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第二十九話 凱旋

 九月半ば、ノモンハンの戦場に、ようやく停戦が訪れた。


 砲声が消えても、司令部の仕事は終わらなかった。各部隊から戦闘詳報が集められ、損害と戦果、敵の行動、成功した判断と失敗した判断が、一つずつ整理されていく。


 日本軍も深く傷ついていた。


 歩兵も砲兵も多くの人間を失い、航空機や火砲、車両にも決して小さくない損害が出ている。それでも第二十三師団は、大きな傷を負いながら、なお部隊として戦場に残っていた。


 一方、日本軍主力の背後へ回り込もうとしたソ連軍の機械化部隊も、戦車や装甲車、輸送車両、砲、航空機、そしてそれらを扱う人員に大きな損害を受けていた。後方の燃料や弾薬、渡河点、輸送路を繰り返し攻撃された影響も重く、失った戦力を再び整えるには相応の時間が必要になる。


 結果だけを見れば、日本軍はソ連軍の大規模な包囲攻勢を阻止した。


 その報告は国内だけでなく、各国の駐在武官や情報機関の関心も集めた。


 単に日本軍が勝ったというだけではない。


 ソ連軍の集結を事前に察知し、機械化部隊の進路を予測して火力を集中したこと。航空隊が敵機の撃墜だけを追わず、偵察や爆撃隊の護衛、敵後方への攻撃へ重点を移したこと。そして、戦いを重ねる中で航空隊の未帰還率が下がり始めていたこと。


 それまで日本軍に抱かれていた評価とは、少し異なる戦い方だった。


     ◇


「……勝ったのか」


 石原莞爾は、机の上に置かれた戦闘詳報から顔を上げた。


 それから、もう一度頁を戻す。


 敵の集結を早期に察知し、北と南からの包囲を予測したうえで、対戦車火力と砲兵を重点配置している。航空隊は戦車そのものだけでなく、後方の燃料や弾薬、輸送車列を狙い、敵が崩れ始めても無制限の追撃には出なかった。


 石原はしばらく黙って読み進めた。


「随分、慎重に戦ったな……」


 関東軍という組織を、彼ほどよく知る人間も少ない。


 大胆さと決断の速さは強みである一方、その勢いが敵への軽視や独断へ転じる危うさも、石原はよく知っていた。


 今回の戦闘詳報に記されているのは、それとは少し違う。


 情報を集め、敵の意図を仮定し、確認し、準備し、それでも決めつけず、実戦の中で修正している。


 頁をめくっていくうち、ある名称で指が止まった。


 陸海軍航空共同研究班。


 その下に、小さく責任者の名が記されている。


 越智啓介海軍少尉。


「……誰だ、これは」


 石原は、その名前をしばらく見つめていた。


     ◇


 ほぼ同じ頃、堀栄三も戦闘報告を読み込んでいた。


 最初に勝利の報を聞いた時、堀はむしろ数字を疑った。


 戦場から上がってくる戦果報告には、どうしても誤差が混じる。特に航空戦では、一機の敵を複数の搭乗員が撃墜したと認識することも珍しくない。


 そこで堀は、戦果そのものよりも、日本軍側の損害、鹵獲された車両、戦線の推移、航空機の帰還数、補給状況を追った。


 確認すればするほど、勝利そのものを疑う理由は減っていった。


「……本当に持ちこたえたのか」


 そこで興味は、結果から原因へ移った。


 何が従来と違ったのか。


 記録を追っていくと、繰り返し同じ要素が現れる。


 四機を二組として使う相互援護。簡潔な無線通信。無理に敵一機へ群がらず、速度と高度を失えば離脱して位置を取り直す戦い方。そして、戦果だけでなく帰還した搭乗員と翌日の出撃可能数を記録するという考え方。


