第4話 少しずつ離れていく
次の日の放課後。
カイが授業を終えて教室を見渡したとき、アイリの姿はもうなかった。
「……あれ?」
いつもなら、まだいる時間だった。
アイリは帰り支度が早い方ではない。机の中を確認して、翌日の授業に必要なものを揃えてから帰る。それが終わる頃には、だいたいカイの準備も済んでいる。
だから特に約束をしなくても、一緒に教室を出ることが多かった。
「アイリなら帰ったよ」
近くにいた男子生徒が言う。
「帰った?」
「ラウラと」
「……そっか」
昨日もラウラと帰っていた。
別に、おかしなことではない。二人は親友なのだから。
カイはそう思いながら鞄を持ち、教室を出た。
いつもの坂道を一人で下りていく。
一人で帰ることなんて珍しくもないはずなのに、今日は妙に静かに感じた。
いつもなら隣から、
「今日の課題、ちゃんと覚えてる?」
「また先生に呼ばれてたでしょう」
そんな声が聞こえてくる。
今日は何もない。
カイは一度だけ隣を見た。
もちろん、そこには誰もいなかった。
◇
それから、そういう日が少しずつ増えた。
「アイリ、今日一緒に帰る?」
昼休みに聞けば、
「今日はラウラと図書室に行くの」
と返ってくる。
「じゃあ、そのあと待ってる」
「先に帰っていいよ?」
「別に待つけど」
「何時に終わるか分からないから」
「……そう?」
「うん」
以前なら、アイリの方から言ったはずだ。
『少し待っててくれる?』
そしてカイも、
『いいよ』
と答えていた。
けれど今は違う。
「じゃあ、また明日」
アイリはそう言って笑った。
「ああ。……また明日」
カイも答える。
別に変ではない。
そう思うのに、どこか落ち着かなかった。
◇
「カイ」
翌日の授業前。
アイリが机の横へやってきた。
「これ」
差し出されたのは、一冊のノートだった。
「ああ、数学の」
「前に貸すって言ってたから」
「ありがとう」
カイは受け取る。
「今日、また教えてくれる?」
「分からないところに印をつけておいて。あとで説明するよ」
「ああ」
アイリはそれだけ言うと、自分の席へ戻っていった。
カイはわずかに眉を寄せる。
何かが違う。
前なら、そのまま隣に来て、
『どこが分からなかったの?』
とノートを覗き込んでいた。
カイが適当に答えれば、
『ちゃんと考えて』
と呆れた顔をしながら、結局は授業が始まるぎりぎりまで付き合ってくれた。
けれど今日は、ノートを渡しただけだった。
「……忙しいのかな」
「何が?」
向かいの席からエイドリアンが顔を上げる。
「いや、なんでもない」
カイはノートを開いた。
見慣れたアイリの字が並んでいる。読みやすいように整理された式。端には、小さく補足まで書かれていた。
いつも通りだ。
何も変わっていない。
それなのに。
どうしてこんなに気になるのだろう。
◇
昼休み。
カイは中庭へ向かった。
いつもの木の下。
そこへ行けば、アイリがいると思っていた。
けれど。
「あれ?」
ベンチは空いている。
周囲を見回しても、黒髪は見えない。
「誰か探してる?」
声をかけてきたエイドリアンに、カイは振り向いた。
「アイリ知らない?」
「ああ。ラウラたちと食堂にいたぞ」
「食堂?」
「うん」
知らなかった。
ただそれだけのことなのに、少し引っかかる。
「お前も食堂行けば?」
「いや、いい」
「なんで?」
「別に」
カイはベンチへ座り、昼食を取り出した。
隣には誰もいない。
少し前までは、ここで二人で昼食を取るのが当たり前だった。いつからそうなったのかも、どちらが最初に誘ったのかも覚えていない。
ただ、いつもそこにアイリがいた。
パンを一口食べてから、カイは空いた隣へ視線を落とした。
