第八話 奈々の味噌汁
二学期が始まってしばらくすると、越智啓介が変わったという話は、学校でもすっかり定着していた。
もともと、勉強のできない子供だったわけではないらしい。授業を聞けばそれなりに理解できたし、算術も読み書きも平均より少し上だった。
ただ、勉強そのものに大して興味がなかった。
宿題は後回しにし、授業中には窓の外を眺め、休み時間になれば誰より早く校庭へ飛び出す。
それが、夏までの啓介だった。
「越智」
「はい」
教師に呼ばれ、啓介は立ち上がった。
黒板に書かれた算術の問題を見る。
答えを出すこと自体は難しくなかった。数字だけを言っても仕方がないので、途中の考え方から順番に説明してみる。
教師は黙って聞き終えると、少し意外そうな顔をした。
「……よろしい。座っていい」
「はい」
席へ戻る。
最近では、こういうことも珍しくなくなっていた。
二〇〇五年まで学校へ通った記憶があるのだから、十一歳の授業が以前より簡単に感じられるのは当然だった。
夏からは本を読むようになり、分からないことを自分で調べる習慣もついた。何より、以前より勉強の仕方そのものを知っていることが大きかった。
「越智」
休み時間になると、同級生の男子が寄ってきた。
「何?」
「お前、最近ずるない?」
「何がだよ」
「急に何でもできるようになっとるやん」
「勉強してるからだろ」
「前まで全然せんかったやん」
「だから今してるんだよ」
「やっぱり暑さで倒れて、頭ん中変わったんじゃ」
「お前までそれ言うのか」
周囲から笑いが起こった。
夏から何度聞かされたか分からない。
最初の頃は返事に困ったものだが、今では啓介も笑って受け流せるようになっていた。
「啓介くん」
「ん?」
今度は後ろから声を掛けられた。
同じ学級の女子が二人、算術の教科書を持って立っている。
「ここ、分からんのやけど」
「ああ。どこ?」
「これ」
指された問題を見る。
「これは先にこっちを計算してから――」
空いている机へ紙を置き、式を書いていく。
「ここまでは分かる?」
「うん」
「じゃあ、あとは同じようにやればいい」
「あ……できた」
「だろ?」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、啓介くん」
「どういたしまして」
顔を上げると、少し離れたところで男子たちが妙な顔をしていた。
「……何?」
「いや」
「何だよ」
一人がしばらく迷った末に言った。
「越智、女子とよう普通に喋れるのう」
「は?」
「恥ずかしくないん?」
「何で?」
「何でって……女子やぞ」
「それは見れば分かるけど」
今度は啓介の方が分からなかった。
だが、相手が本気で言っているらしいことに気づき、少し考える。
「ああ……」
二〇〇五年の自分にとって、女子と普通に話すこと自体は珍しくなかった。
もちろん、好きな女子を前にすれば緊張くらいはする。けれど、女の子だから話せないという感覚はあまりない。
考えてみれば、十一歳ともなれば、男子も女子も互いを少し意識し始める年頃だ。まして二〇〇五年とは、周囲の空気も違う。
「そういうものか……」
「何が?」
「いや。何でもない」
知識として時代を知っていることと、その中で暮らすことは、やはり違った。
◇
その日の帰り際にも、別の女子から声を掛けられた。
「越智くん」
「何?」
「最近、図書館で軍隊とか船の本よう読んどるんやって?」
啓介は目を瞬いた。
「誰から聞いたの?」
「うちの兄ちゃん。町で見たって」
「……そこまで見られてるのか」
村の情報の回り方には、いまだに慣れない。
「軍人さんになるん?」
「まだ決めてないよ。海軍には興味あるけど」
「へえ……」
少女の目が少し輝いた。
「海軍さんの服、格好ええよね」
「制服で決めるわけじゃないけどな」
「あははっ」
啓介も笑った。
その時、何となく視線を感じて横を見る。
少し離れたところに奈々が立っていた。
「…………」
何も言ってはいない。
けれど、どう見ても機嫌が良さそうではなかった。
◇
「奈々」
「何」
学校を離れ、二人きりになった帰り道。
奈々はいつもより半歩ほど前を歩いている。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「いや、怒ってるだろ」
「怒ってない!」
「声がもう怒ってるじゃん」
「啓ちゃんがしつこいけん!」
奈々が振り返った。
頬が少し膨れている。
「俺、何かした?」
「知らん」
「知らんって……」
奈々はぷいと前を向いた。
「最近、女の子とよう喋っとるね」
啓介は何度か瞬きをした。
「勉強聞かれるから教えてるだけだよ」
「ふーん」