 さらに決戦前には、航空偵察が敵機械化部隊の動きを早期に捉えていた。


 堀は頁を一枚戻した。


 そこに責任者の名前がある。


「越智啓介……」


 聞いたことのない名前だった。


 だが、堀はその名を手帳の端へ書き留めた。


     ◇


 海軍省では、山本五十六が報告書を机の上へ置いた。


「大西」


「はい」


「やりおったな」


 大西瀧治郎は腕を組み、しばらく報告書を見つめてから、少し困ったように笑った。


「ええ。想像していたより、ずっと早かったですね」


「意外そうな顔をしとる割には、驚いとらんな」


「驚いてはいますよ。ただ、あいつの考え方そのものには、兵学校の頃から期待していましたから」


 山本が口元を緩める。


「そうじゃったな」


 大西が最初に啓介へ目を留めたのは、完成された答えを持っていたからではない。


 むしろ逆だった。


 あの頃の論文は、仮説だらけだった。実際の部隊運用を知らず、整備や補給についても机上の知識しかなく、技術的に不可能な部分や、現場を知らなければ出てこない問題も多かった。


 それでも大西は、その未完成さを理由に切り捨てなかった。


「論文そのものは、穴だらけでした」


「お前、本人にもそう言うたんじゃろう」


「ええ。だから調べさせました」


「広島まで行かせて、名古屋まで回らせた」


「それでも足りなかった」


 大西は報告書の頁をめくった。


「ただ、あいつは分からないことを、分かったふりで埋めなかった。指摘すれば調べ直して、前の考えが間違っていれば書き換える。そこは最初から買っていました」


 山本も頷いた。


「答えを覚えとる奴より、間違えた時に直せる奴の方が使える」


「ええ。それに、あの歳で航空戦を機体の性能と撃墜数だけで見なかった。搭乗員、整備、通信、補給、救難まで繋げて考えようとしていた。形は粗くても、問いの立て方は面白かった」


「だから満州へ出した」


「はい」


 卒業後、すぐに答えを与えたわけではない。


 啓介には、実際の飛行場を見せた。


 操縦者と飛び、整備員と話し、通信が途切れる現場を知り、補給が届かなければ機体があっても飛べないことを覚えさせた。陸海軍の違いにもぶつからせ、失敗させ、記録を取らせ、一つずつ試させた。


