゃ分かる! どこで食らった!」


「最初の接敵です!」


「あとで全部話せ!」


「はい!」


「少尉殿!」


「はい!」


「一号機も機首見るぞ! 十三ミリ、異常は?」


「射撃中はありません!」


「射撃中は、じゃ分からん! 今から見る!」


「はい!」


 いつもの矢野だった。


 それが少し嬉しかった。


     ◇


 戦果の確認には時間が掛かった。


 搭乗員の申告だけでなく、僚機の目撃や地上部隊からの報告も突き合わせ、誰が撃ったのか分からないものを無理に誰かの戦果へ加えることもしなかった。


 最終的に、確実と認められた撃墜は二機だった。


 河野、一機。


 越智、一機。


 さらに一機には明確な命中が確認されていたが、墜落までは確認できなかったため、撃破として扱われた。


 味方側では河野機の右主翼に被弾があったものの、四機とも修理可能で、人員にも死傷者はなかった。


 啓介は報告用紙を前に座り、鉛筆を取った。


 最初に埋めたのは、戦果欄ではない。


『人員損失 零』


 その下へ続ける。


『機体喪失 零』


 その二行を見て、ようやく肩から少し力が抜けた。


「少尉殿」


 河野が横から覗き込んだ。


「そっちから書くんですか」


「ああ」


「撃墜二ですよ」


「それも書くよ」


「初陣で」


「分かってる」


 啓介は次の欄へ鉛筆を移した。


『敵機 確実撃墜二』


『撃破一』


 そこで一度、手を止める。


「満足ですか」


 河野が聞いた。


 啓介は少し考えた。


 初めて敵を撃ち、初めて撃たれ、そして初めて本物の戦場から帰ってきた。


 満足という言葉が正しいのかは、まだ分からない。


「……今日は、これでいい」


「何がです?」


 啓介は最初に書いた二行を指先で軽く叩いた。


『人員損失 零』


『機体喪失 零』


 河野はそれを見て、それ以上は何も聞かなかった。


 格納庫から、工具の音が聞こえていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。