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第四話 祭りの支度

 翌朝、啓介は蝉の声で目を覚ました。


 薄く目を開けると、黒ずんだ梁と古い板張りの天井がある。障子はすでに開け放たれていて、そこから朝の光が差し込んでいた。


 庭先では鶏が鳴いている。


「…………」


 しばらく天井を眺めてから、啓介は息を吐いた。


「……やっぱり夢じゃないか」


 枕元に携帯電話はない。目覚まし時計もなければ、エアコンの低い唸りも聞こえない。


 一九二九年。


 昭和四年。


 昨日一日を過ごしても、その事実にはまだ妙な現実感がなかった。


 ただ、身体の調子はずいぶん良くなっている。昨日まであった頭痛も眩暈も消えていた。


 起き上がり、顔を洗おうと思ったところで、啓介はふと手を止めた。


 洗面器はどこだったか。


 そう考えたのは一瞬だけだった。


 身体が自然に縁側へ向かい、庭先の桶から水を汲む。手拭いの置き場所も、聞かなくても分かった。


「……慣れてるんだよな」


 当然と言えば当然だった。


 この身体は、十一年間ここで暮らしてきたのだから。


 二〇〇五年まで生きてきた片瀬慶介の記憶は、何一つ消えていない。


 それと同時に、越智啓介として父や母と暮らし、この家で眠り、畑仕事をしてきた十一年間も、自分の中に残っている。


 昨日はそれが気味悪くて仕方なかった。


 けれど、一晩眠っただけで、ほんの少しだけ受け入れられるようになっていた。


「あら、もう起きたん?」


 振り返ると、母のトヨが洗濯物を干していた。


「うん。もう平気」


「ほんまに?」


「大丈夫」


 口にしたところで、昨日の奈々の言葉を思い出す。


『啓ちゃん、すぐ大丈夫言うけん』


 思わず苦笑した。


「何がおかしいん?」


「いや。昨日、奈々にも同じこと言われたなと思って」


 トヨは啓介の額に手を当てた。


「熱はないね」


「だから大丈夫だって」


「ほら、また言う」


「……ほんとだ」


「昔から何でも『大丈夫、大丈夫』言うて。ほんまにしんどい時まで黙っとるんやけん」


「奈々の言った通りだな」


「奈々ちゃんは、あんたのことよう見とるけんね」


 そう言って、トヨは何でもないように洗濯物へ戻った。


 啓介は少しだけ困った顔をした。


 自分より、自分のことを知っている人間がいる。


 変な話だ。


 けれど昨日ほど、そのことを怖いとは思わなかった。


     ◇


 朝食を終えると、重吉が味噌汁の椀を置いて言った。


「今日はまだ畑には来んでええ」


「もう平気だって」


「昨日まで寝込んどった奴が偉そうに言うな」


「でも――」


「家で出来ることしとけ」


「例えば?」


「宿題」


 啓介の箸が止まった。


 向かいでトヨが笑う。


「奈々ちゃんにも言われたんじゃろ?」


「……なんで知ってるの」


「昨日帰る時に言いよったよ。『啓介、まだ宿題全然しとらんけん、おばちゃんからも言うて』って」


 容易に想像できた。


「……余計なことを」


「奈々ちゃんの方がしっかりしとるねえ」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 結局、午前中いっぱい机に向かうことになった。