 そうして満州で過ごした時間は、およそ一年半に及んでいる。


「一年半か」


 山本が言った。


「随分と長く置いたもんじゃ」


「短く帰すつもりはありませんでしたから」


「本人には言うとらんかったがな」


「言えば余計なことを考えます」


「違いない」


 二人とも、あの論文を完成品だとは考えていなかった。


 だからこそ、現場へ出した。


 実際の人間と機械、補給と通信、命令と失敗の中へ放り込み、机の上の考えがどこまで残るのかを見たかった。


 山本が、再び戦闘詳報へ目を落とす。


「それで、一年半かけて持ち帰った答えがこれか」


「答え、というより……まだ途中でしょうね」


「本人もそう思っとるじゃろう」


「間違いなく」


 大西は笑った。


「たぶん今頃、自分が何を間違えたかの方を考えています」


「面倒な奴じゃ」


「だから使えるんでしょう」


 山本が鼻で笑う。


 だが、その表情には明らかな満足があった。


「しかし、わしが一番面白いと思うのは、越智隊の戦果じゃない」


「そこは私も同じです」


「四人だけが強くなったなら、優秀な小隊が一つ出来ただけじゃ」


「ええ」


 大西は、航空隊全体の損耗記録を開いた。


 越智隊が使っていた方法を、周辺の部隊が自分たちなりに試し、変え、また別の部隊へ渡している。


 同じ間隔でもない。


 同じ高度差でもない。


 それぞれが、自分たちに合う形へ修正していた。


「自分のやり方を守らせるのではなく、考え方だけ渡している」


 大西が言った。


「結果として、越智がいないところでも変化が起きています」


「それができる奴は少ない」


 山本は静かに言った。


「自分が一番上手く飛ぶだけなら、名人で終わる。自分がおらんところでも人が育って、部隊が強くなるなら――」


 一度言葉を切る。


「使い道が変わってくる」


 大西は山本を見た。


 その言葉の意味は分かっていた。


 優秀な戦闘機乗りとしてだけではない。


 より大きな単位で航空を動かし、人と組織を繋ぐ側へ置けるかもしれない。


「ただ、まだ若すぎます」


「知っとる」


「経験も足りません」


「それも知っとる」


「なら」


「だから、まだ育てるんじゃ」


 山本は報告書の別の頁を開いた。


 そこには、決戦前の航空偵察について記されている。


 敵機を何機落としたかではない。


 敵の大部隊がどこへ動いているのかを見つけ、その情報を生きて持ち帰ったことが、陸軍側の判断と準備につながっていた。


「敵を落とせる奴はおる。上手く飛べる奴もおる」


 山本は椅子の背へ身体を預けた。


「じゃが、人を帰しながら部隊そのものを強くして、集めた情報を自分だけで抱え込まず、使える奴へ渡せる人間は、そう多くない」


「ええ」


「大西」


「はい」


「源田を一度戻せ」


「英国からですか」


「ああ。欧州もいよいよ危ない。向こうの航空戦を見る価値は大きいが、こちらはこちらで航空隊の使い方そのものを整理する時期に来とる」


「反発は出ますよ」


「いつものことじゃ」


 山本は笑った。


 そして、表紙に記された若い士官の名前へもう一度目を落とした。


「兵学校で論文を読んだ時より、ずっと厄介な奴になりおったな」


「まだ本人は、その評価を知らないでしょうね」


「知らんでええ」


「またですか」


「知れば余計なことを考える」


 大西は少し笑った。


「それ、さっき私が言いましたよ」


「そうじゃったか?」


 山本は何食わぬ顔で、もう一度報告書を開いた。


     ◇


 そんなところまで自分の名前が届いていることなど、啓介は知る由もなかった。


 戦後処理が一段落した頃、彼は司令部へ呼び出された。


 部屋へ入ると、海軍の人事担当士官だけでなく、陸軍側の将校も座っている。


「越智少尉」


「はい」


「今回の戦功について、陸軍側からも正式な上申が出ている」


「……陸軍からですか」


「ああ」


 三浦の顔が浮かんだ。


 戦闘の最後に、何かを知っているような顔で笑っていたのは、このことだったのかもしれない。


「航空戦術の研究と実戦運用、その考え方が周辺部隊へ波及したこと、搭乗員損耗の低下。それから、決戦前の航空偵察」


「はい」


「もちろん、ノモンハンの勝利がお前一人の功績だという話ではない」


「それだけは、絶対に違います」


 啓介は即答した。


 担当士官は僅かに頷く。


「陸軍側の上申にも、そう書いてある。だが、戦い方が変わる一つの契機を作ったことは評価すべきだ、とな」


「…………」


「それで、人事についても異例の処置が決まった」


 一通の辞令が差し出された。


 啓介は受け取ると、一度最後まで目を通し、信じられずにもう一度最初から読み直した。


「……大尉?」


「そうだ」


「私が、ですか」


「ほかに誰がおる」


「いや、ですが、私はまだ少尉になって――」


「通常の進級ではない。形式上、中尉への進級を経たうえで、今回の戦功と陸軍側からの上申を受け、特旨をもって大尉へ進められる」


 啓介は辞令を見つめた。


「……二十一歳なんですけど」


「知っている」


「人事、揉めませんでした?」


「相当に揉めたそうだ」


「でしょうね……」


「前例として扱うな、という話まで出たらしい」


「それ、俺に言われても困ります」


 陸軍将校が噴き出し、人事担当士官も僅かに口元を緩めた。


「不満か?」


 そう聞かれると、啓介は黙った。


 嬉しくないわけではない。


 けれど、階級が上がるということは、胸につける印が増えるだけではなかった。自分の判断で動く人間が増えれば、自分が間違えた時、その間違いに巻き込まれる人間も増える。


