9.疑いの眼差し
翌日の昼休み、聖花は食事を終えると午後の授業が始まるまでの時間をどう過ごそうかと考えながら廊下を歩いていた。
いつもなら、このまま図書室へと向かうところだった。授業のない時間を利用して調べ物をすることがすっかり習慣になり、ここ最近は昼休みも放課後も足を運ぶことが多かったのだが、今日はどうにも行く気になれない。
偶然居合わせたルードルフから思いもよらない追及を受けたばかりなのだ。それだけならまだしも、途中から現れたリリスにはパトリシア王国について調べていたことまで勘付かれてしまった。
別に図書室に行くこと自体が悪いわけではない。それでも、これまで一人で好きなように調べ物をしていた場所で立て続けに二人から踏み込まれたせいか、流石に同じようには考えられなかったのである。
(……今日はやめておこう)
何より、週末にはリリスと共にパトリシア王国に行く予定もある。聖花は図書室とは反対の方向へ足を向け、そのまま教室へ戻ることにした。
その途中だった。
「セイカさん」
不意に名前を呼ばれ聖花は足を止めた。聞き覚えのある声だったが、あまり良い意味ではない。振り返った先に立っていた人物を確認すると、聖花は僅かに表情を強張らせた。
「……ロザリア・モネスト様」
そこにいたのはロザリアだった。彼女の傍には数人の令嬢がおり、どこか居心地が悪そうに聖花とロザリアを交互に見ている。
「そう固くなさらないで。ロザリアで構いませんわ」
「……よろしいのですか?」
「ええ。同じ学園へ通う者同士ですもの。それくらい構いません」
「では……ロザリア様、と」
本人から許可された以上、断る理由もない。聖花が言われたとおりに呼び直すと、ロザリアはそれ以上そのことには触れなかった。
「ところで……何か御用でしょうか?」
「少しお話ししたいと思いまして」
「私と、ですか?」
「他に誰がいるというのです?」
相変わらず刺のある物言いである。いつもの癖で反射的に何か返しかけたものの、聖花はピタリと口を閉ざした。ただでさえ頭の痛いことが重なっているというのに、ここで余計な騒ぎまで起こしたくない。
それに、ここにはロザリアたち以外の生徒もいて、できるだけ目立たず穏便に終わらせるに越したことはなかった。
「それで、お話とは?」
できるだけ早く話を終わらせようと先を促すと、ロザリアは聖花を頭の先から足元まで眺めた後、ふっと目を細めた。
「随分と学園生活を満喫していらっしゃるようですわね」
「……はい?」
何のことか分からず思わず聞き返す。
「とぼけるおつもり?」
「……申し訳ございません。何のお話でしょうか」
そう答えると、ロザリアの眉が僅かに動く。しかし分からないものは分からない。下手に推測して答えるより相手が何を言いたいのか聞いてしまった方が早いだろうと思い、聖花はゆっくりと聞き返したのだ。
「第一王子殿下のお隣にいらっしゃるだけでは飽き足らず、ティーザー侯爵令息様とも随分親しくなさっているようですから」
そこでようやく意味を理解した。
(ああ……)
ルードルフとは隣の席ということもあって、学園へ入ってから何度か言葉を交わしている。リリスに至っては、何かにつけて向こうから聖花のところへやって来るのだから、傍から見れば親しくしているように映るのかもしれない。
「第一王子殿下とはお席が隣ですので確かにお話しする機会はございますが……」
「それは存じておりますわ。けれど、ティーザー様についてはどう説明するおつもり?」
「リリス様からお声を掛けていただくことはあります」
「………リリス様?」
呼び名を繰り返され、聖花は内心『しまった』と思った。最初こそティーザー侯爵令息様と呼ぼうとしていたものの、そのたびに本人から訂正され、今ではすっかり「リリス様」呼びが馴染んでしまっていたのだ。
しかし焦った頃には既に遅い。口元で扇子を広げ、暫くの間ロザリアは聖花に探るような眼差しを向けていた。
「……随分と親しげにお呼びになるのですね」
「ご本人様から、そのように呼ぶように……と」
「ティーザー様ご本人から?」
「はい」
ロザリアは何も言わず、扇子の向こうから聖花を見つめている。
「それで、名前でお呼びになっていると」
「……はい」
「まあ」
口元は扇子に隠されていて見えない。それでも、その一言に好意的な意味が含まれていないことだけは分かった。
「随分とおモテになるのですね」
明らかな嫌味だったが、聖花は言い返すことなく内心で溜息を吐いた。
何と答えればいいのか分からなかった。ルードルフとは席が隣だから話す機会があるだけで、リリスについても向こうから声を掛けられることが多い。だからといって、それを「モテる」と表現されても聖花自身にはいまいち実感がなかった。
