第二十六話 四つの影
初めての実戦から、一週間が過ぎた。
その後の出撃は、啓介が思っていた以上に淡々と続いた。
夜が明ける前から機体を出す日もあれば、地上部隊の上空を何時間も飛びながら、一機の敵とも遭遇せずに戻る日もあった。敵影を見つけても、相手がこちらへ向かわず、そのまま高度を取って去っていくこともある。
かと思えば、ようやく帰投して燃料を入れ、矢野たちが点検を終えたばかりの機体へ、もう一度出動命令が掛かる日もあった。
戦闘になれば、四人は訓練してきたことを繰り返した。二機で互いを見ながら動き、無理だと思えば離れ、位置を取り直して次の機会を待つ。
最初の頃なら、そんな時には河野から、
『今の、追えば落とせましたよ』
と不満そうな声が飛んできたものだった。
「次がある」
啓介がそう返せば、以前なら少し間を置いて返事が来た。
だが、一週間も経つ頃には違った。
『了解』
それだけだった。
そして実際、次の機会は来た。
◇
『右上、二』
相馬の声が入る。
「視認」
『河野、前』
「真鍋、上を見てくれ」
『了解』
河野が前へ出る。
敵一機へ近づき、十三ミリを短く撃った。敵機が大きく機体を振って避けるが、河野はそのまま追わない。
『上、一』
真鍋だった。
『河野、離脱』
『了解』
河野が抜けた直後、その後方へ入りかけていた敵機へ真鍋が降りる。
短い射撃。
敵機が大きく横へ逃げた。
『外した』
「追わなくていい」
『了解』
二機が高度を取り戻す。
その少し離れた空では、啓介と相馬が別の敵へ向かっていた。
『十一時、一』
「見えた」
近づきながら敵の動きを見る。
射撃位置へ入ったが、わずかに角度が悪い。
引き金へ掛けた指を、そのまま離した。
「一度抜ける」
『了解』
相馬とともに敵の下を抜け、高度を取り直す。
敵はまだ飛んでいる。
以前なら「せっかく後ろを取ったのに」と思ったかもしれない。
今は違う。
「もう一度行く」
『了解』
四人にとって、それはもう特別な戦い方ではなくなっていた。
◇
一週間が経った頃、研究班の戦闘詳報を集計していた将校が、机の上の数字を何度も見直した。
「……本当に、これで合っとるのか」
「照合できるものは、地上部隊の報告とも合わせています」
「撃墜二十数機」
「はい」
「撃破と共同戦果まで含めると?」
「我が軍の認定では三十前後です」
将校は紙から顔を上げた。
「四機で?」
「はい」
「一週間で?」
「はい」
戦場での撃墜認定である以上、それがそのまま敵側記録と一致しているとは限らない。
複数の機体が同じ敵を撃った例もある。黒煙を吐いて離脱したところまでは確認できても、その後に墜落したのか、飛行場まで戻ったのか分からない機体もあった。
四人とも戦果は挙げていたが、本人たちは途中から、誰が何機という数字をそれほど気にしなくなっていた。
それよりも、別の数字の方が周囲の目を引き始めていた。
人員損失、零。
機体喪失、零。
もちろん無傷ではない。
河野機の主翼には何度も敵弾が入り、啓介の機体も尾部へ被弾した。真鍋は一度、方向舵を傷めたまま帰還し、相馬の風防には弾丸が掠めた跡が残っている。
それでも、傷ついた機体は矢野たちが夜のうちに直し、翌朝にはまた同じ四人が空へ上がった。
一週間の戦果は、その繰り返しの中で積み重なったものだった。
◇
「少尉殿」
夕食後、河野が戦闘記録を眺めながら言った。
「何?」
「俺、まだ少尉殿より旋回戦は上手いですよね」
「何だよ、いきなり」
「確認です」
「……上手いよ」
「ですよね」
河野は満足そうに頷くと、今度は真鍋を見る。
「真鍋。射撃なら少尉殿より自信あるか」
「あります」
「即答するなよ」
啓介が言うと、真鍋は平然としていた。
「事実ですので」
「相馬」
「はい」
「敵見つけるのは?」
「負ける気はありません」
「お前らなあ……」
啓介が呆れていると、河野が腕を組んだ。
「じゃあ少尉殿って、何が一番得意なんです?」
「俺?」
言われてみれば、すぐには答えが出なかった。
純粋な操縦感覚なら河野にかなわない。機体を乱さず正確に動かすなら真鍋の方が上で、索敵や通信状況まで含めて周囲を把握することなら相馬に分がある。
