第二十八話 ノモンハン決戦
第二十八話 ノモンハン決戦
八月十九日の夜。
啓介は再び、地上部隊の司令部へ呼ばれていた。
前日の会議から、情報はさらに増えている。航空偵察が持ち帰った写真だけではない。地上斥候の報告、夜間に増えた車両音、道路へ刻まれた大量の轍、活発になった無線通信。そして北と南で確認された戦車や砲兵、車両、工兵らしい動きまで、さまざまな情報が地図の上へ重ねられていた。
一つ一つを見れば、敵が何をしようとしているのかまでは断定できない。
だが、すべてを合わせて見れば、ソ連・モンゴル軍が大規模な作戦を準備していることだけは、もはや疑いようがなかった。
会議室へ入った啓介は、航空側から見た敵の配置について意見を求められるのだろうと思っていた。
ところが、壁一面へ広げられた地図を見た瞬間、足が止まった。
「……え」
三浦大尉が振り返る。
「どうした、越智」
「いや……」
数日前までとは、まるで別物だった。
敵部隊の確認位置や推定兵力だけではない。戦車、砲兵、道路、車両集積地、渡河地点。日本軍側についても陣地、砲兵配置、予備隊、通信線、補給路まで書き込まれ、その上には、敵が北と南から回り込んだ場合に日本軍がどう動くか、何本もの線が引かれている。
「南側の機械化部隊は足が速い」
一人の参謀が地図を指した。
「前線で全部受けるな。警戒部隊は敵主力を確認した時点で、この線まで後退させる」
「追わせるのですか」
「追わせる。ただし、潰されるまで粘らせるな」
「対戦車砲は?」
「集中する」
別の将校が答えた。
「広く薄く置けば、どこも足りなくなる。敵の進路を絞れる地点へ置く」
「野砲も使いますか」
「必要なら直接照準も使う。ただ、全部を戦車へ向けるな」
砲兵将校が地図へ新しい線を引いた。
「先頭を止める砲、随伴歩兵を分離する砲、後方の車列を叩く砲。最初から役割を分ける」
「通信が切れた場合は」
「二系統用意する。それでも切れるものと思って、伝令経路も別に設ける」
三浦が口を挟んだ。
「重要命令なら一人だけ走らせるな。二人出せ。それも、同じ道は使わせるな」
「はい」
「中隊以下には、通信断絶時の行動基準を今夜中にもう一度徹底させろ。上から命令が来ないから動けません、では困る」
啓介は黙って聞いていた。
口を挟む場所がない。
「北側は南と同じ配置でよろしいでしょうか」
「駄目じゃ」
三浦が即答した。
「地形が違う。こっちは車両の通れる場所が限られとる。南みたいに広く回ってくるとは限らん。航空偵察だけに頼らず、地上斥候も出せ」
「はい」
「予備隊は?」
「二か所です」
三浦が位置を確かめる。
「近すぎる。最初の砲撃でまとめて叩かれたら終わる」
「では、こちらを後方へ」
「移動に何分増える」
「……確認します」
「確認してから決めろ」
誰かが案を出せば、別の誰かが問題点を指摘する。数字を確かめて修正し、それでも不安があれば別案を出す。
階級が高いという理由だけで、その案がそのまま通ることはなかった。
「航空隊には、ここをお願いしたい」
砲兵将校が航空図へ手を伸ばした。
啓介は我に返る。
「はい」
「敵戦車を一両ずつ追い回す必要はない。むしろ、この後ろだ」
指先が示したのは、車列や燃料、弾薬、渡河点、砲兵、通信施設だった。
「敵が前へ出れば、ここまでの距離は伸びる」
「……はい」
「航空から切れるか」
啓介は一瞬、返事を忘れた。
「越智?」
「あ、はい。できます。少なくとも、戦車そのものを一両ずつ追うより、効果が大きい可能性があります」
三浦が怪訝そうに見る。
「何を驚いとる」
「いや……もっと俺から説明しないといけないと思ってました」
「何を?」
「戦車そのものじゃなく、燃料とか弾薬とか、そういうところを狙う話です」
三浦の眉が上がった。
「そこまで航空屋に教えてもらわんでも、戦車に燃料が要るくらい知っとる」
「……ですよね」
周囲で小さな笑いが起きた。
三浦も少しだけ笑ったが、すぐ偵察写真を一枚持ち上げた。
「じゃがな、越智。知っとることと、使えることは違う」
笑いが消える。
