第5話 私が行きたい場所
その日の夜。
アイリは自室の机に、留学案内を広げていた。
オルティギア王国。
セイランとの間には険しい山脈が連なり、陸路で越えるにはかなりの時間がかかる。そのため現在は、大型の浮空船を利用して行き来するのが一般的だという。
案内の表紙には、山々の上を飛ぶ大きな船が描かれていた。
「……すごい」
何度見ても、目を奪われる。
セイランでは、船といえば海を進むものだ。港へ行けば、大きな帆船も異国の船も毎日のように見られる。
けれどオルティギアでは、船が空を進む。
高い係留塔から人や荷物を乗せて飛び立ち、険しい山を越えて街と街を結ぶ。浮空船が発達したことで風を読む技術も進み、気象学や天文学、航行技術の研究も盛んだという。
さらに山岳地帯独自の植物や文化について学ぶ授業もある。
ページをめくるたび、知らないものが出てきた。
アイリは昔から外国の話を聞くのが好きだった。
港町で育ったからかもしれない。外国船が入るたび、どんな国から来たのだろうと考えた。商人たちが持ち込む珍しい品を眺めるのも好きだったし、学院の授業でも外国について扱う日はいつもより少し楽しみだった。
だからオルティギアへの留学案内を初めて見たときも、本当はすぐに興味を持った。
けれど、そのとき最初に浮かんだのは、
『一年近くも?』
ということだった。
家族と離れる。
ラウラと離れる。
そして、カイとも離れる。
それだけで、無理だと思った。
行きたいかどうかを考えるより先に、行かない理由を見つけていた。
「……」
アイリは案内の端を指でなぞった。
応募締切までは、まだ少しある。選考もあるので、希望すれば必ず行けるわけではない。
それでも、もし行けるとしたら。
山の向こうには何があるのだろう。
空から見る山脈は、どんな景色なのだろう。
セイランとはまったく違う学院で、自分は何を学べるのだろう。
考えているうちに、自然と次のページへ手が伸びた。
恋とは違う。
けれど胸の奥が、少しだけ弾む。
知らない扉を、そっと開いてみたくなるような気持ちだった。
「お姉さま?」
扉の向こうから声がした。
「どうぞ」
開いた扉から、妹のミレイが顔を覗かせる。
「まだ勉強してるの?」
「ううん。ちょっと資料を見てただけ」
「何の?」
「留学」
「留学?」
ミレイはぱっと目を大きくした。
「外国に行くの?」
「まだ行くって決めたわけじゃないよ」
「どこ?」
「オルティギア」
「空飛ぶ船があるところ?」
「知ってるの?」
「本で見た!」
ミレイは嬉しそうに机へ近づき、案内を覗き込んだ。
「お姉さま、これに乗るの?」
「だから、まだ決めてないって」
「いいなあ」
あまりにも素直な反応に、アイリは笑う。
「怖くないの?」
「何が?」
「知らない国に行くの」
ミレイは少し考えてから答えた。
「ちょっと怖い。でも、見てみたい」
「……そう」
「空から雲を見られるんでしょう?」
「たぶんね」
「見てきてよ」
「え?」
「それで帰ってきたら、どんなだったか教えて」
あまりにも簡単に言われて、アイリは目を瞬いた。
ミレイにとっては、行ったら帰ってくる。
ただ、それだけなのだ。
遠くへ行くことを、何かの終わりだとは思っていない。
「……そうだね」
アイリは小さく笑った。
「行けたら、たくさん話すね」
「約束ね」
「うん。約束」
◇
翌日の昼休み。
アイリは留学案内を持って図書室へ向かった。
そこにはオルティギアに関する資料もいくつか置かれている。旅行案内だけではなく、歴史や文化について書かれた本も借りて、机の上へ並べていた。
「本気で調べてるんだ」
正面から声がして、アイリは顔を上げる。
ラウラだった。
「うん。せっかくだから」
「座っていい?」
「もちろん」
ラウラが向かいの椅子へ座る。
机にはすでに数冊の本が積まれていた。
「山岳気象学、浮空船の歴史、オルティギアの地方文化……随分本格的ね」
