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いつもそこに君がいた ~嘘の告白から、幼馴染だった二人の距離が変わり始める~  作者: 黒猫と珈琲


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8/10

第8話 言うのが、遅いよ

 出発まで、あと十日。


 アイリの机の周りから、少しずつ物が減っていた。


 学院に置いていた参考書。予備の筆記具。委員会で使っていた資料。向こうでは必要のないものから、家へ持ち帰っているらしい。


 カイは、それに気づくたびに落ち着かなくなった。


 十日後。


 本当に、アイリはいなくなる。


 頭では分かっていたはずなのに、机の中が少しずつ空いていくのを見ると、そのことが急に現実味を帯びてくる。


「カイ」


 呼ばれて顔を上げる。


「これ、返しておくね」


 アイリが差し出したのは、一冊の本だった。


「ああ……」


 何か月か前に貸したものだ。


「もう読んだ?」

「うん。面白かったよ」

「別に、急いで返さなくてもよかったのに」

「向こうに持っていくわけにはいかないでしょう?」

「……そうだけど」


 カイは本を受け取る。


 アイリはそのまま自分の席へ戻っていった。


 その背中を見ながら、カイは思った。


 今、言わなければ。


 もう間に合わない。



「今日、放課後少し時間ある?」


 昼休み。


 カイが尋ねると、アイリは首を傾げた。


「今日は大丈夫だけど」

「話したいことがある」

「今じゃ駄目なの?」

「……二人で話したい」


 その言葉に、アイリが一瞬だけ黙る。


「分かった」

「じゃあ、授業終わったら待ってて」

「うん」


 それだけの会話だった。


 けれど午後の授業中、カイは何度も時計へ目をやった。


 何をどう言えばいいのか。


 ずっと考えていた。


 好きだ。


 たったそれだけなのに。


 これまで誰かに何かを伝えるとき、こんなに緊張したことはなかった。


 あのときは、何の気持ちもなかったから簡単に言えた。


『君のことが好きなんだ』


 軽い気持ちで。


 何も考えずに。


 今は、同じ言葉が喉につかえて出てこない。



 放課後。


 カイはアイリを学院の裏庭へ連れていった。


 季節の花が植えられた、小さな庭。校舎から少し離れているため、放課後になると人の姿も少ない。


「ここでいい?」


 アイリが聞く。


「うん」


 カイは足を止め、アイリと向かい合った。


 夕方の光を受けて、黒髪に青い艶が浮かんでいる。


 何度見てきたか分からない。


 子どもの頃から、ずっと。


「カイ?」

「……ごめん」

「何が?」

「いや」


 カイは一度、息を吐いた。


「緊張してる」


 アイリが少し驚いた顔をする。


「カイが?」

「俺だって緊張くらいするよ」

「そうなんだ」

「する」


 思わずカイが笑うと、アイリもほんの少し笑った。


 いつもの空気。


 それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


 だからカイは、ようやく口を開いた。


「アイリ」

「うん」

「俺、アイリが好きだ」


 アイリの笑顔が消えた。


 そのまま、動かなくなる。


 風だけが二人の間を通り抜けた。


「……え?」

「好きなんだ」


 もう一度言う。


 今度は、はっきりと。


「幼馴染としてじゃない。ちゃんと、一人の女の子として好きだ」


 アイリの濃い茶色の瞳が揺れる。


 ようやく言えた。


 カイの胸は痛いほど鳴っていた。


 けれど、アイリは何も言わなかった。


「アイリ?」

「……ごめん。少し待って」

「うん」


 アイリは視線を落とした。


 指先をぎゅっと握っている。


 カイは黙って待った。


 やがて、アイリが小さく尋ねる。


「いつから?」

「え?」

「いつから、私のことが好きなの?」


 カイは答えようとして、言葉に詰まった。


「……気づいたのは、最近」

「最近って?」

「留学するって聞いてから……色々考えて」


 アイリの指先が、わずかに動く。


「それで?」

「最初は、いなくなるのが嫌だと思った」


 カイはできるだけ正直に話した。


「一年近く会えないって考えたら、すごく嫌で。それから、向こうでアイリに恋人ができるかもしれないって言われて」

「……」

「それが、もっと嫌だった」


 アイリは黙って聞いている。


「そこで分かったんだ」


 カイは一歩だけ近づいた。


「俺、アイリが好きなんだって」


 アイリが顔を上げる。


 その瞳を見た瞬間、カイは息を止めた。


 そこに、喜びはなかった。


「それ、本当に恋なの?」

「……え?」

「私がいなくなるから、寂しくなっただけじゃない?」

「違う」


 反射的に否定する。


「本当に、そう言いきれる?」

「言いきれる」

「本当に?」

「本当だ」


 アイリはしばらくカイを見つめていた。


「でも」


 静かな声だった。


私が留学するって決めなかったら、気づかなかったんでしょう?」

