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いつもそこに君がいた ~嘘の告白から、幼馴染だった二人の距離が変わり始める~  作者: 黒猫と珈琲


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第7話 いなくなると知って

 アイリの出発まで、あと三週間。


 留学が決まってから、カイは妙にアイリの予定を聞くようになった。


「今日、放課後空いてる?」

「今日は留学の手続きがあるよ」

「終わったあとなら?」

「ラウラと買い物に行くの。向こうで使うものを揃えないといけないから」

「……そっか」


 翌日は、


「今日こそ空いてる?」

「今日は何もないけど」

「じゃあ、一緒に帰ろう」

「いいよ」


 その次の日には、


「今度の休日、予定ある?」

「午前中は家族と買い物かな」

「午後は?」

「たぶん空いてるけど」

「じゃあ、出かけよう」


 アイリは少し目を丸くした。


「最近、よく誘うね」

「そう?」

「うん」


 カイは一瞬、言葉に詰まる。


 来月にはいなくなるから。


 そう言いかけて、やめた。


「しばらく遊べなくなるだろ」

「そうだね」


 アイリは穏やかに笑う。


「じゃあ、午後からなら」

「決まり」


 カイも笑った。


 けれど、その笑顔を見ながら、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


 アイリは留学の話をするとき、もう以前ほど寂しそうな顔をしなくなっていた。



 休日。


 二人が向かったのは、幼い頃によく通った菓子店だった。


「あ」


 店の看板を見て、アイリが笑う。


「懐かしい」

「だろ?」

「まだあったんだね」

「失礼だな」

「だって何年も来てないでしょう?」

「三年くらい?」

「もっとじゃない?」

「そうだっけ」


 古い木の扉を開けると、店の中には甘い焼き菓子の香りが満ちていた。


 窓際には小さな丸いテーブルが並んでいる。壁の色も、古い飾り棚も、二人が子どもの頃からほとんど変わっていない。


「昔、あそこに座ってたよね」


 アイリが一番奥の席を指さす。


「覚えてる?」

「覚えてるよ」

「カイ、私のお菓子まで食べた」

「そんなことした?」

「したよ」

「覚えてない」

「私は覚えてる」


 アイリが笑いながら席につき、カイも向かいへ腰を下ろした。


「何食べる?」

「迷うなあ」

「昔は絶対、木苺のタルトだっただろ」

「よく覚えてるね」

「そりゃ覚えてるよ」

「じゃあ、それにしようかな」


 何気なく答えてから、アイリが少し笑った。


「本当に何でも覚えてるんだね」

「アイリのことなら大体ね」


 口にした瞬間、カイは自分の言葉にわずかに引っかかった。


 けれどアイリは気にした様子もなく、メニューを見ている。


「じゃあ、カイは?」

「俺?」

「昔は蜂蜜のケーキばっかりだったでしょう?」

「……アイリだって覚えてるじゃん」

「幼馴染だからね」


 さらりと言われた。


 カイは返事をしないまま、メニューへ視線を落とした。


 幼馴染。


 以前なら何とも思わなかった言葉。


 むしろ自分から何度も口にしてきた言葉だった。


 それだけで十分、他の誰とも違うと思っていた。


 なのに今は、その言葉で線を引かれたような気がした。



 店を出たあと、二人は港の近くを歩いた。


 休日の大通りは人で賑わい、外国から来た商人たちの声や荷馬車の音が行き交っている。その向こうには青い海が広がり、港には何隻もの船が停泊していた。


「昔、ここで迷子になったの覚えてる?」


 アイリが言う。


「俺じゃない。アイリだろ」

「違うよ。カイ」

「絶対アイリ」

「私、ちゃんとお母さまのそばにいたもの」

「じゃあ、なんで俺がアイリの手握ってたの?」

「カイが迷子にならないように」

「嘘だ」

「本当」


 言い合って、二人で笑った。


 昔から、こうだった。


 特別なことをしなくても楽しかった。何を話してもいいし、話さなくても気まずくならない。少し先を歩いても、遅れても、振り返ればそこにいる。


 それがずっと普通だった。


「向こうでも」


 カイが口を開いた。


「こういう店、あるのかな」

「あると思うよ」

「菓子とか全然違いそう」

「寒い地域では木の実や香辛料を使うことが多いみたい」

「また調べたんだね」

「うん」

「本当に楽しそうだな」


 アイリは少し考えてから、頷いた。


「うん。楽しみだよ」

「……そっか」

「もちろん、寂しくないわけじゃないけど」


 アイリは海へ視線を向ける。


「でも今は、行く方が楽しみ」


 カイは何も返せなかった。


 応援したい。


 アイリが行きたいのなら、行けばいいと思う。


 それなのに、楽しみだと言われるたび、置いていかれるような気がした。


「カイ?」

「ん?」

「どうしたの?」

「……なんでもない」

「そう?」

「うん」


 カイは少しだけ先を歩いた。


 数歩進んでから、ふと振り返る。


 アイリはちゃんと後ろにいた。


 目が合うと、不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの?」

「いや。ちゃんとアイリがいるなと思って」

「何言ってるの。目の前にいるじゃない」

「……そうだよな」


 自分でも妙なことを言ったと思う。


 けれど、その姿を確かめただけで少し安心した。



 出発まで、あと二週間。


 学院でも、アイリがオルティギアへ行くことはすっかり知られていた。


「向こう行っても手紙くれよ」

「うん」

「浮空船どんなだったか教えて」

「分かった」

「お土産もよろしく」

「一年後なのに?」


 休み時間。