 書き取り、算術、作文。


 最初の数問を解いたところで、啓介は鉛筆を止めた。


「……簡単だな」


 当たり前といえば当たり前だった。


 二〇〇五年では高校一年生だった。十一歳向けの算術で困るはずもない。


 書き取りも表記に少し戸惑う程度で、大したことはなかった。


 ただ、鉛筆を削ろうとしたところで、ふと手が止まった。


 かなり短くなっている。


 二〇〇五年の感覚なら、新しい一本を出せばいいと思っただろう。


 けれど今は、自然と「まだ使える」と思った。


 紙も同じだった。


 少しくらい書き損じても、捨てる気にはなれない。空いている場所があれば、そこへ書けばいい。


 井戸から汲んだ水も、繕った着物も、農具も、食べ物も。


 何もかも、人の手間を経て目の前にある。


 知識として、この時代の暮らしが二〇〇五年とは大きく違うことは知っていた。


 けれど、実際に暮らすのと教科書で読むのとでは、まるで違う。


「こういうことまでは、教科書に書いてないもんな……」


 独り言を呟きながら、作文の題を見る。


 ――夏休み。


 川遊び。


 畑仕事。


 盆祭り。


 そこまで考えたところで、昨日、庭で歌っていた奈々の姿が浮かんだ。


 『赤とんぼ』。


 ただの童謡なのに、聞いているうちに涙が出た。


 どうしてあんなに懐かしかったのだろう。


 そのまま思い出したのは、靖國神社で会った老婦人だった。


『昔の知り合いに……少し似ていたものだから』


「……誰に似てたんだろうな」


 考えても答えは出ない。


 啓介は小さく首を振ると、再び鉛筆を動かした。


     ◇


 昼前には、宿題がすべて終わった。


「……終わった」


 啓介は机へ突っ伏した。


 自分でも少し呆れるくらい早かった。


 午後になって重吉が戻ってくると、宿題帳を持っていった。


「父ちゃん。終わった」


「何が」


「宿題」


「ほう」


「全部」


 重吉の動きが止まった。


「……全部?」


「うん」


 しばらく息子の顔を見つめてから、重吉は真顔で言った。


「何ぞ悪いもんでも食うたか」


「酷くない?」


「お前が盆前に宿題を終わらせたことなんぞ、一度もないぞ」


「そんなに?」


「毎年、夏休みの最後に泣きながらやっとる」


 否定しようとして、記憶が蘇った。


 去年の夏。


 机にかじりついて半泣きになっている自分と、横で怒っているトヨ。


「……本当だ」


「何が本当なんぞ」


「いや、何でもない」


 重吉は怪訝そうに首を傾げた。


「今年はどうした」


「ちょっと、やる気が出た」


「暑さで倒れて頭が良うなったか」


「そんなことある?」


「知らん」


 ぶっきらぼうだったが、重吉の口元は少しだけ緩んでいた。


「じゃあ、畑手伝うよ」


「今日はまだええ」


「本当にもう大丈夫だから」


 重吉はしばらく啓介を見ていた。


「無理はせんか」


「しない」


「しんどくなったらすぐ言うんぞ」


「分かった」


「ほなら来い」


 その一言が、なぜか少し嬉しかった。


     ◇


「……重っ」


 その気持ちは、畑へ出て十分もしないうちに後悔へ変わった。


 鍬を振り下ろし、土を起こす。


 ただそれだけなのに、すぐ額から汗が流れてくる。


「腰入れろ!」


 前から重吉の声が飛ぶ。


「入れてる!」


「入っとらん!」


「これ以上どう入れるんだよ……」


「何ぶつぶつ言いよる!」


「何でもない!」


 二〇〇五年の体育の授業とは比べものにならない。


 父も母も、毎日のようにこれをやっているのだ。


「昔の人、体力どうなってんだ……」


 ぼやきながら鍬を振っていたが、しばらくすると不思議なことに気づいた。


 最初はぎこちなかった動きが、少しずつ滑らかになっている。


 手を置く場所。


 腰の落とし方。


 鍬を土へ入れる角度。


 考えなくても、身体が覚えていた。


「あ……」


 今までよりずっと軽く、土が返った。


 重吉が横目で見て頷く。


「そうじゃ。元に戻ってきたな」


「……うん」


 戻ったというより、思い出したという方が近かった。


 現代の知識だけでは、畑仕事など出来ない。


 けれど、この身体はちゃんと知っている。


 越智啓介が十一年間生きてきた時間は、確かにここに残っている。


 そのことを初めて、少し嬉しいと思えた。


     ◇


 それから数日が過ぎた。


 村は盆祭りを前に、朝から慌ただしくなっていた。


 神社の境内では男たちが櫓を組み、若者たちが竹や提灯を運んでいる。女たちは飾りや食べ物の支度を進め、子供たちにも細かな仕事が次々に回ってきた。


 啓介も朝から境内へ駆り出されていた。


「啓介、そっち持ってくれ!」


「はい!」


「もうちょい上!」


「これくらい?」


「そうそう。落とすなよ」


 二人がかりで長い竹を運ぶ。


 暑い。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 周りには、こちらへ来てからまともに話していなかった大人たちも多い。


