第3話 嘘の告白
それから数日が経った。
アイリとカイは、変わらず一緒に学院へ通っていた。朝になればいつもの場所で会い、授業が終われば都合の合う日は一緒に帰る。
カイは今までと何も変わらない。
アイリも、できるだけ変わらないようにしていた。
「アイリ、昨日のノートありがとう」
「分かった?」
「なんとか。途中までは」
「それ、分かってないでしょう」
「当たり。だから、今日、もう一回教えて」
カイが笑う。
アイリも、少しはにかむように笑い返した。
こうして話していると、あの日聞いた言葉を忘れてしまいそうになる。
『ないない。幼馴染だぞ』
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
昔から、カイが優しくしてくれるのは幼馴染だからだと思っていた。それでも以前は、どこかで少し期待していた。けれど今は、待っていてくれるのも、荷物を持ってくれるのも、二人で出かけるのも、昔からそうしてきたからなのだと考えるようにしている。
そう思えばいい。
最初から、何も約束されてはいなかったのだから。
◇
放課後。
カイが鞄へ教科書を入れていると、窓際にいたエイドリアンが声を上げた。
「なあ、カイ。お前ならいけるんじゃない?」
「何が?」
エイドリアンが窓の外を顎で示す。
中庭を数人の令嬢が歩いていた。その中心にいるのは、学院でもよく知られた華やかな少女だ。明るい蜂蜜色の髪をきれいに巻き、いつも何人かの友人に囲まれている。
「あの子」
「……なんで?」
「この前、あの子、誰に誘われても全部断ったって話してただろ」
「ああ」
そういえば、そんな話を聞いた気がする。
カイにとっては、その程度だった。
「でも、お前なら落とせるんじゃない?」
「何それ」
「こう言っちゃなんだが、カイは顔がいいし、侯爵家だし、女の子と話すの慣れてるし」
「最後は褒めてるのか?」
「褒めてる褒めてる」
エイドリアンが笑うと、近くにいた男子たちも面白がって話に乗ってくる。
「へー。面白いから、やってみろよ」
「嫌だよ」
「なんだ。怖いんだ?」
「何が」
「振られるの」
「別に怖くないけど」
「じゃあいけるだろ」
「そういう問題じゃないだろ」
断ればいい。
本当なら、それだけの話だった。
「まあ、そこまで言うなら無理にとは言わないけど」
エイドリアンが軽い調子で言う。
「でも、カイでも自信ない相手っているんだな」
その一言に、カイの手が止まった。
「……誰が自信ないって?」
「だって、やらないんだろ?」
「それとこれとは別だろ」
「はいはい」
周囲から笑い声が上がる。
十七歳の、くだらない挑発だった。
少し考えれば、乗る必要などないと分かる。好きでもない相手に好きだと言う意味だって、考えれば分かったはずだ。
けれどカイは、その少しを考えなかった。
「……じゃあ、行ってくればいいんだろ」
「え、本当に?」
「お前らがうるさいから」
「いやいや、そこまで言ってないって」
「今さら止めるなよ」
カイは鞄を机へ置いた。
「告白すれば満足?」
「本気でやるのか?」
「振られたら笑うなよ」
「それは笑う」
「おい」
カイも笑って、教室を出る。
エイドリアンは一瞬だけ目を丸くしたが、そのときはまだ止めなかった。
ただの悪ふざけ。
カイも、エイドリアンも、その程度にしか考えていなかった。
その言葉を聞く誰かにとっては、決して軽くないものだということを。
◇
アイリは図書室にいた。
返却する本を三冊抱え、書架の間を歩いていく。
本を返したら、今日はラウラと一緒に帰る約束をしていた。カイにも、先に帰ると伝えてある。
最近は、そんな日が少しずつ増えていた。
意識して距離を取ろうとしているつもりはない。ただ、毎日一緒でなくてもいいのだと、少しずつ思えるようになってきただけだ。
カイと帰らない放課後にも、自分の時間はある。
「アイリ」
図書室を出たところで、ラウラが待っていた。
「終わった?」
「うん。待たせてごめんね」
「全然。行こ」
「今日はどこか寄る?」
「港の近くに新しい雑貨屋ができたらしいよ」
「じゃあ、見てみたい」
「決まり」
ラウラが嬉しそうに笑い、アイリもつられて笑う。
少し前までなら、カイと一緒ではない放課後を物足りなく感じていたかもしれない。
でも、ラウラと過ごすのも楽しい。知らない店へ行くのも楽しみだった。
学院の裏手へ続く回廊を抜けようとした、そのとき。
「ちょっと待って」
ラウラが足を止めた。
「どうしたの?」
「向こう、人がいる」
回廊の先、中庭へ続く柱の陰に二人の姿が見える。
男子生徒と、女子生徒。
何か話しているらしい。
「別の道から行こうか」
「そうね」
二人きりなら、邪魔をしない方がいい。
アイリが引き返そうとしたときだった。
「――君のことが好きなんだ」
聞き慣れた声がした。
足が止まる。
聞き間違えるはずがない。
何年も、毎日のように聞いてきた声だった。
アイリはゆっくりと振り返る。
柱の向こうに立っている男子生徒。
明るい金髪。
見慣れた横顔。
カイだった。
その前には、蜂蜜色の髪をした令嬢が立っている。
「……え?」
少女が驚いたように目を瞬いた。
カイは少し照れたように笑う。
「だから、その……よかったら、俺と付き合わない?」