かといって、わざわざ否定して話を長引かせる必要もないだろう、と。
「それにしても、随分と距離が近いように見えますけれど。特にティーザー様とは、ね」
聖花が何も答えないでいると、ロザリアはさらに言葉を続けた。
「まさか……何か私どもには言えないようなご関係でも?」
ロザリアは扇子を口元へ広げたまま、探るように目を細める。
聖花は返答に困った。ロザリアが想像しているような関係ではないが、何もないと言い切るには少々事情が複雑になってしまっているのも事実だった。何より、週末の約束についてここで話すわけにはいかない。
「そのような関係ではありません」
「あら、そうですの?」
「はい」
答えられるのはそこまでだった。ロザリアは扇子の向こうから聖花を見つめていたが、やがて僅かに目を細める。
「貴女という方は……」
ロザリアが何かを言いかけた、その時だった。
「あれ、セイカ?」
廊下の向こうから飛んできた声を聞いた瞬間、聖花は反射的に目を閉じた。今一番来てほしくない人物だったからだ。
「何してるの?」
足音が近付いてくる。仕方なく目を開ければ、案の定こちらへと歩いてくるリリスの姿があった。
聖花たちの間に流れる空気など知る由もないのだろう。いつもと変わらない人懐っこい笑みを浮かべ、そのまま真っ直ぐこちらへやって来ている。
「リリス様……」
「何?」
「いえ……何でもありません」
どうしてこの人はこういう時に限って現れるのだろう。そう思っていると、リリスが聖花の傍までやって来て、そこでようやくロザリアたちへと視線を向けた。
「あ、君もいたんだ」
「……ええ。ごきげんよう、ティーザー様」
「うん、ごきげんよう。それで何の話してたの?」
「貴方には関係ありませんわ」
「そう?」
素っ気なく返されても、リリスは気にした様子すらない。一方で、ロザリアの視線は聖花とリリスの間をゆっくりと往復していた。
つい先ほどまで、名前で呼んでいることについて問い詰められていたばかりである。そこへ本人が現れ、当然のように「セイカ」と呼んだ。
どう考えても今の状況でリリスが現れたことは逆効果だった。
(……最悪)
「セイカ、教室戻るんでしょ? 一緒に行こうよ」
聖花が黙り込んでいると、リリスが小首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いえ」
断りたい。猛烈に断りたい。しかし、ここで不自然に拒絶したところで、それはそれで妙に見えるだろう。
何よりリリス本人には何の事情も分かっていないのだから、下手に態度を変えれば「どうしたの」と余計に食い下がられる未来が容易に想像できた。
「では、ロザリア様。私はこれで失礼いたします」
余計なことは言わず、聖花は軽く頭を下げた。
ロザリアから返事はなく、ただ、扇子の向こうから向けられている視線を見れば、先ほどの説明によって誤解が解けたとは到底思えなかった。
それでも今ここで弁明を重ねれば、かえって墓穴を掘りそうだ。聖花は何も付け加えず、リリスと共にその場を離れることにした。
暫く廊下を歩いてロザリアたちの姿が見えなくなった頃、隣から案の定声が飛んでくる。
「何話してたの?」
「……リリス様には関係ありません」
「えー、気になる」
こみ上げる頭の痛みを何とか抑えながら、聖花は横目でリリスを見た。
「ねえ、何の話?」
本人には全く自覚がないらしい。ロザリアからつい先ほどまで何を言われていたのか教えたところで、目の前のリリスが深刻に受け止める姿をどうしても想像できない。
下手をすれば面白がって、さらに余計なことを言い始めるかもしれない。流石にそこまではないと思いたいが。
(……言わないでおこう)
そう決めるまでに、それほど時間はかからなかった。
「セイカ?」
「何でもありません」
「絶対何かあったでしょ」
「ありません」
「あるって」
「ありません」
「じゃあ何で――」
「リリス様」
「ん?」
「少し静かにしていただけますか」
「酷いなぁ」
口ではそう言いながらも、リリスは何故か楽しそうだった。
聖花はそんな彼を一度だけ横目で見ると、すぐに前へと視線を戻した。
週末まで未だ少しあるし、せめてそれまではこれ以上面倒事が増えないでほしい。そんな聖花のささやかな願いなど知る由もなく、隣を歩くリリスは少しもしない内に何事もなかったかのように話しかけてくる。
そんな彼に適当な相槌を返しながら、聖花は週末までの残りの日数を頭の中で数える。
せめてパトリシア王国へと向かうその日までは、何事もなく過ごせればいい。
―――もっとも、隣で話し続けるリリスを見ていると、その願いが叶うような気は少しもしなかった。




