15 あなたが、ただ__
「随分と場違いな……いや、興味深い選択だな」
五日ぶりに小屋を訪れたトラニ様が、部屋に入って最初に口にしたのはそれだった。
その視線の先を追うと、花が生けられた花瓶がある。
鶴を模した、やけに輪郭の派手な白い陶磁器の花瓶。そこに挿された、石榴の花や赤薔薇で固められた、ひどく華やかな花束。
――たしかに、場違いだ。
この部屋は、もともと装飾らしい装飾のない場所だ。木の質感も、壁の色も、すべてが落ち着いていて、どちらかといえば目立たないように整えられている。
そこに、この花だ。
色も、形も、主張も、なにもかもが強すぎる。思わず、小さく笑いが漏れる。
場違いなのは事実だが、この贈り物の存在が嫌な感じはしない。
それどころか、少しだけこの部屋が明るくなったような気さえする。
この“場違い”なものたちは、どちらも宙が昨日持ってきたものだった。
「一昨日は泣かせちゃってごめんねぇ」なんて言いながら。
あれは、私が勝手に宙のことを探ろうとしたのが悪いのに。
「そうですよねぇ」
頷きながら、もう一度花を見る。
やっぱり、浮いている。
でも、ソラが私のために選んでくれたものだと思うと、それだけで十分だし心が温まるのだった。
「……絢爛で、華麗で、随分と大きな顔をしている」
穏やかな微笑みを浮かべながら、トラニ様は花弁の輪郭を人差し指の背でなぞる。
その仕草は小さいものを慈しむ仕草のようでもありながら、なんとなく別の意図を感じる。
実際に花を愛でてもいるが、花を通してなにか別のものを見つめようとする…視線のようなものを感じた。
「この花は、あなたが選んだのか」
ふと、そんな問いが落ちる。
自然な流れのようでいて、ほんの少しだけ変な質問にも思えた。。
だって、私がこの花を選べるわけがない。私はここから出ることができないから。それをトラニ様はよく知っているだろう。
「いいえ、ソラがくれたんです」
「……そうか」
一瞬だけ、指の動きが止まる。
ほんのわずかに。それこそ、トラニ様をよく見ていなければ見逃したであろうという程度には静かで些細な静止だった。
でも、それは見逃せるほど小さくもなかった。
そのまま、何事もなかったかのように指は動き出す。
けれど、さっきまでと同じ動きには見えなかった。
「花が欲しいならば、私に言えば良いものを」
その言葉に、少しだけ戸惑う。
宙に花を“欲しい”と言ったわけではない。でも、欲しいか欲しくないかと言われれば、口には出さずとも実際には欲しかったような気もする。だけど、誰かにねだるほど欲しいものではなくて、もらえたら嬉しいって感じで…いやそもそもプレゼントってそんなもんじゃないか?
なにより、だ。
トラニ様はなにを思ってこんなことを言うのか?
「変なやつに変なものもらうなよ」の釘指し?「言えよ~水臭いな~」のノリ?「自分が花程度も買えない貧乏なヤツって馬鹿にしてんの?」の京都弁?…なんかどれも違う気がするし、私が思いつける範囲のものはどれもこれも合っている気がしない。
どんな意図でトラニ様がその言葉を発したのか悩んでいるうちに、トラニ様は私から目を逸らして、私からの回答などいらないとばかりに口を開く。
「私には言えずとも、ご友人には望めるのか」
静かな声。
そのはずなのに、言葉だけが妙に浮き上がって聞こえる。
引っかかる。どこが、と言われるとわからないけど引っかかる。
「羨ましい関係だ」
その一言が、がらんどうの室内に妙に残った。
先ほどからずっと…噛み合っているようで、どこか噛み合っていない。
言葉の奥に何かがある気がするのに、それが見えない。
トラニ様との会話は、こんなだっただろうか?こんな感じで、教師を前にした時のようなよくわからない緊張感と不安を煽られるようなものではなかったように思う。
「あなたのいう“友人”は、随分と広い意味を持つらしい」
そう言って、トラニ様はゆっくりとこちらへ歩み寄る。
「…私も、その中に含まれるのだろうか」
視線が絡む。いつも温かい夕陽のような光を宿す赤い瞳が、燃えている。
逃げ場がないと、遅れて気づく。
「だとして」
すぐ目の前で、動きが止まる。
トラニ様の顔をよく見る勇気も、もう一度視線を交わらせる勇気もなくて、私はただ無為にトラニ様の後ろを空気を眺める。
「私が同じように振る舞ったとしても、許されるのか」
次の瞬間、頬に触れる手。
冷たい指先が、輪郭をなぞるように添えられる。
距離が、近い。近すぎる。
息がかかるほどの距離で、顔が寄せられる。
否が応でもトラニ様の顔を至近距離で見ることになるが、思わず目を伏せてそんな現実から逃避する。視界の端の端に映る床を必死で眺めて、近すぎる距離を決して意識しない。今だったら木目マニアになれる気がする。
「ど、どうしたんですか。急に」
小さく抗議の声をあげると、ほんのわずかに身体が揺れた気がした。
「…これが、あなたの言う“友人”の距離ではないのか」
静かな声。
だが、その奥にあるものが読めない。
「それとも…」
