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第三話 赤とんぼ

「……奈々」


 考えるより先に、その名前が口から出ていた。


 少女は目をぱちくりさせた。


「なんじゃ。ちゃんと分かるんやん」


「え?」


「トヨおばちゃんが、啓介が暑さで倒れて、なんや変なんよ言うけん」


 奈々はそう言いながら、遠慮もなく部屋へ入ってきた。


「うちのことまで忘れたんかと思った」


「いや……それは」


 忘れてはいない。


 それどころか、知っている。


 村上奈々、十一歳。村上家の一人娘で、父親は村でも指折りの地主。母親は優しいが、奈々には礼儀作法や読み書きを厳しく教えている。


 本人は――。


「何?」


「……いや」


 じっと見すぎたらしい。


 奈々が怪訝そうに首を傾げた。


 その仕草まで知っている。


 機嫌が悪いときは少しだけ眉間に皺を寄せること。嬉しいときには右の頬にえくぼができること。嘘をつくと、ほんの少しだけ声が高くなること。


 全部、知っている。


 けれど、片瀬慶介の記憶では、目の前にいる奈々と会うのは初めてだった。


「やっぱり変」


「そうかな」


「変よ」


 奈々は断言すると、持っていた包みを畳の上へ置いた。


「ほら」


 布を開く。


「おお……」


 中には、大きなスイカが二切れ入っていた。赤い果肉の表面には、うっすらと水滴が浮かんでいる。


「スイカ」


「見たら分かるやろ」


「いや、そうだけど」


「井戸で冷やしとったんよ。母さまが、啓介にも持って行ってあげなさい言うけん」


「俺に?」


「倒れたんやろ?」


 奈々は当然のように言った。


「食べたら元気になるかもしれんやん」


「……ありがとう」


「…………」


「何?」


 奈々が妙な顔をしている。


「やっぱり変」


「また?」


「啓ちゃん、うちにありがとうなんて言うたことあった?」


「え」


 記憶を探る。


 ない。


 正確には、ほとんどなかった。


 スイカをもらえば食べる。柿をもらえば食べる。奈々が何かを持ってくるのはいつものことで、そのたびに、


『お、もらう』


 くらいで済ませていた。


「……礼ぐらい言うだろ」


「言わん」


「言うよ」


「言わん」


「……言うって」


「ほら、やっぱり変」


 奈々が笑った。


 右の頬に、本当に小さなえくぼができた。


「…………」


 慶介はまた黙った。


「何?」


「いや」


「また見よる」


「見てない」


「見よるやん」


「だから……」


 言いかけて、慶介は困った。


 説明できるわけがない。


 今日初めて会ったような気がする。


 でも、君と何年も一緒に遊んだ記憶がある。


 そんなことを言えば、暑さどころか頭そのものがおかしくなったと思われる。


「まだ頭痛いん?」


 奈々の顔から笑みが消えた。


「少し」


「寝とった方がええんじゃない?」


「大丈夫」


「ほんま?」


「ああ」


「無理したらいかんよ」


「分かってる」


「啓ちゃん、すぐ大丈夫言うけん」


「……そうなの?」


「そうよ」


 即答だった。


「転んでも大丈夫。切っても大丈夫。怒られても大丈夫」


「いや、最後のは別にいいだろ」


「よくない。あとから一人でぶつぶつ言うやん」


「俺、そんな奴なの?」


「そんな奴」


「……嫌だな」


「なんで?」


 奈々が笑った。


「うちは知っとるけん、ええよ」


 胸の奥が、ちくりとした。


 何だ。


 今の。


 慶介は誤魔化すようにスイカへ手を伸ばした。


「食べよ」


「うん」


 二人で縁側に座った。


 照りつける日差しの向こうで、庭の草が風に揺れている。蝉は相変わらず鳴き続けていた。


 奈々がスイカにかぶりつく。


「甘い!」


「ほんとだ」


 慶介も一口食べた。


 しゃり、と歯の間で果肉が崩れる。


 冷たくて、甘い。


「うまいな」


「やろ?」


「奈々が作ったわけじゃないだろ」


「うちから持って来たんやけん、半分くらいうちのおかげ」