「読んでみたら面白くて」
「へえ」
「ほら、これ」
アイリは一冊の本を開いて見せた。
山の中腹に造られた街の絵が載っている。
「街によって標高がかなり違うから、同じ国の中でも気候が全然違うんだって」
「本当だ」
「それで、陸路だけだと移動が大変だから、浮空船が発達したらしいの」
「うん」
「しかも大型船だけじゃなくて、小型の気球もあって――」
そこまで話して、アイリは言葉を止めた。
ラウラが笑っている。
「何?」
「いや」
「何よ」
「楽しそうだなと思って」
「……私?」
「うん」
アイリは開いたままの本を見る。
言われてみれば、さっきまで夢中になって話していた。
「そんなに興味あるなら、行けばいいのに」
「簡単に言わないで」
「どうして?」
「だって、一年近くよ?」
「うん」
「家族とも離れるし」
「うん」
「ラウラとも会えなくなる」
「手紙書けばいいでしょ」
「それはそうだけど」
「他には?」
アイリは黙った。
言わなくても、ラウラには分かっている。
「カイ?」
アイリは少しだけ目を伏せた。
「……今までなら、そうだったと思う」
「今までなら?」
「最初にこの案内を見たとき」
アイリは表紙へ視線を落とす。
「すごく興味があった。でも一年近くカイと離れるのは嫌だなって思った」
「うん」
「だから、それ以上考えなかった」
「行きたいかどうかも?」
「……うん」
口にしてみると、不思議だった。
自分は留学を諦めたつもりすらなかった。
ただ、選ばなかっただけ。
そう思っていた。
けれど本当は、自分が何をしたいのかを考えるより先に、カイのそばから離れないことを選んでいたのだ。
「ねえ、アイリ」
ラウラの声が、少しだけ柔らかくなる。
「カイがどう思うかじゃなくて、アイリがどうしたいかで決めなよ」
アイリは顔を上げた。
「私が?」
「そう」
「でも」
「カイが『行け』って言ったら行くの?」
「……分からない」
「じゃあ、『行かないで』って言ったら?」
アイリは答えられなかった。
ラウラは責めるようには言わない。
「留学するかどうかは、どっちでもいいよ」
「え?」
「行かないって決めてもいい。でもそれは、カイと離れたくないからじゃなくて、アイリがここにいたいからにした方がいいんじゃない?」
「……」
「逆も同じ」
ラウラは机の上の本を指で軽く叩いた。
「失恋したから外国へ行く、じゃなくて」
「うん」
「アイリが行ってみたいって思うなら、それでいいんじゃない?」
図書室は静かだった。
遠くでページをめくる音がする。
アイリは目の前の本へ視線を戻した。
青い空。
山の上に建つ街。
浮空船。
知らない国。
怖い。
もちろん怖い。
家族のいない場所で暮らす。友人もいない。学院の仕組みも違う。知っている人が一人もいない国へ行く。
それでも。
行かなかったとしたら。
いつか、あのとき行ってみればよかったと思う気がした。
「……行ってみたい」
声がこぼれた。
ラウラが目を瞬く。
アイリ自身も少し驚いた。
だから、もう一度言った。
「私、オルティギアに行ってみたい」
今度は、少しはっきりと。
言葉にすると、ぼんやりしていた気持ちが初めて形になった。
「浮空船に乗ってみたい」
「うん」
「山の上の街も見たい。向こうの学院の授業も受けてみたい」
「うん」
「知らないことを、もっと知りたい」
ラウラが笑った。
「じゃあ、答え出てるじゃん」
「……そうみたい」
アイリも笑う。
「怖いけど」
「怖くない人なんていないよ」
「そうかな」
「外国に一年行くんだよ? 普通に怖いでしょ」
あっさり言われて、アイリは吹き出した。
「ラウラって、こういうとき全然格好いいこと言わないよね」
「必要?」
「少しくらい」
「じゃあ――」
ラウラが少し考える。
「頑張れ、アイリ」
「普通」
「十分でしょ」
「うん」
それでいい気がした。
◇
その日の放課後。
アイリは学院の事務室を訪れた。