「何だよ、その返事」
「別に」
「奈々だって、分からないところがあれば教えるぞ」
「うちは困っとらんもん」
「夏休みの最後に作文残してたの、誰だっけ」
「それは夏休み!」
「何が違うんだよ」
「違う!」
ますます分からない。
どうやら、自分が他の女子と話しているのが面白くないらしい。
小さい頃からいつも一緒にいたのだから、自分の周りが急に変われば、そういうこともあるのかもしれない。
「分かった。今度から奈々にも教えてやるよ」
「いらん!」
「何でだよ」
「うち、自分でできるもん」
「じゃあ何で怒ってるんだ」
「怒ってない!」
「だから怒ってるだろ、それ」
「もう知らん!」
奈々が早足になる。
「待てって」
「知らん!」
啓介は苦笑しながら、そのあとを追った。
結局、何がそんなに気に入らないのかは、よく分からなかった。
◇
次の休日。
啓介はいつものように村上家を訪れた。
「ごめんください」
「あら、啓介くん」
玄関へ出てきた綾乃が笑顔を見せる。
「今日も新聞?」
「はい。いつもすみません」
「いいのよ。主人も、あれだけ熱心に読んでくれるなら新聞の取り甲斐があるって言っていましたよ」
「本当ですか?」
「ええ。ただ――」
綾乃の口元が少し緩んだ。
「奈々は最近、新聞に啓介くんを取られたって言っていますけど」
「母さま!」
奥から大きな声が飛んできた。
啓介は思わず笑った。
「言ってるじゃん」
「そういう意味で言うたんやない!」
奈々が慌てて姿を見せる。
「じゃあ、どういう意味だよ」
「知らん!」
「自分で言ったんだろ」
「もう!」
綾乃は楽しそうに二人を見ていた。
◇
書斎に入ると、啓介はいつものように新聞を広げた。
古い活字にもだいぶ慣れてきた。
国内の政治や経済、中国大陸の動き。気になる記事があれば紙へ書き留め、以前読んだ内容と比べる。
歴史は今のところ、自分の知る流れから大きく外れてはいない。
それでも、自分自身の進む道まで決まっているわけではなかった。
軍人という選択肢が、以前より近くなっただけだ。
海軍へ進むのか。
別の道を選ぶのか。
まだ答えは出ていない。
ふと外を見ると、日はかなり高くなっていた。
「もう昼か」
新聞を畳む。
さすがに昼飯時まで居座るのは悪い。
書斎を出ると、ちょうど廊下に奈々がいた。
「帰るん?」
「ああ。もう昼だし」
「なんで?」
「なんでって、飯食うからだよ」
「ここで食べたらええやん」
「いや、それは悪いだろ」
「悪くない」
「また奈々が決めるのか?」
「母さまー!」
「早いな!」
ほとんど反射だった。
「はいはい」
奥から綾乃の声が返ってくる。
「啓介くんも食べていってくださいな」
「ほら!」
奈々が得意げに胸を張った。
「……ありがとうございます」
「最初から食べていけばええんよ」
「何で奈々がそんな偉そうなんだ」
「うちの家やもん」
「それを言われると弱いな……」
◇
村上家の昼食は、越智家より少し品数が多かった。
白い飯に漬物、煮物、焼き魚。
食卓へ並んだものを眺めるだけでも、二つの家の暮らし向きの違いが分かる。
「いただきます」
啓介は箸を取った。
朝から新聞を読んでいたせいもあって、かなり腹が減っている。
まず魚を口へ運ぶ。
「うまい」
煮物も食べる。
「これもうまいな」
向かいに座った奈々が、なぜか嬉しそうにしていた。
「何?」
「別に」
「奈々が作ったわけじゃないだろ」
「今日は作ったもん」
「え?」
啓介は箸を止めた。
「何を?」
奈々は待っていましたとばかりに、少し胸を張った。
「お味噌汁」
「これ?」
「うん」
「奈々が?」
「そうよ」
「へえ……」
「何その顔」
「いや。意外だっただけ」
「失礼やね!」
横から綾乃が笑った。
「今日は奈々が、自分で作るって聞かなかったんですよ」
「ちゃんと作ったんよ」
「一人で?」
「そう」
「火も?」
「さすがに火と包丁は私が見ていましたけどね」
綾乃が答える。
「でも、味付けは奈々が自分でやりましたよ。私が口を出そうとすると怒るんですもの」
「母さまには手ぇ出したらいかんって言うたんよ」
「どうして?」
「自分で作りたかったけん」
奈々はそう言ってから、なぜか少しだけ視線を逸らした。
「……そうなんだ」
啓介には、それ以上の意味など分からない。
ただ、かなり張り切って作ったらしいことだけは伝わった。
「じゃあ、いただきます」
味噌汁の椀を持ち上げる。
白い湯気が立ち、味噌の匂いが鼻へ届いた。
その瞬間だった。
「…………」
啓介の手が止まった。
この匂い。
どこかで――。
靖國神社。
遊就館。
海軍カレーを口にした時、一瞬だけ脳裏へ浮かんだ古い家。
立ち上る湯気。