「敵がどこにおるか分からん。どこから来るかも分からん。戦車が何両あるか、補給路がどこかも分からん。それで正しい場所に砲を置けと言われても無理じゃ」
三浦は写真を机へ戻した。
「今回は材料がある。航空偵察の写真も、地上斥候の報告も、道路や輸送量、通信の変化もある」
それらを指で一つずつ示していく。
「材料が揃えば、考えるのが俺たちの仕事だ」
啓介は地図を見つめた。
そこで初めて、地図の上に引かれた何本もの線が、一つの形に見え始めた。
第一線で敵を止めるのではない。
前へ出させる。
速い戦車や装甲車が進めば、その後ろを随伴する歩兵、砲兵、燃料や弾薬を積んだ車列も動かなければならない。だが、すべてが同じ速度で進めるわけではない。
そこへ航空攻撃を加える。
橋を叩き、車列を散らし、燃料や弾薬の流れを遅らせる。
先頭は前へ出る。
後ろは遅れる。
その差が、少しずつ広がっていく。
「……そういうことか」
三浦が見る。
「何じゃ」
「敵を、ここで止めるんじゃないんですね」
啓介は地図の上で、敵の進路を指先でなぞった。
「前へ出させる。その間に後ろを遅らせる。戦車と歩兵、砲兵、補給の間を開かせて――」
指が、火力を集中させる地点で止まった。
「伸びたところを、切る」
三浦は少しだけ目を細めた。
「やっと分かったか、航空屋」
「……陸は難しいですね」
「空から見とるだけならな」
砲兵将校が苦笑する。
「戦車は強い。だから、まともに全部を相手にする必要はない」
地図の一点を叩いた。
「強いところと強いところを、離せばええ」
啓介はもう一度、地図を見た。
戦車だけを壊す作戦ではない。
敵という一つの大きな軍隊を、前と後ろへ引き伸ばし、結びつきを弱くしてから、こちらが火力を集められる場所で叩く。
そして孤立した部分から押し返す。
ようやく、会議で交わされていた一つ一つの言葉が繋がった。
「越智」
「はい」
「航空も全部やろうとするな」
「はい?」
「敵航空隊を押さえて、戦車も潰して、補給車列も焼いて、地上部隊も守る。全部できるのか」
啓介は少し考えた。
「……できません」
「なら、できる範囲を今夜中に出せ」
「了解しました」
「守れんところは?」
「地上で対応してもらいます」
「それでええ」
啓介は小さく息を吐いた。
「では、空は任せてください」
「全部は任せん」
「え?」
「今、自分で言うたじゃろ」
また小さな笑いが起きた。
◇
八月二十日。
夜明け前の前線は、異様なほど静かだった。
三浦は塹壕の中で時計を確認した。
兵たちはすでに配置についている。弾薬や水、衛生資材だけではなく、後退経路と負傷者の後送方法、通信が切れた場合にどう動くか、指揮官が倒れた時には誰が次の指揮を執るのかまで、前夜までに何度も確認していた。
「大尉殿」
古参の曹長が寄ってくる。
「第三中隊、異常なし」
「電話は」
「まだ通じています」
「切れると思っとけ」
「はい」
「切れたら?」
「予定通り動きます」
「よし」
誰も勝利を口にしなかった。兵力でも砲兵でも、そして戦車の数でも敵が上回っていることは、前線の兵卒まで知っていた。
だから準備した。
やがて、遠くの地平線に光が走った。
三浦がそれを見た次の瞬間、大地が震えた。
「来るぞ!」
ソ連軍砲兵の一斉射撃だった。
一発や二発ではない。
着弾が連続し、土柱が空へ噴き上がる。爆風が塹壕の上を走り、壁から土が崩れ落ちた。
「頭を上げるな!」
「通信確認!」
「第一線、応答なし!」
「もう切れたか!」
「伝令出します!」
「予定通りじゃ! 慌てるな!」
近くの塹壕が吹き飛んだ。
叫び声が上がり、衛生兵が走る。
準備をしていたからといって、人が死ななくなるわけではない。砲弾は将校も兵士も区別しなかった。
「大尉殿!」
「何じゃ!」
「第二観測所、生きています!」
「砲兵へ!」
「電話不通!」
「伝令!」
「もう二人出しました!」
三浦は一瞬だけ曹長を見る。
「……早いな」
「昨夜、大尉殿が二人出せと言ったでしょう!」
「そうじゃった!」
その直後、別の兵が駆け込んできた。
「南の第三大隊、予定線より前で粘っています!」
