第6話 どうして俺に相談しなかったんだ
留学の申請書を提出してから、十日ほどが経った。
選考には書類審査と簡単な面談がある。アイリは放課後に何度か担当教師のところへ足を運び、オルティギアで何を学びたいのか、向こうでの生活に不安はないかと尋ねられた。
不安がないわけではない。
けれど、
「それでも、行ってみたいです」
そう答えることには、もう迷わなくなっていた。
そして、その日の昼休み。
担任から呼び出されたアイリは、一枚の通知を受け取った。
「アイリさん。おめでとうございます。留学生としての推薦が決まりましたよ」
「……本当ですか?」
「ええ。正式な手続きはまだ残っていますが、よほどのことがなければ、このまま決定になるでしょう」
アイリは紙を見つめた。
オルティギア王国。
交換留学生。
そして、自分の名前。
文字を追ううちに、じわじわと実感が湧いてくる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「出発は来月になる。準備期間はあまり長くないから、家族とも相談して進めるように」
「はい」
職員室を出ると、待っていたラウラがすぐに駆け寄ってきた。
「どうだった?」
アイリが通知を見せる。
ラウラの顔がぱっと明るくなった。
「受かったの?」
「うん」
「やったじゃない!」
「……うん」
「何、その顔」
「まだ少し信じられなくて」
「あんなに本読んで、面談の練習までしたのに?」
「それとこれとは別よ」
「ともかく、これで本当にオルティギアに行けるのね」
本当に。
その言葉に、胸が高鳴った。
「うん」
アイリは今度こそ笑った。
「私、行ってくる」
◇
「聞いたぞ、アイリ嬢」
その日の午後。
授業が始まる前、同じクラスの男子生徒に声をかけられた。
「オルティギアに留学するんだって?」
「え?」
アイリが驚いて振り向く。
「もう知ってるの?」
「先生たちが話してたから。うちの学院から留学生って珍しいし」
「そっか」
「すごいな。向こうでは浮空船にも乗るんだろ?」
「たぶんね」
「いいなあ。俺も一度乗ってみたい」
「私も楽しみ」
自然にそう答えられた。
以前なら、楽しみだと言う前に「でも不安で」と付け加えていたかもしれない。
今は、楽しみなものは楽しみだと言っていい気がした。
「アイリ」
不意に名前を呼ばれた。
振り返る。
少し離れたところに、カイが立っていた。
その顔から、さっきまでの笑みが消えている。
「……留学って、どういうこと?」
アイリは目を瞬いた。
「あ」
まだ話していなかった。
隠していたわけではない。
けれど申請して、面談を受けて、結果が出るまで。
カイに話す機会を作らなかった。
以前なら、真っ先に話していたはずなのに。
「うん」
アイリは答えた。
「実は、オルティギアに行くことになったの」
「行くことになったって……」
カイが近づいてくる。
「いつ決めたの?」
「少し前」
「少し前って、いつ?」
「申請したのは十日くらい前かな」
「十日?」
思わず声が大きくなったのか、周囲の生徒がちらりとこちらを見る。
カイもそれに気づき、少し声を落とした。
「……ちょっといい?」
「もうすぐ授業だけど」
「少しだけ」
いつもとは違う顔だった。
アイリは迷ったものの、頷く。
「分かった」
◇
連れて行かれたのは、教室から少し離れた渡り廊下だった。
昼休みの終わりが近いせいか、人の姿はほとんどない。
カイが足を止め、振り向く。
その顔には、まだ困惑が残っていた。
「本当に行くの?」
「うん」
「オルティギアに?」
「そうだよ」
「どれくらい?」
「一年近く」
「一年……」
カイの表情が固まった。
「いつから?」
「来月」
「来月?」
「うん」
「そんなすぐ?」
「留学制度だから、向こうの学期に合わせないといけないの」
カイは髪をかき上げる。
いつもならすぐに返ってくる言葉が、今日はなかなか出てこないようだった。
「……なんで」
「え?」
「なんで俺、知らなかったんだよ」
アイリは少しだけ目を見開いた。
「言ってなかったから」
「それは分かってる」
カイの声に、わずかな苛立ちが混じる。
「なんで言わなかったの?」
「まだ決まってなかったから」
「でも申請したんだろ?」
「うん」
「面談も?」
「受けたよ」
「その間、一回も俺に言わなかったじゃん」
アイリは黙った。
確かに、話そうと思えば何度でも話せた。毎朝会う日もあったし、教室でも言葉を交わした。
それでも。
伝えようとは思わなかった。
「なんで俺に相談しなかったんだよ」
その言葉に、アイリは少しだけ首を傾げた。
「どうしてあなたに相談するの?」
カイの表情が止まった。
「……え?」
「留学するかどうかでしょう?」
「そうだけど」
「家族には相談したよ。先生にも話を聞いたし、ラウラにも相談した」
「じゃあ、なんで俺には」
そこで言葉が途切れる。
アイリは静かにカイを見た。
「どうして?」
「どうしてって……」
カイは答えられない。
以前なら、アイリは何でも自分に話した。
弟と喧嘩したこと。母親への贈り物に何を選ぶか迷ったこと。授業で失敗したこと。進路について悩んだときも、些細なことまでよく話していた。
だから、こんな大事なことなら当然話すものだと思っていた。
「だって俺たち……」
そこまで言って、止まる。
幼馴染だから。
そう続けようとした。
けれど、その言葉だけでは足りないような気がした。
「幼馴染だから?」
アイリが静かに言う。
カイは顔を上げた。
「幼馴染だからって、進路を相談しないといけないわけじゃないでしょう?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「それは……」
言葉が出ない。
どうしてこんなに焦っているのか。
