第8話 言うのが、遅いよ
出発まで、あと十日。
アイリの机の周りから、少しずつ物が減っていた。
学院に置いていた参考書。予備の筆記具。委員会で使っていた資料。向こうでは必要のないものから、家へ持ち帰っているらしい。
カイは、それに気づくたびに落ち着かなくなった。
十日後。
本当に、アイリはいなくなる。
頭では分かっていたはずなのに、机の中が少しずつ空いていくのを見ると、そのことが急に現実味を帯びてくる。
「カイ」
呼ばれて顔を上げる。
「これ、返しておくね」
アイリが差し出したのは、一冊の本だった。
「ああ……」
何か月か前に貸したものだ。
「もう読んだ?」
「うん。面白かったよ」
「別に、急いで返さなくてもよかったのに」
「向こうに持っていくわけにはいかないでしょう?」
「……そうだけど」
カイは本を受け取る。
アイリはそのまま自分の席へ戻っていった。
その背中を見ながら、カイは思った。
今、言わなければ。
もう間に合わない。
◇
「今日、放課後少し時間ある?」
昼休み。
カイが尋ねると、アイリは首を傾げた。
「今日は大丈夫だけど」
「話したいことがある」
「今じゃ駄目なの?」
「……二人で話したい」
その言葉に、アイリが一瞬だけ黙る。
「分かった」
「じゃあ、授業終わったら待ってて」
「うん」
それだけの会話だった。
けれど午後の授業中、カイは何度も時計へ目をやった。
何をどう言えばいいのか。
ずっと考えていた。
好きだ。
たったそれだけなのに。
これまで誰かに何かを伝えるとき、こんなに緊張したことはなかった。
あのときは、何の気持ちもなかったから簡単に言えた。
『君のことが好きなんだ』
軽い気持ちで。
何も考えずに。
今は、同じ言葉が喉につかえて出てこない。
◇
放課後。
カイはアイリを学院の裏庭へ連れていった。
季節の花が植えられた、小さな庭。校舎から少し離れているため、放課後になると人の姿も少ない。
「ここでいい?」
アイリが聞く。
「うん」
カイは足を止め、アイリと向かい合った。
夕方の光を受けて、黒髪に青い艶が浮かんでいる。
何度見てきたか分からない。
子どもの頃から、ずっと。
「カイ?」
「……ごめん」
「何が?」
「いや」
カイは一度、息を吐いた。
「緊張してる」
アイリが少し驚いた顔をする。
「カイが?」
「俺だって緊張くらいするよ」
「そうなんだ」
「する」
思わずカイが笑うと、アイリもほんの少し笑った。
いつもの空気。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
だからカイは、ようやく口を開いた。
「アイリ」
「うん」
「俺、アイリが好きだ」
アイリの笑顔が消えた。
そのまま、動かなくなる。
風だけが二人の間を通り抜けた。
「……え?」
「好きなんだ」
もう一度言う。
今度は、はっきりと。
「幼馴染としてじゃない。ちゃんと、一人の女の子として好きだ」
アイリの濃い茶色の瞳が揺れる。
ようやく言えた。
カイの胸は痛いほど鳴っていた。
けれど、アイリは何も言わなかった。
「アイリ?」
「……ごめん。少し待って」
「うん」
アイリは視線を落とした。
指先をぎゅっと握っている。
カイは黙って待った。
やがて、アイリが小さく尋ねる。
「いつから?」
「え?」
「いつから、私のことが好きなの?」
カイは答えようとして、言葉に詰まった。
「……気づいたのは、最近」
「最近って?」
「留学するって聞いてから……色々考えて」
アイリの指先が、わずかに動く。
「それで?」
「最初は、いなくなるのが嫌だと思った」
カイはできるだけ正直に話した。
「一年近く会えないって考えたら、すごく嫌で。それから、向こうでアイリに恋人ができるかもしれないって言われて」
「……」
「それが、もっと嫌だった」
アイリは黙って聞いている。
「そこで分かったんだ」
カイは一歩だけ近づいた。
「俺、アイリが好きなんだって」
アイリが顔を上げる。
その瞳を見た瞬間、カイは息を止めた。
そこに、喜びはなかった。
「それ、本当に恋なの?」
「……え?」
「私がいなくなるから、寂しくなっただけじゃない?」
「違う」
反射的に否定する。
「本当に、そう言いきれる?」
「言いきれる」
「本当に?」
「本当だ」
アイリはしばらくカイを見つめていた。
「でも」
静かな声だった。
私が留学するって決めなかったら、気づかなかったんでしょう?」
「……」
答えられない。
「私がずっとセイランにいたら?」
「それは……」
「今までみたいに毎朝会って、一緒に学院へ行って、一緒に帰って」
アイリは淡々と続ける。