 その重さの方が、喜びより先に胸へ来た。


「……いえ」


 啓介は辞令を持ち直した。


「謹んでお受けします」


「それから、もう一つある」


「まだあるんですか」


「金鵄勲章叙賜の内示が来ている」


 今度は、冗談を返せなかった。


 戦功を称える勲章。


 その言葉を聞いた途端、ノモンハンの草原が頭の中へ戻ってきた。


 曳光弾と黒煙。燃える車両。そして、最初の実戦で撃った敵機から白い落下傘が開き、それを見て心の底から安堵した時のこと。


 あの操縦者は助かった。


 だが、その後に落としたすべての機体から、搭乗員が無事に脱出できたわけではない。


「越智大尉」


 呼ばれて顔を上げた。


 まだ、その呼び方が自分のものには聞こえない。


「よくやった」


 啓介は少しだけ目を伏せ、それから深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


     ◇


 その後、数日の帰郷休暇が認められた。


 内地へ戻る船が瀬戸内へ入った時、啓介は長い間、甲板から動かなかった。


 穏やかな海の向こうに島が浮かび、その後ろには山が見える。さらに向こうにはまた島が重なり、どこまでも平らだったノモンハンの草原とは、まるで違う景色が広がっていた。


「帰ってきた……」


 思わず声が漏れた。


 満州へ渡ってから、およそ一年半。


 短い休暇や手紙で故郷を思い出すことはあっても、日々の大半は飛行場と機体、訓練と記録、そして最後には戦場の中で過ぎていった。


 戦闘が始まってからは、なおさら考えている暇などなかった。


 敵を見つければ飛び、撃たれれば避け、僚機を確認する。燃料を見て、帰還すれば記録を取り、次の日になればまた飛んだ。


 それを繰り返していた。


 ところが、見慣れた山並みが近づいてくるにつれて、戦場に置いてきたはずの記憶が、身体の奥から少しずつ戻ってくる。


 十三ミリ機銃の反動や、自分へ向かって伸びてきた曳光弾。風防を叩いた音、そして煙を吐きながら眼下へ落ちていった敵機。


 啓介は欄干を握った。


 指先が、僅かに震えていた。


 それでも船は、何事もなかったように故郷へ近づいていった。


     ◇


 感傷に浸っていられたのは、そこまでだった。


 愛媛へ戻り、最寄り駅へ近づいた列車の窓から外を見た啓介は、思わず眉を寄せた。


「……何だ、あれ」


 ホームには、十人や二十人ではきかないほどの人が集まっていた。


 老人や婦人、子供、昔の同級生に学校の先生、村の顔役らしい人までいる。列車が速度を落とすにつれ、それが自分を待っている集団だと分かってきた。


「いや、まさか……」


 列車が止まった。


 扉が開き、啓介がホームへ降りた瞬間、一度だけ辺りが静かになった。


 次の瞬間、声が爆発した。


「啓介じゃ!」


「帰ってきたぞ!」


「越智大尉殿じゃ!」


「万歳!」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 瞬く間に囲まれた。


「本当に大尉になったんじゃな!」


「新聞に名前が出とったぞ!」


「金鵄勲章も頂くんじゃろ!」


「まだ内示です!」


「同じようなもんじゃ!」


「違いますって!」


 誰も聞いていない。


 子供たちは軍装を見上げ、年寄りは勝手に手を握る。どこから持ってきたのか、小さな日の丸まで振られていた。


「啓介!」


 人垣を押し分けて、トヨが現れた。


「母ちゃん」


 言い終わる前に抱きしめられた。


「帰ってきた……帰ってきた……!」


「母ちゃん、みんな見てる」


「知るか!」


「いや、俺、大尉なんだけど」


「うちの子じゃ!」


「……それはそうだけど」


 周囲から、どっと笑いが起きた。


 その後ろに重吉がいた。


 父は騒がなかった。


 ただ、しばらく啓介の姿を見ていた。


「父ちゃん」


「……痩せたな」


「そうかな」


「飯、食え」


「うん」


 重吉はそれだけ言うと、息子の肩を一度だけ強く叩いた。


 顔を背けた時、目元が少し赤かった。


     ◇


 村へ戻ってからも、騒ぎはなかなか収まらなかった。


「昔は川に落ちて泣いとったのにな!」


「何歳の話ですか!」


「宿題忘れて先生に怒られたこともあったぞ!」


「今言わなくていいでしょう!」


 昔を知っている者ほど容赦がない。


 一方、子供たちの興味は別のところにあった。


「大尉さん!」


「はいはい」


「戦闘機乗るん?」


「乗るよ」


「何機落としたん?」


 啓介は少し困った。


 それからしゃがみ、少年と同じ高さまで目線を下げる。


「それよりな」


「うん」


「俺と一緒に飛んだ人が、みんな帰ってきた」


「みんな?」


「ああ」


「すごい!」


 何の迷いもない返事だった。


 啓介は少しだけ笑った。


「うん。それが一番すごい」


 立ち上がって顔を上げると、人垣の向こうに村上清一郎がいた。


「お帰り、啓介くん」


「清一郎さん」


「いや」


 清一郎は少し悪戯っぽく笑った。


「今は、越智大尉殿と呼ぶべきかな」


「勘弁してください」


「そう言うと思ったよ」


 啓介も笑い、その視線が清一郎の少し後ろで止まった。


 奈々がいた。


 目が合う。


 前に村へ帰った時とは、何もかも違っている。あの頃は兵学校を出て間もない若者だったが、今は一年半を大陸で過ごし、戦場を知り、大尉の階級章を帯び、村中から英雄のように迎えられていた。


