11.パトリシア王国とフェルナンⅠ
瞼を開いた聖花の目に飛び込んできたのは、つい先ほどまでいた学園とは似ても似つかない景色だった。
足元には淡い灰色の石畳が敷き詰められ、その両側には白や淡いクリーム色の石造りの建物が軒を連ねている。建物を覆う赤茶色の屋根が青空の下に連なり、少し離れた大通りには朝早くから多くの人々が行き交っていた。
見慣れない服装に、これまで目にしたことのない街並み。行き交う人々の話し声まで絶えず耳へと届き、つい先ほどまで学園にいたことが嘘のようだった。
「ここが……パトリシア王国?」
「正確には王都だね」
隣から返ってきたリリスの声に、聖花は改めて周囲を見渡した。
パトリシア王国については、リリスたちに見つかるまでは図書室でいくつかの資料を読んでいた。それでも、紙面の上で得た知識と、こうして実際に目にする街並みとではまるで違っていた。
「リ リ ス」
低い声が聞こえ、振り返ればフェルナンが笑っていた。いつものような、どこか余裕を感じさせる大人びた笑い方であったが聖花とは相変わらず視線が合わない。声には表情とは裏腹に僅かな圧が滲んでいて、どう見ても機嫌が良いとは思えなかった。
「説明してもらえるかな?」
「何を?」
「全部だよ」
「全部じゃ分からないなぁ」
「僕は休日の朝早くに君から学園へと呼び出されて、何も聞かされないまま突然こんなところまで連れてこられたんだけど」
「そうだね」
「そうだね、じゃないよ」
笑顔を浮かべたまま交わされる二人の会話を聞きながら、聖花はそっと半歩ほど距離を取る。土地勘もないし迷子になるだけなので逃げることはできないものの、このやり取りに巻き込まれたくもなかったからだ。もっとも自分も当事者である以上、既に十分巻き込まれているのだが。
「まあまあ。来ちゃったものは仕方ないでしょ?」
「誰のせいだと思ってるのかな」
「僕?」
「分かってるじゃないか」
フェルナンの笑顔が僅かに深くなったところで、リリスは何事もなかったかのように視線を逸らした。
「それよりセンセ、これ」
そう言ってリリスが差し出したのは、黒に近い色をしたフード付きのマントと薄く色の付いた眼鏡だった。フェルナンはそれらをじっと見た後、僅かに眉を寄せる。
「……用意がいいね」
「でしょ?」
「褒めてないよ」
呆れたように返しながらも拒むことはなく、フェルナンは差し出されたマントと眼鏡を渋々受け取った。マントを肩へと羽織り、頭まで深くフードを被ると最後に色付きの眼鏡を掛ける。顔の大半が影とレンズに隠れ、先ほどまでとは随分印象が変わった。
一連の様子を遠巻きに眺めていた聖花はふと引っ掛かりを覚えた。リリスが一言も説明していないにも関わらず、フェルナンは理由を尋ねるどころか当然のように受け取り、それらを身に着けたのである。
まるで、この国で素顔を晒すことが都合の悪いことだと最初から分かっていたように。
「うん。これなら大丈夫そう」
「誰のせいでこんな格好をしてると思ってるのかな」
「似合ってるよ」
「ありがとう。全然嬉しくないけどね」
フェルナンはそう答えながらフードの位置を軽く直したが、その間も聖花と視線が重なることはなく、むしろリリスの方へと固定されていた。
「じゃあ行こうか」
「どこへ?」
「観光」
あまりにも軽い返事に、今度は聖花までリリスを見た。予想に反したことを言われた為か、何を言っているのか一瞬理解が追いつかなかった。
「……観光、ですか?」
「せっかく来たんだから、街くらい見ておきたいでしょ?」
「私はパトリシア王国について調べるために来たのですが」
「だから見て回るんだよ。本を読んでるだけじゃ分からないこともあるし」
そう言われると、完全に間違っているとも言い切れなかった。
実際、ここに来てからまだ僅かな時間しか経っていないにもかかわらず、本では知り得なかったものがいくつも目に入っている。人々の服装もそうだが、街を歩く者たちの様子や建物の造り、漂ってくる食べ物の香りまで、文字を追っているだけでは分からないことばかりで新鮮味があった。