アイリが来ないのなら、ここへ来る理由も特にないような気がした。
◇
「アイリ、消しゴム貸して」
午後の授業前。
いつもの調子で手を伸ばす。
けれどアイリは自分の筆箱を見てから、首を傾げた。
「持ってないの?」
「忘れた」
「購買で売ってるよ」
「……え」
「授業までまだ少しあるし、行ってくれば?」
「いや、そうだけど」
カイは思わずアイリを見る。
「貸してくれないの?」
「一つしか持ってないから」
「ああ……」
そう言われれば、それまでだった。
「じゃあ買ってくる」
「うん」
廊下へ出ながら、カイは妙な気分になった。
以前なら、アイリは予備を持っていた。
正確には、カイが忘れることを見越して、余分に入れていたのだ。
『また忘れたの?』
そう言いながら貸してくれる。
そんなことが何度もあった。
ふと気づく。
最近、アイリの筆箱が少し薄くなっていた。
自分のための予備を、もう持ち歩いていないのかもしれない。
「……なんで?」
誰に聞くでもなく呟いてから、カイは小さく息を吐いた。
そもそも、自分の消しゴムくらい自分で用意するのが普通だ。
◇
数日後。
朝、学院へ向かう途中で、カイはアイリの手元を見た。
「今日、荷物多くない?」
「少しね」
教科書のほかに、何冊かの本を抱えている。
「持つよ」
いつものように手を伸ばした。
けれどアイリは、軽く首を振る。
「ううん。大丈夫」
「いや、重いだろ」
「図書室に返すだけだから」
「じゃあ、そこまで持つ」
「平気だよ。自分で持てる」
「でも」
カイの手が宙に残る。
アイリは困ったように笑った。
「カイ、本当に大丈夫だから」
そう言って、そのまま歩き出す。
カイも追いかけた。
しばらくしてから、思わず口を開く。
「最近、大丈夫ってよく言うよな」
「そう?」
「前はもっと俺に持たせてたじゃん」
アイリが少しだけ目を丸くした。
「持たせてた?」
「あ……いや」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
「俺が勝手に持ってたけど」
「そうね」
アイリは少し笑う。
「でも、ちゃんと自分で持てるから」
「それは知ってるけど」
「だから、大丈夫」
話はそこで終わった。
カイは何も言えなくなる。
持てるか、持てないか。
そういう話ではない気がする。
けれど、では何なのかと聞かれたら、自分でも説明できなかった。
◇
放課後。
ラウラと港町を歩きながら、アイリは店先に並ぶ果物へ目を向けていた。
「アイリ。最近、カイと一緒に帰らないね」
ラウラに言われ、少しだけ目を伏せる。
「そうだね」
「意識してる?」
「……少しは」
ラウラはそれ以上すぐには聞かなかった。
二人で人通りの多い道をゆっくり歩く。
「怒ってるの?」
「カイに?」
「うん」
アイリは少し考えた。
カイが誰かを好きになった。
少なくとも、アイリはそう思っている。
それ自体は、責めることではない。
「怒ってないよ」
「そっか」
「カイが誰を好きでも、それはカイの自由だから」
口にすると、指先が少しだけ冷たくなった。
それでも本当に、そう思っている。
「ただ……」
「うん?」
「今までのままじゃ、よくないのかなって」
「今までのまま?」
「毎朝一緒に行って、毎日みたいに一緒に帰って。お昼も一緒で、休日も二人で出かけて」
アイリは少しだけ視線を落とした。
「もし私に好きな人がいて、その人が別の女の子とずっとそんなふうに一緒にいたら……たぶん、嫌だと思う」
「……なるほどね」
「だから、カイにそういう相手ができたなら、今までみたいにはしない方がいいのかなって。少しずつ距離を置こうと思ってる」
ラウラがアイリを見る。
「それだけ?」
