最終話 いつもそこに君がいた
出発の日。
空は、よく晴れていた。
セイラン王国の港町の郊外には、外国へ向かう浮空船の発着場がある。海上交易を中心とするセイランでは、浮空船はまだ珍しい。
そのため係留塔の周囲には、旅人だけでなく、巨大な船を見物する人々も集まっていた。
高い塔につながれた浮空船が、朝の光を受けている。
「……大きい」
アイリは思わず呟いた。
資料で何度も見た。
絵でも見た。
それでも本物は、想像していた以上だった。
大きな船体。その上に浮かぶ巨大な気嚢。海を進む帆船とはまるで違う構造。
これが空を飛ぶ。
そう思うと、胸が高鳴った。
「お姉さま!」
ミレイがアイリの腕へ抱きついてくる。
「ちゃんと雲見てきてね」
「うん」
「それとお菓子!」
「そっちが本命?」
「違うよ」
慌てて否定する妹に、アイリは笑った。
ニールも少し照れた顔で近づいてくる。
「手紙、待ってる」
「もちろん」
母には、ぎゅっと抱きしめられた。
「無理はしないこと」
「はい」
「困ったときは、ちゃんと人を頼るのよ」
その言葉に、アイリは一瞬だけ目を瞬いた。
「……はい」
父はアイリの頭を軽く撫でた。
「楽しんでおいで」
「お父さま」
「勉強だけじゃなくてな。せっかく行くんだから、いろいろ見てきなさい」
「はい」
返事をした途端、少しだけ目の奥が熱くなった。
◇
「アイリ」
ラウラがやってきた。
「ラウラ」
顔を見た瞬間、二人とも少し笑う。
「なんか」
「うん」
「昨日いっぱい話したから、もう言うことないね」
「私も同じこと、思ってた」
ラウラが少し笑った。
「手紙、書いてね」
「書くわ」
「絶対?」
「絶対」
「私も書くから」
「うん」
ラウラが両手を広げる。
アイリは少し驚いてから、その腕の中へ入った。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
ぎゅっと抱きしめ返す。
離れたとき、ラウラの琥珀色の瞳には涙が浮かんでいた。
「ラウラ。泣かないんじゃなかったの?」
「うるさい」
「昨日、言ってたよね」
「もういいでしょ。あなたも泣いてるじゃない」
アイリも涙を浮かべながら笑った。
◇
少し離れたところに、カイが立っていた。
明るい金色の髪が、風に揺れている。
いつもなら、誰より先にアイリの隣へ来る人だった。
けれど今日は、家族とラウラとの時間が終わるまで何も言わずに待っていた。
アイリの方から近づく。
「カイ」
「うん」
「来てくれたんだね」
「そりゃあ、来るだろ」
「ふふ。そうだね」
二人とも、少しだけ笑った。
昔から、こういうところだけは変わらない。
「荷物、大丈夫か?」
「もう預けたよ」
「酔い止め持った?」
「持った」
「寒いらしいから、上着は?」
「入れた」
「財布」
「あるよ。何よ、カイってばお母さまみたい」
「心配なんだよ」
カイが苦笑する。
以前なら、荷物を見つければ何も言わず持っていただろう。
けれど今日は、アイリが自分で預けたと聞いて、それ以上手を出さなかった。
「これ」
カイが上着のポケットから、小さな包みを取り出した。
「何?」
「旅用の便箋。向こうでも買えるだろうけど」
「……手紙を書けってこと?」
「違う」
カイは少しだけ笑う。
「書きたくなったときに使って」
「そっか」
アイリは包みを受け取った。
「ありがとう」
「うん」
それだけ言って、カイは何も約束させなかった。
それから、二人の間に沈黙が落ちる。
言いたいことはいくらでもあるはずなのに、何から言えばいいのか分からない。
やがて、カイが先に口を開いた。
「アイリ」
「うん」
「俺」
澄んだ青い瞳が揺れる。
「やっぱり、アイリが好きだよ」
アイリは黙った。
「返事はいらない」
カイはすぐに続ける。
「この前聞いたから。もう分かってる」
「……うん」
「ただ」
少しだけ笑った。
「好きなまま、見送ってもいい?」
アイリはカイを見つめた。
ずっと聞きたかった言葉だった。
今でも、何も感じないわけではない。
十七年かけて育った気持ちは、十日でなくなるものではなかった。
「うん」
アイリは答える。
「いいよ」
「ありがとう」
カイが笑った。
少しだけ、泣きそうな顔だった。
「アイリは」
「なに?」
「俺のこと、嫌いになった?」
アイリは目を見開く。
「ならないよ」
迷わず答えた。
「だって、カイはずっと大切な人だったから」
「……だった?」
苦笑まじりに聞き返され、アイリも気づく。
過去形に聞こえてしまった。
「今も大切だよ」
「そっか」
「うん」
