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いつもそこに君がいた ~嘘の告白から、幼馴染だった二人の距離が変わり始める~  作者: 黒猫と珈琲


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10/10

最終話 いつもそこに君がいた

 出発の日。


 空は、よく晴れていた。


 セイラン王国の港町の郊外には、外国へ向かう浮空船の発着場がある。海上交易を中心とするセイランでは、浮空船はまだ珍しい。


 そのため係留塔の周囲には、旅人だけでなく、巨大な船を見物する人々も集まっていた。


 高い塔につながれた浮空船が、朝の光を受けている。


「……大きい」


 アイリは思わず呟いた。


 資料で何度も見た。


 絵でも見た。


 それでも本物は、想像していた以上だった。


 大きな船体。その上に浮かぶ巨大な気嚢。海を進む帆船とはまるで違う構造。


 これが空を飛ぶ。


 そう思うと、胸が高鳴った。


「お姉さま!」


 ミレイがアイリの腕へ抱きついてくる。


「ちゃんと雲見てきてね」

「うん」

「それとお菓子!」

「そっちが本命?」

「違うよ」


 慌てて否定する妹に、アイリは笑った。


 ニールも少し照れた顔で近づいてくる。


「手紙、待ってる」

「もちろん」


 母には、ぎゅっと抱きしめられた。


「無理はしないこと」

「はい」

「困ったときは、ちゃんと人を頼るのよ」


 その言葉に、アイリは一瞬だけ目を瞬いた。


「……はい」


 父はアイリの頭を軽く撫でた。


「楽しんでおいで」

「お父さま」

「勉強だけじゃなくてな。せっかく行くんだから、いろいろ見てきなさい」

「はい」


 返事をした途端、少しだけ目の奥が熱くなった。



「アイリ」


 ラウラがやってきた。


「ラウラ」


 顔を見た瞬間、二人とも少し笑う。


「なんか」

「うん」

「昨日いっぱい話したから、もう言うことないね」

「私も同じこと、思ってた」


 ラウラが少し笑った。


「手紙、書いてね」

「書くわ」

「絶対?」

「絶対」

「私も書くから」

「うん」


 ラウラが両手を広げる。


 アイリは少し驚いてから、その腕の中へ入った。


「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」


 ぎゅっと抱きしめ返す。


 離れたとき、ラウラの琥珀色の瞳には涙が浮かんでいた。


「ラウラ。泣かないんじゃなかったの?」

「うるさい」

「昨日、言ってたよね」

「もういいでしょ。あなたも泣いてるじゃない」


 アイリも涙を浮かべながら笑った。



 少し離れたところに、カイが立っていた。


 明るい金色の髪が、風に揺れている。


 いつもなら、誰より先にアイリの隣へ来る人だった。


 けれど今日は、家族とラウラとの時間が終わるまで何も言わずに待っていた。


 アイリの方から近づく。


「カイ」

「うん」

「来てくれたんだね」

「そりゃあ、来るだろ」

「ふふ。そうだね」


 二人とも、少しだけ笑った。


 昔から、こういうところだけは変わらない。


「荷物、大丈夫か?」

「もう預けたよ」

「酔い止め持った?」

「持った」

「寒いらしいから、上着は?」

「入れた」

「財布」

「あるよ。何よ、カイってばお母さまみたい」

「心配なんだよ」


 カイが苦笑する。


 以前なら、荷物を見つければ何も言わず持っていただろう。


 けれど今日は、アイリが自分で預けたと聞いて、それ以上手を出さなかった。


「これ」


 カイが上着のポケットから、小さな包みを取り出した。


「何?」

「旅用の便箋。向こうでも買えるだろうけど」

「……手紙を書けってこと?」

「違う」


 カイは少しだけ笑う。


「書きたくなったときに使って」

「そっか」


 アイリは包みを受け取った。


「ありがとう」

「うん」


 それだけ言って、カイは何も約束させなかった。


 それから、二人の間に沈黙が落ちる。


 言いたいことはいくらでもあるはずなのに、何から言えばいいのか分からない。


 やがて、カイが先に口を開いた。


「アイリ」

「うん」

「俺」


 澄んだ青い瞳が揺れる。


「やっぱり、アイリが好きだよ」


 アイリは黙った。


「返事はいらない」


 カイはすぐに続ける。


「この前聞いたから。もう分かってる」

「……うん」

「ただ」


 少しだけ笑った。


「好きなまま、見送ってもいい?」


 アイリはカイを見つめた。


 ずっと聞きたかった言葉だった。


 今でも、何も感じないわけではない。


 十七年かけて育った気持ちは、十日でなくなるものではなかった。


「うん」


 アイリは答える。


「いいよ」

「ありがとう」


 カイが笑った。


 少しだけ、泣きそうな顔だった。


「アイリは」

「なに?」

「俺のこと、嫌いになった?」


 アイリは目を見開く。


「ならないよ」


 迷わず答えた。


「だって、カイはずっと大切な人だったから」

「……だった?」


 苦笑まじりに聞き返され、アイリも気づく。


 過去形に聞こえてしまった。


