第一話 八月六日
※本作は、史実を題材とした歴史改変フィクションです。
実在の人物・組織・事件が登場しますが、作中の会話・心情・人物関係および歴史展開には創作・改変を含みます。
また、時代背景を描くため、現代とは異なる当時の呼称・価値観・表現を使用する場合があります。
暑い。
九段下の駅を出た瞬間、片瀬慶介は心の底からそう思った。
「……暑っ」
口に出したのは一度だけだったが、頭の中ではもう十回くらい繰り返している。
空は嫌になるほど青く、真夏の太陽に照らされた舗道から、むっとした熱気が立ち上っていた。街路樹という街路樹から蝉の鳴き声が降ってくる。
こんな日に何が楽しいのか知らないが、ずいぶん元気なものだ。
慶介はペットボトルのスポーツドリンクを一口飲み、大鳥居を見上げた。
靖國神社。
二〇〇五年八月六日。
本当なら、八月十五日に来るつもりだった。
終戦の日だ。
どうせ靖國へ行くのなら、その日の方がいい。高校一年の夏休みで、特に部活もやっていない。一日くらい時間はどうにかなると思っていた。
ところが、お盆は家族でじいちゃんの家へ行くことになった。
『十五日は朝から出るぞ』
父親にそう言われてしまえば仕方ない。
別の日にしようと予定表を眺め、電車の時間だの何だのを調整した結果、空いたのが今日だった。
八月六日。
広島に原子爆弾が落とされた日だ。
なら、それはそれで意味があるか。
その程度の理由だった。
別に慶介は、政治活動に興味がある高校生でもなければ、何か特別な思想を持っているわけでもない。ただ、歴史は好きだった。
戦国時代も幕末も好きだし、戦闘機や戦艦にも多少興味がある。零戦くらいなら知っているし、大和と武蔵の違いくらいは説明できる。学校の歴史の授業も、数学なんかよりはずっと面白い。
そのくらいだ。
「遊就館は行きたいな……」
今日の目的の半分は、むしろそちらだった。
参拝したあと、展示をじっくり見る。昼飯もここで食べていくつもりなので、時間は十分に取ってある。
鳥居をくぐった。
蝉の声は変わらない。人もいるし、車の音だって聞こえている。
それなのに、都会の真ん中から少しだけ切り離されたような気がした。
参道を歩いていると、妙に背筋が伸びる。
慶介は帽子を少し持ち上げ、額の汗を拭った。
――そのときだった。
少し先に、品の良い老婦人が立っていた。
白髪をきれいに整え、夏物の薄い色の服を着ている。腰は少し曲がっていたが、立ち姿にはどこか凛としたものがあった。
その隣には、一人の少女が付き添っている。
慶介と同じくらいの年齢だろうか。黒髪に白いブラウス。涼しげな目元をしていた。
慶介の視線が、一瞬そちらで止まる。
――うわ。
めちゃくちゃ好みだ。
自分でも分かりやすいと思う。
少女がこちらを見た。
目が合った。
慶介は即座に視線を逸らした。
別に見てませんけど、という顔をして参道の端にある木を見る。
あの木、立派だなあ。
なんて白々しい。
「あなたは……?」
声を掛けられた。
「え?」
慶介は振り返った。
少女ではない。
老婦人だった。
じっと、こちらを見ている。
いや。
ただ見ているというより、何かを確かめるような目だった。
「俺……ですか?」
「ええ」
老婦人は一歩だけ近づいた。その顔から、先ほどまでの穏やかさが消えている。
「失礼だけれど……お名前は?」
「片瀬です。片瀬慶介」
一瞬。
老婦人の呼吸が止まったように見えた。
「慶介……さん」
「はい」
妙な間があった。
少女が心配そうに老婦人の顔を覗き込む。
「おばあちゃん?」
「……大丈夫よ」
そう答えながらも、老婦人は慶介から目を離さなかった。
「高校生?」
「はい。一年です」
「そう……」
まただ。
初対面のはずなのに、この人は自分を知っているような目をしている。
いや、それとも少し違う。
慶介自身ではなく、その向こう側にいる誰かを見ているような――。
「あの……俺、どこかで会ったことあります?」
思わず聞いた。
老婦人の目元が、わずかに揺れた。
「いいえ」
そして、小さく笑った。
「ごめんなさいね。昔の知り合いに……少し似ていたものだから」
「ああ……」
そういうことか、と慶介は納得しかけた。
だが。
「とても……よく似ていたの」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
「おばあちゃん、そろそろ行こう?」
少女が老婦人の腕をそっと取る。
「そうね」
老婦人は一度頷き、それからもう一度慶介を見た。
「参拝?」
「はい。そのあと遊就館を見ようかなって」
「……そう」
老婦人は微笑んだ。
どこか嬉しそうで、どこか泣きそうだった。
「ゆっくり見ていらっしゃい」
「はい」
「それじゃあ」
少女が軽く頭を下げる。
慶介も慌てて会釈した。
二人が離れていく。
しばらくして、慶介は振り返った。
老婦人も、こちらを振り返っていた。
「…………」
何だ?