アイリの指から、力が抜けた。
手にしていたハンカチが床へ落ちる。
「アイリ」
ラウラが小さく呼ぶ。
けれど返事ができなかった。
目の前の光景だけが、妙にはっきりと見えていた。
カイには、好きな人がいたのだ。
『ないない。幼馴染だぞ』
数日前に聞いた言葉が蘇る。
あのときは、それだけで十分だったはずだ。
自分は幼馴染。
恋愛の相手ではない。
分かっていた。
それなのに、心のどこかではまだ待っていたのだろう。
いつか変わるかもしれない。
いつか、自分を見てくれるかもしれない。
けれどカイは、別の少女にその言葉を渡した。
「……行こう」
アイリは小さく言った。
「アイリ」
「ラウラ。行こう」
ラウラは何も言わなかった。
床に落ちたハンカチを拾い、アイリへ差し出す。
「ありがとう」
受け取って、二人は静かに来た道を戻った。
カイは最後まで、アイリがそこにいたことに気づかなかった。
◇
学院を出て、しばらく歩いたところでラウラが口を開いた。
「アイリ」
「うん?」
「……大丈夫?」
いつものように「うん」と答えかけて、アイリは口を閉じた。
大丈夫。
何かあるたびに、つい使ってしまう言葉。
けれど今は、自分でもよく分からなかった。
「ごめん」
「何が?」
「雑貨屋、今日はやめてもいい?」
「もちろん。帰ろう」
「うん」
二人で港町へ続く坂を下りていく。
海から吹く風が、アイリの黒髪を揺らした。潮の匂いがする。
ラウラは何も聞かなかった。
しばらく黙って歩いたあと、アイリがぽつりと言った。
「私ね」
「うん」
「カイのこと、ずっと好きだったの」
ラウラは驚かなかった。
「うん」
「もしかして気づいてた?」
「なんとなくは、ね」
「そっか」
アイリは少し笑った。
「まあ、そうね。カイの前だと、アイリってちょっと違うもの。いつもよりよく笑うし」
「そう……私って、そんなに顔に出てたのね」
それきり、また黙る。
アイリは自分の手元へ目を落とした。
口には出さなかった。
期待していないつもりだった。
それでも、ずっと待っていた。
明日も。
来月も。
来年も。
変わらずそばにいれば、いつかカイが自分を選んでくれるかもしれないと。
けれど、カイに好きな人ができたのなら。
自分はいつまで、今までと同じように彼の隣にいるのだろう。
好きな人がいる相手と毎朝待ち合わせて、一緒に学院へ行く。帰りを待って、昼を一緒に食べて、休日まで二人で出かける。
それは、違う気がした。
「ラウラ」
「なに?」
「私、少し変だったのかもしれない」
「どんな風に?」
「カイとはずっと一緒だったから」
アイリは前を向いた。
「これからも、ずっと一緒なんだって、どこかで思ってた。そんな約束、一度もしてないのに」
自分で言葉にして、初めて気づく。
必ず恋人になれると信じていたわけではない。
けれどカイの隣には、ずっと自分の場所があると思っていた。
何の根拠もなく。
「でも、そんなわけないよね」
アイリが笑うと、ラウラが眉を寄せた。
「アイリ」
「大丈夫」
そこまで言ってから、アイリは少しだけ首を振った。
「……ううん。ごめん。今日は大丈夫じゃないかも」
口にすると、張りつめていたものがほんの少し緩んだ。
ラウラも小さく笑う。
「じゃあ今日は、大丈夫じゃなくていいんじゃない?」
「いいのかな」
「いいよ」
「……そっか」
アイリの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「うん」
二人はそのまま、並んで歩いた。
◇
翌朝。
アイリはいつもの時間に家を出た。
いつもの道を歩き、いつもの角を曲がる。
そして、いつもの待ち合わせ場所には、カイがいた。
アイリを見つけると、いつものように手を上げる。
「アイリ、おはよう」
「おはよう」
昨日、別の女の子に「好きだ」と告げた人が、何も変わらない顔で笑っている。
アイリは一瞬だけ、その顔を見つめた。
昨日のことなど、最初から何もなかったみたいだった。
「ん? どうした?」
「ううん」
「そう? じゃあ、行こうか」
「うん」
二人で学院へ向かって歩き出す。
カイは何も知らない。
アイリが昨日の告白を見ていたことも。
あの「好き」という言葉を、そのまま信じていることも。
そして、その言葉を聞いたことで、アイリが初めて自分の立つ場所を考え始めたことも。
しばらく歩いたところで、カイが振り向いた。
「今日は一緒に帰れる?」
「ごめん。今日はラウラと帰るの」
「……そうなんだ」
「うん」
「じゃあ明日は?」
アイリは一瞬だけ黙った。
「明日は、まだ分からない」
カイがこちらを見る。
澄んだ青い瞳に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
けれどアイリは気づかないふりをして、前を向く。
今までなら、カイの予定が自然と自分の予定の中にあった。
帰る時間も。
休日の予定も。
カイと過ごせるかどうかを、どこかで先に考えていた。
でも、これからは少し違ってもいいのかもしれない。
私はいつまで、この人の隣にいるんだろう。
昨日、初めてそう考えた。
そして今日。
アイリは自分から、ほんの少しだけ。
いつもの場所を離れ始めた。