 それでも顔を見れば名前が浮かぶ。誰が大工で、誰が農家で、どこの家に何人子供がいるのかまで、記憶のどこかにちゃんと残っていた。


 二〇〇五年では、隣の家に誰が住んでいるのかさえ曖昧だった。


 ここでは違う。


 誰が誰の子で、去年何をしでかしたかまで、みんなが知っている。


「啓介」


「何?」


 竹を縛っていた男が、笑いながらこちらを見た。


「今年はどうした?」


「何が?」


「えらい真面目やないか」


「そう?」


「去年なんぞ、目ぇ離したらすぐ川へ逃げとったろ」


 別の男も笑う。


「宿題も終わったんやって?」


 啓介は顔をしかめた。


「……なんで知ってるの」


「トヨさんが言いよったぞ」


「母ちゃん……」


 村の情報の回り方を甘く見ていた。


「暑さで倒れて別人になったんやないか?」


「頭は打ってないですって」


「ほんまかあ?」


 周囲から笑いが起こる。


 そこへ、誰かが悪戯っぽく言った。


「分かった。奈々ちゃんにええとこ見せたいんやろ」


「は?」


 途端に笑い声が大きくなった。


「違いますって!」


「顔赤いやないか」


「暑いから!」


「ほうかほうか」


「十一にもなったら、男は違うのう」


「だから違うって!」


 否定すればするほど喜ばれる。


 片瀬慶介としての感覚なら、奈々は五歳年下の子供に見える。


 けれど、越智啓介の記憶では、生まれた頃からずっとそばにいる同い年の幼馴染だった。


 だからなのか。


 からかわれると、妙に恥ずかしい。


「……大人って、いつの時代もこういう話好きなんだな」


「何ぞ?」


「何でもないです!」


 その時、境内の入口から聞き慣れた声がした。


「啓介ー!」


 振り向く。


 奈々だった。


 今日は髪を後ろでまとめ、袖も少し捲っている。


「奈々」


「何しよるん?」


「見れば分かるだろ。祭りの準備」


「うちもする!」


 奈々はそのまま駆け寄ってきた。


「何持てばええ?」


「いや、これは重いぞ」


「持てるって」


 竹へ手を掛けようとした、その時だった。


「奈々お嬢さま!」


「あ」


 奈々の顔が固まった。


 数日前、越智家まで迎えに来た女性が、日傘を持ってこちらへ急いでくる。


「また勝手にこちらへ来て」


「だって、みんな祭りの支度しよるんよ」


「奈々お嬢さまは奥さまたちのお手伝いでしょう」


「こっちの方が面白いやん」


「面白いかどうかではございません」


「うちも竹運ぶ」


「なりません」


「なんで!」


「危ないでしょう」


 奈々は竹を見上げる。


「啓介はやっとるやん」


「啓介さんはこちらのお手伝いを頼まれているのでしょう」


「なら、うちも頼んでもらえばええやん」


「そういう問題ではありません」


 周囲の男たちも笑う。


「奈々ちゃん、そりゃ重いぞ」


「指挟んだらいかん」


「向こうの手伝いしてきな」


「持てるもん!」


 奈々はまだ諦めない。


 女性がその腕を取った。


「お嬢さま」


「ちょっとくらい!」


「駄目です」


「放して!」


「放したらまたこちらへ来るでしょう」


「来る!」


「ほら!」


 啓介は思わず吹き出した。


「笑うな、啓介!」


「ごめん」


「今笑った!」


「笑ってないって」


「笑っとった!」


 また周りに笑いが広がる。


 その中で、啓介はふと気づいた。


 啓介。


 今、奈々はそう呼んでいる。


 二人きりでいた時の「啓ちゃん」ではない。


 数日前にも、村上家の女性が迎えに来た途端、奈々は自然に呼び方を変えていた。


 越智啓介の記憶では、それは昔からごく当たり前のことだったらしい。


 けれど今は、その一文字の違いが妙に耳に残った。