「留学制度について伺いたいのですが」
受付にいた教師が顔を上げる。
「オルティギアへの?」
「はい」
「案内は持っていますか?」
「はい」
「では、こちらが正式な申請書です」
差し出された紙を、アイリは両手で受け取った。
思っていたより、普通の紙だった。
これ一枚で人生が変わるわけではない。提出しても選考に通らないかもしれないし、家族とも相談しなければならない。
まだ何も決まっていない。
それなのに。
事務室を出るとき、来たときより少しだけ足取りが軽かった。
◇
「じゃあ、本当に行きたいのね」
その夜。
アイリは両親へ留学の話をした。
父も母も、すぐには答えなかった。
一年近く娘を外国へ送り出すのだから、当然だと思う。
「はい」
アイリは膝の上で指を組んだ。
「前から興味はありました。でも今まで、ちゃんと考えようとしていなかったんです」
「どうして?」
母に尋ねられ、アイリは少し迷った。
「知らない国へ一人で行くのが怖かったのもあります。それに……みんなと離れるのも嫌で」
「そう」
「でも、調べてみたら、やっぱり行ってみたいと思いました」
アイリは顔を上げる。
「向こうでしか学べないことがあります。セイランとは全然違う国だから、見てみたいものもたくさんあって」
一度息を吸って、続けた。
「どうか、行かせてください」
こんなふうに、自分から何かを強く望んだのは、いつ以来だろう。
父と母は顔を見合わせる。
やがて父が言った。
「少し驚いたな」
「……ごめんなさい」
「なぜ謝る?」
アイリは口を閉じた。
父が小さく笑う。
「駄目だとは言っていないよ」
「お父さま」
「寂しくはなるがな」
今度は母が、穏やかに微笑んだ。
「まずは選考を受けてみたら?」
「いいの?」
「あなたがそこまで行きたいと言うのなら」
アイリは二人を見つめ、それから小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
アイリは頭を下げた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、少しだけ不思議だった。
望んでもよかったのだ。
自分がやりたいことを口にしても、よかったのだ。
◇
翌日。
申請書には、志望理由を書く欄があった。
アイリはしばらくペンを持ったまま考えた。
オルティギアの航行技術を学びたい。
異文化に触れたい。
山岳国家独自の気象学について知りたい。
理由はいくつもある。
ふと、カイの顔が浮かんだ。
アイリはペンを止める。
今回の留学を真剣に考えるきっかけの一つになったことは、否定できない。
もし何も起こらなければ、自分は今年も案内を眺めるだけで終わったかもしれない。
けれど。
だからといって、カイから逃げるために行くのではない。
アイリは再びペンを動かした。
自分が見てみたいもの。
知りたいもの。
学びたいもの。
一つずつ、自分の言葉で書いていく。
最後まで書き終え、もう一度読み返した。
そこには一度も、カイの名前はなかった。
「……うん」
小さく頷く。
これでいい。
◇
申請書を提出した日の帰り。
アイリは一人で港を歩いた。
夕日に染まる海を、大きな船がゆっくりと進んでいる。
生まれたときから、ずっとそばにあった見慣れた景色。
この海が嫌いなわけではない。
セイランが嫌だから出ていくわけでもない。
家族や友人を置いて、どこかへ逃げたいわけでもない。
ただ、見てみたいのだ。
海の向こうではなく。
今度は、山の向こうを。
アイリは空を見上げた。
ここから浮空船は見えない。
けれど、遠い山々の向こうにはオルティギアがある。
私、オルティギアに行ってみたい。
もう一度、心の中で言う。
誰かに言われたからではない。
誰かと離れたいからでもない。
自分が、行ってみたいのだ。
それは十七歳のアイリが初めて、自分の未来について、自分の意思で選んだことだった。