三浦の表情が変わる。
「後退命令は」
「出ています!」
「届いてないか」
「電話不通です!」
「伝令二組! 一組は正面、もう一組は迂回させろ。片方がやられても命令を届ける!」
「了解!」
どれほど準備していても、戦場では判断のずれが生まれ、命令が届かず、予定以上に前線へ留まってしまう部隊も出る。
第一線を守り抜くことが目的ではない。
敵に前進させながら、こちらは次の線へ下がる。そのたびに敵は距離を進み、後ろから続く部隊との間隔を広げていく。
そのためには、予定より長く踏みとどまることさえ危険だった。
だから、放置せずに次の手を打つ。
◇
同じ頃。
啓介は飛行場で、遠くの砲声を聞いていた。
時計を見る。
一九三九年八月二十日。
史実なら結果まで知っているはずの日だった。
だが、すでに歴史は変わり始めている。この先に何が起こるのかを、もう啓介は知らなかった。
「敵航空隊、大規模発進!」
相馬が走ってくる。
「数は!」
「増加中!」
「こっちも上げる!」
「はい!」
飛行場には、多数の九七戦が並んでいた。
一か月前とは違う。
二機を相互援護の単位として使い、四機を二組で動かす。敵一機へ群がらず、高度と速度を残し、無理なら離れてもう一度位置を取り直す。
まだ全員が完璧にできるわけではない。
それでも、もう越智隊だけの戦い方ではなかった。
「河野!」
「はい!」
「真鍋!」
「はい!」
「相馬!」
「はい!」
三人ともいる。
「今日は長くなるぞ」
河野が飛行帽を被った。
「なら、一回は昼飯食いに帰りましょう」
「帰ってこられたらな」
「帰るんでしょう?」
啓介は河野を見た。
ほんの少し笑う。
「そうだった」
四人は機体へ向かった。
◇
最初の航空戦は、朝から激しかった。
『十一時、高い、六!』
「視認!」
『右、四!』
「二番隊、右! 俺たちは上!」
『了解!』
四機が分かれる。
敵機が正面へ入った。
啓介は距離を詰め、照準へ入った敵機へ十三ミリを短く撃った。破片が散り、敵機の後方へ煙が伸びる。
だが、結果を見続けない。
「河野」
『いる』
「真鍋」
『上』
「相馬」
『後方、異常なし』
「抜ける!」
四機が離れた直後、それまでいた場所を別の敵編隊が横切った。
『追ってたら食われてましたね』
「分かってる!」
それで会話は終わった。
もう一度上を取り、敵を探して攻撃し、危なくなる前に抜ける。
途中から、誰が何機落としたのかなど分からなくなった。今日の空では、それを数えている余裕も意味も薄い。
周囲を見れば、越智隊以外にも四機編隊がいる。
二機が敵へ入れば残る二機が上を見て、追われた一組には別の一組が援護へ入る。隊形を崩した部隊があれば、近くの編隊が敵を追い払った。
一か月前なら越智隊だけに見られた動きが、今ではあちこちの空で繰り返されていた。
◇
地上では砲撃に続いて、戦車と歩兵、その後方を支える砲兵や大量の車両が動き始めていた。
正面から押し寄せるだけでも、その圧力は凄まじい。
日本軍の第一線陣地が崩れた場所もあった。
「中隊長負傷!」
「後送!」
「指揮は!」
「俺が取る!」
小隊長が地図を開く。
「第二線へ移る! 機関銃一個分隊、三分だけ残れ!」
「殿ですか!」
「止めようとするな! 追わせすぎるな!」
「了解!」
別の地点では将校が戦死した。
曹長がすぐ前へ出る。
「命令は昨日聞いとる!」
砲撃の中で叫んだ。
「ここで全員死ねとは言われとらん! 負傷者連れて第二線へ下がれ!」
通信が途絶えても判断の基準は共有され、上官が倒れれば誰が次の指揮を執るのかも決められていた。
それでも、実際の戦場がすべて予定通りに進むわけではない。
「第三大隊、まだ前にいます!」
司令部へ報告が入る。
「命令は届いたのか!」
「一組目の伝令は未着!」
「二組目は!」
「到着を確認!」
「なら、あと何分で下がる!」
「確認中!」
三浦が時計を見る。
「確認だけして終わるな。後退経路へ砲撃を寄せられた場合の代替路も伝えろ!」
「はい!」
数分後。
「第三大隊、後退開始!」
三浦は、ようやく地図上の印を一つ動かした。