「え?」
「アイリ自身がつらいからじゃなくて?」
アイリの足が、ほんの少し緩んだ。
すぐには答えられない。
「……それも、少しはあるかな」
「少し?」
「たぶん」
ラウラはため息まじりに笑った。
「そこはもうちょっと、自分を優先してもいいと思うけど」
「そうかな」
「そうだよ」
アイリも小さく笑う。
そのとき、ふと通りの向こうにある店へ目が止まった。
旅行用品を扱う店だった。店先には船旅用の鞄や外国の地図が並び、窓にはいくつかの案内が貼られている。
その一枚に、見覚えのある国名があった。
「……オルティギア」
「ん?」
ラウラも視線を向ける。
学院生向けの留学案内だった。
山と空の国、オルティギア王国。
以前、学院でも案内を見たことがある。山岳地域の気象学、独自に発達した航行技術、大型浮空船。海に開かれたセイランとは、まったく違う文化を持つ国だ。
「アイリ、前から興味あったよね」
「うん」
「学院でも資料もらってなかった?」
「もらったよ」
「じゃあ応募する?」
ラウラは気軽に聞いた。
けれどアイリは、すぐには答えられなかった。
留学期間は長い。
家族と離れる。
ラウラとも離れる。
そして、カイとも離れる。
今までなら、それだけで選択肢から外していた。
「……まだ分からない」
「そっか」
ラウラは無理に勧めなかった。
アイリはもう一度、留学案内を見る。
青い空を進む、大きな浮空船の絵。その向こうには、険しい山々が描かれていた。
知らない国。
知らない景色。
知らない人たち。
これまでは、自分とは遠い世界のように思っていた。
けれど今は少しだけ、その景色が気になった。
◇
翌朝。
待ち合わせ場所に着くと、カイが先に来ていた。
「おはよう」
「おはよう」
二人で歩き始める。
最近、アイリは少し離れて歩くことが増えた。
カイが何度か速度を落とすと、アイリも自然に追いつく。
けれど以前のように、肩が触れそうなほど近くはない。
「ねえ、アイリ」
「なに?」
「最近、先に帰るよな」
アイリがカイを見る。
「そう?」
「そうだよ」
「ラウラと一緒にいることが増えたからかな」
「前だってラウラとは仲良かっただろ」
「うん」
「昼も食堂行くし」
「みんなで食べるのも楽しいよ」
「それはそうだけど」
「カイも友達と食べればいいでしょう?」
カイは黙った。
言われてみれば、その通りだ。
「……前は待ってただろ」
「え?」
「俺が遅くなっても、ずっと待っててくれたじゃん」
アイリは少しだけ目を瞬いた。
「お互い友人もいるんだし、毎日一緒に帰らなくてもいいでしょう?」
穏やかな声だった。
責めるような響きはない。
だからこそ、カイは答えられなかった。
「……まあ、そうだけど」
「うん」
アイリは前を向き、また歩き始める。
カイも隣を歩いた。
毎日一緒に帰らなくてもいい。
当然だ。
何か約束をしていたわけではない。
アイリにはラウラがいるし、自分にも友人がいる。別々に過ごすことくらい、あって当たり前だ。
それなのに。
何かがおかしい。
少し前まで、当たり前にあったものが。
一つずつ。
気づかないうちに、なくなっている。
カイは隣を見る。
アイリはいつもと同じ顔で歩いていた。
怒っているようには見えない。
嫌われたとも思えない。
それなのに、前より少しだけ遠い。
カイにはまだ、その理由が分からなかった。
一方で、アイリの鞄の中には一枚の紙が入っていた。
昨日、帰宅してから改めて取り寄せたもの。
オルティギア王国。
学院留学制度の案内。
まだ、行くと決めたわけではない。
ただ初めてアイリは、その紙をしまわずに鞄へ入れた。
遠い国の話ではなく。
自分が行くかもしれない場所として。




