第二話 知らない記憶
最初に感じたのは、暑さだった。
ただ、さっきまで東京で感じていた暑さとは、どこか違う。焼けたアスファルトから押し返されるような熱ではなく、湿気を含んだ空気が肌にまとわりついている。
草と土の匂いがした。
どこか遠くでは、蝉がうるさいほど鳴いている。
「……ん……」
慶介はゆっくりと目を開けた。
見えたのは、黒ずんだ木の梁だった。
「…………?」
知らない天井だ。
そう思ったはずなのに、なぜか胸の奥では違う答えが返ってくる。
――知っている。
風にかすかに揺れる蚊帳。畳。開け放たれた障子と、その向こうに広がる眩しい緑。
見覚えなどない。
なのに、この部屋がどんな造りをしているのか、なぜか分かるような気がした。
「ここ……どこだ?」
身体を起こした途端、こめかみの奥に鈍い痛みが走った。
「っ……!」
靖國神社。
遊就館。
海軍カレー。
あの老婦人。
そして、視界を埋め尽くした白い光。
そこまでは覚えている。
「病院……?」
呟いてから、自分の声に違和感を覚えた。
妙に高い。
慶介は喉へ手をやり、そのまま動きを止めた。
「……は?」
目の前にある手が、小さい。
細い指は日に焼け、爪の間には土が入り込んでいる。自分の意思で動いている以上、自分の手には違いない。
けれど、十六年間見てきた片瀬慶介の手ではなかった。
慌てて立ち上がろうとすると、足元がおぼつかず、そのまま畳へ手をついた。
「うわっ……!」
身体が軽い。
いや、軽いというより――小さい。
腕も脚も、記憶にある自分の身体より明らかに細く短い。
「何だよ……これ」
夢だと思いたかった。
だが、掌に触れる畳のざらつきも、背中を伝う汗も、耳を塞ぎたくなるほどの蝉の声も、あまりに生々しい。
鏡。
自分の顔を見れば、何か分かるかもしれない。
そう考えた瞬間、不意に頭の中へ答えが浮かんだ。
――鏡なら、隣の部屋。箪笥の横。
「……え?」
なぜ、そんなことを知っている。
慶介は襖を見つめた。
この向こうには箪笥がある。その脇には、小さな鏡台が置いてある。
そういう記憶が、最初から自分の中にある。
恐る恐る襖を開いた。
そこには、本当に箪笥があった。
そして、その横には鏡台が置かれていた。
「……なんで」
喉が乾いた。
ゆっくり近づき、鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、見知らぬ少年だった。
短く刈られた黒髪。日に焼けた頬。まだ丸みの残る幼い顔つき。どう見ても十一、二歳くらいにしか見えない。
慶介が右の頬へ触れると、鏡の中の少年も同じ場所に手を当てた。
「……俺?」
少年の唇が動く。
「俺なのか……?」
心臓が急に速くなった。
そのときだった。
「啓介?」
背後から女の声がした。
「うわっ!」
振り返ると、四十前後と思われる女性が立っていた。日に焼けた顔に汗を浮かべ、肩には手拭いを掛けている。
「何しよるん。まだ寝とかんと」
見たことのない女性だった。
慶介は反射的に一歩後ろへ下がった。
「……誰?」
その言葉に、女性の表情が固まった。
「何言いよるんよ」
次の瞬間だった。
頭の奥で何かが弾けるように、名前が浮かんだ。
越智トヨ。
母。
「……っ」
名前だけではない。
朝は誰より早く起きること。冬になると手がひび割れること。味噌汁は少ししょっぱいこと。
去年、自分が熱を出したときには、一晩中そばについていてくれた。
そんな記憶が、次々に蘇ってくる。
「……母ちゃん?」
トヨはますます怪訝そうな顔をした。
「何よ、急に。ほんまにまだ熱があるんかね」
そう言って、慶介の額へ手を当てる。
その手の感触まで知っていた。
見知らぬ女性のはずなのに、その温かさがどうしようもなく懐かしい。
「父ちゃん!」
トヨが外へ向かって声を張った。
「啓介がまだ変なんよ!」
「変とは何ぞ!」
遠くから男の声が返ってくる。
また、何の努力もなく名前が浮かんだ。
越智重吉。
父。
無口で頑固。農作業には厳しい。けれど祭りの日になると、何も言わず飴を買ってくれる。
「……やめろ」
「え?」
「何なんだよ、これ……」
慶介は頭を抱えた。
畑で泥だらけになった記憶がある。
川で遊んだ記憶もある。
学校で叱られ、父親に怒鳴られ、母親に慰められた記憶もある。
どれも知らない。
それなのに、思い出せる。
まるで自分が本当に体験したことのように。
しかも、二〇〇五年まで生きてきた記憶も、何ひとつ失われてはいなかった。
東京の街。電車。携帯電話。テレビ。高校。靖國神社。
そして、自分を育ててくれた両親。
片瀬慶介として過ごした十六年間も、間違いなく自分の人生だ。
