第五話 祭りの夜
盆祭りの日が来た。
夕方になっても昼間の熱気は地面に残っていて、開け放した障子からは蝉の声が絶え間なく入ってくる。
啓介は居間の真ん中に立たされ、母のトヨに浴衣の襟元を直されていた。
「じっとしなさい」
「自分でできるって」
「できとらんけん言いよるんよ」
「……はい」
仕方なく両手を下ろす。
祭りだからと出された浴衣は、普段の作業着に比べればずっと涼しげだった。
二〇〇五年の自分なら、一人で浴衣を着る機会などほとんどなかったが、越智啓介の記憶にはちゃんと着方が残っている。
残ってはいるのだが、身体が知っていることと、上手にできることは別らしい。
「ほら。帯も曲がっとる」
「そこまで見る?」
「見るよ。祭りなんやけん」
トヨは帯を締め直しながら、ふっと笑った。
「でも、今年は嫌がらんのね」
「何が?」
「浴衣よ。去年なんか『暑い』言うて逃げたやろ」
「……ああ」
記憶を探ると、確かにあった。
帯を締められるのを嫌がって逃げ、庭先で重吉に捕まった。そのまま有無を言わさず祭りへ連れていかれている。
「思い出した」
「またそれ」
「いや、ほんとに覚えてるって」
「今年はどうしたんじゃろねえ」
「母ちゃんまで言うの?」
この数日で、何度聞かされたか分からない。
宿題を早く終わらせれば、今年はどうした。
畑を真面目に手伝えば、今年はどうした。
祭りの準備から逃げなければ、やっぱり今年はどうした。
「俺が真面目だと、そんなに変?」
「変」
即答だった。
「ひどいな」
「ふふっ。ほい、できた」
トヨが帯を軽く叩く。
「ありがとう」
すると、今度はトヨが黙った。
「……何?」
「そこも変」
「もういいよ!」
笑う母を残し、啓介は草履を履いた。
◇
日が落ちる頃には、神社の境内はすっかり別の場所になっていた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
数日前、自分たちで吊るした提灯に火が入り、橙色の灯が境内を柔らかく照らしている。
中央に組まれた櫓からは太鼓の音が響き、その周りには浴衣姿の人々が輪を作っていた。
現代の祭りほど明るくはない。
境内を一歩外れれば、そこには本当の闇がある。だからこそ、提灯の灯がひどく温かく見えた。
子供たちが駆け回り、大人たちは立ち話をし、どこからか焼いたものの香りが漂ってくる。
啓介はしばらく、その光景を眺めていた。
写真でも映像でもない。
一九二九年の夏祭りが、本当に目の前にある。
「啓介!」
人混みの向こうから声が飛んできた。
振り向くと、奈々がこちらへ駆けてくる。
いつもとは違う淡い色の浴衣を着て、黒い髪もきちんと結い上げていた。
「奈々」
目の前まで来ると、奈々は一度くるりと身体を回した。
「どう?」
「どうって?」
奈々の笑顔が消えた。
「……浴衣」
「あ」
しまった。
「似合ってるよ」
「ほんま?」
「うん」
「どこが?」
「どこって……」
二〇〇五年までの記憶を持っていても、こういう時に何と答えればいいのかは分からない。
「……全体?」
「適当やん!」
「違うって。ほんとに似合ってるよ。いつもと雰囲気違うし」
奈々はじっと啓介を見つめた。
「……ほんまに?」
「ほんと」
ようやく納得したらしい。
「なら、ええ」
すぐに笑顔へ戻る。
「啓介も今日はちょっとマシ」
「マシって何だよ」
「いつも泥ついとるやん」
「奈々だって川へ行ったら泥だらけだろ」
「今日はついてないもん」
「俺もついてない」
二人で顔を見合わせ、同時に笑った。
「ほら、金魚!」
奈々が袖を引いた。
「勝負するんやろ?」
「もちろん」
「負けた方がラムネ!」