「今も大切だよ」

「そっか」

「うん」


 でも、その次に続く言葉は。


 もう以前とは違う。


「ただ」


 アイリはカイを見る。


「もう、待たないよ」


 カイは一瞬だけ目を閉じた。


「うん」


 ゆっくり頷く。


「分かってる」


 その言葉のあと、カイはアイリへ手を伸ばしかけた。


 けれど、途中で止める。


 その手をそっと下ろし、今度こそ笑った。


「行ってこい、アイリ」


 もう、行くなとは言わなかった。


「うん」


 アイリも笑う。


「行ってきます」



 出発を知らせる鐘が鳴った。


 乗客たちが次々と浮空船へ乗り込んでいく。


「行かなきゃ」

「うん」


 アイリは家族を見る。


 ラウラを見る。


 そして最後に、カイを見た。


「じゃあ」

「うん」

「またね」


 また明日。


 ではなかった。


 次に会えるのは、ずっと先だ。


「またな」


 カイが答えた。


 アイリは搭乗口へ向かって歩き出す。


 途中で一度だけ振り返った。


 家族がいる。


 ラウラがいる。


 カイもいる。


 みんなが手を振っていた。


 アイリは笑って、大きく手を振り返す。


 カイも手を上げる。


 けれど、追いかけなかった。


 名前を呼んで、もう一度振り向かせることもしなかった。


 アイリは前を向き、そのまま搭乗口の向こうへ消えていった。



 浮空船が、ゆっくりと地上を離れていく。


 巨大な船体が浮かび上がり、係留塔が少しずつ下へ遠ざかっていく。


 カイは空を見上げていた。


 窓のどこにアイリがいるのかは分からない。


 それでも、目を逸らせなかった。


 船は高く、さらに高く昇っていく。


 やがて港町の向こう、山脈の方角へ進み始めた。


「……行っちゃったね」


 隣でラウラが言う。


「うん」

「寂しい?」

「めちゃくちゃ」


 カイが苦笑すると、ラウラも少し笑った。


「そっか」

「でも」


 カイは空を見たまま続ける。


「行ってよかったんだと思う」

「うん」

「アイリ、楽しそうだったから」

「うん」

「俺の知らないことを話してるとき、すごく楽しそうだった」

「今頃気づいたの?」

「……本当に容赦ないな」

「カイにはこれくらいでいいでしょ」

「否定できない」


 二人とも少し笑った。


 やがてラウラは、アイリの家族の方へ戻っていく。


 カイだけが、もう少しその場所に残った。


 空を見上げる。


 小さくなっていく浮空船。


 十七年間。


 アイリはいつもそこにいた。


 朝になれば会えた。


 学院へ行けばいた。


 昼休みになれば隣に座った。


 帰るときには待っていた。


 呼べば振り返った。


 だから、明日もいるのだと思っていた。


 来年も。


 その先も。


 ずっと。


 いつもそこに君がいた。


 だから、これからもずっと。


 そこにいるのだと思っていた。


 でも。


 誰かがそばにいてくれることは、当たり前ではなかった。


 アイリがそこにいてくれたのは。


 自分の隣にいたいと、ずっと選んでくれていたからだった。


「……遅かったな」


 カイは小さく笑った。


 もっと早く気づけばよかった。


 けれど、今さらその後悔でアイリを引き止めるつもりはなかった。


 小さくなった浮空船を見つめる。


「アイリ。行ってらっしゃい」


 届かないと分かっていて、カイは呟いた。


 船影が山の方角へ消えるまで、そこを動かなかった。



 一方、浮空船の窓際では。


 アイリが小さくなっていくセイランを見つめていた。


 港。


 海。


 見慣れた街。


 生まれ育った場所が、少しずつ遠ざかっていく。


 家族と離れる。


 ラウラと離れる。


 そして、カイとも離れる。


 一滴だけ涙が頬を伝った。


 アイリは指先でそっと拭う。


「大丈夫」


 いつもの言葉を口にしかけて、やめた。


 今は、大丈夫でなくてもいい。


「……寂しいな」


 小さく声に出す。


 言葉にしてしまうと、ほんの少しだけ息がしやすくなった。


 膝の上には、カイから渡された小さな便箋の包みがある。


 アイリは一度だけ、指先でそれに触れた。


 すぐに書くかは、まだ分からない。


 それでいいのだと思った。


 もう一度、窓の外を見る。


 セイランの街は、ずっと小さくなっていた。


 その向こう。


 浮空船が進む先には、大きな山脈が見える。


 アイリは今度、そちらへ視線を向けた。


 知らない国。


 知らない学院。


 知らない人たち。


 知らない空。


 怖い。


 けれど、それ以上に楽しみだった。


 どんな景色があるのだろう。


 誰と出会うのだろう。


 そこで、自分は何を知り、何を好きになるのだろう。


 アイリは窓へそっと手を添えた。


「行ってきます」


 今度は、誰に言うでもなく呟く。


 海の国を離れて。


 山の向こうへ。


 これまでずっと、誰かの隣にいることを選んできた少女は。


 初めて、自分で選んだ場所へ向かっていた。


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