 それでも奈々の顔を見た途端、そんなものは啓介の中で一度遠ざかった。


「……奈々」


 奈々が少し笑う。


「越智大尉、お帰りなさいませ」


「え?」


 あまりに余所余所しい口調に、啓介が固まった。


 奈々は一秒ほど耐えたが、すぐに吹き出した。


「嘘よ」


「お前なあ……!」


「みんな大尉、大尉言うけん」


「奈々までやめてくれよ」


「じゃあ」


 奈々は一歩だけ近づいた。


 ほんの少し、声が小さくなる。


「……おかえりなさい、啓ちゃん」


 啓介の肩から、ふっと力が抜けた。


「ああ」


 ようやく自然に笑えた。


「帰ってきたよ」


 奈々も嬉しそうに笑った。


 けれど、その笑顔の奥で、奈々は啓介の顔をじっと見ていた。


 声も笑い方も、知っている啓介のままだった。それなのに、どこか少しだけ以前とは違って見える。


 奈々がそう感じたところへ、横から大声が飛んだ。


「ほら見い!」


「何がですか!」


「やっぱり奈々ちゃんのところへ帰ってきたんじゃないか!」


「ちょっと!」


 奈々の顔が一気に赤くなる。


「昔から言うとったじゃろ!」


「何を!」


「偉くなったら奈々ちゃんを迎えに来るって!」


「兵学校へ入って!」


「戦場から帰って!」


「今じゃ大尉じゃ!」


「出来すぎじゃわ!」


「勝手に続きを作らんでください!」


「作っとらん! みんな聞いとった!」


「それは……!」


 啓介が言葉に詰まる。


 隣を見ると、奈々まで俯いていた。


 少し離れたところでは、清一郎が困ったような、しかしどこか楽しそうな顔で二人を見ていた。


     ◇


 宴は夜まで続いた。


 啓介が何度「もう十分です」と言っても料理は途切れず、酒の入った大人たちは戦場の話を聞きたがった。


 けれど、啓介が話したのは戦果よりも仲間のことだった。


 河野という軍曹がいて、敵を見るとすぐ追いたがること。真鍋は静かな男だが、射撃のことになると誰より厳しいこと。相馬は索敵や航法が得意で、余計なことまで妙によく見ていること。矢野という整備員には、毎日のように怒鳴られていたこと。