「覚えてるよ」
「今年は絶対勝つけん!」
「去年一匹も取れなかったのに?」
「それ言うな!」
◇
結果は、去年とあまり変わらなかった。
「…………」
奈々が水槽の前で、今にもしゃがみ込みそうな顔をしている。
啓介の袋には、小さな金魚が二匹。
奈々の袋には――何もいない。
「ゼロ」
「言うな!」
「今年も?」
「紙が悪かったんよ!」
「去年もそれ言ってたぞ」
「絶対、うちのだけ弱かった!」
「同じの渡されてたじゃん」
「違う!」
破れたポイを恨めしそうに見つめる奈々に、店番の老人まで笑い出した。
「嬢ちゃん、また来年じゃな」
「来年は絶対取る!」
「毎年来る客になりそうじゃのう」
「もう来とるもん!」
啓介が吹き出す。
「笑わんといて!」
「ごめんごめん」
「ラムネ!」
「はいはい」
「負けた方が奢る約束やろ」
「分かってるって」
二本買い、瓶の口から栓を落とす。
ぽん、と小さな音がした。
「……おお」
「何?」
「いや、何でもない」
ラムネ自体は二〇〇五年にもあった。
けれど、提灯の灯の下で浴衣を着て、隣で奈々が瓶を傾けていると、同じ飲み物とは思えない。
一口飲む。
「うまい」
「やろ?」
「奈々が作ったわけじゃないけど」
「またそれ言う!」
数日前のスイカと同じやり取りになって、二人で笑った。
◇
やがて太鼓の音が強くなり、櫓を囲む輪も大きくなってきた。
「踊ろ!」
奈々が啓介の袖を引く。
「え?」
「盆踊り!」
「いや、俺、踊れない」
「何言いよるん。毎年踊っとるやん」
「そうなんだけど……」
片瀬慶介としては、踊り方を知らない。
しかし越智啓介は、どうやら違うらしい。
「ほら、早う!」
奈々に引っ張られ、輪の中へ入った。
前の人に合わせようとした、その時だった。
足が自然に動く。
手を上げ、足を運び、身体を返す。
「あれ……」
「ほら、踊れるやん」
「身体が覚えてる」
「何言いよるん?」
「こっちの話」
奈々が笑いながら隣で踊っている。
太鼓が鳴り、音頭が続く。
老いた者も、若い者も、子供も、同じ輪の中で笑っていた。
その光景を見ているうちに、啓介の胸をふと冷たいものがよぎった。
十二年後。
一九四一年には、この国はアメリカやイギリスとも戦争を始める。
だが、それより前にも満州事変があり、中国との戦争がある。
櫓の上で太鼓を叩いている若者も、向こうで酒を飲んで笑っている男たちも、いずれ戦地へ送られるかもしれない。
この中から何人が戦場へ行き、何人が帰ってこられるのだろう。
考え始めれば、きりがなかった。
「啓介!」
「え?」
「また難しい顔しとる!」
奈々が笑いながら手を振っている。
「今は踊るんよ!」
「……ああ」
そうだ。
今は祭りだ。
まだ起きてもいない先のことばかり考えて、目の前の夏まで暗くする必要はない。
「ほら、遅れとる!」
「分かってるって!」
奈々のあとを追うように、啓介も再び手を上げた。
その夜、二人は何度も輪へ加わった。
◇
祭りが終わりに近づく頃には、大人たちの方が子供より元気になっていた。
「清一郎さん、もう一杯!」
「おお、いただこう!」
少し離れたところでは、奈々の父・清一郎が村の男たちに囲まれている。
杯が空になれば、すぐに次の酒が注がれる。
奈々は呆れた顔で父親を眺めた。
「父さま、会合がある言うとったのに」
「これが会合なの?」
「毎年こうなるんよ」
「ただの呑兵衛の集まりじゃん」
「のんべえ?」
奈々が一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「あははっ。ほんまや!」
綾乃も近所の女たちと話し込んでいる。
しばらく待っても帰る気配はない。
