第六話 これから
盆祭りが終わると、夏休みも残り少なくなってきた。
朝の畑はまだ涼しい。とはいえ、日が昇ればすぐに暑くなる。
啓介は縁側に腰を下ろし、庭先で父の重吉が農具を確かめている姿をぼんやり眺めながら、この先のことを考えていた。
この時代へ来てから、もう何日か経つ。
最初の頃は、自分が誰なのか、どうして昭和四年にいるのか、そればかり考えていた。
けれど、いくら考えても答えは出ない。
二〇〇五年へ帰る方法は分からない。
そもそも、帰れるのかどうかさえ分からなかった。
「昭和四年……一九二九年か」
小さく呟く。
このまま自分の知っている歴史が進むなら、日本はやがて満州事変を経て戦争へ向かい、最後には敗れる。
その先には、広島もある。
二〇〇五年八月六日。
自分が靖國神社へ行った日。
そして、この時代へ来た日でもある。
偶然なのだろうか。
「…………」
やはり答えは出なかった。
ただ、それより先に確かめておきたいことがある。
本当にここは、自分の知っている一九二九年なのか。
この先も、自分の知る歴史と同じように進むのか。
それを確かめるなら、まず新聞だろう。
とはいえ、越智家では毎日新聞を取っているわけではない。新聞代だって、農家にとって軽い出費ではない。
村でいつでも新聞を読めそうな家となれば、思い当たるところは一つしかなかった。
「……奈々んちか」
「何がうちんち?」
「うわっ!」
突然後ろから声を掛けられ、啓介は肩を跳ねさせた。
振り返ると、奈々が縁側の端からこちらを覗き込んでいる。
「いつからいたんだよ」
「今来たとこ。啓ちゃんが一人でぶつぶつ言いよったけん」
「言ってない」
「言いよったよ。『奈々んちかー』って」
「そこだけ聞くと変な奴みたいじゃん」
「変な奴やろ?」
「おい」
奈々が笑う。
しっかり聞かれていたらしい。
啓介は一瞬迷ったが、別に隠すほどのことでもないと思い直した。
「新聞を見たいんだよ」
「新聞?」
「ああ。奈々んち、取ってるだろ?」
「取っとるよ」
「見せてもらえないかなと思って」
奈々はきょとんとした。
「そんなことなら普通に来たらええやん」
「いいのか?」
「ええよ」
「奈々が決めていいの?」
「……母さまに聞く」
「やっぱり奈々が決めてないじゃん」
「細かい!」
奈々が頬を膨らませた。
◇
その日の午後、啓介は村上家を訪れた。
何度か遊びに来た記憶はある。
それでも、二〇〇五年までの感覚で改めて見ると、越智家との違いはどうしても目についた。
家が広い。
庭もよく整えられている。
柱も太い。
同じ村の中でも、暮らし向きが明らかに違う。
玄関で声を掛けると、奈々の母である綾乃が出てきた。
「あら、啓介くん」
「こんにちは」
「こんにちは。この間は奈々を送ってくれてありがとうね」
一瞬、何のことかと思ったが、すぐに盆祭りの夜を思い出した。
奈々の草履の鼻緒が切れ、家までおぶって帰った。
「ああ、いえ。あれくらい」
「夜道だったでしょう。助かりました」
綾乃が丁寧に頭を下げるので、啓介の方が慌てた。
「いや、本当に大したことじゃないです。それに……俺も祭り、楽しかったので」
「まあ」
綾乃が微笑む。
「奈々も、とても楽しそうでしたよ」
「母さま!」
奥から奈々の声が飛んできた。
見ると、少し顔を赤くしてこちらを睨んでいる。
「余計なこと言わんで!」
「何が余計なの?」
「もう!」
奈々の反応がおかしくて、啓介は思わず笑った。
「啓ちゃんまで笑うな!」
「いや、別に」
「笑っとるやん!」
綾乃はそんな二人を眺めながら、楽しそうに目を細めた。
「新聞でしたね。父の書斎にありますよ」
「いいんですか?」
「もちろん。ただし、ずっと新聞ばかり読んで奈々を放っておかないでくださいね」
「母さま!」
また奈々の声が飛んだ。
◇
新聞を広げてみると、当然ながら二〇〇五年のものとはずいぶん違っていた。
活字も文章も古い。
それでも、読めないほどではない。
政治や経済、中国の情勢、欧州の動き、軍事、国内の事件。
気になる記事を一つずつ追っていく。
概ね、自分の知っている通りだった。
ただし、歴史の教科書で読んだ時とは、印象がまるで違う。
教科書の歴史は、すでに結果が分かっている。
世界恐慌が起こり、その後に満州事変が起き、やがて戦争へ向かっていく。
後世から見れば、その流れを一本の線として眺めることができる。
だが、今は違った。
新聞に載っているのは、その日に起きた出来事だけだ。
誰も、この先に何が起きるのか知らない。
当然のことだった。
それなのに啓介には、それが妙に新鮮に感じられた。
「……これが現在なんだな」
「何が?」
横から声がして、啓介は顔を上げた。
奈々が新聞を覗き込んでいる。
「何でもない」
「さっきから何がおもしろいん?」