 アイリの周りには何人かの生徒が集まり、留学の話で盛り上がっている。


 カイは自分の席から、その様子を何となく眺めていた。


 最近、アイリがよく笑う。


 留学について質問されると、楽しそうに答える。


 あんな顔を、以前からしていただろうか。


「なあ」


 隣にいたエイドリアンが、カイの視線を追った。


「寂しくなるな」

「……何が?」

「アイリ」

「まあね」

「一年だろ?」

「うん」

「長いよな」

「……ああ。長い」


 即答すると、エイドリアンが少し笑った。


「お前、最近分かりやすいな」

「何が?」

「ずっとアイリ見てる」

「見てない」

「見てるって」

「たまたまだろ」

「この前も放課後、アイリ探してたじゃん」

「用事があったから」

「毎日?」


 カイは黙った。


 エイドリアンは面白そうに笑う。


「まあ、今のうちにたくさん一緒にいれば?」

「そのつもりだけど」

「帰ってきたら変わってるかもしれないしな」


 カイが顔を上げる。


「何が?」

「色々」

「色々って」

「一年も外国行くんだぞ」


 エイドリアンは何でもないことのように言った。


「留学先で恋人くらいできるかもな」


 一瞬、その言葉の意味がうまく入ってこなかった。


「……は?」

「だから、向こうで」

「なんで?」

「なんでって。普通にあるだろ」

「知らない奴ばっかりなのに?」

「だからだよ」

「……何だよ、それ」

「カイ。お前、何怒ってんだよ」

「怒ってない」

「いや、怒ってるだろ」


 カイは黙った。


 教室の向こうでは、アイリが男子生徒と話している。


 留学先について聞かれているだけだ。


 分かっている。


 それなのに、急にその光景が気になった。


 オルティギアには、自分はいない。


 ラウラもいない。


 学院の誰もいない。


 そして向こうの人たちは、アイリを「カイの幼馴染」として知らない。


 ただ、アイリという一人の少女を見る。


 その想像に、胸の奥がざわついた。



 その日の放課後。


「アイリ」


 カイは教室を出ようとしていた彼女を呼び止めた。


「なに?」

「今日、一緒に帰ろう」

「今日は何もないからいいよ」

「じゃあ帰ろう」


 二人で並んで学院を出る。


 いつもの坂道をしばらく歩いたところで、カイは唐突に口を開いた。


「オルティギアの学院って」

「うん?」

「共学?」

「え?」

「男もいるの?」


 アイリは目を瞬いた。


「いると思うけど」

「……そう」

「どうしたの?」

「いや」

「変なカイ」


 アイリが少し笑う。


 カイはその横顔を見た。


「私、向こうで友達できるかな」

「できるだろ」

「そうかな」

「アイリなら普通にできるって」

「だといいな」

「……男の友達も、できるだろうな」


 アイリがこちらを見る。


「え?」

「あ」


 口に出してから、自分でも何を聞いているのだろうと思った。


「いや。なんでもない」

「そう?」

「うん」


 カイは前を向いた。


 そして、少し前のことを思い出す。


 別の男子がアイリを誘ってもいいかと聞いてきたとき、反射的に「やめとけば」と答えた。


 誰かがアイリを褒めても。


 近づこうとしても。


 何となく気に入らなかった。


 理由なんて考えなかった。


 だって自分は幼馴染だから。


 誰よりアイリを知っている。


 誰より近くにいる。


 最後には、自分の隣にいる。


 そんなふうに、どこかで思っていた。


「……俺、馬鹿じゃん」


 思わず呟く。


「え?」

「なんでもない」

「今日のカイ、なんか変だよ」

「……ごめん」


 アイリが不思議そうに笑う。


 その顔を見た瞬間、カイの胸が大きく鳴った。


 今まで何度も見てきた笑顔のはずなのに。


 なぜか、目を逸らせなかった。



 その夜。


 カイは寝台に横になったまま、天井を見つめていた。


 眠れない。


『留学先で恋人くらいできるかもな』


 エイドリアンの声が、頭から離れなかった。


「……嫌だ」


 誰もいない部屋で呟く。


 アイリに恋人ができる。


 嫌だった。


 考えたくもない。


 誰かと一緒に学院へ行く。


 誰かと昼を食べる。


 誰かと帰る。


 休日には二人で出かける。


 その誰かが、自分ではない。


 カイは腕で目元を覆った。


 どうして嫌なのか。


 もう、分からないふりはできなかった。


 アイリを誘おうとした男子を止めた。


 荷物を持った。


 帰りを待った。


 二人で出かけたかった。


 最近、ほんの少し離れただけで落ち着かなかった。


 留学すると聞いたときは、頭が真っ白になった。


 来月から一年近く会えなくなることが、どうしようもなく嫌だった。


 全部。


 幼馴染だからだと思っていた。


 でも、本当にそれだけなら。


 アイリが他の誰かを好きになることを、こんなに嫌だと思うはずがない。


「……好きなんだ」


 声にすると、驚くほど簡単だった。


 カイはゆっくりと腕を下ろす。


「俺、アイリが好きなんだ」


 十七年間。


 ずっとそばにいた。


 いつでも会えた。


 呼べば振り向いた。


 明日も、その次の日も。


 ずっと同じ場所にいるのだと思っていた。


 だから、自分の気持ちに名前をつける必要なんてなかった。


 けれど、アイリがいなくなると知って、ようやく分かった。


 失いたくない。


 誰かに取られるなんて嫌だ。


 もっと一緒にいたい。


 それを、恋と呼ぶのだと。


 カイは目を閉じた。


 気づいた瞬間、最初に浮かんだのは喜びではなかった。


 あと二週間。


 その短さだった。


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