胸の奥が、妙にざわついた。
結局、少女の名前も聞けなかった。
まあ、そりゃそうだ。
突然聞いたらただのナンパである。
「……惜しいことしたかな」
小さく呟いてから、自分で苦笑した。
◇
拝殿で手を合わせながら、慶介は何を祈ればいいのか少し迷った。
家族の健康、高校生活、テストの点、それとも平和。
どれもしっくり来ない。
最後にはただ、
――安らかに眠ってください。
そんな月並みな言葉を心の中で呟いた。
そして、遊就館へ向かった。
◇
「おお……」
館内へ入って最初に目にした航空機に、思わず声が漏れた。
写真では何度も見たことがある。映像でも見た。模型だって売っている。
だが、実物は違った。
大きい。
それなのに、思っていたよりずっと細い。
こんな薄い金属板の向こう側に、人間が乗っていたのかと思う。
慶介は機体を見上げた。
零式艦上戦闘機。
零戦。
名前だけなら、小学生でも知っているかもしれない。しかし実物を目の前にすると、教科書の写真とは全く別のものに見えた。
「これで……戦ったんだよな」
当たり前のことを呟く。
その後も、軍服や手紙、写真、兵器、作戦図などを一つずつ見ていった。
学校で習ったのと同じ戦争なのに、見え方が少し違う。
日本はなぜ戦争へ進んだのか。
なぜ途中で止まれなかったのか。
当時の人間は何を恐れ、何を考えていたのか。
もちろん、日本が戦争によって多くの人を傷つけたことも、最後には敗れたことも知っている。
けれど、結果を知っている自分たちと、その結果を知らずに選択していった当時の人間とでは、見えていた景色そのものが違ったはずだ。
「……最初から負けるつもりで始めたわけじゃないよな」
そんな当たり前の疑問が浮かんだ。
正しかったかどうかと、なぜそう考えたのかは別の話だ。
そこを分けて考えないといけないのではないか。
十六歳なりにそんなことを考えながら展示を見ていた時だった。
「…………?」
慶介は足を止めた。
何かがおかしい。
胸の奥――いや、頭の奥だろうか。
説明できない感覚がある。
展示を見るたびに、
――知っている。
そんな気がする。
もちろん、知っているものもある。
零戦も知っている。
特攻隊も知っている。
戦艦大和も知っている。
だが、そういう意味ではなかった。
写真に写った飛行場。
海。
整備員。
搭乗員。
知らないはずの風景を見るたびに、胸がざわつく。
油の匂いがするような気がした。
潮の匂い。
焼けた金属の匂い。
遠くで回るエンジンの音。
「……何だよ」
慶介は眉間を押さえた。
冷房が効いているのに、額に汗が浮かんでいる。
疲れたのか。
暑い中を歩いてきたせいかもしれない。朝飯も軽かった。
時計を見ると、もう昼を過ぎている。
「ああ……腹減った」
それだ。
きっと。
空腹で変な感じがしているだけだ。
◇
遊就館の喫茶で、慶介は席に腰を下ろした。
注文したのは海軍カレー。
ここまで来たなら食べておきたい。
しばらくして運ばれてきた皿から、香辛料の香りが立ち上った。
「いただきます」
スプーンを取り、一口食べる。
「……うま」
普通に美味い。
少し甘みがあって、そのあとに辛さが来る。玉ねぎもよく煮込まれている。
もう一口。
その瞬間だった。
「…………え?」
スプーンが止まった。
何かが胸の奥に引っかかった。
もう一口食べてみる。
今度は、はっきりと胸を締めつけられるような感覚がした。
「……何だよ、これ」
懐かしい。
そう感じた。
けれど、理由が分からない。
こんなカレーを食べた記憶なんてない。
そもそも靖國に来たのだって初めてだ。
なのに。
知っている。
この味を。
この匂いを。
次の瞬間、頭の中に見覚えのない光景が浮かんだ。
――金属の食器。
――狭い部屋。
――揺れる床。
――潮風。
――誰かの笑い声。
「……え?」
映像が、一瞬だけ頭の中を横切った。
若い男たち。
白い服。
食卓。
誰かがこちらへ何かを言っている。
聞こえない。
そして。
全く違う景色。
古い家。
湯気。
味噌の香り。
少女。
笑っている。
「誰だ……?」
知らない。
知らないはずなのに。
胸が痛い。
さっきの老婦人。
あの目。
遊就館。
飛行機。
海。
カレー。
ばらばらだったものが、どこかで一本につながりかけている。
でも、その先が見えない。
「……っ」
頭痛がした。
慶介はこめかみを押さえた。
視界が揺れる。
周囲の話し声が遠ざかり、ガラスの向こうの夏空がやけに白くなった。
蝉の声が聞こえた。
館内なのに。
あり得ないほど近くで。
ミーン、ミーンと。
「う……!」
胃がひっくり返ったような感覚に襲われる。
心臓が跳ねた。
慶介はテーブルへ手をつこうとした。
届かない。
世界が傾いた。
白い光が視界いっぱいに広がる。
そして最後に。
聞こえた。
女の子の声だった。
遠い。
遠い昔から呼んでいるような声。
『――啓介!』
誰だ。
俺を、その名前で呼んでいるのは――。
意識が途切れた。