「何だよ、その理屈」


「嫌なら返して」


「食べたのを?」


「種だけでも」


「いらないだろ」


「あははっ」


 奈々が笑う。


 慶介もつられて笑った。


 不思議だった。


 さっきまで、自分が誰なのか、ここがどこなのか、本当に一九二九年なのか――そんなことで頭がいっぱいだったのに。


 奈々と話している間だけは、少しだけどうでもよくなった。


「学校の宿題した?」


 奈々が聞いた。


「……宿題?」


「ほら!」


「いや、待って。ある。覚えてる」


「何が残っとる?」


 記憶を探る。


「……書き取り」


「あと?」


「算術」


「あと?」


「……作文」


「全部やん」


「…………」


「何もしてないやん!」


「夏休み始まったばっかりだろ」


「もう八月よ?」


「まだ八月六日だ」


「盆までに終わらす言うたやん」


「そうだったっけ?」


「言うた!」


 奈々が頬を膨らませる。


「あんた、ほんまに頭打ったんじゃない?」


「暑さで倒れただけらしい」


「ほんまかなぁ」


 じっと顔を覗き込まれる。


 距離が近い。


 慶介は思わず身体を引いた。


「何よ」


「いや……近い」


「いつもこんくらいやん」


「え」


「?」


 また、変な空気になった。


 奈々の方も気づいている。


 今日の啓介は、いつもの啓介ではない。


 声も同じ。顔も同じ。自分の名前も知っている。


 でも、どこか遠い。


「……啓ちゃん」


「何?」


「うち、何かした?」


「え?」


「怒っとる?」


「怒ってない」


「なら、なんでそんなよそよそしいん?」


「…………」


 答えられなかった。


 奈々の顔が少し曇る。


「ごめん」


 また、口から自然に出た。


「暑さで……まだちょっと変なんだと思う」


「…………」


「奈々が嫌とかじゃないよ」


「ほんま?」


「ああ」


「絶対?」


「絶対」


 奈々はしばらく慶介を見ていた。


 それから、


「なら、ええ」


 にこっと笑った。


 十一歳の少女らしい、素直な笑顔だった。


 二〇〇五年を生きていた自分は十六歳だった。奈々とは、たった五歳の差しかない。


 けれど、この年頃の五年は大きい。


 奈々は残ったスイカを食べながら、足をぶらぶらさせた。


「でも暇やねえ」


「そう?」


「啓ちゃん、今日は外出たらいかんのでしょ?」


「ああ」


「川にも行けんし」


「川?」


「昨日、明日行こう言うたやん!」


「あ……」


 またやった。


「もう!」


「ごめんって」


「なんか今日の啓ちゃん、年寄りみたい」


「……年寄り」


「何でも考えてから喋るし」


「そうかな」


「そうよ」


 奈々は少し考えた。


「ほんなら」


 縁側から庭へ下りる。


「何?」


「気晴らし」


「気晴らし?」


 奈々は二、三歩進むと、くるりとこちらを向いた。


 そして、歌い始めた。


「…………」


 聞いたことのある歌だった。


 『赤とんぼ』。


 学校でも習った。テレビでも聞いたことがある。珍しくもない童謡だ。


 十一歳の女の子の声で、特別に上手いわけではない。少し音が外れるし、高いところでは声が細くなる。


 それでも、慶介は黙って聞いていた。


 真夏の庭。


 蝉の声。


 青い空。


 風に揺れる草。


 そこに奈々の歌が重なる。


「…………」


 なぜだろう。


 知っている歌なのに、まるで初めて聞くようだった。


 いや、違う。


 初めてではない。


 ずっと昔。


 もっと昔に。


 同じ声で。


 同じ歌を。


 聞いたことが――。


「……え?」


 頬に何かが伝った。


 慶介は指で触れた。


 水。


「…………」


 涙だった。


「え……なんで?」


 自分でも分からない。


 もう一滴、落ちた。


 悲しくない。


 はずなのに、胸が痛かった。


 懐かしい。


 切ない。


 帰りたい。


 でも――どこへ?