◇
午前も半ばを過ぎた頃、南からソ連軍の機械化部隊が本格的に動き始めた。
多数の戦車と装甲車。その後ろにはトラックと砲兵が続き、広い草原を砂塵で覆いながら進んでくる。
「南、敵戦車群前進!」
「予定線は?」
「まだ!」
「対戦車砲、待て」
「すでに射程です!」
「知っとる!」
三浦が地図を見る。
「今撃てば先頭しか食えん。後ろまで入れろ」
前線の砲兵も待った。
射程へ入ったからといって、すぐ撃つわけではない。
ここで先頭の戦車だけを撃てば、敵は砲の位置を知り、後続は散開する。歩兵も車列もまだ後ろに残ったままだ。
待てば、それだけ戦車は近づく。
危険になる。
だが同時に、戦車を支えるものまで、こちらが砲火を集中できる場所へ入ってくる。
戦車が近づくにつれて、地面の震えが大きくなる。
「まだ」
双眼鏡を持った将校が低い声で言った。
戦車の後ろには随伴歩兵と車両が続いている。
「まだ……」
さらに中へ入る。
やがて、将校の手が上がった。
「第一群、戦車!」
別方向へ手を向ける。
「第二群、随伴歩兵!」
さらに後ろ。
「野砲隊、車列!」
手が振り下ろされた。
「撃て!」
砲声が重なった。
先頭の戦車周辺で爆発が起き、一両が止まる。
後続は迂回し、日本側陣地へ砲撃を返した。
「二番砲、沈黙!」
「三番、射線ずらせ!」
「装填!」
「距離修正!」
今度は随伴歩兵の近くへ砲弾が落ちる。
「戦車だけ見るな!」
「歩兵を離せ!」
「車列を止めろ!」
狙っているのは、戦車一両一両ではなかった。
戦車と、それを守る歩兵。
進撃を支える砲兵。
そして、それらすべてを動かし続ける燃料と弾薬。
ひとまとまりになっているから強い。
ならば、ばらばらにする。
◇
啓介が南翼上空へ到達した頃には、草原の各所から黒煙が上がっていた。
「……多いな」
『多いですね』
相馬の声にも緊張が混じっている。
眼下には多数の戦車があり、その後方には長い車列が続いていた。日本側の砲撃も戦車だけを追っておらず、先頭車両、随伴歩兵、後続車列へ、それぞれ別の場所から砲弾が落ちている。
「……本当にやってる」
『何がです?』
「いや」
昨夜、地図の上で見た線が、眼下で現実になっている。
前へ出る戦車。
その後を追う歩兵。
さらに後ろから来る砲兵と車列。
まだ一つの軍隊として繋がっている。
ならば、自分たちの仕事は、その繋がりを遅らせることだった。
その時、航空側へ新しい指示が入った。
『越智隊、聞こえるか』
「聞こえます」
『目標訂正。戦車群への直接攻撃は優先度を下げる』
「了解」
『爆撃隊は南西の車列及び渡河点付近の物資集積を攻撃する。護衛せよ』
啓介は思わず口元を緩めた。
地上側は、すでにその先を見ていた。
「了解。爆撃隊を通します」
◇
『敵、十一時、六!』
「視認!」
「河野、真鍋、前!」
『了解!』
「相馬、爆撃隊から離れるな!」
『了解!』
河野と真鍋が敵編隊の先頭へ向かった。
狙うのは撃墜数ではなく、敵を爆撃隊へ近づけないことだった。
河野が短く撃つと、敵機が回避する。
追わない。
真鍋が別の敵へ入り、進路を変えさせると、すぐに戻った。
『右、二!』
「見えた!」
今度は啓介と相馬が出る。
十三ミリを短く撃つと、一機は大きく回避し、もう一機も距離を取った。
「戻る!」
啓介たちが爆撃隊へ戻る間に、その下を爆撃機が抜けていく。
やがて爆弾が落ちた。
最初の数発は車列を外したが、後続の爆弾が物資集積地付近へ落ち、爆発の後に黒煙が一気に立ち上る。
『燃料らしい』
「そうだな」
別の爆撃隊が渡河点周辺へ入る。
橋そのものを外した弾もあったが、周辺の車両が散り、交通が止まった。
上空から見れば、その影響はすぐに分かった。
前へ向かっていた車列が詰まり、迂回しようとした車両が別の車両の進路を塞ぐ。その上を、また日本機が通過していった。
戦車を何十両も一度に破壊したわけではない。
橋も完全に落ちたわけではない。
それでも、数分止まる。
迂回すれば、さらに遅れる。
散開した車両を集め直すにも時間が掛かる。
その間にも、先頭の戦車は前へ出ていく。