「世の中」
「世の中?」
「新聞読むと、いろいろ分かるだろ」
奈々はしばらく啓介の顔を見ていた。
「……やっぱり変」
「またかよ」
「前まで新聞なんか全然読まんかったやん」
「人は成長するんだよ」
「数日で?」
「成長する時はする」
「ふーん」
まったく信用していない顔だった。
◇
それから啓介は、雨で畑仕事ができない日には、町の図書館へ足を運ぶようになった。
近いわけではない。
それでも歩けない距離ではなかったし、これから先のことを考えるなら、知識はいくらあっても困らない。
歴史だけでは足りない。
地理や産業、政治、軍事についても、手に取れるものから読んでいった。
調べれば調べるほど、この世界はやはり自分の知る歴史の延長線上にあるようだった。
少なくとも今のところ、大きな違いは見つからない。
それは安心できることでもあり、恐ろしいことでもあった。
このまま何も変わらなければ、日本は戦争へ向かう。
そして敗れる。
だからといって、十一歳の農家の子供に何ができるのか。
金もない。
権力もない。
誰かに未来の話をしたところで、信じてもらえるとは思えない。
「何ができるんだろうな……」
図書館の机で、啓介は小さく息を吐いた。
それでも、何もしないというのは嫌だった。
ならば、今できることから始めるしかない。
まず、勉強する。
知識をつける。
将来どんな道へ進むにしても、それが無駄になることはない。
そう考えて本を読み進めているうちに、啓介は一つ妙なことに気づいた。
「……俺、こんなに物覚え良かったっけ?」
一度読んだ内容が、思った以上に細かく頭へ残っている。
試しに本を閉じ、さっき読んだ数字や固有名詞を思い返してみた。
かなり正確だった。
別の頁でも試してみる。
やはり覚えている。
「…………」
以前より、明らかに記憶に残りやすい。
なぜなのかは分からない。
ただ、使えるものなら使えばいい。
畑仕事を始めてから、身体についても分かってきた。
十一歳だから筋力そのものはまだ弱い。
それでもよく動くし、疲れても一晩眠ればかなり回復する。
毎日土の上を走り回り、畑仕事を手伝ってきた身体なのだから、それほど不思議なことでもないのかもしれない。
「……鍛えてみるか」
ぽつりと呟く。
なら、頭も身体も鍛えておこう。
将来何をすることになるのかは、まだ分からない。
けれど、何をするにしても、学力と体力が邪魔になることはない。
◇
それから、啓介の日課は少し変わった。
朝は畑へ出る前に走る。
無理のない範囲で身体を鍛える。
畑仕事を手伝い、空いた時間には本を読む。
夏休みの宿題はもう終わっていたので、学校で使う教科書も少しずつ先へ読み進めた。
最初は重吉もトヨも不思議そうに見ていた。
そのうち、何も言わなくなった。
いや。
「今年はどうしたんじゃろねえ」
陰では、まだ言われていた。
◇
ある日の午後。
啓介は縁側近くの机に向かい、本を読んでいた。
文章を読み、気になるところを紙へ書き写す。
少し考えてから、また読む。
しばらくして、背後に人の気配を感じた。
気づかないふりをして、そのまま読み続ける。
「…………」
やけに静かだ。
そのうち、恐る恐るといった調子で声がした。
「……啓ちゃんが勉強しとる」
啓介は本から顔を上げた。
「何だよ、その言い方」
奈々が、本気で驚いた顔をして立っていた。
「いや……」
「何」
「ほんまに啓ちゃん?」
「俺だよ」
奈々はまだ疑っている。
「宿題、もう終わったんやろ?」
「終わった」
「畑も手伝いよる」
「うん」
「新聞読むようになった」
「うん」
「図書館も行きよる」
「うん」
「朝、走りよる」
「うん」
「今も勉強しよる」
「そうだね」
奈々は腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。
「……誰?」
「俺だって!」
奈々が吹き出した。
「あははっ!」
「そんなにおかしいか?」
「おかしい!」
「失礼だな」
「だって啓ちゃんやもん」
「どういう意味だよ」
「前の啓ちゃんはもっと……」
奈々は少し考えた。
「馬鹿やった」
「おい!」
「あははは!」
「待て!」
啓介が立ち上がると、奈々はすぐ庭へ逃げた。
「捕まえてみい!」
「勉強の邪魔するな!」
「偽物やったら捕まえられんもん!」
「本物だ!」
「証明して!」
「どうやってだよ!」
啓介は奈々を追いながら、ふと思った。
戦争のこと。
未来のこと。
自分がここへ来た理由。
考えなければならないことは、山ほどある。
それでも今は、まだ十一歳だ。
勉強して。
働いて。
走って。
友達と遊ぶ。
そういう時間まで捨てる必要はない。
「待て、奈々!」
「嫌やー!」
二人の笑い声が、夏の庭に響いた。
夏休みが終わろうとしていた。