「…………」
「ないんです?」
「待て」
「考え込んだ」
「うるさいな」
もう少し考えてから、啓介は言った。
「……逃げること?」
一瞬、部屋が静かになった。
次の瞬間、河野が噴き出した。相馬も笑い出し、真鍋まで顔を伏せている。
「笑うな!」
「班長の特技が逃げ足って!」
「違う! 帰る能力って言え!」
「同じじゃないですか」
「全然違う!」
結局、啓介も最後には笑っていた。
◇
その夜、いつものように戦闘記録を広げようとしていると、兵舎の入口が妙に騒がしくなった。
「越智少尉はおるか」
「はい?」
啓介が顔を出すと、見覚えのない佐官が立っていた。
その後ろには尉官や下士官だけでなく、飛行服姿の操縦者たちが何人もいる。さらに整備員まで混じっていた。
「何でしょうか」
「お前たちの戦い方を聞きたい」
「……自分たちの?」
「戦闘詳報は読んだ。じゃが、あれだけでは分からん」
佐官がそう言うや否や、後ろにいた操縦者たちまで声を上げた。
「四機でどう動いとるんだ」
「何で敵を深追いせん」
「河野軍曹、昨日のI―16をどう振り切った」
「真鍋兵曹、攻撃後の反転はどの位置で決めとる」
「相馬、無線の符号を見せてくれんか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
誰も待ってくれなかった。
気づけば、いつも四人で使っていた部屋へ、人が入り切らないほど集まっている。
河野が啓介の横へ寄った。
「人気者ですね」
「お前らもだろ」
「少尉殿が説明してください」
「何で」
「班長ですから」
「こういう時だけ班長扱いするなよ」
◇
地図を机へ広げると、いつしか階級はあまり関係なくなった。
飛行中隊長も、小隊長も、古参の下士官操縦者も、若い飛行兵もいる。
誰もが、明日も自分の足でここへ戻るために聞いていた。
啓介は板へ四機を書いた。
「基本は四機です」
一人の中隊長が口を開いた。
「四機で飛ぶこと自体は珍しくもなかろう」
「はい。二機で互いに援護する考え方そのものも、自分たちが初めて考えたものではありません」
何人かが少し意外そうな顔をした。
「では、何が違う」
「一つだけなら、大して違わないと思います」
啓介は板に描いた四機を二機ずつ線で囲んだ。
「自分たちは、この二機をできるだけ崩さないようにしています。一機が敵へ入ったら、もう一機は同じ敵だけを見ない。攻撃している僚機を狙う敵がいないか、周囲を見ます」
「四機全部で敵一機へ行った方が、火力は増えるぞ」
「一時的には」
啓介は四つの丸を一か所へ集め、その後方にもう一つ丸を描いた。
「でも、その時に後ろから来た敵を誰が見ます?」
部屋が静かになった。
「一機が撃つ。もう一機が、そいつを生かす」
「それを二組か」
「はい」
「二機をそれほど重く見る理由は?」
啓介は少し考えた。
「二機を、最後まで互いに帰す単位にしたいんです」
今度は誰もすぐには口を開かなかった。
「ただ、絶対にこの形を守るという意味ではありません。状況が変われば崩します」
「崩すのか」
「戦場で毎回同じ形になるとは思っていませんから」
「絶対ではない?」
「絶対にしたら、条件が変わった時に困ります」
横から河野が口を挟んだ。
「そこは少尉殿、満州来てだいぶ変わりました」
「余計なこと言うな」
周囲から小さな笑いが起きた。
◇
「一撃離脱を多く使うそうだな」
別の操縦者が尋ねた。
「九七戦はよく回る。格闘戦を避けては、長所を捨てることにならんか」
「避けるとは決めてません」
「なら?」
「回った方が有利なら回ります。ただ、得意なことと、いつでもやるべきことは違うと思っています」
「どう違う」
「一機を何分も追っていれば、その間に高度も速度も失います。僚機が襲われるかもしれないし、別の敵も来る。燃料も弾薬も減ります」
啓介は板へ、上から下へ一本の線を引いた。
「上を取れているなら、まずそこを使います。撃って、駄目なら抜ける。まだ必要なら、もう一度位置を取り直す」
「敵が逃げたら?」
「追う必要がある任務なら追います」
