↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/30

第七話 進む道

 夏休みが終わった。


「……新学期か」


 朝の道を歩きながら、啓介は小さく呟いた。


 この言葉が妙に重たく聞こえるのは、いつの時代も変わらないらしい。


 二〇〇五年に高校へ通っていた頃も、夏休みが終わる前になると憂鬱になった。もう少し休みたい。朝はゆっくり寝ていたい。宿題なんて出したくない。


 昭和四年になっても、そのあたりは大して変わらない。


 もっとも、今年に限って言えば、宿題だけは何の心配もなかった。


「啓ちゃん、早い!」


 後ろから声が飛んできた。


 振り返ると、奈々が小走りで追いついてくる。


「おはよう」


「おはよう。待ってくれてもええやん」


「待ち合わせしてないだろ」


「いつも途中で会うやん」


「それは待ち合わせとは言わない」


「細かい!」


 奈々は頬を膨らませたが、そのまま当然のように啓介の隣へ並んだ。


「宿題、ほんまに全部終わっとるん?」


「終わってるよ」


「見せて」


「嫌だよ」


「なんで?」


「写す気だろ」


「写さんもん。ちょっと見るだけ」


「それを写すって言うんだ」


「けち」


「自分でやった?」


 奈々が急に黙った。


「……やったよ」


「全部?」


「…………」


「奈々?」


「作文だけ、まだちょっと」


「今日提出だぞ」


「知っとる!」


 啓介は思わず笑った。


「笑うな!」


「昨日何してたんだよ」


「母さまのお手伝い」


「ほんとに?」


「ほんと!」


 その声が、ほんの少し高い。


 越智啓介の記憶が教えてくれる。


 奈々は昔から、嘘をつく時だけ少し声が上ずる。


「怪しい」


「怪しくない!」


「帰ったら見せてやるよ」


「ほんま!?」


「自分で書き終わったらな」


「……けち」


 結局、学校へ着くまで奈々はぶつぶつ言い続けていた。


     ◇


 教室へ入ると、久しぶりに顔を合わせた子供たちの声で、朝から騒がしかった。


 夏休みにどこへ行った。


 川で何を捕った。


 祭りで誰が転んだ。


 そんな話があちこちから聞こえてくる。


 この学校は大きくない。同じ学年の子供たちもそれほど多くなく、男子も女子も同じ教室で学んでいる。


 やがて教師が入ってくると、宿題を集め始めた。


「越智」


「はい」


 啓介がまとめて提出すると、教師は一枚ずつ確かめ、少し妙な顔をした。


「……全部あるな」


「はい」


「どうした?」


「先生まで言うんですか」


「何がだ」


「いや、何でもないです」


 教師は訝しそうにしながらも、次の児童へ移っていった。


 席へ戻ると、後ろから小さな声が飛んでくる。


「ほら」


 奈々だった。


「先生も思っとる」


「うるさい」


「今年の啓介は変」


「いい方に変わったんだからいいだろ」


「まあ、それはそう」


 妙に素直だった。


 しばらくして、教師から二学期の予定や学校生活についての話が始まった。


 言葉遣いも、教室の造りも、二〇〇五年とは違う。


 それでも教師が前に立ち、連絡事項を読み上げ、子供たちが半分聞いて半分聞き流している光景は、驚くほど変わらなかった。


 その後、全員が校庭へ出ることになった。


     ◇


 学年ごとに並び、校長の話を聞く。


 姿勢を正しなさい。


 静かにしなさい。


 人の話をよく聞きなさい。


 新しい学期を元気に過ごしましょう。


「…………」


 啓介は前を向きながら思った。


 校長先生の話が長く感じるところまで同じだ。


 横を見ると、男子の何人かはすでに足元の土を眺めている。


 奈々は一応きちんと聞いていたが、時々空へ目をやっていた。


 ところが。


「本日は、皆さんに貴重なお話をしてくださる方がお見えになっています」


 校長がそう言った瞬間、校庭の空気が少し変わった。


 来賓席から、一人の老人が立ち上がる。


 背筋の伸びた老人だった。