でも、その次に続く言葉は。
もう以前とは違う。
「ただ」
アイリはカイを見る。
「もう、待たないよ」
カイは一瞬だけ目を閉じた。
「うん」
ゆっくり頷く。
「分かってる」
その言葉のあと、カイはアイリへ手を伸ばしかけた。
けれど、途中で止める。
その手をそっと下ろし、今度こそ笑った。
「行ってこい、アイリ」
もう、行くなとは言わなかった。
「うん」
アイリも笑う。
「行ってきます」
◇
出発を知らせる鐘が鳴った。
乗客たちが次々と浮空船へ乗り込んでいく。
「行かなきゃ」
「うん」
アイリは家族を見る。
ラウラを見る。
そして最後に、カイを見た。
「じゃあ」
「うん」
「またね」
また明日。
ではなかった。
次に会えるのは、ずっと先だ。
「またな」
カイが答えた。
アイリは搭乗口へ向かって歩き出す。
途中で一度だけ振り返った。
家族がいる。
ラウラがいる。
カイもいる。
みんなが手を振っていた。
アイリは笑って、大きく手を振り返す。
カイも手を上げる。
けれど、追いかけなかった。
名前を呼んで、もう一度振り向かせることもしなかった。
アイリは前を向き、そのまま搭乗口の向こうへ消えていった。
◇
浮空船が、ゆっくりと地上を離れていく。
巨大な船体が浮かび上がり、係留塔が少しずつ下へ遠ざかっていく。
カイは空を見上げていた。
窓のどこにアイリがいるのかは分からない。
それでも、目を逸らせなかった。
船は高く、さらに高く昇っていく。
やがて港町の向こう、山脈の方角へ進み始めた。
「……行っちゃったね」
隣でラウラが言う。
「うん」
「寂しい?」
「めちゃくちゃ」
カイが苦笑すると、ラウラも少し笑った。
「そっか」
「でも」
カイは空を見たまま続ける。
「行ってよかったんだと思う」
「うん」
「アイリ、楽しそうだったから」
「うん」
「俺の知らないことを話してるとき、すごく楽しそうだった」
「今頃気づいたの?」
「……本当に容赦ないな」
「カイにはこれくらいでいいでしょ」
「否定できない」
二人とも少し笑った。
やがてラウラは、アイリの家族の方へ戻っていく。
カイだけが、もう少しその場所に残った。
空を見上げる。
小さくなっていく浮空船。
十七年間。
アイリはいつもそこにいた。
朝になれば会えた。
学院へ行けばいた。
昼休みになれば隣に座った。
帰るときには待っていた。
呼べば振り返った。
だから、明日もいるのだと思っていた。
来年も。
その先も。
ずっと。
いつもそこに君がいた。
だから、これからもずっと。
そこにいるのだと思っていた。
でも。
誰かがそばにいてくれることは、当たり前ではなかった。
アイリがそこにいてくれたのは。
自分の隣にいたいと、ずっと選んでくれていたからだった。
「……遅かったな」
カイは小さく笑った。
もっと早く気づけばよかった。
けれど、今さらその後悔でアイリを引き止めるつもりはなかった。
小さくなった浮空船を見つめる。
「アイリ。行ってらっしゃい」
届かないと分かっていて、カイは呟いた。
船影が山の方角へ消えるまで、そこを動かなかった。
◇
一方、浮空船の窓際では。
アイリが小さくなっていくセイランを見つめていた。
港。
海。
見慣れた街。
生まれ育った場所が、少しずつ遠ざかっていく。
家族と離れる。
ラウラと離れる。
そして、カイとも離れる。
一滴だけ涙が頬を伝った。
アイリは指先でそっと拭う。
「大丈夫」
いつもの言葉を口にしかけて、やめた。
今は、大丈夫でなくてもいい。
「……寂しいな」
小さく声に出す。
言葉にしてしまうと、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
膝の上には、カイから渡された小さな便箋の包みがある。
アイリは一度だけ、指先でそれに触れた。
すぐに書くかは、まだ分からない。
それでいいのだと思った。
もう一度、窓の外を見る。
セイランの街は、ずっと小さくなっていた。
その向こう。
浮空船が進む先には、大きな山脈が見える。
アイリは今度、そちらへ視線を向けた。
知らない国。
知らない学院。
知らない人たち。
知らない空。
怖い。
けれど、それ以上に楽しみだった。
どんな景色があるのだろう。
誰と出会うのだろう。
そこで、自分は何を知り、何を好きになるのだろう。
アイリは窓へそっと手を添えた。
「行ってきます」
今度は、誰に言うでもなく呟く。
海の国を離れて。
山の向こうへ。
これまでずっと、誰かの隣にいることを選んできた少女は。
初めて、自分で選んだ場所へ向かっていた。




