第1話 いつもの朝
朝の港には、潮の匂いが満ちている。
大通りを抜けた先には青い海が広がり、その向こうでは何隻もの帆船がゆっくりと港へ入ってきていた。荷を運ぶ人々の声に、聞き慣れない言葉が混じる。鮮やかな布をまとった商人、異国風の帽子をかぶった旅人、金髪の子どもの手を引く黒髪の母親。
セイラン王国の港町では、そんな光景も珍しくない。
その賑やかな通りの一角で、アイリはいつもの場所に立っていた。
「おはよう、アイリ」
背後から聞き慣れた声がして、振り返る。
「おはよう、カイ」
朝の光を受けて、明るい金髪がきらりと光った。
カイ・レーヴェンハルト。侯爵家の次男で、アイリとは物心がつく前からの幼馴染だ。澄んだ青い瞳に整った顔立ち。少し癖のある髪は今日もきちんと整えきれておらず、前髪が一房だけ額へ落ちている。
同じ貴族学院の制服なのに、アイリが着ればきっちりとして見え、カイが着るとなぜか少し軽やかに見える。
「待った?」
「ううん。今来たところ」
「よかった。行こうか」
「うん」
カイは当たり前のようにアイリの隣へ並び、二人は学院へ向かって歩き出した。
これも、いつものことだった。
朝になれば、この道で待ち合わせる。学院まで一緒に歩き、授業が終われば都合の合う日は一緒に帰る。わざわざ明日の約束をすることさえ、ほとんどない。
それでも翌朝になれば、どちらかが先にここへ来て、もう一人を待っている。
「そういえば、昨日の歴史の課題、終わった?」
「終わったよ」
「やっぱり」
「カイは?」
「終わってるように見える?」
「見えない」
「即答するなよ」
アイリが小さく笑うと、カイも笑った。
「半分まではやった」
「それ、終わってないって言うのよ」
「だから今から学院でやる」
「授業が始まるまで、そんなに時間ないでしょう?」
「アイリが見せてくれたら間に合う」
「だめ」
「そこをなんとか」
「自分でやって」
「冷たいなあ」
「昨日、ちゃんとやればよかったでしょう?」
「昨日は眠かったんだよ」
「それは知らない」
こんなやり取りも、何度したか分からない。
それでも学院へ着けば、きっとアイリはカイの課題を横から覗き込み、間違っているところくらいは教えてしまうのだろう。
昔からずっと、そうだった。カイは少し雑で、忘れ物も多い。アイリはそれに気づくと、つい手を貸してしまう。妹のミレイや弟のニールの世話を焼くのと同じように、幼い頃から自然にそうしてきた。
「アイリ」
「なに?」
「鞄」
カイが手を差し出した。
「え?」
「重そう」
「大丈夫よ」
「教科書いっぱい入ってるだろ」
「持てるから平気」
「知ってる。でも貸して」
言うなり、カイはアイリの返事も待たずに鞄を取った。
「あ、ちょっと」
「やっぱり重いじゃん」
「今日は資料があるから」
「だったらなおさら持つ」
「自分の鞄もあるでしょう?」
「これくらい平気」
右手に自分の鞄、左手にアイリの鞄を持って、カイはそのまま歩いていく。
アイリは一瞬だけその背中を見てから、横へ追いついた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
あまりにも普通の顔で言うから、アイリもそれ以上は何も言わなかった。
昔からカイはこうだ。アイリが荷物を持っていれば取るし、人混みでは自然と一歩前へ出る。雨が降れば傘をこちらへ傾け、寒い日には「手、冷たいだろ」と勝手に心配する。
だから、きっと特別なことではない。
幼馴染だから。昔から一緒だから。
そういうものなのだと、アイリは何度も自分に言い聞かせてきた。
カイが好きだからこそ、期待したくなかった。
この優しさが自分だけに向けられたものだと思ってしまえば、今までと同じではいられなくなる気がした。
◇
「おはよう、カイ!」
学院へ着いた途端、あちこちから声が飛んでくる。
「おはよう」
「昨日の試合、見たぞ」
「あれ惜しかったよな」
「今日の放課後、練習来る?」
「行けたら行くよ」
カイは誰に声をかけられても、気軽に返事をする。男女問わず友人が多く、気づけばいつも人の輪の中心にいる。
「相変わらず人気ねえ」
隣から声がして、アイリは振り向いた。
「ラウラ」
赤栗色の髪を揺らしながら、親友のラウラがやってくる。琥珀色の瞳が、面白そうにカイの周りを見ていた。