カイ自身にも、まだ分からなかった。
アイリが留学する。
一年近く。
山を越えた外国へ。
そして、それを自分だけ知らなかった。
「俺、急に聞いたから」
「うん」
「驚いたんだよ」
「ごめんね」
反射的に謝るアイリに、カイは眉を寄せた。
「いや、謝ってほしいわけじゃなくて」
「そう?」
「そうじゃなくて……」
また言葉に詰まる。
アイリが少しだけ困った顔をしたところで、授業開始を知らせる鐘が鳴った。
「あ」
アイリが校舎の方を見る。
「戻らないと」
「アイリ」
「あとで話す?」
「……うん」
「じゃあ、放課後に」
アイリは先に歩き出した。
カイはその背中を見送る。
これまで、アイリのことなら自分が一番知っていると思っていた。
好きなお菓子も。
苦手な食べ物も。
機嫌が悪いときの顔も。
眠いときに少しだけ返事が遅くなることも。
何だって知っている。
そう思っていた。
けれど。
アイリが外国へ行きたいと思っていたことを。
自分は知らなかった。
◇
授業中。
カイはほとんど教師の話を聞いていなかった。
一年。
長い。
一年あれば、季節が一巡する。
春も、夏も、秋も、冬も。
その間、アイリはいない。
朝、待ち合わせ場所へ行っても来ない。学院にもいない。昼休みに中庭へ行っても、隣には座らない。
一緒に帰ることもできないし、休日にケーキ屋へ誘うこともできない。
「……」
カイは窓際の席にいるアイリを見る。
アイリは真面目に教師の話を聞いていた。
いつもと同じ。
けれど来月には、いなくなる。
その事実だけが、やけに大きく感じられた。
「カイ」
隣のエイドリアンが小声で呼ぶ。
「何?」
「お前、今日ぼーっとしすぎ」
「……そう?」
「もしかして、アイリの留学のこと?」
カイは眉を寄せた。
「なんで知ってるの」
「もう結構広まってるぞ」
「そんなに?」
「留学するやつ、毎年少ないからな」
「……そっか」
「アイリ、すごいよな」
エイドリアンは何気なく続ける。
「前から外国のこと好きだったもんな」
カイが横を見る。
「エイドリアンは知ってたの?」
「何が?」
「アイリが外国に興味あるの」
「授業でも結構話してたじゃん」
「……そうだっけ」
「港に来る外国船の話とか好きだっただろ」
知らなかったわけではない。
聞いたことはあった。
けれど、それが留学したいと思うほどのものだとは考えたことがなかった。
「お前、幼馴染なのに知らなかったの?」
悪意のない一言だった。
それなのに、妙に刺さった。
「……うるさい」
カイは前を向いた。
◇
放課後。
アイリが教室で帰り支度をしていると、
「アイリ」
声をかけられた。
振り向くと、カイが立っている。
「帰れる?」
「うん」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
最近はあまり聞かなくなっていた言葉だった。
アイリは少し迷ったが、頷く。
「分かった」
二人で学院を出る。
港へ続く坂道を、夕方の風が吹き抜けていく。アイリの黒髪が揺れた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「オルティギアって」
先に口を開いたのはカイだった。
「どんなところ?」
アイリが彼を見る。
「気になる?」
「……そりゃ」
少し不機嫌そうな言い方に、アイリは小さく笑った。
「山に囲まれた国だよ」
「それは知ってる」
「浮空船が発達していて、山岳気象学や航行技術の研究も盛んなの」
「へえ」
「街と街の移動にも浮空船を使うんだって。学院の校外学習でも乗ることがあるみたい」
話し始めると、自然と声が弾んだ。
「セイランとは植物も違うみたいだし、冬はかなり寒い地域もあるの。天文学も盛んで――」
そこでアイリは気づく。
カイが黙ってこちらを見ていた。
「何?」
「いや」
カイは視線を逸らした。
「本当に行きたいんだなって」
「うん」
迷わず答える。
「行きたい」
その顔を見て、カイは何も言えなくなった。
行くな。
そんな言葉が一瞬だけ浮かぶ。
けれど、どうして行ってほしくないのか。
自分でも説明できない。
「……一人で行くの、怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあ」
「でも、楽しみでもあるの」
アイリは空を見る。
「知らないものがたくさんあるから」
その横顔は、カイの知らない顔に見えた。
少し前まで、アイリはいつも自分のそばにいた。
だから、自分の知っている場所がアイリの世界のほとんどなのだと、どこかで思っていたのかもしれない。
「手紙」
「え?」
「向こう行ったら、書けよ」
アイリが目を瞬く。
「うん。ラウラとも約束してる」
「俺にも」
少しだけ間が空いた。
「……うん。分かった」
それだけの返事なのに、カイはなぜか少し安心した。
◇
いつもの分かれ道へ着く。
「じゃあ、また明日」
アイリが言う。
「うん」
カイは頷いた。
けれどアイリが歩き出したあと、
「アイリ」
もう一度、呼び止める。
「なに?」
「……いや」
何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、また明日」
アイリは笑って、今度こそ帰っていく。
カイはその背中が見えなくなるまで立っていた。
今までは。
アイリが何かを決めるとき、相談されるのが当たり前だった。
何でも話してくれるのが当たり前だった。
自分だけは、アイリにとって特別なのだと思っていた。
けれど、それは約束された場所ではなかった。
相談してくれたのも。
待っていてくれたのも。
隣にいてくれたのも。
アイリ自身が、そうしたいと思っていたから。
そのことに、カイはまだ、ほんの少ししか気づいていなかった。