「俺は……」
誰なんだ。
そこへ、重い足音が近づいてきた。
「どした」
部屋へ入ってきたのは、日に焼けた骨太な男だった。
紹介される必要などなかった。
顔を見た瞬間、この人が父親だと分かってしまった。
「まだぼうっとしとるんよ」
トヨが言うと、重吉は慶介の顔を覗き込んだ。
「朝、畑で倒れたん覚えとるか」
「畑……?」
その一言で、また記憶が蘇る。
朝から強かった日差し。
手に持った鍬。
流れ続ける汗。
突然、目の前が暗くなって、地面へ崩れ落ちた。
同時に、別の光景が重なった。
遊就館。
海軍カレー。
白い光。
「う……」
「ほら見い。まだ駄目じゃろ」
重吉が眉を寄せた。
「暑さにやられたんじゃ。今日は畑はええ」
「一日休んどき」
トヨも背中を撫でながら言った。
「水飲んで、涼しいところにおり」
「……畑」
自分は畑仕事をしていた。
十一歳の身体で。
けれど、越智啓介の記憶にとっては、それはごく当たり前の日常だった。
そう考えたところで、ふと別の疑問が浮かんだ。
「母ちゃん」
「何?」
「今日って……何日?」
トヨが不思議そうな顔をする。
「八月六日じゃが」
心臓が大きく跳ねた。
「……何年?」
「は?」
「今年、何年?」
今度は重吉まで訝しそうに眉をひそめた。
「お前、ほんまに大丈夫か」
「何年?」
笑えなかった。
重吉はしばらく啓介を見つめたあと、呆れたように答えた。
「昭和四年じゃろうが」
「…………」
昭和四年。
頭の中で、西暦へ置き換える。
一九二九年。
「……一九二九年」
「何ぞ?」
「いや……」
息が浅くなった。
一九二九年。
世界恐慌が始まる年。
その先に何があるのか、慶介は知っている。
満州事変。
政変。
戦争。
真珠湾。
そして――。
一九四五年八月六日。
広島。
「……十六年後」
今日と同じ、八月六日。
自分がつい先ほどまで「過去」として眺めていた日は、この世界ではまだ起きていない。
「嘘だろ……」
そんなことがあるはずがない。
それでも目の前の家も、父も母も、自分の小さな身体も消えてはくれなかった。
ここが夢でないのなら。
自分は、一九二九年にいる。
◇
「啓介」
重吉の低い声で、慶介は我に返った。
「今日はほんまに寝とけ」
「……うん」
「無理してまた倒れたら、仕事が増えるだけじゃけん」
「父ちゃん」
「何ぞ」
呼んでから、何を言いたかったのか分からなくなった。
怖い父親だ。
でも、好きだった。
そんな感情が、胸の奥から自然に湧き上がってくる。
「……何でもない」
「そうか」
重吉はそれ以上聞かなかった。
「昼には戻る」
そう言い残して部屋を出ていく。
トヨも枕元に水を置いた。
「ちゃんと飲みよ。何かあったら呼びなさい」
「うん」
二人の足音が遠ざかる。
残ったのは、庭から聞こえる蝉の声だけだった。
啓介は自分の小さな手を見つめた。
片瀬慶介と、越智啓介。
二人分の記憶が、今は一人の中にある。
二〇〇五年の両親を思えば胸が痛むし、この家の父と母を見れば懐かしい。
では、本来ここにいた越智啓介はどうなったのだろう。
自分がその身体を奪ったのか。
それとも――。
「……最初から、俺なのか?」
考えても答えは出なかった。
ただ一つ確かなのは、この家で十一年間を過ごした記憶が、自分の中に存在していることだった。
父も、母も、畑も、学校も知っている。
近所の人間の顔まで思い出せる。
それなのに。
「……何か忘れてる」
妙な感覚がした。
とても身近で、大切だったはずの何かが、記憶の端に引っかかっている。
「誰だ……?」
そのとき、外から少女の声が聞こえた。
「ごめんくださーい」
身体が、考えるより先に反応した。
心臓が大きく鳴る。
「トヨおばちゃん、おるー?」
知っている。
この声を、知っている。
十一年間の記憶の中で、何度となく聞いてきた声だった。
軽い足音が近づいてくる。
「啓介?」
襖の向こうから声がした。
「起きとるん?」
なぜか、少し怖かった。
それなのに、それ以上に会いたかった。
襖が開き、夏の日差しが部屋へ差し込んだ。
その光の中に、一人の少女が立っていた。
日に焼けた頬。黒い髪。大きな瞳。手には小さな包みを抱えている。
もちろん、靖國で見かけた少女とは違う。
違うはずなのに、どこか面影が重なった。
「……奈々」
考えるより先に、その名前が口からこぼれた。
少女――村上奈々は、ぱっと笑った。
「なんじゃ。元気そうやん」
その笑顔を見た瞬間、啓介の中にある十一年分の記憶が、一斉に揺れた。
そして、その奥で。
まだ知らないはずの何かが、かすかに揺れたような気がした。