「ということで、先生」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「案内よろしく」
「断るよ」
何と言われるか大方予想がついたのだろう。フェルナンが間髪容れずに返す。
「えー」
「何が『えー』なのかな。そもそも僕を無理やり連れてきたのは君だろう?案内くらい自分でしたらどうだい」
「僕より先生の方が詳しいでしょ」
その一言に、聖花はフェルナンへと視線を向ける。フードと色付きの眼鏡に隠されているため表情まではよく見えないものの、フェルナンの表情が一瞬固くなった気がした。
少しの沈黙が生まれ、程なくしてフェルナンが取り繕うように声を発した。
「……どうしてそう思うのかな?」
「どうしてだろうね」
「君、本当に性格が悪いよね」
「褒め言葉?」
「違うよ」
どうやらリリスは最初からフェルナンを案内役にするつもりだったようだ。つまり彼がパトリシア王国の街を案内できるほど、この国について詳しいと分かった上で連れてきたのだろう。
理由は気になったものの今ここで問い詰める必要もないだろう。フェルナンがどれほどこの国について知っているのかは実際に案内してもらえば嫌でも分かるし、余計な口を挟んで事態を悪化させる可能性もある。だから聖花は敢えて口を挟まず、二人のやり取りを見守ることにした。
「ほら、早く」
「君が案内すればいいじゃないか」
「先生がやった方が早いって」
「僕はこの国の案内人じゃないんだけど」
「でも道は分かるでしょ?」
「……リリス」
「何?」
フェルナンが何か言いたげにリリスを見つめるも、対するリリスはいつものように人懐っこい笑みを浮かべたままで反省の色など見て取れない。
暫くリリスを見つめていたフェルナンだったが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
「さすが先生」
「誰のせいだと思ってるんだろうね」
結局、折れたのはまたしてもフェルナンだった。彼はフードの位置を直してから周囲を見渡すと、迷う素振りもなく大通りとは別の道へと歩き始めた。
余りにも自然な動きに、聖花は思わず足元を見たまま一瞬立ち止まっていた。地図を確認した訳でもなければリリスに道を尋ねた訳でもないのに、フェルナンは最初から進むべき方向を知っていたようだったからだ。
「セイカ、置いてくよ?」
少し先からリリスに呼ばれ、聖花は返事をして慌てて二人の後を追った。
細い路地を抜けると、それまで建物に遮られていた視界が一気に開け、先ほど遠目に見えていた大通りへと出た。
そこには朝から多くの人が行き交い、通りの両側には様々な店が軒を連ねていた。色鮮やかな布地を店先へ並べた店もあれば、見たことのない果物を山のように積み上げている露店もあり、少し先からは香辛料を使った料理らしき食欲を誘う匂いまで漂ってくる。
聖花は自然と歩みを緩めた。
「凄い……」
思わず漏れた声に、前を歩いていたフェルナンが僅かに振り返る。珍しく目が合うのかと思ったものの、その視線は聖花のすぐ横を通り過ぎるように逸れ、通りの先へと向けられた。
「この辺りは朝の方が店が多いんだ。昼を過ぎると閉める露店もあるから、見るなら今のうちがいいよ」
「そうなのですね」
「まあ、全部見ようとすると時間が掛かるけど」
ごく自然な説明だった。あまりにも自然すぎて、聖花は一瞬返事を忘れそうになる。
「詳しいね」
「……君が案内しろって言ったんだろう?」
「そうだけど」
「なら文句を言わないでくれるかな」
「褒めたのに」
「君の場合は素直に受け取れないんだよ」
二人がまた言い合いを始める横で、聖花は先ほどのフェルナンの言葉を頭の中でもう一度繰り返していた。朝の方が店が多く、昼を過ぎれば閉めてしまう露店まであるらしい。そんな細かな事情まで知っているとなれば、フェルナンがこの国に詳しいことは最早疑いようがなかった。
とは言え、折角パトリシア王国まで来たのだ。本では分からなかったものを自分の目で確かめておいて損はないと考えて歩き始めた聖花だったが、暫くすると一軒の露店の前で足を止める。