「……時間か」
『何です?』
相馬が聞き返した。
「俺たちは、時間を作ってるんだ」
『時間?』
「前と後ろの時間差だよ」
啓介は眼下を見た。
「戦車を全部壊さなくてもいい。後ろを遅らせれば、前に出た連中だけが先へ行く」
相馬も地上を見た。
『……離れていく』
「ああ」
まだ僅かな差だった。
だが、それを何度も繰り返せばいい。
「伸ばして、切る」
昨夜理解した言葉を、今度は自分の口で呟いた。
◇
戦況は、簡単には決まらなかった。
ソ連軍は強かった。
日本側が事前に攻勢を察知していた程度で、崩れるような相手ではない。強力な砲兵火力、多数の戦車、自動車化された輸送、そして状況の変化に対応する指揮能力を持っている。
日本側陣地に穴が開けば、そこへ即座に兵力を押し込んでくる。航空攻撃を受ければ散開し、橋を叩かれれば別の渡河地点を探す。砲兵陣地を攻撃されれば射点を変え、損害を出しながらも前へ出ようとした。
「……強い」
一度司令部へ戻った啓介がそう呟くと、泥だらけの顔で水を飲んでいた三浦がこちらを見た。
「だから戦っとるんじゃ」
「はい」
「弱い相手なら、ここまで準備せん」
そこへ報告が入った。
「南、敵進出速度低下!」
「北は」
「第一線の一部を突破!」
「後続は?」
「遅れています!」
「予備隊は」
「出せます!」
若い参謀が身を乗り出した。
「今なら――」
「まだじゃ」
三浦は地図から顔を上げない。
「敵の先頭が止まりかけただけだ。砲兵も予備もまだ生きとる」
「しかし――」
「ここでこちらが伸びきったら、今度は我々が叩かれる」
「……了解」
啓介は、そのやり取りを黙って見ていた。
敵が止まり始めた。
ならば反撃する。
自分なら一瞬、そう考えていたかもしれない。
だが地図を見れば、まだ切れていない。
前へ出た敵の後ろには砲兵も予備も残り、補給線も細くなっただけで途切れてはいない。
「……まだ、切れてない」
三浦がちらりと見る。
「分かってきたじゃないか」
「嫌でも分かりますよ」
「なら航空偵察を出せ」
「南ですか」
「南の後続。それから北の予備」
「了解」
「敵機を追っかけて遊ぶな」
「それ河野軍曹に言ってください」
少し離れたところから河野が振り返った。
「聞こえてますよ!」
張り詰めていた司令部に、一瞬だけ笑いが起きた。
◇
二十一日も戦いは続いた。
日本側にも大きな損害が出ている。
陣地を失った場所があり、砲を失った隊もあった。前日まで話していた者が、その日の夕方にはもういない。
それでも、組織そのものは崩れなかった。
地上から上がった報告を参謀が整理し、航空写真と重ねて砲兵へ渡す。夜になれば工兵が道路を直し、輸送隊が前線へ弾薬を送り、切れた電話線は繋ぎ直された。
前線部隊が予定外の位置で粘れば複数の伝令を送り、敵の動きが予測と違えば、その都度配置を変える。
啓介が偵察から戻る頃には、つい先ほど自分が見つけた車列の情報が、すでに砲兵側へ回っていることさえあった。
「この車列、さっき俺が報告したやつですよね」
「ああ」
「もう射撃準備してるんですか?」
「位置が動く前に使わんでどうする」
「……早い」
三浦が横から言った。
「軍隊を何じゃと思っとる」
「いや、本当にすみません」
「今さら謝るな」
啓介は苦笑した。
未来の記憶は、危険の来る方向を少し早く知らせてくれるだけだった。
その先で現実の敵を見つけ、地形を読み、砲を置き、兵を動かし、前線を支えているのは、この時代を生きる人間たちだった。
◇
二十二日。
南翼のソ連軍は、当初の勢いを失い始めていた。
戦車そのものは、まだ大量に残っている。
だが随伴歩兵との距離が開き、砲兵の展開は遅れ、後方では車両が混雑している。燃料輸送車が焼かれ、橋が損傷すれば別の渡河地点へ交通が集中し、砲弾も予定通りには前へ届かない。
一つ一つなら致命傷ではない。
だが、それが積み重なるたび、前と後ろの時間がずれていく。
先頭の戦車が一時間で進んだ距離を、後続は二時間掛けなければ追いつけない。
その間にも先頭は戦う。
燃料を使い、砲弾を使い、損傷車を出す。