 六十は越えているだろう。


 胸にはいくつもの勲章が並んでいる。


 遠目から見ても、ただの来賓ではないことが分かった。


「こちらは日露戦争に従軍され、満州の地において、かの秋山好古将軍のもと騎兵として戦われた方であります」


「おお……!」


 男子たちの反応が一変した。


 ついさっきまで土を見ていた子まで、一斉に顔を上げる。


「秋山将軍!」


「ほんまに?」


「騎兵なん!?」


 教師が静かにするよう手で制したが、子供たちの興奮は隠せなかった。


 啓介も老人を見つめた。


 秋山好古。


 日露戦争で日本騎兵を率いた人物。


 二〇〇五年の自分にとっては、歴史書の中にいる人だった。


 けれど、この時代にはまだ、その指揮下で実際に戦った人間が生きている。


 老人が静かに話し始めた。


 語られたのは、華々しい武勇談ばかりではなかった。


 満州の凍った大地を馬で進んだこと。


 敵の動きを探るため、長い時間を馬上で過ごしたこと。


 遠くに砲声を聞きながら、仲間と夜を越したこと。


 寒さや恐怖。


 馬を失ったこと。


 そして、戦地から帰ってこなかった仲間のこと。


 子供たちは、食い入るように老人の話を聞いていた。


 特に男子たちの目は輝いている。


 啓介は、そんな横顔を静かに眺めた。


 二〇〇五年の自分にとって、日露戦争は歴史だった。


 けれど、ここにいる子供たちにとっては違う。


 父や祖父の世代が経験した、まだ遠くなりきっていない出来事なのだ。


 敗戦も。


 特攻も。


 原爆も。


 まだ起きていない。


 後世の人間が知っている結末を、この子供たちは誰一人知らない。


 だからこそ、軍人という職業を見る目も違うのだろう。


 国を守る者。


 遠い土地へ赴く者。


 少年たちが憧れる職業の一つ。


 老人の話を聞きながら、啓介はそのことを少しずつ実感していた。


「軍人……か」


 声にならないほど小さく呟く。


 それまで、真剣に考えたことはなかった。


 未来を知っているからといって、それを生かす道が軍人だけとは限らない。


 政治家。


 学者。


 官僚。


 技術者。


 考えれば、いくつもの道がある。


 けれど軍人なら。


 これから起こる出来事の、もっと近くに立つことになる。


 それが正しい選択なのかは分からない。


 戦争そのものを止められるとも思えない。


 それでも、もし戦争が起きてしまった時。


 目の前にいる人間を、一人でも助けることはできるかもしれない。


 帰ってこられるはずの人間を、帰せることがあるかもしれない。


「…………」


 そこまで考えたところで、なぜか奈々の顔が浮かんだ。


 盆祭りの夜。


 切れた鼻緒。


 背中に感じた、小さな重み。


 奈々も、この先の時代を生きていく。


 父も。


 母も。


 今ここで笑っている子供たちも。


 啓介はもう一度、老人へ目を向けた。


 軍人。


 その言葉が、さっきまでとは少し違って聞こえていた。


     ◇


 放課後。


 啓介は一人で帰り道を歩いていた。


 頭の中では、さっきから同じことを考えている。


 もし本当に軍人を目指すなら。


 陸軍か、海軍か。


 将校になるなら、陸軍士官学校か海軍兵学校へ進むことになる。


 当然、勉強がいる。


 体力もいる。


 その前に、そこまで進学させてもらえるのかという問題もある。


 中学校へ進むだけでも、越智家にとっては簡単な話ではない。


 それ以前に、重吉とトヨが許してくれるかどうかも分からなかった。


「簡単じゃないよな……」


「何が?」


「うわっ!」


 まただった。


 横道から奈々が出てくる。


「奈々!」


「何よ」


「急に出てくるなよ」


「普通に歩いてきただけやん」


 奈々は当然のように啓介の隣へ並んだ。


「何が簡単じゃないん?」


「聞いてた?」


「聞こえた」


「……奈々って耳いいよな」


「啓ちゃんが独り言多いんよ」


「…………」


 最近、本当にそうなのかもしれないと思い始めていた。