「……」


 答えられない。


「私がずっとセイランにいたら?」

「それは……」

「今までみたいに毎朝会って、一緒に学院へ行って、一緒に帰って」


 アイリは淡々と続ける。


「それがずっと続いていたら、カイは今も私を幼馴染だと思ってたんじゃない?」

「でも、気づいたんだ。今はちゃんと自分の気持ちが分かってる」

「でも」


 アイリが遮った。


「私は、分からない」


 カイの言葉が止まる。


「カイが私を好きなのか」


 アイリは少しだけ目を伏せた。


「それとも、今まで自分のそばにいた人がいなくなるのが怖いだけなのか」

「違うって」

「私には分からないよ」

「俺には分かる」

「私は?」


 カイは黙った。


「私が信じられるかどうかは、別でしょう?」


 何も言えなかった。


 その通りだった。



「私ね」


 アイリがゆっくりと息を吐く。


「カイのこと、ずっと好きだったよ」


 カイの目が見開かれた。


「……え?」

「ずっと」

「だったら」


 思わず声が弾ぐ。


「だったら、俺たち――」

「でも、もう駄目なの」


 あまりにも静かな声で言われて、一瞬、意味を理解できなかった。


「……なんで?」

「聞いちゃったから」

「何を?」

「あの日。教室で、カイたちが話してるの」


 胸の奥に、嫌な予感が走る。


「友達に聞かれてたでしょう? 私のこと、好きかって」


『お前、アイリのこと好きなの?』


 カイの顔から血の気が引いた。


「……聞いてたの?」

「うん」

「どこまで?」

「全部」


 アイリが小さく笑った。


 けれど、その笑顔はいつものものとは違った。


「『ないない。幼馴染だぞ』って」

「アイリ、あれは」

「分かってるよ」


 責める声ではなかった。


「でも、そのときは本当にそう思ってたんでしょう?」

「……うん」

「だったら、それは嘘じゃないよ」


 カイは唇を噛んだ。


 違うと言いたい。


 けれど、あの日の自分は本当にそう思っていた。


「傷ついたけど、仕方ないって思った」

「アイリ」

「それがカイの本当の気持ちなら、ちゃんと受け止めようと思った」


 その言葉が痛かった。


「でも」


 アイリの表情が変わる。


「そのあと、見たの」


 カイの胸が嫌な音を立てた。


「……何を?」

「告白」


 呼吸が止まる。


「あなたが、別のクラスの子に告白してるところ」


 カイの顔が強張った。


「あれは違う」


 すぐに言った。


「あれは、本気じゃない」


 アイリが瞬きをする。


「……本気じゃない?」

「違うんだ」


 カイは必死に続けた。


「エイドリアンたちに煽られて。俺ならあの子を落とせるだろって言われて」

「……」

「それで、くだらない意地張って」


 アイリの顔から、少しずつ表情が消えていく。


 カイはそれに気づいていた。


 それでも、説明しなければと思った。


「本当に好きだったわけじゃない。あの子にも、その場で断られた」

「……待って」

「アイリ?」

「じゃあ」


 アイリが初めて、少しだけ眉を寄せた。


「好きでもない人に、好きだって言ったの?」


 カイは答えられなかった。


 沈黙。


 それだけで十分だった。


「……そうなんだ」

「アイリ」

「それで、もしその人が本気にしてたら、どうするつもりだったの?」

「……」

「嬉しいって言われたら?」

「そのときは、ちゃんと」

「ちゃんと?」


 アイリの声が揺れた。


 怒鳴っているわけではない。


 それでも初めて、押さえていた感情がはっきりと滲んだ。


「冗談でしたって言うの?」

「……」

「友達に言われたから、告白してみただけですって?」

「ごめん」

「私じゃなくて」


 すぐに返ってきた。


 カイが息を止める。


「謝る相手、私じゃないでしょう?」

「……うん」


 その通りだった。


 言い訳の余地もない。


「彼女には、ちゃんと謝る」

「その方がいいと思うわ」


 アイリは視線を落とした。


「私、勘違いしてた」

「何を?」

「あのとき」


 ほんの少し苦笑する。


「あなたには、好きな人ができたんだと思ったの」

「違う」

「うん。今、分かった」

「じゃあ」

「でも」


 アイリが顔を上げる。


「それを知っても、嬉しくない」


 カイは言葉を失った。


「……どうして」

「分からない?」


 アイリが、少しだけ悲しそうに笑った。


「私はずっと、カイに好きな人ができたんだと思ってた」

「うん」

「だから、諦めようと思った」

「……うん」

「苦しかったよ」


 カイは何も言えない。


「でもね」


 アイリは続ける。


「今の方が、少し嫌かもしれない」

「……」

「だって」


 一度だけ息を詰まらせる。


「私があんなに欲しかった言葉を、あなたは、好きでもない人には簡単に言えたんでしょう?」


 何も返せなかった。


「『好き』って」


 アイリの声が小さくなる。


「私はずっと言ってほしかったのに」

「アイリ……」

「いつか、そう言ってくれたらいいなって思ってた」