「啓ちゃん?」


 歌が止まった。


「えっ、ちょっと!」


 奈々が慌てて駆け寄ってきた。


「どうしたん!?」


「いや……」


「頭痛いん? 気持ち悪い?」


「違う」


「なら、なんで泣いとるん!」


「……分からない」


「分からんって!」


 奈々が本気で困っている。


 慶介も困っていた。


「歌が……」


「歌?」


「なんか、すごく……」


 何と言えばいい。


「良かった」


「…………」


「聞いてたら……何か」


 胸を押さえる。


「懐かしくなって」


「懐かしい?」


「うん」


「この歌、前にも歌ったやん」


「……そうなの?」


「何回も!」


「あ……」


 記憶がある。


 春の川原で、奈々が歌っている。


 秋の帰り道でも、奈々が歌っている。


 今よりもっと幼い奈々。


 その声も、その顔も、ちゃんと自分の中に残っている。


「……そっか」


 涙がまた一筋落ちた。


「ごめん」


「なんで謝るんよ」


「いや、変だろ」


「変やけど……」


 奈々は困ったように笑った。


 そして、少しだけ嬉しそうだった。


「うちの歌で泣いた人、初めて」


「泣かせたみたいに言うなよ」


「だって泣いとるやん」


「違うって」


「なら、もう一曲歌おか?」


「それはいい」


「なんで!」


「また泣いたら嫌だから」


「あはは!」


 奈々の笑い声が庭に広がった。


 慶介も目元を拭いながら笑った。


 何なのだろう。


 この子は。


 まだ、分からない。


 でも、怖くない。


 この時代に来てから、初めてそう思えた。


     ◇


「そういや、盆祭り」


 奈々が思い出したように言った。


「今年も行くんやろ?」


「盆祭り……」


「まさか、それも忘れたん?」


「いやいや」


 記憶を探す。


 村の盆踊り。神社。提灯。屋台。大人たちと子供たち。


 去年も奈々と走り回った。


「行くよ」


「ほんま?」


「ああ」


「今年は絶対、金魚取るんよ」


「去年も言ってなかった?」


「去年は紙が悪かったん!」


「紙のせいにするなよ」


「ほんまやもん!」


「どうせまた全部破るだろ」


「啓ちゃんより上手やし!」


「俺、去年何匹?」


「……二匹」


「奈々は?」


「…………」


「何匹?」


「うるさい」


「ゼロ?」


「うるさい!」


「ゼロなんだ」


「今年は取る!」


 奈々が指を突きつける。


「勝負な!」


「いいよ」


「負けた方がラムネ奢る!」


「分かった」


「約束よ!」


「約束」


 また、その言葉だった。


 胸のどこかが揺れた。


 約束。


 何か、とても大切な。


 まだ結ばれていないはずの約束。


「…………」


「啓ちゃん?」


「何でもない」


「また変な顔しとる」


「暑いだけ」


「ほんまに?」


「ああ」


 そのときだった。


「奈々お嬢さまー」


 庭の向こうから女の声がした。


「あ」


 奈々が振り返る。


 四十代くらいの女性が、日傘を差してこちらへ歩いてきた。


 頭の中に、また自然に記憶が浮かんだ。


 村上家の手伝いをしている女性で、奈々が小さい頃から面倒を見ている。


「お嬢さま、こちらでしたか」


「うん」


「奥さまがお探しですよ。お稽古のお時間でしょう」


「ええー」


「ええー、ではございません」


「もうちょっと」


「なりません」


 奈々は露骨に頬を膨らませた。


「せっかく啓介が倒れたけん、お見舞いしよったのに」


「病人を長居して疲れさせてはいけません」


「もう元気よ」


「奈々お嬢さまが決めることではありません」


「むう……」


 慶介は思わず笑った。


「何がおかしいん」


「いや」


「啓介まで!」


「ごめんごめん」


 手伝いの女性が慶介へ頭を下げる。


「啓介さん、お身体、お大事になさってくださいね」


「あ、はい。ありがとうございます」


「…………」


 また、二人から見られた。


「何?」


 奈々が呆れる。


「やっぱり今日の啓介、変」


「もういいよ、それ」


「言葉まで丁寧やもん」


「……暑さのせい」


「何でも暑さのせいにしよる」


 奈々は草履を履いて庭へ出ると、振り返った。


「じゃあ、啓介」


「うん」


「ちゃんと休みよ」


「ああ」


「川は元気になってから」


「分かった」


「宿題もしときよ」


「それは考える」


「しなさい!」


「はいはい」


 奈々は数歩歩いた。


 そして、また振り返る。


「盆祭り、忘れたらいかんよ!」


「忘れないよ」


「絶対よ!」


「絶対」


 奈々は満足したらしい。


 笑った。


「また来るね♪」


「ああ」


 慶介が手を振ると、奈々も手を振り返した。


 そのまま、手伝いの女性と一緒に夏の陽射しの中へ消えていく。


「…………」


 慶介はしばらく、誰もいなくなった庭を見ていた。


 蝉が鳴いている。


 縁側には、食べ終えたスイカの皮が残っている。


 そして、さっきまで聞こえていた奈々の歌声が、まだ耳の奥に残っていた。


「奈々……」


 名前を口にすると、胸の奥が妙に温かくなる。


 それなのに、理由の分からない痛みも、ほんの少しだけ残っていた。


 今日初めて会ったような気がする。


 ずっと昔から知っているような気もする。


 そのどちらも、なぜか間違っていないように思えた。


 ただ、この夏。


 片瀬慶介だった少年は、村上奈々という少女と――


 もう一度、出会った。

本日の連続投稿はここまでです。

次回以降は、毎日1話ずつ更新を予定しています。


引き続きお楽しみいただけましたら幸いです。

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