「朝からすごい人数」
「カイだから」
「その一言で済ませるの、アイリくらいだと思うけど」
「だって昔からあんな感じでしょう?」
「まあね」
ラウラはくすりと笑った。
「でも、昔より女の子は増えたんじゃない?」
言われて、アイリもそちらを見る。
何人かの令嬢が、カイを囲んで楽しそうに話している。そのうちの一人が何かを言い、カイが声を上げて笑った。
胸の奥に、ほんの少しだけざわつくものが生まれる。
けれど、そんなことはもう何度もあった。
「カイは誰とでも仲良くするもの」
「そういうところ、ほんと冷静よね」
「冷静というか……慣れてるだけ」
「ふうん」
ラウラは何か言いたそうにこちらを見たが、それ以上は口にしなかった。
アイリがカイを好きなことを、ラウラは知っている。
いつ打ち明けたのだったか、もうはっきりとは覚えていない。けれどラウラは一度も、勝手にカイへ伝えようとはしなかった。
そのことが、アイリにはありがたかった。
「アイリ」
人の輪の向こうから、カイが呼んだ。
何人も話している相手がいるのに、その青い瞳は真っ直ぐこちらを向いている。
「これ」
近づいてきたカイが、アイリの鞄を差し出した。
「あ、私の鞄。ありがとう。忘れてた」
「だと思った」
「カイが持ってたからでしょう?」
「でも自分の鞄なんだから忘れるなよ」
「……うっかりしちゃっただけ」
「はいはい」
カイは笑いながら鞄を渡し、そのまま自然に続けた。
「昼、いつものところでいい?」
「うん」
「じゃあ後で」
それだけ言って、また友人たちのところへ戻っていく。
アイリが鞄を抱え直すと、隣でラウラがじっとこちらを見ていた。
「なに?」
「よく平気な顔していられるなと思って」
「何が?」
「なんでもない」
ラウラは笑って、先に教室へ入っていった。
アイリは少しだけ頬を膨らませ、そのあとで人の輪の中に戻っていくカイの背中を見た。
平気なわけではない。
ただ、好きになってからずっと、こうしてきただけだった。
◇
昼休みになると、アイリは中庭へ向かった。
学院の中庭には大きな樹が一本あり、その下にいくつかベンチが置かれている。カイとの「いつものところ」は、その一番端だ。
けれど今日は、先客がいた。
「あ」
二人の男子生徒がアイリに気づき、立ち上がる。
「アイリ嬢」
「よかったら、ここ座る?」
「え?」
「俺たち、もう食べ終わったから」
「でも――」
「本当にいいよ」
そう言って場所を空けてくれる。
「ありがとう」
アイリが頭を下げると、二人はなぜか少し照れたように笑った。
「じゃ、じゃあ」
「また」
「うん」
二人が去ったあと、アイリは小さく首を傾げた。
そこへカイがやってくる。
「何してたの?」
「席を譲ってもらったの」
「あいつらに?」
「うん」
カイは去っていく男子生徒たちの背中を見た。
ほんの一瞬、青い瞳が細くなる。
「ふうん」
「どうしたの?」
「別に」
何事もなかったように、カイはアイリの隣へ腰を下ろした。
「今日はパン?」
「うん。朝、時間がなかったから」
「アイリにしては珍しい」
「カイこそ、それだけ?」
「朝食べすぎたからな」
「そうなの?」
「母上が朝から焼き菓子出してきたんだよ」
「朝から?」
「昨日の残り。弟たちと食べろって」
「それで、食べすぎたのね」
「そういうこと」
昼食を取りながら、二人はどうでもいい話をする。授業のこと。教師の癖。最近港へ来た外国船のこと。今度、町に新しい菓子店ができるらしいという話。
アイリは、この時間が好きだった。
カイと一緒にいると、無理に話題を探さなくていい。黙っていても気まずくない。幼い頃から、ずっとそうだった。
恋だと気づいたあとも、それは変わらなかった。
むしろ、変えたくなかったのかもしれない。
「アイリ」
「なに?」
「口元」
「え?」
「ついてる」
カイが自分の口元を指さす。
アイリは慌てて手で拭った。
「取れた?」
「反対」
「こっち?」
「もうちょい上」
「どこ?」
「貸して」
カイが手を伸ばしかける。
その指先が頬へ届きそうになった、そのとき。
「あ、いた!」
別の男子生徒の声が飛んできた。
カイの手が止まる。
「カイ、午後の授業の前に先生が呼んでるぞ」
「俺?」
「昨日の件じゃない?」
「あー……」