 カイは初めて、自分がしたことの重さを本当の意味で理解した。


 軽い悪ふざけだった。


 そのつもりだった。


 誰かを傷つけようとしたわけではない。


 まして、アイリを傷つけるなんて考えもしなかった。


 けれど。


 悪意がなかったことは、傷つけなかったことにはならない。


「俺……」


 喉が詰まる。


「最低だ」

「……」

「ごめん。本当にごめん」

「もう分かったから」


 アイリはもう責めなかった。


 だからこそ、カイには何も言い訳できなかった。


「でも」


 それでも、伝えずにはいられなかった。


「今言ったことは、本当なんだ」


 アイリが目を閉じる。


「今は本当にアイリが好きなんだ」

「……うん」

「嘘じゃない」

「分かってる」

「だったら」

「分かってるから、困ってるの」


 カイは黙った。


 アイリの瞳が少し潤んでいた。


「もし、全部嘘なら」


 小さな声だった。


「もっと簡単に嫌いになれたかもしれない」

「……」

「でも、今のカイが本気なのは、たぶん本当なんだと思う」


 アイリは彼を見る。


 ずっと好きだった人。


 何度も願った。


 いつか、この人が自分を好きになってくれたら。


 そう思っていた。


 今、その願いが叶っている。


 なのに。


「言うのが、遅いよ」


 それだけだった。


 カイの顔が歪む。


「……ごめん」


 アイリは静かに続けた。


「私ね、ずっとカイの隣にいたら、いつか好きになってもらえるかもしれないって思ってた」

「……」

「自分から言って、もし違ってたら、この関係が壊れそうで怖かったの。だから、何も言わずに待ってた」


 風が吹き、黒髪が頬へかかる。


 アイリはそれを耳にかけた。


「でも、もう待つのはやめたの」


 カイは動けなかった。


 その言葉は、ただ告白を断られるよりもずっと痛かった。


「留学は……俺のせい?」

「違うよ」


 アイリはすぐに答えた。


「オルティギアには、私が行きたいから行くの」

「……そっか」

「うん」


 カイは少し俯いた。


「もし」


 声を絞り出す。


「俺がもっと早く気づいてたら?」


 アイリは黙った。


 その沈黙が、一番痛かった。


 やがて、


「分からない」


 そう答える。


 それから、少しだけ笑った。


「でも、嬉しかったと思う」


 カイは目を伏せる。


「……そっか」


 それ以上、何も言えなかった。



 しばらく、二人とも動かなかった。


 やがてアイリが言う。


「帰ろうかな」

「……うん」


 カイは顔を上げた。


「送るよ」

「大丈夫」

「でも」

「お願い。今日は、一人で帰りたいの」


 その言葉に、カイは伸ばしかけた手を下ろした。


「……分かった」

「ごめんね」

「謝るなよ」


 思わず言った。


 アイリが少し驚いた顔をする。


「今のは俺が悪い」

「……うん」

「だから、謝らないで」


 アイリはしばらくカイを見てから、


「分かった」


 と答えた。


「じゃあ、また明日」

「ああ。また明日」


 いつもの言葉。


 けれど、今日はまるで違って聞こえた。


 アイリが歩いていく。


 カイは追わなかった。


 今は追ってはいけない気がした。


 夕方の庭に一人残る。


「……馬鹿だな、俺」


 小さく呟いた。


 ずっと欲しいと思っていたわけではない。


 失いそうになって、ようやく欲しいと気づいた。


 そして、欲しいと気づいたときには。


 もう相手は、自分を待つことをやめていた。



 その夜。


 カイは机の前に座っていた。


 引き出しを開ける。


 中には、昔のものがいくつも残っていた。


 アイリからもらった誕生日のカード。


 子どもの頃、一緒に買った小さな栞。


 授業中に回された、くだらない走り書き。


『今日、帰りにケーキ屋さんに寄る?』


 そんな紙まで残っている。


 どうして捨てなかったのだろう。


 今なら分かる。


 大切だったからだ。


 ずっと。


 自分でも知らないうちに。


 大切だった。


 カイは額を押さえた。


『私があんなに欲しかった言葉を』


『あなたは、好きでもない人には簡単に言えたんでしょう?』


 胸の奥が痛んだ。


 あの日、軽い気持ちで口にした「好き」。


 今日、ようやく本当の気持ちで口にした「好き」。


 同じ言葉なのに。


 自分は一番大切な相手に、その言葉の価値を信じてもらえなくしてしまった。


「……ごめん」


 誰もいない部屋で呟く。


 謝っても戻らない。


 そんなことは分かっている。


 アイリがオルティギアへ行くことも、もう自分には止められない。


 止めてはいけない。


 それでも、好きだと気づいてしまった。


 今さら。


 どうしようもなく。


 カイは机の上の古い紙を握りしめることなく、壊さないようにそっと元の場所へ戻した。


 出発まで、あと十日。


 その数字は昨日よりもずっと、残酷に見えた。


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