 そんな話をしている時の啓介は、本当に楽しそうだった。


「敵は怖くなかったか」


 誰かがそう尋ねた時だけ、啓介は少し考えた。


「怖かったですよ」


「大尉殿でも?」


「当たり前です」


 笑って答えると、周囲も笑った。


 ただ、奈々だけは笑わなかった。


     ◇


 夜も更けた頃、啓介は目を覚ました。


 いつ眠ったのかも、よく覚えていない。


 家の中は静かだった。


 もう一度目を閉じようとしたが、暗闇の中に曳光弾が走り、爆発とともに炎を噴く機体が浮かんだ。


 目を開けても、胸の奥に残ったざわつきは消えなかった。


 啓介はそっと起き上がり、家を出た。


 夜風に当たりながら歩いているうちに、気づけば村の神社まで来ていた。昼間の騒ぎが嘘のように静かで、聞こえるのは虫の声くらいだった。


 石段を上り、拝殿の前まで来る。


 何を祈るつもりなのか、自分でも分からない。


 河野も、真鍋も、相馬も、矢野も生きている。


 自分も帰ってきた。


 本当なら、それを喜べばいいはずだった。


 目を閉じると、最初の実戦が蘇った。


 十三ミリを撃ち、敵機から煙が出た。その直後、操縦者が飛び出し、白い落下傘が開いた。


 あの時、自分は確かに思った。


 助かった、と。


 なら、その次はどうだったのか。


 その次に撃ち落とした機体は。


 さらに、その次は。


 すべての操縦者が脱出できただろうか。


 啓介は、自分の手を見た。


 この手で操縦桿を握り、この指で引き金を引いた。


「俺が撃ったんだよな……」


 声が震えた。


 敵だった。


 撃たなければ、こちらが撃たれる。


 自分だけではない。河野や真鍋、相馬が死んでいたかもしれない。


 戦場では迷っていられなかったし、その判断が間違っていたとも思わない。


 全部、分かっている。


 それでも、故郷へ戻った途端、理屈だけでは押さえられなくなった。


「……勝ったのに」


 目から一滴、涙が落ちた。


「みんな帰ったのに……」


「啓ちゃん」


 背後から声がした。


 啓介は慌てて振り向く。


「奈々?」


 石段の上に、奈々が立っていた。


「何でいるんだよ」


「啓ちゃんがおらんくなったけん」


「探したの?」


「うん」


「……ごめん」


 奈々は隣まで来た。


 啓介は顔を背ける。


「泣いとった?」


「泣いてない」


「嘘」


「…………」


 奈々はそれ以上追及しなかった。


 二人で黙って、夜の境内に立つ。


 何も聞かれないことが、かえって苦しかった。


 やがて啓介が口を開いた。


「奈々」


「うん」


「俺、人を撃った」


 奈々は黙っている。


「いっぱい撃った。飛行機だから、顔なんかほとんど見えなかった。戦ってる時は、敵機にしか見えなかったんだ」


「うん」


「撃ったら煙が出て、落ちていって……その時はもう次の敵を見てた。河野たちがどこにいるか見て、燃料を見て、どうやって帰るか、そればっかりだった」


「うん」


 啓介は俯いた。


「でも今になったら……あれにも人が乗ってたんだなって」


 奈々は、仕方なかったとは言わなかった。


 英雄だとも言わなかった。


 ただ、そっと啓介の手を取った。


「……奈々?」


「帰ってきたんやね」


「え?」


「啓ちゃん」


 奈々の指に、少しだけ力が入る。


「ちゃんと帰ってきたんやね」


 その一言で、胸の奥に張りつめていたものが切れた。


 啓介は顔を伏せた。


「……怖かった」


「うん」


「ずっと怖かった」


「そっか」


「死ぬかもしれないって、毎日思ってた」


「うん」


 声が震える。


「みんなを帰すとか言ってたけど……俺だって帰りたかった」


「当たり前やろ」


 奈々はすぐに答えた。


 啓介が顔を上げる。


「帰りたいに決まっとるやん」


「…………」


「帰るところ、あるんやけん」


 啓介は何も言えなくなった。


 奈々も、それ以上は何も言わない。


 ただ、手を離さなかった。


 しばらくして、啓介の呼吸がようやく落ち着いた。


「……格好悪いな」


「何が?」


「大尉になってまで、奈々の前で泣いてる」


 奈々は首を傾げた。


「啓ちゃんは啓ちゃんやろ」


「…………」


「大尉でも何でも」


 啓介は少しだけ笑った。


「そうか」


「そうよ」


 静かな時間が戻った。


 虫の声が聞こえる。


 遠くには、村の家々の灯りが残っていた。


 やがて啓介が言った。


「明日、味噌汁作って」


 奈々が目を丸くした。


「急やね」


「食べたい」


「ええよ」


「美味いやつ」


「もう美味しいって言ったやん」


「もっと上手くなるって言ってただろ」


 奈々が少し驚いた顔をした。


「……覚えとったん?」


「ああ」


「そんな昔のこと」


「約束したからな」


 奈々は俯いたあと、少しして嬉しそうに笑った。


「ほんなら、作る」


「うん」


「ちゃんと食べに来てよ」


「行く」


「約束?」


「ああ」


 啓介は奈々の手を握り返した。


「約束」


     ◇


「帰ろうか」


 奈々が言った。


「ああ」


 二人で石段を下り始める。


 昼間あれほど騒がれた大尉の階級章も、金鵄勲章の内示も、村人たちの歓声も、今はひどく遠いものに感じられた。


 石段を半ばまで下りたところで、奈々が足を止める。


「啓ちゃん」


「ん?」


 奈々は啓介を見た。


 そして、昼間よりもずっと静かな声で言った。


「おかえり」


 啓介は少しだけ目を細めた。


「……ただいま、奈々」


 二人はそのまま、灯りの残る村へ帰っていった。

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