第2話 幼馴染という特別
昼休み。
カイは教室の後ろで、エイドリアンたち数人の男子生徒と話していた。
「なあ、カイ」
「ん?」
「アイリって可愛いよな」
唐突な言葉に、カイは瞬きをした。それから、何を今さらというように笑う。
「まあね」
「なんだよ、その余裕」
「別に」
「いや、絶対おかしいだろ、その反応」
エイドリアンが呆れたように言う。
カイは机に軽く腰を預けながら、少し離れた廊下側の窓際へ視線を向けた。そこではアイリがラウラと話している。艶のある黒髪が窓から差し込む光を受け、わずかに藍色がかって見えた。
何か面白いことでも言われたのか、アイリが小さく笑う。
「可愛いっていうか、昔からあんな感じだよ」
「その『昔から』を知らないんだって」
「そう?」
「俺たちからすると、普通にかなり人気あるぞ」
カイは首を傾げた。
「知ってるけど」
「知ってるのかよ」
「そりゃ分かるだろ」
エイドリアンがアイリを見る。それにつられて、周囲の何人かもそちらへ視線を向けた。
派手な華やかさがあるわけではない。それでも整った顔立ちと落ち着いた雰囲気は人目を引くし、誰かに話しかけられればきちんと相手を見て答える。笑うと、普段の静かな印象がふっと柔らかくなる。
けれど本人には、自分が目立っているという自覚がほとんどない。
そのとき、教室の入り口から教師がアイリを呼んだ。
「アイリさん、少しいいですか?」
「はい」
アイリはラウラに何か言って席を立つ。そのまま教師と一緒に廊下へ出ていった。
カイはそれを何となく目で追ってから、友人たちへ視線を戻した。
「じゃあさ」
エイドリアンの隣にいた男子が、少し声を潜める。
「付き合ってないなら、俺が誘ってもいい?」
カイは反射的にそちらを見た。
「やめとけば?」
「早っ。なんでだよ」
「アイリ、そういう軽い感じ嫌いだと思う」
「別に軽く誘うって言ってないだろ」
「でもお前、先月も別の子に声かけてたじゃん」
「それとこれとは別」
「同じだろ」
「なんでお前が判定するんだよ」
周囲から笑いが起きる。
けれど、カイは何となく面白くなかった。
アイリが誰かに誘われる。その相手と二人で町へ出かけて、放課後には並んで帰る。自分の知らないところで待ち合わせをして、自分以外の誰かと楽しそうに笑う。
そんな光景を思い浮かべると、妙に落ち着かない。
「じゃあ、真面目に誘えばいい?」
「それもどうだろ」
「お前、結局全部止めるじゃん」
「だって」
そこでエイドリアンが、にやりと笑った。
「もしかして、カイ」
「なんだよ」
「お前、アイリのこと好きなの?」
一瞬、カイはぽかんとした。
次の瞬間、声を上げて笑う。
「はは。ないない。幼馴染だぞ」
「幼馴染でも好きになるだろ」
「ならないって」
「なんで言い切れるんだよ」
「だってアイリだぞ?」
カイは笑った。
「小さい頃からずっと一緒なんだよ。今さらそういうのじゃないって」
「ふうん」
エイドリアンたちは、どこか納得していない顔をしている。
「じゃあ本当に、誰かが誘ってもいいんだな?」
「……それは」
「ほら」
「だから、お前はやめとけって」
「俺限定かよ」
「信用がない」
「ひでえな」
また笑いが起きる。
カイも一緒になって笑った。
深く考えてはいなかった。
自分とアイリは昔からずっと一緒にいる。それは恋人とは違うし、家族とも違う。それでも、他の誰かと同じかと聞かれれば、それも違う。
ただ、その関係を何と呼べばいいのか。
カイはまだ、考えたことすらなかった。
◇
アイリは、教師から預かった資料を抱えて教室へ戻る途中だった。
扉の近くまで来たところで、自分の名前が聞こえた。
『お前、アイリのこと好きなの?』
足が止まる。
聞くつもりなどなかった。
けれど次の言葉は、はっきりと耳に届いた。
『はは。ないない。幼馴染だぞ』
明るい、いつものカイの声。
冗談でも、照れ隠しでもない。本当に何でもないことのような言い方だった。
アイリは資料を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
分かっていたはずだった。
カイにとって、自分は幼馴染なのだ。好きだと言われたこともなければ、恋人になりたいと言われたこともない。ただ物心がつく前からそばにいて、誰より長い時間を一緒に過ごしてきただけ。
それでも心のどこかでは、いつか、と待っていた。
いつかカイも、自分と同じ気持ちになってくれるかもしれないと。
『小さい頃からずっと一緒なんだよ。今さらそういうのじゃないって』
続いて聞こえた声に、アイリはそっと目を伏せた。
期待しないようにしていたはずなのに。
自分が思っていたよりずっと、期待していたらしい。
「アイリ?」
後ろから声をかけられ、肩が揺れた。
振り向くと、ラウラが立っていた。
「どうしたの?」
「え?」
「戻ってこないから、見に来たの」
「……先生に資料を頼まれてたの」
「それは見れば分かるけど」
ラウラは一度、教室の方を見る。
中から男子たちの笑い声が聞こえていた。
それからアイリの顔へ視線を戻し、何も聞かずに手を伸ばした。
「半分ちょうだい」
