20 救う、匡う、巣食う
「トキコ」
珍しく名前を呼ばれる。
優しくも、どこか硬さの感じる声だった。
でも、私は返事をしない。正確にはできなかった。
コップを口から外してしまったら、様々な感情だとか言葉が口から零れ落ちてしまいそうだった。だから、私はコップを口につけたままトラニ様を無言でコップ越しに眺める。
「先ほどの質問に関してだが__」
心臓がドキリと強く脈を刻む。
「私は___」
そこで言葉が止まる。
それを言っていいものか悩むかのように、あるいは適切な言葉を探すかのように。あるいは不適切な言葉を掻き消しているかのように。
「……あなたに嘘をついたことはない。嘘をつくこともない。___それだけは、神に……いや、あなたに誓おう」
…私からの質問にはなにも答えてはいない。
それにおそらく、トラニ様は「嘘をついている」のではなくなにか重要な情報を明らかに「隠している」。こんな回答にはなんの意味もない。ただ、なんらかの誠意は伝わる。
「ただ___たしかに、黙っていることはある」
…そんなのどんな馬鹿にだってわかる。
わかりきったことをこんな風に言われたって私だって困る。
「でもそれは、決してあなたを不幸にするためではない。私は常に、あなたを救うために動いている」
___救う
救うってなんなんだろう。
そういえばソラもそんなことを言っていた。
誰も彼も勝手だ。私になにも教えずに、勝手に救うだとかなんだとか話している。
知らないことが救いなのだろうか。耳を塞いで、目を塞いで、足を止めた先に救いはあるのだろうか。テストですらなにかしなければ良い点はとれないのに、口を開いて待っているだけで救いは与えられるものなのか?
あるいはこれは宗教と一緒で、啓蒙された先には救いはないのか?閉ざされた目の中にしか私の神は存在せず、目を開いた先には絶望しかないのか?
ああ、いや。
私の道の先には神がいるらしいから、目を閉じようが開こうが神には会えるのかもしれない。
でも、そんな不穏な気配しかない「神様」にはできれば会いたくない。
私はただ、トラニ様に神様でいて欲しかっただけなのに。無条件に信じさせてほしいのに。
「__私のことは無理に信じる必要はない。あなたが私をどのように思おうとも、私は私がやるべきことをやる」
……なんで、この神様はこうなのだろうか。
一番信じさせてほしい人が、こういう風に言う。詐欺師の宗教家でいてくれない。
「ただ同時に__あの、二フリナのことは決して信じないでほしい」
思わず乾いた笑いを零しそうになる。
「…それは、あまりにも都合がよくないですか」
喉が痛い。身体が震える。こんなこと言いたくない。
「だって、あなたは口を閉ざしているのに」
無意識のうちに、コップを強く両手で握りしめていた。
こんなのなんの頼りにもならない。けれど、今は縋れるなら藁でもいいから縋りたかった。
「一方的に、ソラを嘘つき呼ばわりするなんてズルじゃないですか」
「…嘘つきとは言ってない。しかし、あれが心の底からあなたを救おうとしているとはとても思えない」
「じゃあ、そう思えるような根拠をなにかください。__トラニ様のことは大好きです。本当の本当に大好きなんです。でも、もう、怖いんです。なにも見えなくて。なにかしたくてもなにもできなくて」
気が付いたら言葉が口から零れ落ちていた。
「お願いします。私にあなたを信じさせて。大好きなままでいさせてください」
言葉をつむぐと同時に目から熱いものがボタボタと落ちていく。
そんなつもりは少しもないのに、勝手に。
「……私のことなど好きでいる必要はない。いずれは唾棄すべき存在だと思うようになる。あなたは私を利用できるところだけ利用できればいいと考えれば良い」
トラニ様は痛ましげに顔を歪めながら私の涙を拭い、そんなことを言う。
そういうのじゃないのに。そんなことを言って欲しいわけでは1㎜もないのに。なにを言っても届かない。
…いや、聞くつもりもないのだろう。
この人はたぶん私がいいたいことも全てわかった上で、ずっと頓珍漢な返答をしている。
彼はきっととてもすべてに誠実な人なのだ。誠実すぎて、優しすぎて、嘘もつけなければ本当のことも言えない。
そういう人だから誠実なのは私だけじゃなくて、世界の全てで、なにもかもに雁字搦めの人。「私のため」だけに動いてくれるような人じゃない。
そんなことを考えていたら、泉のようだと思っていた涙も引っ込んでいく…なんてことはなく、よりボタボタと私の布団を無駄に濡らしていく。
こんな風に泣いたって、世界もトラニ様もなにも変わってくれやしないのに。
「……も、もういいです。わかりました。全部わかりましたから……」
「ああ……」
「明日からは我儘いわないから……せめて今は…そばにいてください……」
ぐじゅぐじゅと泣きながらトラニ様の服を引っ張ると、その人は酷く遠慮がちにベッドに腰かけて、私の背なかを優しく撫でる。そんな風にされるとどんどん堪らなくなってきて、もっともっと涙が溢れてきて勝手に呻き声だとか泣き言が漏れてきてしまう。
私は、その情けない言葉たちが誰にも聞かれないように、男性にしては細身なその身体に両手で縋り付いて顔を押し付けた。
胸元が涙だとか色んなものでぐしょぐしょになってとても快適とは言えない状態だったはずだが、優しいその人はなにも言わず、私の身体を抱きしめ背中を撫で続けた。




