19 手
昨日は、
美しくも不気味な女神様もどきに出会った。
私は神様に会うらしい。
意味はわからない。
話を聞きたい宙はやってこない。
__空が濃紺に染まる頃、以前の私が神様と見間違えた人がやってきた。
「…こんにちは」
女神様もどきによく似た元神様は、鍵のかかった扉__正確には、鍵はかかっているけど、その人が鍵を持っているからなんの意味もない扉をノックして、1分以上何の応答もないことを確認すると、酷く遠慮がちな動作で部屋に入ってきた。
そして、それでも私が反応しないのを見て、諦めたかのように言葉を発した。
「…勝手に部屋に入ってすまない。あなたに…なにかあったらよくないと思って」
宙と一緒に逃げ出したとでも思ったのだろうか。
…イヤだ、そんなことを考えたいんじゃない。
こんなイヤミなことを考えてしまう自分が嫌だ。でも、でも、だってどうすればいいのだ。私は、これからこの人__これまで全幅の信頼を置いていた人に、どんな顔で、どんな声で接すればいいのだ。
今ならわかる。あの信頼は逃避の一種だったと。それでも、間違いなく私は彼を信頼していた。大好きだった。尊敬していた。
そんなこの人に、どうしても拭いきれない疑惑を抱いてしまったことがとても苦しい。
私だって戻れるのであれば今すぐ戻りたい。あのガラスの山に、無邪気に「トラニ様大好き」と言えていたあの日々に。疑惑も現実も全て忘れて、また「大好き」と言いたい。推しに盲信したい。キラキラだけに身を委ねて、辛い現実を些事にしてしまいたい。
だけど、疑惑と辛い現実の中心が推しとなれば、もうそれは現実を直視するのと変わらないのだ。
反転アンチになんかなりたくない。信じたい。信じたいけど、信じるために、もっとちゃんと教えて欲しい。変に隠されると疑うしかなくなる。
…ああ、ダメだ頭がぐるぐると回って熱くて、あつくて、いやになる。
ぐしゃぐしゃでなにもかんがえられない。
「……もう、
「…あなたはなにをかくしているんですか」
ちがう。
こんなふうに、聞くつもりじゃないのに。
「……私は、あなたの身の安全を常に一番に考えている」
「ちがう」
思わずそう返していた。
「そういうことじゃなくて」
「……」
「神様ってなんなんですか」
「……」
「わたしは、どうなるんですか」
「……」
「どうしておしえてくれないんですか」
トラニさまは、なにもこたえない。
「…あれ??」
てんじょうが、まわってる?
これは、まほう?
「__もしかすると、あなたは熱があるのではないか?」
* * * *
「…粥だ。なにかしら腹に入れておくべきだろう」
どんぶり状の木製の皿を渡されそうになるが、食べたくなくて無言で首を横に振る。
そんな幼児みたいな仕草にトラニ様は小さくため息をつくと、「食べなければ治るものも治らない」と駄々っ子をあやすかのように布団の上に片手を置く。
それでも私が頑なに首を横に振り続けるのを見ると、諦めた様子で皿を机に置いて次は水を持ってくる。
この人の思うように行動するのが嫌で、それも拒絶しようかと思ったけど、さすがに喉はカラカラで思わずゴクリと喉がなってしまう。
そんな私に、少しだけ笑みを浮かべたトラニ様は、その笑顔を噛み殺しながら私の身体をそっと起こして、コップを手渡そうとしてくる。
諸々が恥ずかしくて目を閉じてまた首を横に振ると、トラニ様の押し殺した笑い声が聞こえてきてもっと恥ずかしくなる。
こんな風に子どもじみた反抗をする方が恥ずかしいし、馬鹿らしいとはわかっているのだが、熱に浮かされているのかその場限りの情動と意地に振り回されてしまう。
「…飲ませて欲しいのか?」
明らかに笑いを含んだ声に、ついに耐えられなくなって布団を思いっきり上に引っ張って頭まですっぽりとかぶる。
本当はこのまま寝転がってダンゴムシになりたいけど、それは背中をトラニ様に支えられてるから無理だ。だから、これはせめてもの抵抗だ。
「ふふ、すまない。あなたが…とても………から、つい」
布団に遮断されたトラニ様の声はよく聞こえない。
でも、布団に近づいて言われたらしい、「馬鹿にしているわけでは決してないのだ」という声はよく聞こえた。
「笑ってすまなかった。…粥については無理強いしないから、せめて水は飲んでくれまいか?」
心の底から懇願するような声に、ちょっとだけ心が緩んで布団をずらして声の主をチラ見する。
すると想像してた100倍くらい優しい顔をしたトラニ様がこちらを見つめていて、またとても恥ずかしくなる。私はこんな子供じみたことばかりしているのに、トラニ様はどうだろう。心が海よりも広いのではないだろうか。
それに対して私はなんだろう。人慣れしてない野生動物?
その大きな差になんだかますます布団から出られなくなって、ゆるゆると再び布団を顔の前に持ち上げる。
「意地悪をしないでくれ」
布団の向こうから聞こえた声は、困ったような、それでいて少しだけ笑っているような声だった。
私はしばらく黙ったまま布団を握りしめる。
自分でも何をしているのかわからない。
聞きたいことは山ほどあるのに。怒っているはずなのに。
こんなふうに子供みたいな真似をしている。
恥ずかしがったりとか、意地を張る前に、もっとやらないといけないことはあるはずなのに。
「……」
しばしの沈黙の後、先に折れたのは私だった。
布団を少しだけ下ろすと、すかさずコップが差し出された。
そのスピード感にもなんかムッとする。
私が絶対に折れるとわかってて構えていた気がする。水を飲むのは最終的には私のためになるはずだが、なんだか手の平で転がされているような感じがした。
「良い子だ」
「…子どもみたいに扱わないでください」
「ふふ、すまない」
コップを受け取るときに、手が触れ合う。時間としては数秒にも満たなかったはずだ。
でも___
私の中では、なんとも言えない感情が巻き起こっていた。
そうだった。私は、この手が好きだった。
最近はどこか緊張を帯びることが多かった気がする「儀式」の時間も、昔はただただ幸福な時間だった。少しだけひんやりとしたその手に包まれながら、どうでもいいことをあーでもないこーでもないと話しているのが楽しかった。
この世界に来たばかりの、絶望していた頃の私にとってはその手だけが救いだった。その手に背中を撫でられることで、正気を保っていた。その手が蜘蛛の糸だった。お釈迦様の手だった。
___なのに、今は。
私はその手から目を逸らし、コップで顔を隠すように水を飲んだ。