「そうでなければ?」
「逃がすこともあります」
部屋にざわめきが起こった。
「落とせる敵をか?」
「追えば落とせるかもしれません」
「なら追うだろう」
啓介は首を振った。
「その一機を落とすために、こちらが一機帰れなくなる危険を大きくするなら、割に合わない場合があります」
「…………」
「今日一機多く落とすより、明日また四機で出られる方が大事な時もあります」
◇
部屋の後ろにいた若い操縦者が、ためらいながら手を上げた。
「少尉殿」
「はい」
「敵を追わず帰ったら……逃げたと言われませんか」
啓介は少し黙った。
その声に冗談はなかった。
「誰に?」
「上官です。敵がまだ飛んでいるのに、追撃をやめたって」
これは機体性能や戦術だけの問題ではなかった。
「言う人はいるかもしれない」
若い操縦者の顔が少し曇った。
「だから、記録します」
「記録?」
啓介は自分たちの戦闘詳報を持ち上げた。
「どこで接敵したか。敵は何機いたのか。燃料はいくら残っていたのか。なぜ離脱したのか。その後どうなったのか。そして、帰ってきた機体が翌日何機飛べたのか」
紙を机へ置く。
「怖くて逃げたのと、任務を続けるために離脱したのを、同じにしないためです」
「それでも怒られたら?」
別の誰かが聞いた。
啓介が答えようとしたところで、河野が先に口を開いた。
「その時は少尉殿が怒られます」
「何で俺だけなんだよ!」
「班長でしょう」
「お前らも一緒に怒られろ!」
部屋に笑いが起きた。
啓介も笑ってから、もう一度若い操縦者へ向き直る。
「本当に必要な離脱だったなら、俺なら説明します」
「…………」
「それも、指揮官の仕事でしょう」
若い操縦者は、ゆっくりと頷いた。
◇
「ところで」
最初に来た佐官が、集計表を指で叩いた。
「一週間で三十前後」
「日本側の認定上は、です」
「それでもだ。この数字は、その戦い方のおかげだと思うか」
「全部ではないと思います」
「なぜ」
「機体も違いますし、河野軍曹たちの腕もあります。敵側の練度や、接敵した時の位置関係もある。それに運も」
「運まで入れるか」
「入るでしょう」
佐官が笑った。
「なら、一番効いていると思うものは何だ」
啓介は少し考えた。
「毎日飛べたことです」
「毎日?」
「はい」
戦闘詳報を開く。
「俺たちは、一日で三十機落としたわけじゃありません。敵と遭遇しなかった日もあるし、まともに射撃できず帰った出撃だってあります」
啓介は河野、真鍋、相馬を見る。
「でも、毎回帰ってきました。だから次の日も四機で出られた。その次の日も、また四機です」
傷ついた機体は矢野たちが直し、昨日戦った搭乗員は、その経験を持ったまま翌日の空へ戻る。
「その積み重ねだと思います」
「簡単に言うな」
「簡単じゃありません」
「だろうな」
啓介は少し笑った。
「だから俺たちは、撃つ訓練と同じくらい、帰る訓練をしました」
今度は、誰も笑わなかった。
◇
話が一段落しかけた頃、情報関係の将校が口を開いた。
「そういえば、越智少尉」
「はい」
「最近、敵側の無線で妙な言い回しが何度か出とる」
「妙な?」
「どうも、お前たちらしい四機を指しているらしい」
河野がすぐに食いついた。
「何て言われとるんです?」
「正確な直訳は難しい。ただ、傍受記録を合わせると……」
将校は少し考えた。
「『四つの影』とでも訳すのが近いらしい」
「四つの影……」
相馬が繰り返した。
「格好いいですね」
「いつも四機で現れる。二つに割れ、一組を追っていれば別の二機が来る。そして深追いせず、いつの間にか離れていく」
河野はすっかり嬉しそうだった。
「いいじゃないですか」
だが、真鍋だけは黙っていた。
「真鍋?」
「はい」
「どうした」
「敵に特徴を覚えられたということです。同じように飛び続ければ、対策されます」
河野の笑みも消えた。
啓介は地図へ目を落とした。
「そうだな」
「明日も同じ方法で?」
「いや」
啓介は首を振る。
「敵が昨日の俺たちを覚えたなら、こっちも昨日のままじゃ駄目だ」
河野の顔に、また少しだけ笑みが戻った。
「何やります?」
「これから考える」
「寝られませんね」