心当たりがあるらしい。
カイは立ち上がった。
「悪い、アイリ。先行ってるな」
「うん」
「それ、ここ」
自分の頬を指で示してから、カイは友人のところへ走っていった。
アイリはハンカチを取り出し、言われた辺りを拭う。
さっき一瞬だけ伸びてきた手を思い出し、指先が止まった。
「……もう」
小さく息を吐く。
こういうときだけは、長すぎる幼馴染の時間が少し困る。
カイにとっては何でもないことでも、アイリにとってはそうではない。
好きな人が近くにいるのだから、意識しない方が無理だった。
それでもカイは、きっと知らない。
アイリも、知られないようにしてきた。
◇
放課後、授業を終えて校舎を出ると、カイはすでに門のそばに立っていた。
「遅い」
「委員の仕事があったの」
「それは知ってる」
「だったら先に帰ればよかったのに」
「なんで?」
あまりにも当然のように聞き返されて、アイリは言葉に詰まる。
「……待たせちゃうでしょ」
「待ってたの俺だろ?」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃん」
カイはそう言って笑う。
そんなふうに言われると、やっぱり嬉しくなってしまう。
「帰ろう」
「うん」
二人で並んで歩き出した。
夕方の港町は、朝とはまた違う賑わいを見せている。店先には外国から運ばれてきた果物や香辛料が並び、港へ向かう荷馬車が大通りを行き交っていた。
夕日に照らされた帆が遠くで揺れ、海鳥の声が頭上を横切る。
「そういえばさ」
「なに?」
「今度できるケーキ屋、休日に行ってみない?」
「今日お昼に話してたところ?」
「そう」
「……二人で?」
「ん? そうだけど」
あまりにも当然のように返されて、アイリは一瞬だけ言葉に詰まった。
「嫌?」
「ううん。行きたい」
「じゃあ決まり」
カイが嬉しそうに笑う。
その横顔を見ながら、アイリはそっと息を吐いた。
二人で出かけることなんて、これまでにも何度もあった。町へ買い物に行ったことも、祭りを見に行ったこともある。幼い頃には互いの家を行き来することさえ日常だった。
だから、これだってきっと特別ではない。
そう分かっているのに、休日が楽しみになってしまう。
「何笑ってるの?」
「え?」
「今、ちょっと笑った」
「笑ってないよ」
「笑ってたって」
「気のせいじゃない?」
「絶対笑ってた」
カイが横から顔を覗き込んでくる。
近い。
アイリはわずかに顔を背けた。
「前見て歩かないと危ないよ」
「ごまかした」
「ごまかしてない」
「怪しい」
「もう、いいでしょう」
カイはまだ何か言いたそうだったが、楽しそうに笑うだけで追及はしなかった。
やがて、いつもの分かれ道に着く。
右へ行けばアイリの家。左へ行けばカイの家だ。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
カイが軽く手を上げる。
それだけだった。
何百回と繰り返してきた別れだ。明日の朝になれば、また会う。いつもの場所で待ち合わせて、一緒に学院へ行く。
だから、別れを惜しむ必要なんてない。
アイリは家へ向かって歩き始めた。
数歩進んでから、ふと振り返る。
カイもまだそこにいた。
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
「変なの」
「早く帰れよ」
「カイもね」
カイが笑う。
アイリも小さく笑い返し、今度こそ背を向けた。
カイが好きだった。
いつからなのかは、もう分からない。
物心がつく前から一緒にいて、気づいたときには、誰より近くにいた。その距離がいつの間に恋に変わったのか、アイリ自身にも分からなかった。
けれど、急ぐつもりはなかった。
明日も会える。
来週も、その先も。
いつかカイが自分を選んでくれたらいい。
そんなふうに、どこかで思っていた。
朝に会って、一緒に学院へ行く。何でもない話をして、昼を一緒に食べて、帰り道を並んで歩く。
その日々が、これからも続いていくのだと信じていた。
アイリも。
カイも。
誰かがずっとそばにいてくれることが、当たり前ではないなんて、まだ知らなかった。
いつもそこに君がいた。
だから二人ともまだ、その日々を失うことなんて考えたこともなかった。