それを補うはずのものは、後ろで遅れていた。
「今なら反撃できます」
若い参謀が言った。
「まだだ」
上席の参謀が首を振る。
「南の先頭は止まりつつあります」
「先頭は、な」
地図のさらに後方を指す。
まだ健在な敵砲兵と予備兵力。
「こっちは、まだ太い」
「…………」
「待て」
時計を見る。
「もう少し伸ばす」
啓介には、今度はその意味が分かった。
敵の前と後ろを、別々の戦場にする。
その瞬間を待っている。
◇
二十三日。
偵察から戻った啓介は、そのまま司令部へ走った。
「南、敵先頭部隊がさらに前へ出ています!」
「後続は」
「明らかに遅れています」
「北は?」
「南ほどではありません。ただ、こちらも先頭と後続の間に距離があります」
「敵予備」
「移動を確認。ただし規模はまだ判断できません」
航空偵察、地上斥候、砲兵観測、無線傍受から得た情報が重ねられ、地図上の敵部隊の位置が次々と更新されていく。
数日前には一つの大きな塊に見えた敵が、今は違っていた。
前へ出た部隊。
遅れた砲兵。
後方で詰まる車列。
その間に、空白が生まれている。
やがて、上席の将校が顔を上げた。
「……今だな」
三浦が頷く。
「はい」
その一言を、今度の啓介は理解できた。
待機していた予備隊への命令が準備される。
「南はここまで」
地図に線を引く。
「北はここ」
「目的は?」
「敵の撃滅ではない」
将校が答えた。
「前へ出すぎた部隊を、後続から切り離す」
「敵が退けば?」
「追うのはこの線まで」
止まる場所まで、先に決められていた。
啓介はその線を見つめた。
前へ出た敵を叩く。
だが、追い続けない。
「砲兵」
「前進に合わせて射撃を移します」
「弾薬限度を守れ」
「はい」
「航空」
視線が啓介へ向く。
「敵増援をどこまで止められる」
啓介は一瞬だけ考えた。
「南へ重点を置けます」
「北は?」
「同時に完全には無理です」
「なら北は地上で持つ」
「はい」
「南の橋、補給車列、それから敵航空隊の妨害を優先」
「了解!」
将校が頷いた。
「予備隊、前へ」
◇
日本軍が反撃へ移った。
だが、全面突撃ではなかった。
砲兵が敵の観測所や歩兵集結地点、戦車の進路へ火力を集中する。その間に歩兵が動き、地形を使って止まり、再び砲兵が撃った後に次の位置へ進む。
ソ連軍も当然撃ち返した。
戦車砲が火を噴き、日本兵が倒れ、砲兵陣地も吹き飛ぶ。
それでも反撃部隊は目的を変えない。
敵全体と力比べをするのではなく、前へ出すぎた部隊だけを叩く。
砲撃は、敵の間をもう一度繋がせないように落ち続けた。
「……すごいな」
『何がです?』
相馬だった。
「陸軍」
『今さらですか』
「今さらなんだよ」
◇
午後になると、南翼のソ連軍の一部で動きが明らかに鈍り始めた。
前へ出た戦車は、まだ戦っている。
戦車そのものが急に弱くなったわけではない。
だが、後ろから来るはずの燃料、砲弾、歩兵、車両の流れが細くなり、その上へ日本軍の砲兵と航空攻撃が重なっていた。
『敵、十時、八!』
「視認!」
「河野、真鍋!」
『了解!』
二機が前へ出る。
啓介と相馬は爆撃隊の側を離れない。
一機の敵が河野へ向かうと、その背後へ別の日本機二機が入り、さらに上にももう一組がいる。
啓介は一瞬、自分たちの四機がどれなのか分からなくなりそうになった。
同じような動きをする編隊が、それほど増えていた。
「……四つの影どころじゃないな」
『何です?』
「何でもない」
敵機が正面へ入る。
十三ミリを短く撃つと、敵は煙を引きながら距離を取った。
追わない。
その下を、爆撃隊が通過していった。
◇
二十四日。
ソ連軍はさらに兵力を投入し、砲撃も一段と激しくなった。
日本側の疲労も蓄積し、兵たちは満足に眠れず、弾薬は減り、航空機にも損傷が重なっている。
矢野たち整備員も、連日のように夜を徹して機体を直していた。
「少尉殿」
「はい」
「二号機は今日は出さん」
「え?」
「発動機が駄目じゃ」
「敵が来てますよ」
「だから出さん!」
矢野が睨んだ。
「今日無理に飛ばして、敵の上で止まったらどうする!」
