音楽を愛する者
――考えておいてくださいね。例の契約の件。
ずっと思っていた。
私なんかが気軽にこの業界に足を踏み入れてもいいのかって。
それは失礼ではないのか。業界にも、音楽そのものに対しても。
たしかに、そこそこの知名度はあるかもしれない。
だからこそ、自分はあの契約を持ち込まれた。
けれど自分は、それを二つ返事で「はい」と答えなかった。
いや、できなかった。
やっぱりこころのどこかで、これでいいのかと問う自分がいたから。
――少し考えさせてください。
有名であればいい。
人気であればいい。
ルックスがよければそれでいい。
売れるから。
その人からは、そんな浅はかな考えが少し垣間見えた気がした。
でも勝手にそう決めつけるのも少し失礼じゃないかと思って、一応保留という形にした。
やっぱりやめておこう。
ちゃんとした覚悟もなくこの業界に足を踏み出すのは、どこか違う気がするから。
でもその決意が、こうもあっさりと崩れ去っていくなんて思ってもみなかった。
――彼なら。
業界に足を踏み入れていいのは私なんかじゃない。
特別な才能を持っていて――、
音楽をこころの底から愛している人間。
そういう人間が、この業界に足を踏み入れるべきなんだ。
自分の中に新しい何かが芽生え始める。
――彼の曲を聞きたい。彼がミュージシャンとして活躍する姿をこの目で見たてみたい。
そして何より、
――彼がミュージシャンになれない、そんな世界を作りたくない。
彼がなれなくて、それで私がなれるなんてそんな馬鹿げた話はあっちゃいけない。
長らく味わってなかった気がする。こんな純粋な気持ち。
いつしか失ったあのときの気持ち。
彼はそれを今も持っているのか。
羨ましい。
そう思うだけで、純粋だった昔のころが恋しくなった。
△△
「一つ、いいですか……?」
彼女は、いきなり神妙な口調でそう言った。
「………?」
「もし……今すぐにプロのミュージシャンになれるって言われたら、あなたはどうします?」
「………」
なぜ急にそんなことを――不思議に思わずにはいられなかった。
しかし彼女は、自分を一層強い目つきでその真意を迫ってくるものだから、何となくそれに呑まれるようについ本音を吐いてしまう。
「なりたいですけど……そんな話現実にあるわけないじゃないですか」
その反論にはもちろん、一体なぜこんな質問を自分にぶつけてきたんだという回答も期待してだった。
しかし彼女は――
「そうですね。普通ならありえません、こんな上手い話」
「………?」
「でもあるんですッ」
彼女は目の奥底を輝かせながら言った。
「今度、またあなたに会いたいです」
急にそう告げだす彼女。
「連絡先、教えてもらってもいいですか?」
「あ……その―――えっ!?」
「だからなれるって言ったじゃないですかーッ。……もしかして、私のこと知らないんですか? 今をときめく大女優―――いや、それは言い過ぎた。……えーと、そこそこ知名度がある女優!」
「…………」
さっきから、この人は一体何を言っているんだ?
「すいません。ぼく全然そういうの詳しくなくて……その、あんまりテレビとか見ないので」
「…………ッ!?」
そう答えた矢先、彼女はありえないとでも言いたげな顔を見せた。
やがて彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「ああ……。何というか………今ものすごく恥ずかしいです。あれだけカッコつけといて……」
そうしょぼくれた声で彼女は呟くと、
「そうですか? すごいじゃないですか、女優なんて。普通の人じゃなれないですよ」
「………はい、ありがとうございます」
彼女が口にしたその感謝とはもちろん、本来の意味とは異なるものである。
「それで……」奏井は言った。「いいですか……? その、連絡先教えてもらっても……」
「あ、はいっ。いいですけど………」
正直、まだハクはこの女性のことを信じ切れていない。
彼女はまだ自己紹介しかやっていない。
肝心な《どうやってミュージシャンになるのか》という話にはまったく触れていないのだ。
連絡先の交換が終わった後、自分は彼女にそのことを言及する。
「ツテがあるんですよ。ほら、私女優なので」
と、少し誇らしげに胸を張る奏井。
「その――さっきから思ってたんですけど、あなたって本当に女優なんですか?」
たしかに彼女の容姿は整っている。
若々しく、自分と同じくらいの年ごろとは思えないほど肌が白く、艶々していていかにも清潔感を思わせる。
顔にはシミやニキビのようなものは一ミリも見当たらず、髪もきれいに整えられていた。
今思えば、この人が女優で芸能人だと言われても何の違和感を覚えない。
この顔のままそこらの通りを歩けば、その無邪気な若々しさと美貌に思わず目に留めてしまう男どもは確実に現れるに違いない。
「検索してみていいですよ、今自分の携帯で」彼女は少し得意げに言った。
「…………」
そう言って携帯を取りだす。
「………その、名前――」
「都奏井、です」
「みやこ……」
そう言いながらキーボードをタップしていくと、早くも検索の候補欄に彼女の名前が出てきた。
さっそく検索にかけてみる。
「………!」
出てきたのは彼女の名前、そして宣材写真。
ハクは思わず彼女とその写真の顔を交互に二回見つめる。
「たしかに……」
彼女は動揺しているハクを見るなり、すぐさま口を開いた。
「少しは信じてもらえましたか?」
「………」再び、ハクは彼女の方を見た。「……わかりました。でも……知りたいんです。ぼく、何も知らないのが少し嫌で……」
「まぁ、そうですね。実は私――」
△△
「ただいま」
玄関を抜けると、音に気づいた母がすぐさま出迎えた。
「おかえりハク。ちょっと遅くない? 帰ってくるの」
「……………」
「…………?」
何か言いよどんだ様子のハクに、さすがの母もその異変に気づく。
「どうしたの……?」母は言った。
「………あ、いや……」
ハクは母から顔を背けた。
「その……お母さん」
「ん?」
「……話があるんだけど」
「話……?」