「それがずっと続いていたら、カイは今も私を幼馴染だと思ってたんじゃない?」
「でも、気づいたんだ。今はちゃんと自分の気持ちが分かってる」
「でも」
アイリが遮った。
「私は、分からない」
カイの言葉が止まる。
「カイが私を好きなのか」
アイリは少しだけ目を伏せた。
「それとも、今まで自分のそばにいた人がいなくなるのが怖いだけなのか」
「違うって」
「私には分からないよ」
「俺には分かる」
「私は?」
カイは黙った。
「私が信じられるかどうかは、別でしょう?」
何も言えなかった。
その通りだった。
◇
「私ね」
アイリがゆっくりと息を吐く。
「カイのこと、ずっと好きだったよ」
カイの目が見開かれた。
「……え?」
「ずっと」
「だったら」
思わず声が弾ぐ。
「だったら、俺たち――」
「でも、もう駄目なの」
あまりにも静かな声で言われて、一瞬、意味を理解できなかった。
「……なんで?」
「聞いちゃったから」
「何を?」
「あの日。教室で、カイたちが話してるの」
胸の奥に、嫌な予感が走る。
「友達に聞かれてたでしょう? 私のこと、好きかって」
『お前、アイリのこと好きなの?』
カイの顔から血の気が引いた。
「……聞いてたの?」
「うん」
「どこまで?」
「全部」
アイリが小さく笑った。
けれど、その笑顔はいつものものとは違った。
「『ないない。幼馴染だぞ』って」
「アイリ、あれは」
「分かってるよ」
責める声ではなかった。
「でも、そのときは本当にそう思ってたんでしょう?」
「……うん」
「だったら、それは嘘じゃないよ」
カイは唇を噛んだ。
違うと言いたい。
けれど、あの日の自分は本当にそう思っていた。
「傷ついたけど、仕方ないって思った」
「アイリ」
「それがカイの本当の気持ちなら、ちゃんと受け止めようと思った」
その言葉が痛かった。
「でも」
アイリの表情が変わる。
「そのあと、見たの」
カイの胸が嫌な音を立てた。
「……何を?」
「告白」
呼吸が止まる。
「あなたが、別のクラスの子に告白してるところ」
カイの顔が強張った。
「あれは違う」
すぐに言った。
「あれは、本気じゃない」
アイリが瞬きをする。
「……本気じゃない?」
「違うんだ」
カイは必死に続けた。
「エイドリアンたちに煽られて。俺ならあの子を落とせるだろって言われて」
「……」
「それで、くだらない意地張って」
アイリの顔から、少しずつ表情が消えていく。
カイはそれに気づいていた。
それでも、説明しなければと思った。
「本当に好きだったわけじゃない。あの子にも、その場で断られた」
「……待って」
「アイリ?」
「じゃあ」
アイリが初めて、少しだけ眉を寄せた。
「好きでもない人に、好きだって言ったの?」
カイは答えられなかった。
沈黙。
それだけで十分だった。
「……そうなんだ」
「アイリ」
「それで、もしその人が本気にしてたら、どうするつもりだったの?」
「……」
「嬉しいって言われたら?」
「そのときは、ちゃんと」
「ちゃんと?」
アイリの声が揺れた。
怒鳴っているわけではない。
それでも初めて、押さえていた感情がはっきりと滲んだ。
「冗談でしたって言うの?」
「……」
「友達に言われたから、告白してみただけですって?」
「ごめん」
「私じゃなくて」
すぐに返ってきた。
カイが息を止める。
「謝る相手、私じゃないでしょう?」
「……うん」
その通りだった。
言い訳の余地もない。
「彼女には、ちゃんと謝る」
「その方がいいと思うわ」
アイリは視線を落とした。
「私、勘違いしてた」
「何を?」
「あのとき」
ほんの少し苦笑する。
「あなたには、好きな人ができたんだと思ったの」
「違う」
「うん。今、分かった」
「じゃあ」
「でも」
アイリが顔を上げる。
「それを知っても、嬉しくない」
カイは言葉を失った。
「……どうして」
「分からない?」
アイリが、少しだけ悲しそうに笑った。
「私はずっと、カイに好きな人ができたんだと思ってた」
「うん」
「だから、諦めようと思った」
「……うん」
「苦しかったよ」
カイは何も言えない。
「でもね」
アイリは続ける。
「今の方が、少し嫌かもしれない」
「……」
「だって」
一度だけ息を詰まらせる。
「私があんなに欲しかった言葉を、あなたは、好きでもない人には簡単に言えたんでしょう?」
何も返せなかった。
「『好き』って」
アイリの声が小さくなる。
「私はずっと言ってほしかったのに」
「アイリ……」
「いつか、そう言ってくれたらいいなって思ってた」
カイは初めて、自分がしたことの重さを本当の意味で理解した。
