第9話 変わっていくもの
出発までの十日間は、あっという間に過ぎていった。
告白した翌日も、カイとアイリは学院で顔を合わせた。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。
気まずくなかったと言えば、嘘になる。以前なら何も考えず隣を歩けたのに、今はどれくらい近くにいていいのかさえ分からない。
それでも、どちらも相手を避けることはしなかった。
◇
「昨日は、ごめん」
学院へ向かう途中、カイが言った。
アイリが隣を見る。
「昨日も謝ってたよ」
「うん。でも、もう一度だけ」
カイは前を向いたまま続ける。
「告白したことじゃなくて。その前のこと」
「……うん」
「あの子には、ちゃんと謝った」
アイリが少し目を見開いた。
「昨日?」
「今朝」
「そう」
「俺が馬鹿なことしたって言った。エイドリアンたちに煽られたとか、そういう言い訳はしないで」
相手の少女は、当然のように呆れていた。
『本当に失礼ね』
そう言われた。
カイは何も言い返さなかった。
許してもらえたわけではない。それでいいのだと思う。
「もう二度としない」
「うん」
「というか、普通は一回もしないんだけど」
自分で言って、カイは苦笑した。
アイリもほんの少し笑う。
「そうだね」
「……うん」
少し歩いたところで、カイがもう一度口を開いた。
「あと、エイドリアンにも言った」
「何を?」
「俺がやったことだから、あいつのせいにはしないって」
アイリは黙って聞いている。
「エイドリアンも謝ってきたんだ。あんなこと煽るんじゃなかったって」
「そう」
「でも、決めたのは俺だから」
カイはそこで一度、息を吐いた。
「断ればよかったんだよ。最初に」
それ以上は言わなかった。
何度謝っても、なかったことにはならない。
だから今は、同じことを繰り返さないことしかできなかった。
◇
それからのカイは、アイリを引き止めなくなった。
留学の話を聞けば、
「気をつけて行ってこいよ」
と言った。
学院でオルティギアについて楽しそうに話しているアイリを見ても、途中から割り込まない。放課後も、毎日のように予定を聞くことはやめた。
それでも時々、
「今日、一緒に帰ってもいい?」
と尋ねる。
アイリが、
「いいよ」
と言えば一緒に帰った。
予定があると言われれば、
「そっか。じゃあ、また明日」
と答える。
以前なら「待ってる」と言っていたところでも、もう勝手に決めなかった。
アイリには、アイリの時間がある。
今さらそんな当たり前のことを覚えていく自分が、少し情けなかった。
◇
「カイ、消しゴム」
ある日の授業前。
アイリが机の横から声をかけた。
「え?」
「今日は持ってるの?」
少し前なら、そこで「貸して」と言っていた。
カイは自分の筆箱を開き、中を見せる。
「持ってる」
「珍しい」
「失礼だな。鉛筆も二本ある」
「すごい」
「褒め方が子ども相手なんだけど」
「だって、今までよく忘れてたから」
アイリがくすりと笑う。
カイも笑った。
けれど、アイリが自分の席へ戻ったあと、筆箱の中にある新しい消しゴムへ目を落とした。
購買で、自分で買ったものだった。
前は、忘れても困らなかった。
アイリが持っていたから。
課題が分からなくても。
持ち物を忘れても。
帰る時間が遅くなっても。
どこかで、アイリがどうにかしてくれると思っていた。
優しくしてくれることを、いつの間にか彼女の役目のように受け取っていたのかもしれない。
カイは筆箱を閉じた。
もう、それを当たり前にはしたくなかった。
◇
別の日の放課後。
カイは帰り支度をしながら、机の上の数学の課題を見た。
以前なら、迷わずアイリを呼んだだろう。
『ここ分からない』
『どこ?』
そう言えば、アイリは隣に座ってくれた。
カイは一度、少し離れた席にいるアイリを見る。
アイリはラウラと留学の準備について話していた。
「……よし」
もう一度、自分の問題集へ目を戻す。
「何してんの?」
向かいからエイドリアンが覗き込んだ。
「数学」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「アイリに聞かないの?」
「まず自分でやる」
エイドリアンが目を丸くした。
「お前、本当にどうした?」
「うるさい」