髪が触れる。くすぐったい。でも、それ以上に落ち着かない。
近すぎて、表情が見えない。だから余計に、なにもかもわからない。
「トラニ様は、友人なんかじゃないですよ」
だから、いつもの調子で言った。
いつものトラニ様に戻って欲しいし、自分自身もいつもの自分に戻りたかったから。
いつもの私で、私のありのままの言葉をそのまま紡いだ。
「もっと…ほら、尊い存在で……推しです。生きてくれるだけで嬉しい、そこにいてくれるだけで嬉しいんです」
――空気が止まった。
ほんの一瞬。蝶がその羽を上下に動かす時間ほどの「一瞬」。
触れていた指先が、ぴたりと静止する。
「……そうか」
小さく、そう返る。
その声は、いつも通りに聞こえた。
「なるほど」
ゆっくりと、手が離れる。
距離も、元に戻る。
――戻った、はずだった。
「何も望まず、何も求めず、ただ在るだけで良いと……」
視線が逸れる。
独り言のように落ちた言葉。
「…そうか。私も、あなたがただ___」
沈黙。
短いはずなのに、やけに長く感じる。
「……あなたが、ただ___」
随分と時間をあけたのち、トラニ様は同じ言葉を繰り返した。
しかし、その続きは先ほどと同じようにいつまでたっても紡がれない。
「違う…私は、ただ…本当に…あなたに…」
苦悩の海の中で言葉を探すように、歪みの形で固定された表情の中で唇だけがわずかに動く。
視線は、空中を泳いでいく。
だが、出てこない。
息だけが零れて、言葉だけが最後まで形にならない
答えには辿り着いているはずなのに、それを口にすることを、何かが内側から強く引き止めているようだった。
「…すまない」
その一言だけが、ようやく形になった。
顔は見えない。
けれど、その声は先ほどのものと比べるとずっと弱々しく、どこか夢から突然目醒めさせられた人のような実感と怯えを孕んでいた。
一歩、後ろに下がる。
その動きは、ほんのわずかに不自然だった。
「……すまない」
もう一度。
今度は、少しだけ小さい。
そのまま踵を返そうとして――
肘が机に触れた。
かすかな音。
傾く花瓶。
白い陶器が、ゆっくりと落ちる。
――割れる音。
がしゃんと乾いた音とともに、白が砕け、赤が散る。
鶴の形を成していたものは粉々になり、花弁は血のように床に散った。
それらの残骸は、鶴が死に絶えていく姿のようであった。
「…」
トラニ様と私はしばらく無言でそれを見下ろしていた。
しかし、彼はやがて何事もなかったかのように視線を外した。
「…すまない。片付けよう」
静かな声だった。
私に向けたものなのか、それとも自分に言い聞かせているのかはわからない。
「え、あ、私も――」
「いや、いい」
言い終わる前に、やんわりと遮られる。
その声音はいつもと変わらず穏やかで、けれどもなんとなくだが距離を感じるものだった。
トラニ様はしゃがみ込み、散らばった花弁や実、そして陶器の欠片を一つずつ拾い上げていく。
丁寧に、丁寧に。
まるでそれらが壊れてしまった理由を、なかったことにするみたいに。
先ほどまでのやりとりなど、綺麗に消してしまおうとでもするかのように。
「美しい花束と花瓶だった。…それを、すまない」
「…いえ…気にしないでください」
短い沈黙が落ちる。
本当なら、いつもだったら、もっと言葉が続くはずなのに。
どうしてか、その先が出てこない。いつもだったらどうでもいいことを、ペラペラと話せるはずなのに、今日に限ってなにも出てこない。
トラニ様の手が、ふと止まった。
一枚の花弁を摘んだまま、その手にほんのわずかに力がこもる。
__くしゃり。
すぐにその手は離されて、静かに潰された花弁はおおよそもとの姿を取り戻す。
何事もなかったかのように、次の花弁へと伸びていく。
しかし、花弁に一度ついたその痕は消えない。
「…トキコ」
「はい?」
呼ばれて顔を上げると、トラニ様はいつものようにこちらを見ていた。
優しくて、穏やかで、何もかもを受け入れてくれるような眼差し。
これまで、私がずっとトラニ様からもらっていたものだった。
「あなたは…」
そこで言葉が止まる。
ためらうように視線が揺れたが、それでも私を真っすぐに見つめてトラニ様は言葉を紡いだ。
「あなたは、素晴らしい人生を歩むべきだ。長く生きて、自由に生を謳歌するべきだ。そして__」
言葉が、ほんの一瞬だけ詰まる。
「…そして、あなたを想う相応しい人間と結ばれるべきだ」
トラニ様はとても綺麗に笑った。
つくりものみたいに綺麗で、でも人工物にしては随分と儚くて消えてしまいそう。そんな微笑み。
勝手に私が誰かと結ばれる前提にしないでくださいよとか、余計なお世話ですよとか色んな言葉が一瞬駆け巡ったけど、でもなんだかあまりにもその笑みが寂しげで…私はなにも言えなった。
ただ、ぽかんと間抜け面をさらしながら、その笑みを見つめ返した。
その時だった。
「…ああ、まだいたんだぁ」
背後から、やけに軽い声が降ってきた。
びくりと肩が跳ねて振り返る。
そこには、宙が立っていた。
更新が遅くなってしまい申し訳ないです…。