「…………」
「別の機を用意した」
「もう?」
「誰が整備屋じゃと思っとる!」
「はい!」
「さっさと乗れ!」
「はい!」
啓介は格納庫を走った。
飛行機だけが戦っているわけではない。
前線の歩兵や砲兵、工兵が戦えるのも、そのすべてを動かす整備、補給、通信、衛生、輸送に携わる人間がいるからだった。
敵のそれを切り、自分たちのそれは切らせない。
派手な一撃で決まる戦いではなかった。
◇
二十五日を過ぎる頃には、戦況の変化がはっきりし始めた。
ソ連軍が崩壊したわけではない。
戦車も砲兵も航空隊も、なお十分な戦力を残している。
だが、当初企図していた包囲は成立していなかった。
南北から進出した機械化部隊は予定以上の損害を受け、戦車や装甲車だけでなく、輸送車両、砲、燃料車、工兵資材、そして人員を失っている。
日本側も傷だらけだった。
それでも第二十三師団は、大きな損害を受けながら、なお一つの部隊として戦っていた。日本軍主力は包囲されず、航空隊も戦力を維持している。
やがて報告が入った。
「敵、後退を始めています!」
「追撃は!」
「指定線まで」
「まだ叩けます!」
「その先へ出るな」
「しかし――」
「向こうにはまだ砲兵も予備もある」
将校は地図を見た。
「勝ったと思った時が一番危ない。止まれ」
「……了解!」
啓介には、もう説明されなくても分かった。
追えば、さらに叩けるかもしれない。
だが追えば、今度はこちらが伸びる。
歩兵は砲兵から離れ、補給線は長くなり、予備との距離も開く。
だから止まる。
勝っている時ほど、止まる。
啓介は、そのやり取りを聞きながら少しだけ笑った。
三浦が横へ来る。
「何笑っとる」
「いや」
「敵が下がったのがそんなに嬉しいか」
「それもあります」
「なら何じゃ」
啓介は地図を見た。
「やっと分かった気がします」
「何が」
「どうやって勝ったのか」
三浦が眉を上げる。
「最初から敵を全部倒そうとしたんじゃない」
「…………」
「前へ出させて、俺たちが後ろを遅らせた。砲兵が歩兵と戦車を離して、補給を止めて、敵が伸びたところで切った」
三浦は何も言わない。
「そうして、敵全体じゃなく、前へ出すぎたところだけを叩いた」
啓介は顔を上げた。
「で、今度はこっちが伸びる前に止まった」
三浦はしばらく啓介を見ていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「ようやく陸軍少尉くらいにはなったな」
「俺、海軍少尉なんですけど」
「知っとる」
「それ褒めてます?」
「半分くらいはな」
啓介は笑った。
「でも、本当に、すごいと思ってます」
三浦は少しだけ目を細めた。
「俺たちだけじゃない」
「はい」
「前線の兵も、砲兵も、工兵も、輸送も、お前ら航空もじゃ」
「はい」
「一人で勝ったと思うなよ」
啓介は笑った。
「思えるわけないでしょう」
未来の記憶が役に立たなかったわけではない。
危険の迫る方向を早く疑い、偵察すべき場所を絞る助けにはなった。
だが、それだけで勝てるほど戦争は単純ではなかった。
集めた情報を地図へ落とし込み、砲を置き、兵を動かし、敵を引き込み、航空隊が後ろを遅らせる。補給を送り、通信が切れた時の手段まで整え、実際の戦場で何度も修正を重ねる。
そのすべてが噛み合って、ようやく敵の包囲を止めた。
「大尉」
「何じゃ」
「前に、陸軍のこと少し誤解してたって言いましたよね」
「まだ言うか」
「もう訂正します」
「勝手にしろ」
「もっと力押しの戦いになると思ってました」
三浦は呆れたように笑った。
「力で勝てるなら、力で勝つ」
「はい」
「勝てん相手と力比べするほど、こっちも暇じゃない」
三浦は地図を畳んだ。
「兵隊の命が幾つあっても足りんわ」
そう言うと、次の報告を受け取りに行った。
啓介は、その背中を見送った。
◇
ハルハ河の向こうでも、損害の集計は始まっていた。
失われた戦車や装甲車、輸送車両、砲、航空機、そして人員。
その数字は、少なくとも日本軍を「押せば崩れる相手」と見続けるには大きすぎた。