味噌の匂い。
そして、笑っていた少女。
「啓ちゃん?」
「え?」
「どうしたん?」
「いや……何でもない」
奈々は不思議そうに首を傾げている。
啓介はもう一度、手の中の椀を見た。
あの時見えたものと同じなのだろうか。
分からない。
そもそも、あれが記憶だったのかどうかさえ分からない。
啓介は小さく首を振り、味噌汁を一口飲んだ。
「…………」
黙った。
「どう?」
奈々が身を乗り出す。
「…………」
もう一口飲んでみる。
「おいしい?」
「…………」
不味い。
かなり不味い。
味噌が多すぎる。塩気ばかりが先に立ち、出汁の味がほとんどしない。具も少し煮すぎている。
啓介は椀を見つめた。
それから奈々を見る。
目を輝かせている。
「どう?」
「…………」
何と答えるべきか。
二〇〇五年で身につけた程度の人付き合いの知恵でも、ここで正直に答えてはいけないことくらいは分かる。
「初めてにしては――」
「おいしい?」
「…………」
「啓ちゃん?」
逃げ道を塞がれた。
「……まずい」
言った瞬間。
食卓が静まり返った。
奈々の笑顔が止まる。
綾乃も箸を止めた。
「……今、何て言うた?」
「いや、その」
「まずい?」
「初めてなら仕方ないって!」
「まずいんや!」
「待て奈々!」
「もう食べんでええ!」
奈々が味噌汁の椀へ手を伸ばした。
啓介は反射的に両手で守る。
「何するんだよ!」
「返して!」
「嫌だ!」
「まずいんやろ!」
「まずいけど食べる!」
「意味分からん!」
「返せって!」
「無理して食べんでええ!」
「食べるって!」
「なんで!」
「作ってくれたんだから!」
「…………」
一瞬、奈々の手が止まった。
「それに、食べ物を粗末にするな!」
「そういう話やない!」
二人で椀を挟んで引っ張り合う。
向かいでは、綾乃が口元を押さえていた。
肩が震えている。
「母さまも笑わんで!」
「ご、ごめんなさい」
そう言いながら、まるで止まっていない。
「でも奈々。啓介くん、全部食べてくれるそうよ」
「…………」
奈々が手を止めた。
じっと啓介を見る。
「食べるん?」
「食べるよ」
「まずいのに?」
「作ってくれたんだから」
「…………」
「だから椀から手を離せ」
奈々は渋々手を離した。
啓介はもう一口飲む。
「…………」
やっぱり不味い。
「何、その顔!」
「してない!」
「しとる!」
「飲んでるだろ!」
「顔がまずいって言いよる!」
「味噌が多いんだよ!」
「もう!」
奈々は完全にむくれた。
綾乃はとうとう声を上げて笑った。
◇
それでも啓介は、最後まで味噌汁を飲んだ。
「ごちそうさまでした」
空になった椀を置く。
奈々は横目でそれを確認した。
「……ほんまに全部飲んだ」
「飲むって言っただろ」
「まずいのに?」
「何回言わせるんだよ」
「啓ちゃんが最初に言うたんやろ!」
「それは……悪かった」
奈々はまだ不満そうだったが、さっきほど怒ってはいない。
「でもさ」
「何」
「初めてだったんだろ?」
「うん」
「だったら、次はもっと美味しくなるよ」
「…………」
「今度はおばさんにもちゃんと教えてもらえばいいだろ」
奈々はちらりと綾乃を見る。
「……ちょっとだけなら」
「あら。それは光栄ね」
綾乃が笑った。
奈々は少し考えてから、もう一度啓介を見る。
「次も食べる?」
「作るの?」
「……作る」
「じゃあ食べるよ」
「絶対?」
「ああ」
「まずくても?」
啓介は少し迷った。
「……できれば、今度は美味しくしてほしい」
「もう!」
奈々の頬が膨らんだ。
けれど、今度はすぐに笑った。
「絶対、美味しいって言わせるけん」
「期待してる」
「覚えとってよ」
「覚えてるよ」
「約束?」
「ああ。約束」
奈々は満足そうに頷いた。
「次は絶対やけんね」
「分かったって」
「びっくりするくらい美味しくするけん」
「そこまで期待して大丈夫なのか?」
「大丈夫!」
「その自信、どこから出てくるんだよ」
「知らん!」
二人のやり取りを聞きながら、綾乃がまた笑った。
啓介もつられて笑う。
やがて、ふと空になった椀へ目を落とした。
ひどい味だった。
奈々には悪いが、それだけは間違いない。
「啓ちゃん?」
「ん?」
「何見よるん?」
「いや」
啓介は椀から顔を上げた。
「何でもない」
奈々は怪訝そうにしたものの、すぐに念を押す。
「次は絶対、美味しいけん」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
綾乃がまた笑った。
啓介も笑いながら、もう一度だけ空になった椀を見た。
あれほど不味かったのに。
なぜか、その味は簡単には忘れられそうになかった。