「さあ、お嬢さま。参りますよ」


「嫌や」


「嫌ではございません」


「うちもこっち手伝いたい!」


 連れていかれながら、奈々はまだ文句を言っている。


 その後ろ姿を見ながら、啓介は何となく周囲を見回した。


 奈々は、みんなから「お嬢さま」と呼ばれている。


 もちろん、それも昔から知っている。


 村上家はこの辺りでも土地を多く持つ家で、奈々の父・清一郎は村の中でも顔が利く。


 越智家は、その土地を借りて田畑を耕している。


 けれど、奈々と遊んでいる時にそんなことを考えたことはなかった。


 川へ行けば、一緒に泥だらけになる。


 喧嘩もする。


 スイカも並んで食べる。


 二人きりなら、「啓ちゃん」だ。


 けれど大人の目が入ると、少しだけ何かが変わる。


「啓介!」


 奈々の声に顔を上げた。


「祭りの日、ちゃんと来るんよ!」


「ああ。行くよ」


「金魚!」


「覚えてる」


「ラムネも!」


「それも覚えてるって」


「絶対よ!」


「絶対」


「約束やけんね!」


「ああ、約束」


 奈々はようやく満足したように笑い、そのまま境内の向こうへ連れていかれた。


「仲ええのう」


 横から声を掛けられた。


 さっき啓介をからかっていた男だった。


「普通ですよ。小さい頃から一緒だし」


「ほう」


「本当に」


「奈々ちゃんは、あと何年かしたら別嬪になるぞ」


「まだ十一歳ですよ」


「お前も十一やろ」


「……あ」


 また笑われた。


 どうにも片瀬慶介としての感覚が、まだ身体の年齢に追いついていないらしい。


「今のうちに、よう遊んどけ」


 男が、今度は少し穏やかな声で言った。


「なんで?」


「大きゅうなったら、今みたいにはいかんこともあるけんの」


 啓介は男を見た。


 だが男は、それ以上何も言わず櫓の方へ戻ってしまった。


「ほら啓介、手ぇ止まっとるぞ!」


「あ、はい!」


 慌てて竹を持ち直す。


 けれど、さっきの言葉は頭に残った。


 大きくなったら、今みたいにはいかない。


 なぜなのか、まるで分からないわけではない。


 ここは二〇〇五年ではない。


 家のことも、親のことも、土地のことも、今よりずっと人の暮らしへ深く入り込んでいる時代だ。


 いずれ奈々も大人になる。


 自分も大人になる。


 その時まで今と同じように、好き勝手に川へ行ったり、祭りで遊んだり出来るとは限らない。


「……そういうものなのかな」


 呟いて、境内の向こうを見る。


 奈々は母親たちの間に入り、飾り付けを手伝っていた。


 どうにも納得していないらしく、時々こちらを見ている。


 やがて目が合った。


 奈々が小さく手を振る。


 啓介も笑って手を上げた。


 すると、そばにいた女性が別の人へ呼ばれて少し離れた。


 奈々はそれを見て、すぐこちらへ二、三歩近づいてきた。


「啓介」


「何?」


 辺りをちらりと見回す。


 それから奈々は、少しだけ声を落とした。


「……啓ちゃん」


「ん?」


「祭り、ほんまに忘れんといてね」


 その呼び方が、なぜか少し嬉しかった。


「忘れないって」


「絶対?」


「絶対」


「よし」


 奈々は満足そうに笑うと、またすぐに向こうへ戻っていった。


 啓介はその背中を見送り、それから竹を担ぎ直した。


 祭りの日になれば、二人で金魚すくいをする。


 負けた方がラムネを奢る。


 今の二人には、それで十分だった。


 境内には、祭りを待つ提灯が一本、また一本と増えていく。


 啓介は汗を拭い、次の竹へ手を伸ばした。


 祭りまで、あと少しだった。

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