軽い悪ふざけだった。
そのつもりだった。
誰かを傷つけようとしたわけではない。
まして、アイリを傷つけるなんて考えもしなかった。
けれど。
悪意がなかったことは、傷つけなかったことにはならない。
「俺……」
喉が詰まる。
「最低だ」
「……」
「ごめん。本当にごめん」
「もう分かったから」
アイリはもう責めなかった。
だからこそ、カイには何も言い訳できなかった。
「でも」
それでも、伝えずにはいられなかった。
「今言ったことは、本当なんだ」
アイリが目を閉じる。
「今は本当にアイリが好きなんだ」
「……うん」
「嘘じゃない」
「分かってる」
「だったら」
「分かってるから、困ってるの」
カイは黙った。
アイリの瞳が少し潤んでいた。
「もし、全部嘘なら」
小さな声だった。
「もっと簡単に嫌いになれたかもしれない」
「……」
「でも、今のカイが本気なのは、たぶん本当なんだと思う」
アイリは彼を見る。
ずっと好きだった人。
何度も願った。
いつか、この人が自分を好きになってくれたら。
そう思っていた。
今、その願いが叶っている。
なのに。
「言うのが、遅いよ」
それだけだった。
カイの顔が歪む。
「……ごめん」
アイリは静かに続けた。
「私ね、ずっとカイの隣にいたら、いつか好きになってもらえるかもしれないって思ってた」
「……」
「自分から言って、もし違ってたら、この関係が壊れそうで怖かったの。だから、何も言わずに待ってた」
風が吹き、黒髪が頬へかかる。
アイリはそれを耳にかけた。
「でも、もう待つのはやめたの」
カイは動けなかった。
その言葉は、ただ告白を断られるよりもずっと痛かった。
「留学は……俺のせい?」
「違うよ」
アイリはすぐに答えた。
「オルティギアには、私が行きたいから行くの」
「……そっか」
「うん」
カイは少し俯いた。
「もし」
声を絞り出す。
「俺がもっと早く気づいてたら?」
アイリは黙った。
その沈黙が、一番痛かった。
やがて、
「分からない」
そう答える。
それから、少しだけ笑った。
「でも、嬉しかったと思う」
カイは目を伏せる。
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
◇
しばらく、二人とも動かなかった。
やがてアイリが言う。
「帰ろうかな」
「……うん」
カイは顔を上げた。
「送るよ」
「大丈夫」
「でも」
「お願い。今日は、一人で帰りたいの」
その言葉に、カイは伸ばしかけた手を下ろした。
「……分かった」
「ごめんね」
「謝るなよ」
思わず言った。
アイリが少し驚いた顔をする。
「今のは俺が悪い」
「……うん」
「だから、謝らないで」
アイリはしばらくカイを見てから、
「分かった」
と答えた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
いつもの言葉。
けれど、今日はまるで違って聞こえた。
アイリが歩いていく。
カイは追わなかった。
今は追ってはいけない気がした。
夕方の庭に一人残る。
「……馬鹿だな、俺」
小さく呟いた。
ずっと欲しいと思っていたわけではない。
失いそうになって、ようやく欲しいと気づいた。
そして、欲しいと気づいたときには。
もう相手は、自分を待つことをやめていた。
◇
その夜。
カイは机の前に座っていた。
引き出しを開ける。
中には、昔のものがいくつも残っていた。
アイリからもらった誕生日のカード。
子どもの頃、一緒に買った小さな栞。
授業中に回された、くだらない走り書き。
『今日、帰りにケーキ屋さんに寄る?』
そんな紙まで残っている。
どうして捨てなかったのだろう。
今なら分かる。
大切だったからだ。
ずっと。
自分でも知らないうちに。
大切だった。
カイは額を押さえた。
『私があんなに欲しかった言葉を』
『あなたは、好きでもない人には簡単に言えたんでしょう?』
胸の奥が痛んだ。
あの日、軽い気持ちで口にした「好き」。
今日、ようやく本当の気持ちで口にした「好き」。
同じ言葉なのに。
自分は一番大切な相手に、その言葉の価値を信じてもらえなくしてしまった。
「……ごめん」
誰もいない部屋で呟く。
謝っても戻らない。
そんなことは分かっている。
アイリがオルティギアへ行くことも、もう自分には止められない。
止めてはいけない。
それでも、好きだと気づいてしまった。
今さら。
どうしようもなく。
カイは机の上の古い紙を握りしめることなく、壊さないようにそっと元の場所へ戻した。
出発まで、あと十日。
その数字は昨日よりもずっと、残酷に見えた。