包囲は完成せず、日本軍はこちらの集結を予想以上に早く察知し、前線だけでなく後方へも繰り返し攻撃を加えてきた。
失った装備も人員も、いずれ補充はできる。
だが、新しい戦車を送り、乗員を育て、航空搭乗員を補い、燃料と砲弾をもう一度集めるには時間が掛かる。
少なくとも、この草原で支払った代価は、次も同じように戦えばよいと考えるには重すぎた。
◇
八月末。
八月二十日に始まった大攻勢は、明らかに勢いを失っていた。
戦闘そのものが終わったわけではない。小規模な砲撃や偵察、局地的な交戦はなお続いていたが、草原を埋めるような大兵力が一気に動く戦いは、次第に姿を消しつつあった。
焼けた戦車や車両が戦場のあちこちに残り、日本側にも多くの死傷者が出ている。
勝ったからといって、死んだ人間が戻ってくるわけではない。
それでも、日本軍はそこに残った。
歩兵も砲兵も航空隊も傷を負いながら、まだ部隊として機能していた。
◇
数日後。
戦闘詳報をまとめる会議で、啓介は部屋の隅に座っていた。
「南翼で敵の進出速度が低下した理由を、航空攻撃だけに求めるべきではありません」
参謀が言った。
「地上火力、道路の混雑、随伴歩兵との離隔、渡河点の障害、補給遅延。それらが重なっています」
「航空攻撃の効果は」
「大きかったと見ます。ただし、撃破数だけで評価するべきではありません。車列を散らし、渡河を遅らせ、後続部隊の到着を遅らせた。その時間差が、前へ出た部隊を孤立させる一因になっています」
啓介は小さく頷いた。
自分が空から見たものと、同じだった。
「今後は」
参謀は少し考えた。
「今回うまくいったからといって、次も同じ方法で勝てるとは考えない方がよいでしょう」
「敵も変えるか」
「当然です」
「なら?」
「我々も変えます」
三浦が横から啓介を見る。
「また驚いとるのか」
「……少し」
「いい加減慣れろ」
啓介は笑った。
◇
「越智少尉」
上席の将校から呼ばれた。
「はい」
「研究班についても、別途報告が上がる」
「はい」
「今回、航空戦術の変更と搭乗員損耗の低下について、一定の関係が認められた」
「…………」
「偵察についてもだ」
「はい」
「お前たちが持ち帰った写真がなければ、敵企図をここまで早く絞ることは難しかった」
啓介は姿勢を正した。
「自分たちだけの成果ではありません」
「分かっとる」
将校はあっさり答えた。
「だから、そう書く」
「……はい」
「航空偵察、地上斥候、砲兵観測、通信情報。そして、それを使った現地部隊の判断。全部じゃ」
「はい」
「戦争は一人でやるもんじゃない」
「……はい」
「それとな」
将校が少しだけ声を変えた。
「近いうちに、お前へ正式な通知が行く」
「通知?」
「俺からは言えん」
「何ですか?」
「待っとれ」
怪訝に思って隣を見ると、三浦がわずかに笑っていた。
「大尉」
「何じゃ」
「知ってますね」
「知らん」
「絶対知ってるでしょう」
「知らんと言っとる」
「顔に出てますよ」
三浦は答えず、先に部屋を出ていった。
「ちょっと、大尉!」
啓介も追いかける。
◇
外へ出ると、もう夕方だった。
飛行場には、まだ発動機の音と工具を叩く音が響いていた。
大規模な戦闘が収まりつつあっても整備員たちの仕事は終わらず、格納庫の周囲には翼に穴の開いた九七戦や、発動機を降ろされた機体、泥まみれの車両が並んでいる。
男たちは、その一つ一つを次に必要となる日のために直していた。
「少尉殿!」
格納庫の方から矢野が怒鳴った。
「はい!」
「暇そうじゃな!」
「今、大尉を追いかけてるんです!」
「三浦大尉は逃げん!」
「いや、今逃げてます!」
「それよりこっち来い!」
「何するんです?」
「お前が壊した一号機を見る!」
「俺だけじゃないですよ!」
「ええから早う来い!」
「はい!」
啓介は遠ざかる三浦の背中を見て、諦めた。
方向を変え、格納庫へ走る。
「少尉殿、遅い!」
「今行ってますって!」
河野たちの笑い声が聞こえた。
夕日に照らされた格納庫では、傷ついた機体を次の空へ返すための仕事が、いつも通り続いていた。