結局、一問にずいぶん時間がかかった。
それでも解けたとき、カイは小さく息を吐いた。
アイリに頼ることが悪かったわけではない。
きっと、アイリも嫌々教えていたわけではなかった。
ただ。
してもらえることと、してもらって当然だと思うことは違う。
それに気づくまで、十七年もかかった。
◇
「変わったね」
ある日の帰り道。
アイリが言った。
「俺?」
「うん」
「十日くらいで?」
「ちょっとだけだけど」
「厳しいなあ」
カイが笑う。
「十分でしょ」
昔と変わらない、軽いやり取りだった。
けれど、昔と同じではない。
カイはもう、それを分かっていた。
「アイリ」
「なに?」
「留学、頑張れよ」
「うん」
少し歩いてから、カイはもう一度口を開いた。
「俺、本当はさ」
一瞬だけ迷う。
「行ってほしくない」
アイリが足を止めた。
カイも立ち止まる。
「……うん」
「寂しいし。一年近く会えないの嫌だし」
「うん」
「向こうで男と仲良くなるのも嫌」
「それは知らないよ」
「分かってる」
カイは少し笑った。
「でも、行くなとは言わない」
アイリが黙って彼を見る。
「アイリが行きたいって言ってたから」
オルティギアについて話すアイリは、本当に楽しそうだった。
カイの知らないことを知り、知らない場所へ行こうとして、目を輝かせていた。
「俺が今さら行くなって言うのは、違うと思う」
「……カイ」
「だから、行ってこいよ」
カイは笑った。
「浮空船にも乗って、山も見て、いっぱい勉強して」
「うん」
「それで一年後に帰ってきたら」
少しだけ言葉を選ぶ。
「話、聞かせて」
アイリの表情が柔らかくなった。
「うん。分かった」
「手紙も?」
「書くよ」
「約束な」
「うん」
カイはそこで笑って、それ以上は求めなかった。
以前なら、きっと「俺に一番に書いて」と言っていた。
今は、手紙を書きたいと思ってくれたときに書いてくれればいい。
そう思えるようになっていた。
◇
出発前日。
アイリにとって、最後の登校日になった。
「アイリ、元気でね」
「ありがとう」
「向こうでも頑張って」
「うん」
「絶対手紙ちょうだいよ」
「分かった」
クラスメイトたちに囲まれながら、アイリは何度も笑った。
ラウラはその少し後ろにいる。
「ラウラ」
「何?」
「泣く?」
「泣かない」
「本当に?」
「まだ明日会うし」
「そっか」
「見送り行くから」
そう言うラウラの目は、すでに少し赤かった。
「ラウラ」
「何よ」
「ありがとう」
「やめて」
「まだ何も言ってないよ」
「泣かせる気でしょ」
「そんなつもりないよ」
「アイリは無自覚だから余計たち悪いの」
二人で笑う。
カイは少し離れたところから、その様子を見ていた。
少し前の自分なら、きっとそこへ入っていった。
アイリの隣は自分の場所だと、何の疑いもなく。
けれど今日は動かなかった。
ラウラには、ラウラとアイリの時間がある。
それが終わるまで、自分は待てばいい。
やがてアイリと目が合う。
「カイ」
「うん」
「また明日」
一瞬、胸が詰まった。
今まで何度聞いたか分からない言葉なのに。
明日の「また」のあとには、一年近く続きがない。
「……うん」
それでもカイは笑った。
「また明日」
◇
その日の放課後。
アイリが帰ったあとも、カイはしばらく教室に残っていた。
窓際にあるアイリの席を見る。
机の中は、もうほとんど空だった。
いつも入っていた教科書も。
端にしまわれていた予備の筆記具も。
何もない。
ふと、床の近くに小さな紙片が落ちているのが見えた。
拾い上げる。
授業で使ったらしい、ただの走り書きだった。
以前なら、何となく取っておいたかもしれない。
アイリのものだから。
カイはしばらく紙を見つめ、それからアイリの机の上へ置いた。
もう勝手には持っていかない。
大切だからこそ、自分のもののように扱ってはいけない。
「……ほんと、遅いな」
誰もいない教室で、小さく呟いた。
明日になれば、この席も空く。
朝の待ち合わせ場所にも、アイリはいない。
昼休みに探してもいない。
帰り道で振り返っても、しばらくは誰もいない。
そのことを、ようやく現実として受け止め始めていた。
カイはアイリの机から手を離す。
そして、自分の鞄を持った。
明日は。
ちゃんと笑って見送ろう。
そう決めて、誰もいない教室をあとにした。