 二人で歩く。


 啓介はしばらく迷ってから、口を開いた。


「奈々」


「ん?」


「俺さ」


「うん」


「軍人とか……どうかなって思ってて」


 奈々が足を止めた。


「軍人?」


「ああ」


「今日のお爺さんの話聞いて?」


「それもあるけど」


「ふーん」


 奈々は啓介の顔をじっと見る。


 なぜか少し緊張した。


「その……どう思う?」


 少し間があった。


 そして。


「ええやん!」


「え?」


「格好ええやん!」


「…………」


 予想していなかった反応だった。


「何?」


「いや……もう少し何か言われると思ってた」


「軍人さんやろ?」


「うん」


「制服着るんやろ?」


「まあ」


「格好ええやん」


 奈々は、本当にそう思っているらしい。


「啓ちゃんなら、似合うかもしれん」


「…………」


 その言葉を聞いて、啓介はようやく腑に落ちた。


 さっき校庭で見た子供たちの目。


 そして、今の奈々。


 この時代では、軍人という職業はまだ「敗戦」と結びついてはいない。


 少なくとも十一歳の奈々にとっては、立派な仕事の一つだった。


「最近妙に頑張っとると思ったら」


 奈々が笑う。


「そのため?」


「まだ決めたわけじゃないよ」


「陸さん? 海さん?」


「陸さん、海さん?」


「陸軍と海軍」


「ああ」


 啓介は少し考えた。


「今のところは……海かな」


「なんで?」


「江田島なら、まだ近いし」


「江田島?」


「海軍兵学校」


「ふーん」


 それだけが理由ではなかった。


 自分の知っている未来を考えれば、対米戦の行方を大きく左右するのは海軍だ。


 艦隊も、航空も、その中心にある。


 それに、遊就館で見た零戦がある。


 あの機体を前にした時、理由も分からず胸を締めつけられた感覚を、啓介はまだ忘れていなかった。


「海さんかぁ」


 奈々は何かを想像しているようだった。


「船乗るん?」


「海軍だからな」


「ずっと?」


「いや、そこまでは分からないけど」


「遠く行くん?」


「……行くこともあるんじゃないかな」


 奈々の歩みが、ほんの少し遅くなった。


「…………」


「奈々?」


「何でもない」


「何だよ」


「別に」


 しばらく歩く。


 奈々は前を向いたままだった。


 やがて、小さな声で言った。


「でも」


「ん?」


「うちをほっといたらだめだよ」


「…………」


 啓介は足を止めた。


 奈々は数歩先へ進んでから振り返る。


「何?」


「いや……」


 胸の奥が、妙に疼いた。


 靖國神社で会った老婦人。


 奈々の歌。


 盆祭りの夜。


 そして、今の言葉。


 どれもつながっているはずがない。


 それなのに、なぜか心のどこかへ引っかかった。


「……分かった」


「ほんま?」


「ああ」


「軍人さんになっても?」


「うん」


「遠く行っても?」


「…………」


 少しだけ、答えに詰まった。


 遠くへ行く。


 その言葉の先に何があるのかを、啓介だけは知っている。


 それでも、奈々を不安そうな顔のままにしておきたくなかった。


「ほっとかないよ」


「約束?」


 啓介は一瞬だけ迷ってから、頷いた。


「……約束」


 奈々が嬉しそうに笑った。


「ならええ」


 そして何事もなかったように、また歩き始める。


 啓介もそのあとを追った。


 軍人になるのか。


 海軍へ進むのか。


 まだ何も決まってはいない。


 自分一人に何ができるのかも分からない。


 それでも、ほんの少しでもこの先に待っているものを変えられる場所があるのなら、そこへ近づいてみたいと思った。


「啓ちゃん! 早く!」


 少し先で奈々が振り返っている。


「ああ!」


 啓介は走って奈々に追いついた。


 その胸の片隅には、まだ答えとは呼べない一つの言葉が残っていた。


 海軍。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。