店頭に並べられていたのは掌ほどの大きさをした丸い焼き菓子だった。表面には細かな砂糖らしきものがまぶされており、焼きたてなのか甘い香りが辺りまで漂っている。思わず聖花は美味しそうだな、と視線が菓子にくぎ付けになっていた。
「気になる?」
いつの間にか隣へ来ていたリリスに尋ねられ、聖花は焼き菓子からそっと目を離した。
「見ていただけです」
「食べたいなら買えばいいのに」
「別に食べたいとは――」
「三つください」
「人の話を聞いてください」
止める間もなくリリスが店主に声を掛けてしまい、あっという間に三つの焼き菓子が紙袋に包まれてしまった。聖花は半ば呆れ気味にその様子を眺めていたが、ふと違和感を感じてフェルナンの方を見た。
彼は少し離れたところに立ったまま、露店へと近付こうとしていなかった。
「先生も食べるでしょ?」
「僕はいらないよ」
「三つ買っちゃった」
「じゃあ二つ食べれば?」
「センセの分なのに」
「頼んでないよ」
リリスが差し出した焼き菓子をフェルナンは頑として受け取ろうとしない。そんな二人のやり取りが気になったのか店主がふとフェルナンへと目を向けると、彼はさりげなく顔を背けながらフードを深く被り直した。
店主は特に気に留めることもなく直ぐに別の客に意識を戻したが、その一連の仕草を聖花は見逃さなかった。
街の様子をよく知っている一方、人から顔を見られることは避けようとしている。先ほどリリスから渡された変装道具を理由も聞かずに身に着けたことまで考えれば、やはりフェルナンとこの国には何かしらの関係があると考えた方が自然だった。
「セイカ」
「……はい?」
考え込んでいたところに声を掛けられ、顔を上げると目の前には焼き菓子が差し出されていた。
「ほら。食べないの?」
「……いただきます」
聖花は差し出された焼き菓子を素直に受け取り、一口齧ってみた。まだ温かな生地の中には果実が包まれていたらしく甘酸っぱい味が口いっぱいに広がり、思っていた以上の美味しさに自然ともう一口が進んだ。
「美味しい?」
隣から楽しそうに尋ねられ、聖花は口の中のものを飲み込んでから小さく頷く。
「……はい」
「よかったね」
「何ですか、その言い方」
「別に?」
リリスは笑いながら自分の分を口へと運び、少し先では結局押し付けられたらしい焼き菓子を片手にフェルナンが呆れたような顔をしている。
パトリシア王国へ来た目的を考えれば、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。それでも目の前に広がる街並みも、人々の声も、初めて口にする食べ物も、図書室に籠もって本を読んでいるだけでは決して知ることのできなかったものばかりだった。
そう思えば、こうして街を歩くことも無駄ではないのだろう。
「次どこ行く?」
「何で僕に聞くのかな」
「案内役だから」
「勝手に決めたのは君だろう」
呆れた声を上げながらも、フェルナンは少し考えた後に大通りの先へと視線を向けた。
「このまま進めば中央広場に出るよ。そこからなら――」
そこで、フェルナンの言葉が不自然に途切れ、聖花は焼き菓子を持ったまま顔を上げた。
「…先生?」
「……いや、何でもないよ」
そう答えたフェルナンはやはり聖花と目を合わせることなく、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
「中央広場へ行こうか。観光なら、まずはそこを見ておけばいい」
聖花はその背中を見つめながらリリスと共に後を追った。
まだ王都へ足を踏み入れてから大して時間は経っていない。それでも、実際に街を歩いてみれば図書室でいくら本を読み漁っても得られなかったものが次々と見えてくる。とりわけフェルナンについてはパトリシア王国に詳しいというだけでなく、ここで素顔を晒すことまで避けているのだから、以前から抱いていた疑念は薄れるどころか深まるばかりだった。
それだけで何かが分かったわけではない。聖花は先を歩くフェルナンから周囲の街並みへと視線を移すと、ひとまず案内に従って中央広場を目指した。