「お前らもだよ」
「やっぱり」
◇
結局、その夜の話し合いは、そこからさらに長くなった。
「二機の間隔、もう少し広げられんか」
「広げすぎたら僚機を見失う」
「敵が上におった場合は?」
「無線符号を、もう少し減らしたいです」
「短くしすぎると聞き間違えるぞ」
「なら音の違いを大きくします」
「無線が死んだら?」
「翼を振る」
「雲の中じゃ見えん」
「ならその場合の集合地点を先に決める」
啓介一人が答えていたわけではない。
河野が地図へ線を引けば、真鍋がその欠点を指摘し、相馬が別の案を出す。他部隊の操縦者が自分たちの経験を持ち込み、やがて整備員まで議論へ加わった。
「お前ら、出力上げっぱなしで飛ぶ案ばっかり立てるな!」
「戦闘中なんですよ!」
「戦闘中でも発動機は壊れる!」
「何分までなら持ちます?」
「時間だけ見るな、温度も見ろ!」
「そんな余裕あります?」
「作れ!」
「無茶だ!」
「発動機止まる方がもっと無茶じゃ!」
笑いが起き、その横からまた別の案が出る。
佐官が軍曹の意見を聞き、若い操縦者が中隊長へ反論し、整備員が飛行士の考えを止める。良いと思われたものは、誰が言ったかに関係なく紙へ書かれた。
明日、誰かが帰らないかもしれない。
全員がそれを知っているからこそ、自分の階級や面子より、使えるかどうかの方が大事だった。
どうすれば敵を少しでも早く見つけられるか。僚機を見失わずに済むか。撃ったあと、どう抜ければいいのか。被弾した仲間をどう連れて帰るのか。そして、傷ついた機体をどうすれば翌朝もう一度飛ばせるのか。
気づけば、誰が何機落とすかという話をしている者は、ほとんどいなかった。
◇
「越智少尉」
佐官に呼ばれた。
「はい」
「さっきから何を書いとる」
「今出た案です」
「全部か?」
「とりあえず」
「全部試すのか」
「使えそうなものから試します」
佐官が苦笑した。
「自分の戦法を変えられて、嫌ではないのか」
「自分の?」
啓介は少し意外だった。
河野を見る。
真鍋。
相馬。
それから、同じ机を囲んでいる操縦者や整備員たちを見る。
「もう、俺一人のものじゃないでしょう」
「…………」
「使えるものは使えばいいし、もっといい方法が出たなら変えればいい」
「随分あっさりしとるな」
「その方が――」
啓介は帳面へ目を落とした。
「帰れる人が増えるでしょうから」
◇
翌朝。
格納庫を出た啓介は、滑走路の向こうを見て足を止めた。
「二番、長機だけ見るな! 後ろ見ろ!」
「三番、間隔詰めすぎだ!」
「一組目、先行!」
「二組目、上を取れ!」
昨日まで三機を一つのまとまりとして飛ばしていた別の部隊が、四機を二機ずつに分けていた。
完全に同じ形ではない。間隔も違えば高度差も違い、その部隊の指揮官が自分たちなりに手を加えているのが分かる。
さらに離れた場所でも、別の小隊が二機単位の相互援護を試していた。
河野が隣へ来た。
「増えましたね」
「ああ」
「俺たちの真似ですか」
「たぶん。でも、もう少し違う」
「嫌じゃないんです?」
「何が」
「勝手に変えられて」
啓介は河野を見た。
「良くなるなら、その方がいいだろ」
「少尉殿らしいですね」
最初の二機が滑走路へ入り、出力を上げる。土煙を上げながら走り、そのまま空へ浮かんだ。少し遅れて、もう一組が続く。
四機は上空で合流すると、越智隊とは少し違う間隔を取った。
やがて無線から、知らない操縦者の声が聞こえてくる。
『二番、離れるな』
『了解』
啓介は、四機が西の空へ小さくなっていくのを見送った。
昨日までは、自分たちだけが試していた。
今日はもう、別の四機が持っていった。
「少尉殿」
「何?」
「これで、もっと敵を落とせますかね」
啓介は少し考えた。
「分からない」
「またそれですか」
「ああ」
それでも、西へ向かう四機から目を離さなかった。
「四機で帰ってきたら、聞いてみよう」
「何を?」
「どこが駄目だったか」
河野は一瞬黙り、それから笑った。
「そこですか」
「そこだよ」
遠くで、また別の発動機が回り始めた。
昨日までとは少し違う四機が、次の空へ向かっていった。