啓介は境内の外へ目を向けた。
もうかなり暗い。
「奈々、先に帰った方がいいんじゃない?」
「でも父さまと母さまが……」
「まだしばらく帰らないだろ、あれ」
「……うん」
「俺が送るよ」
奈々がこちらを向いた。
「え?」
「家まで」
「…………」
「何?」
「いや……」
「嫌ならいいけど」
「嫌やない!」
思った以上に大きな声が出たらしく、奈々自身が少し驚いている。
「じゃあ行こう」
「……うん」
啓介は近くにいたトヨへ声を掛けた。
「母ちゃん、奈々を家まで送ってくる」
「ああ。そうしてあげなさい」
その隣で酒を飲んでいた重吉が、にやりと笑った。
「おお。今年はどうした」
「父ちゃんまでまだ言うの!?」
周囲から笑い声が上がった。
◇
神社を離れると、祭りの音は少しずつ遠くなっていった。
月明かりの下を、二人で歩く。
虫の声と、草履が土を踏む音だけが続いている。
「楽しかったね」
奈々が言った。
「うん」
「金魚は負けたけど」
「認めるんだ」
「来年は勝つもん」
「また紙のせいにするだろ」
「せんよ」
「ほんとか?」
「ほんま!」
奈々が頬を膨らませる。
啓介は笑いながら歩いた。
少しして、ふと気づく。
奈々が妙に静かだ。
「疲れた?」
「ちょっと」
「踊りすぎたな」
「啓ちゃんもやん」
その呼び方に、啓介は一瞬だけ奈々を見る。
神社を離れて二人きりになると、いつの間にか「啓ちゃん」へ戻っていた。
「俺は平気」
「また大丈夫言うた」
「大丈夫とは言ってないだろ」
「同じやん」
奈々が笑った。
その直後だった。
「あっ」
足元で何かが引っかかり、奈々の身体が傾いた。
「危ない!」
啓介は咄嗟に腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「……うん」
「どうした?」
奈々が足元を見る。
草履の鼻緒が切れていた。
「ああ……」
「切れたな」
「どうしよう」
村上家までは、まだ少し距離がある。
裸足で歩けないことはないだろうが、月明かりしかない土の道には小石も枝も落ちている。
「ちょっと貸して」
啓介はしゃがみ込み、草履を受け取った。
鼻緒を確かめる。
「直せそう?」
「明るければ何とかなるかもしれないけど……ここじゃ無理だな」
「なら、裸足で歩く」
「足切るぞ」
「でも、どうするん?」
「仕方ないな」
啓介は草履を奈々へ返すと、その場で背中を向けてしゃがんだ。
「ほら」
「……何?」
「乗って」
「えっ?」
「家までおぶってく」
「ええっ!?」
あまりに驚かれたので、啓介の方が戸惑った。
「そんな驚く?」
「だって……」
「歩けないだろ」
「歩けるよ!」
「裸足で?」
「…………」
「だったら乗って」
返事がない。
啓介は背中を向けたまま待った。
「奈々?」
「……ほんまに?」
「早くしないと置いてくぞ」
「待って!」
「じゃあ乗れって」
「……うん」
しばらくして、小さな手が恐る恐る肩へ触れた。
背中に重みがかかる。
「よっと」
啓介が立ち上がると、奈々が慌てて首へ腕を回した。
「わっ」
「落ちるなよ」
「落とさんといてよ」
「それは奈々次第だな」
「何それ」
歩き始める。
十一歳の少女とはいえ、人一人を背負えばさすがに軽くはない。
「……意外と重いな」
「降りる!」
「冗談だって!」
「女の子に重い言うな!」
「ごめんごめん」
「もう!」
奈々が背中を軽く叩く。
「痛いって」
「啓ちゃんが悪いんやろ」
笑いながら歩いているうちに、奈々の腕が少しだけ強く首へ回った。
「苦しい」
「あ、ごめん!」
「冗談」
「もうっ!」
今度は少し強めに叩かれた。
「痛っ!」
啓介は笑った。