「大丈夫。これくらい持てるよ」
「でも二人で持った方が楽でしょ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人で教室へ入る。
カイはすぐに気づいた。
「あ、アイリ。それ、先生の資料?」
「うん」
「重かっただろ。呼べばよかったのに」
「ラウラが持ってくれたから」
「そっか」
いつもと同じ声だった。
いつもと同じ顔で、カイは笑っている。
アイリも何も言わず、自分の席へ向かった。
「アイリ」
再び呼ばれ、振り返る。
「なに?」
「今日、一緒に帰るよな?」
それも、いつもと同じ言葉だった。
何度も聞いてきたはずなのに、今日は返事がすぐに出てこなかった。
「……うん」
「じゃあ、あとでな」
カイは気づかなかった。
ほんの少しだけ遅れた、その返事に。
◇
放課後。
二人は学院から港町へ下りていく、いつもの坂道を歩いていた。
風が吹くたびに遠くから潮の匂いが運ばれ、通りの向こうでは港へ戻る荷馬車の車輪が石畳を鳴らしている。
「今日の数学、難しくなかった?」
「最後の問題?」
「そう。途中から意味分からなくなった」
「あれは最初の式を変えるの」
「やっぱり?」
「ノート見る?」
「いいの?」
「うん。明日持ってくるね」
「助かる」
会話はいつも通りだった。
けれどアイリは、いつの間にかカイより半歩ほど後ろを歩いていた。
「……アイリ」
「なに?」
「今日、歩くの遅くない?」
「そう?」
「いつももっと速いだろ」
カイが立ち止まり、アイリも足を止める。
「疲れた?」
「ううん」
「具合悪い?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。少しぼんやりしてただけ」
「ならいいけど」
カイはまだ少し気になるようだったが、やがて前を向いて歩き出した。
その歩幅が、さっきより少しだけ小さくなる。
アイリはその足元を見つめた。
自分が遅れているから、合わせてくれている。
たぶんカイ自身は、そんなことをしていると意識すらしていない。
そういうところが、ずるい。
荷物を持ってくれる。待っていてくれる。小さな変化に気づいて、こうして歩幅まで合わせてくれる。
だから、ずっと期待してしまった。
もしかしたら、自分はカイにとっても特別なのではないかと。
『ないない。幼馴染だぞ』
けれど、カイにとっての「特別」と、自分が欲しかった「特別」は違ったのだろう。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「この前言ってたケーキ屋さん、今度の休日だったよね?」
「うん。何か予定入った?」
「ううん。確認しただけ」
「じゃあ予定通りな」
カイは何の迷いもなく答えた。
「楽しみだな。港の向こうの国で流行ってるケーキがあるらしいぞ」
「そうなんだ」
「アイリ、木苺のやつ好きそう」
「どうして分かるの?」
「分かるだろ、それくらい」
当然のように言われて、アイリは返事に困った。
好みを覚えていてくれる。
二人で休日に出かける。
それなのに、恋ではない。
昨日までなら、それでもよかった。
いつか変わるかもしれないと、待つことができたから。
「アイリ?」
「なに?」
「やっぱり今日、変じゃない?」
「そうかな」
「なんていうか、静か」
「いつも静かでしょう?」
「そういう意味じゃなくて」
カイが少し眉を寄せる。
その顔を見て、アイリは小さく笑った。
「大丈夫だよ」
「……ならいいけど」
また、その言葉を使ってしまった。
本当は大丈夫ではないのに。
けれど今ここで、自分が何を聞いたのかをカイに告げる気にはなれなかった。
責めることでもない。
カイはただ、自分の気持ちを答えただけなのだから。
好きではないものを、好きではないと言っただけ。
それに傷ついたのは、アイリが勝手に待っていたからだ。
やがて、いつもの分かれ道が見えてきた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
カイがいつものように手を上げる。
アイリも小さく手を振って、自分の家へ続く道を歩き出した。
明日も会う。
今度の休日には、一緒にケーキを食べに行く。
何も変わらない。
少なくとも、カイにとっては。
◇
翌朝。
いつもの場所には、カイが先に来ていた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は俺の方が早かった」
「珍しいね」
「たまにはね」
カイは笑って、アイリの隣へ並ぶ。
「行こう」
「うん」
歩き始める。
昨日までと同じ朝。同じ道。同じ人。
けれどアイリは、いつもよりほんの少しだけ離れて歩いた。
肩が触れないくらい。
腕がぶつからないくらい。
それだけの、小さな距離だった。
カイはまだ気づいていない。
アイリ自身も、何かを変えようと決めたわけではない。
ただ、昨日までのように何も知らず、カイのすぐ隣を歩くことができなかった。
ずっと自分の場所だと思っていたところから。
ほんの半歩だけ。
アイリは離れ始めていた。