倒れる前までの自分なら、こんな時どうしたのだろう。
『片方だけ履いて帰ればええやん』
くらいは言っていそうな気がする。
ここ数日、周りの大人たちから「今年はどうした」と言われ続ける理由が、何となく分かる気もした。
「奈々」
「ん?」
「もう少しだからな」
「……うん」
さっきまであれほど喋っていたのに、奈々はまた静かになった。
「ほんとに疲れた?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
「何でもない」
「変なの」
「啓ちゃんに言われたない」
「ひどいな」
奈々が小さく笑った。
その声が、すぐ耳元で聞こえる。
啓介は特に気にすることもなく、そのまま月明かりの道を歩いた。
◇
「着いた」
村上家の門の前で、啓介は腰を落とした。
奈々が背中から降りる。
「足、大丈夫?」
「うん」
切れた草履を渡すと、奈々は片足で立ったまま受け取った。
「ありがとう、啓ちゃん」
「どういたしまして」
「…………」
「何?」
奈々はしばらく啓介の顔を見ていた。
「やっぱり最近、変」
「またそれ?」
「うん」
「そんなに変わった?」
「変わった」
即答された。
啓介は苦笑する。
「悪くなった?」
「……ううん」
奈々は少し考えて、それから笑った。
「今の方が、ちょっとええかも」
「何それ」
「教えん」
「そこまで言ったなら教えろよ」
「嫌」
「気になるだろ」
「教えんもん」
奈々は片足でぴょん、と門の中へ入った。
「危ないって!」
「大丈夫!」
「奈々までそれ言うのかよ」
「あははっ!」
門の内側から笑い声が返ってくる。
「じゃあ、また明日ね!」
「ああ。また明日」
啓介が手を上げる。
奈々も大きく手を振った。
「啓ちゃん!」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「祭り?」
「……それも」
奈々は一瞬だけ言葉を止めた。
「全部」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ!」
門が閉じる。
啓介はしばらくそこに立っていたが、やがて一人で夜道を戻り始めた。
「今年はどうした、か……」
小さく呟く。
確かに、倒れる前までの自分なら、奈々を素直に背負ったかどうかは怪しい。
でも、困っていた。
だから背負った。
それだけだ。
「まあ、いいか」
月を見上げ、啓介は歩き続けた。
◇
門の向こうで、奈々はまだ動けずにいた。
切れた草履を手にしたまま、閉じた門を見つめている。
「……なんなんよ」
胸がまだ少し速い。
祭りでたくさん踊ったから。
走り回ったから。
きっと、そのせいだ。
そう思おうとした。
けれど、なかなか静かになってくれない。
奈々は、そっと自分の肩へ手を置いた。
物心ついた頃から一緒にいる。
川で遊び、喧嘩をして、毎年同じ祭りへ来た。
宿題は後回しにするし、意地っ張りで、余計なことばかり言う。
だから今日だって、鼻緒が切れたと分かれば、何か一つくらいからかわれると思っていた。
なのに啓介は、何でもないことのように目の前へしゃがんだ。
『乗って』
「……啓ちゃん」
小さく名前を呼んでみる。
いつもと同じ呼び方だった。
なのに今夜は、その二文字を口にしただけで、少しだけ胸の奥が騒いだ。
奈々は自分の頬へ触れた。
まだ熱い。
背負われた時に感じた肩の硬さも、すぐ近くで見た横顔も、なぜか頭から離れなかった。
「……変なの」
誰にも聞かれないように呟き、もう一度肩へ触れる。
そこにはもう何もない。
それなのに、さっきまで背負われていた感触だけが、なかなか消えてくれなかった。




